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   ***

 食事の間に入ったランドールは、素早く室内に視線を走らせた。
 部屋の扉の前には、護衛騎士が二人。
 アンジェリカの背後に、双子と思われる侍従が二人。
 壁際に、赤く長い髪が印象的な、すらりと線の細い見慣れぬ侍従が一人。
 立ち姿の美しい侍従だが、ロイスワルズの侍従服を着ているから、アンジェリカの供ではないのだろう。
 顔を伏せがちにしているので、はっきりとその容貌を見て取る事は出来ない。
(セルバンテスが、早速手を回したのか?)
 可愛がっている侍女が無理難題を押し付けられそうだ、と青ざめていた家令の顔を思い出す。
 ランドールについてきたアレクシスが、壁際にいる侍従の隣に並んだ所で、晩餐が始まった。
 私的なものだから、と給仕はつけず、赤い髪の侍従が全ての配膳を行う。
 本当は、アンジェリカの訪問を知る者を、出来る限り少なく抑えたかったランドールの策だ。
「ランドール様、ロイスに来て早々にお目にかかれて嬉しいですわ。わたくしの為に可愛らしい離れも用意して頂いて、有難く存じます」
 誰もが見惚れそうな笑みを浮かべて、アンジェリカは甘く囁いた。
「アンジェリカ王女殿下、この度は、どのようなご用件でのご来訪でしょうか。四の月にはまだ早いと思われるのですが。現在、我が国は大きな式典を複数控えており、多忙であるとお伝えした筈です」
 対するランドールは、儀礼的な笑みの欠片もない。
「わたくしが、ランドール様にお会いするのを、四の月まで待ちきれなかっただけですわ。どうぞ、他人行儀ではなく、アン、とお呼びになって下さいまし」
「アンジェリカ王女殿下、ご用件を伺わねば、お返事のしようもありません」
 取り付く島もないランドールの態度にも、アンジェリカは気に留める様子がない。
「ランドール様はせっかちね。楽しくお話がしたいわ」
 拗ねたように、口先を小鳥のように尖らせる姿は、誰もが見惚れる愛らしさだが、ランドールは意にも介さない。
「ご用件を伺えば、お話も出来るのですが」
 表情を変えないままのランドールに対し、艶やかに笑みを浮かべるアンジェリカは、給仕の為に卓に近づいたアマリアの手を、唇を微笑みの形に上げたまま、扇子で一つ叩いた。
「っ!」
「そうね、まずは一つお願いが。この者を、わたくしに下さいな」
 痛みに思わず声が漏れそうになったアマリアをちらりと見て、アンジェリカはランドールに向かってにっこりと微笑む。
 他国の侍従に対するものと思えない態度に、ランドールの表情が、一層凍り付いた。
(これか?セルバンテスが危惧していたのは)
 侍従であればよいというわけではないが、このような対応を貴族として育てられた女性が受けて、耐えられるとは思えない。
 他国の王宮で、他国の王族の前で、他国の従者を正当な謂れもないのに折檻する事を厭わない王女。
 こんな場所ですら、美しい侍従を探していると言うのか。
「わたくし、この者が気に入りました。チートスに連れ帰りたいのです」
「…その者は、我が国に仕えております」
「えぇ、存じておりますわ。ですから、ランドール様にお願いしているのです」
「国に仕えている者ですから、私の一存でお返事出来る事ではありません」
「まぁ。では、どうぞ、ご確認なさって。侍従の一人位、どうとでもなるでしょう?だって、わたくしが気に入ったのですもの」
 ころころと、鈴を鳴らすような愛らしい声で笑いながら言う内容ではない。
 拒絶されるなどと考えた事もない口調で、アンジェリカは悠然と頷いた。
 ランドールのこめかみに、青筋が立つのではないか、と壁際でハラハラしながら、アレクシスが見守る。
「それに、ランドール様がチートスにいらっしゃる時には、ロイスワルズの従者もお連れになるでしょう?一人位、先にチートスに入っても問題ありませんわ。寧ろ、早くチートスに慣れて、後から来た者達を指導すべきかと。そうだわ、そうしましょう」
 頭の回転はいい方だ、と自認しているランドールだが、一体、何を言われたのか全く理解が出来なかった。
「アンジェリカ王女殿下、それはどういう意味でしょう?」
 現状、ランドールがチートス王国を訪問する予定はない。
「ランドール様、それをわたくしに言わせるおつもりですの?」
 アンジェリカが、潤んだ瞳で上目遣いにランドールを見遣るが、ランドールは全く表情を変えない。
「申し訳ないが、貴女が何を仰りたいのか、全く判らないのですが」
「もう、照れてらっしゃるのね。ですから、わたくしと貴方が結婚する時には、従者を連れていらっしゃるでしょう?と申し上げたのですわ」
「結婚…?」
 ぴきり、と、ロイスワルズの主従の間で、空気が固まった。
 想定していた中でも、最悪の選択肢だ。
「私と、アンジェリカ王女殿下の、結婚、ですか?」
「えぇ、そうです。ランドール様、アン、ですわ。余人には許しませんが、ランドール様には、愛称を捧げてよいのですよ?」
「…既にご案内されていると思いますが、私の兄が、ユルタ王国王女と結婚を控えております」
「存じております」
「兄がユルタ王国と姻戚関係になる以上、私は他国の王族を娶る事は出来ません」
「そうですわね」
「ですから、私は貴女との縁談をお受けする事は出来ません」
 何故、この大陸での常識を、今更、王女として育った彼女に説かないといけないのか。
 政治的な思惑で行われる国家間での王族の結婚だが、一つの世代に複数の国の王族と姻戚関係を結ぶと争いの元になるとして、この大陸では同世代の王族が他国の王族と結婚した場合、他の者は国内貴族、もしくは他国の者であっても貴族と結婚するのが不文律となっていた。
 ロイスワルズで言えば、国王イアンがシャナハン王国王女と結婚した為、王弟エリクは国内公爵家令嬢と結婚している。
 イアンの結婚が決まった以上、エリクがチートスやユルタの王女を娶るのは、許されなかった。
 それだけではなく、もしも、エリクまでもがシャナハン王国王女を娶る事になれば、四国のバランスを乱すとして、他二国が黙っていなかっただろう。
「ご心配なさらないで。チートスではまだ、他国との縁談を結んでおりませんから」
「それは…どう言う意味でしょうか」
「ランドール様がチートスにおいでになればいい、と言うお話ですわ」
「…私は、宰相補佐として任じられております。兄に次いで王位継承権もあります。他国に婿に出る事は出来ません」
 何故、伝わらないのか。
 チートスには王太子がいる。アンジェリカが女王として国を継ぐわけではない。
 ただの王女だ。
 それに、チートスにはロイスワルズにはない側室の制度があり、現国王の子は十人を越えている。
 王太子がいる以上、正妃の産んだ男子以外は、例え男であっても臣下に降る事になるのに、側室の産んだ娘であるアンジェリカが、いつまでも王室にいる事など、出来るわけがない。
 何故、他国の王位継承権上位のランドールを、婿取りに選べると思うのか。
 極々当たり前の事実を、当たり前に伝えているだけなのに、全く言葉が通じている気配がない。
 大陸の言語は共通だが、いつの間にか、チートスの言葉だけ変わってしまったのだろうか。
「だって…」
 少し拗ねたように、アンジェリカが可愛らしい唇を尖らせる。
「ランドール様以上に、わたくしに相応しい殿方はいないでしょう?わたくしは、生まれ育ったチートスを出る気も、王城を出る気もありませんし、そうしたら、これが一番の方法ではなくて?ランドール様も、そうお思いになるでしょう?」
 ざわり。
 ランドールの背中が総毛だった。
 これは、話して通じる相手ではない。
 かと言って、根回しや下調べが有効とも思えない。
(何て言う王女を野放しにしてるんだ…!)
 チートス王家に怒りを抱きながら、ランドールは冷静に返した。
「アンジェリカ王女殿下。私は、貴女とは、結婚しない」
 言葉を飾ると伝わらない、いや、彼女にとって良いように受け止められる、と判断して、ただただ事実のみ端的に伝える。
 その瞬間。
 壁際で目を伏せていたアマリアの視界の隅で、アンジェリカの背後に立っていたアイヴァンの背中に回されていた腕が、僅かに動いたのが見えた。
 袖口から、何かを滑らせて掌に握りこんでいる…――。
 侍従の動きに気づく様子もなく、アンジェリカが小さく首を傾げる。
「何を心配していらっしゃるの?」
「心配など、何もありません。貴女とは結婚しない、それだけです」
「何故、そうなるのか判らないわ…何も問題はありませんのに。貴方も、わたくしを欲しいでしょう?」
「いいえ?」
「え…?」
 理解出来ない言葉を聞いたかのように、アンジェリカが小さく首を傾げて戸惑う。
「わたくしを欲しがらない殿方なんて、存在しないわ」
「そうですか、では、私が第一号ですね」
「わたくしが、貴方を欲しいのに?」
「私は、興味がありません」
「わたくし以上に美しい女はいないのよ?」
「何を美しいと感じるかは個人差がありますが、美とは、外見のみを示すものではありませんよ。私にとっては、内面の美こそ大切です」
「…わたくしの内面が、美しくないと仰るの」
 アンジェリカの頬が、強張る。

「ご存知ありませんでしたか?」

 ランドールは、冷たく言い放った。
 うわ、と小さくアレクシスが声を発し、アマリアがそちらに顔を向けそうになった瞬間。
 アイヴァンが、何かをランドールに投げつけようと手を振りかぶった事に気づいた。
 アマリアは、反射的に己の首元に手を伸ばし、シャツの下に隠していた首飾りを、鎖ごと引きちぎって投げつける。
 アーダムが、アンジェリカを庇うように前に出たのが見えた。
 次の瞬間。
「!!!」 
 視界を白く埋め尽くす、溢れんばかりの光。
 思わず目を閉じた後、ピキ、と、薄い硝子が割れるような、か細く高い音がしたかと思うと、轟音と爆風と共にアマリアの体が吹き飛ばされる。
 後頭部を壁にしたたかに打ち付けて、意識が薄れていく中、アレクシスが叫ぶ声が聞こえた。
「殿下…!」

   ***

 ゆるゆると、意識が浮上していく。
 閉じた瞼の裏から感じる、温かい光。
 ひく、と指先が動いて、アマリアは自分が生きている事を思い出した。
「アマリア…!」
 安心する穏やかな声。
「お…とうさま…?」
「あぁ、無理に目を開けなくていい。お前は頭を打ったのだ。気分が悪くはないか?」
「えぇ…少し痛みますが、それ以外は…」
 目を閉じているように言われたが、アマリアはそろそろと目を開けて、ギリアンの顔をじっと見つめた。
「アマリア」
 ホッと安心して深く息をするギリアンの目は、潤んで光を反射している。
「お父様…一体、何が起きたのですか…?」
 自分の様子を見てみると、見慣れた夜着を着せられて、見慣れた自室の寝台に横たわっている。
 王宮で意識を失った筈だが、ここはギリアンと二人で住んでいる王都の屋敷だ。
 打ち付けた後頭部は、瘤になっているのか、じんじんと熱を持ったように痛んだ。
 首筋がちりりと痛むのは、首飾りを引きちぎった時に、怪我でもしたからだろう。
「アマリア、まだ休んでいた方が、」
「大丈夫です、それよりも、何が起きたのかが気になります。あれから、どれ位の時間が経ったのでしょう」
 娘の体を案じる父に、いつもより強い口調で抵抗すると、ギリアンは諦めたように頷く。
「うむ…お前が運ばれてから、一夜が明けた。今はまだ、朝だ。何が起きたのか、実は、私も何も聞いていない。ただ、お前が王宮で事故に巻き込まれた、とだけ伝えられた。だが、単なる事故ではないのだろう?まずは、お前が見た事を教えて欲しい」
「はい。チートスのアンジェリカ王女殿下が、ランドール殿下の元を訪問された事はご存知ですか?」
「あぁ、セルバンテスから聞いた」
「ランドール殿下とアンジェリカ王女殿下が晩餐をなさると言う事で、私は給仕をしておりました」
 どのような恰好で給仕させられていたのか、ギリアンも把握しているのだろう。
 心配で顰められていた眉の中に、憤りが加わる。
「お二人がお話されている中、アンジェリカ王女殿下の侍従…アイヴァンと呼ばれておりましたが、彼が、後ろ手にした袖口から、何かを取り出して手に握るのが見えました。気になって様子を窺っていた所、ランドール殿下に向かって投げる動作を見せたので、咄嗟に首飾りを引きちぎって、妨害すべく投げつけました」
 言いながら、無意識に胸元にあった首飾りの位置を握る。
 投げつけてしまったのだから、もうそこにはないのだけれど、物心つく前から身に着けていたものがない、と言うのは、何処か心細い。
 頷いて、ギリアンは、幼い頃そうしていたように、アマリアの頭を撫でた。
「すまないが、私は王城に行って、陛下にお前が目を覚ました事と、お前の見た事をご報告せねばならぬ。私自身、詳しい事は知らされておらぬし、もし陛下がお話下さったとして、お前に何処まで話せるかも判らん。一つだけはっきりしているのは、ランドール殿下はご無事だ、と言う事だ」
「殿下がご無事…!安心致しました」
 あの場では、アンジェリカに貸し出されていたとは言え、アマリアはロイスワルズ国民だ。
 自国の王族が、目の前で害されようとしていたのを防げたのであれば、それに勝る喜びはない。
「咄嗟にお前が守護石を投げた事で、衝撃が軽減されたのであろう。お前に持たせておいて良かった」
「はい、お母様のお陰です」
 魔法陣は、魔術師と呼ばれる人々が長年の学びの末に身に着ける技術だが、アマリアの母、エミリアは、魔法陣を自ら描く事が出来たのだと言う。
 生まれてくる子供の為に、母が作ったのが、守護石――護りの魔法陣を刻んだ魔法石だった。
 それを首飾りに加工した父は、お守りとして肌身離さず持つように、と、アマリアが幼い頃から、言い聞かせていた。
 王都と領地、離れ離れに住む娘の身を案じての事だ。
 だが、ロイスワルズでは、日常生活で魔法石を使う事はあっても、守護石は余りない習慣だからか、人にそれと判らないよう気を付けるようにとも注意されていた。
 いざと言う時に使いなさい、と言われて二十三年。
 これまで、使う機会がなかったのは幸いだ。
「しかし…ちょっとやそっとの衝撃では割れぬ筈の守護石が粉々に粉砕されていたと言う事は、余程、強力な魔術だったのだろうな」
「やはり、あれは攻撃の為の魔法石だったのでしょうか?」
 アマリアは、ランドールの危険を感じて反射的に守護石を投げただけで、実際にアイヴァンが何をしようとしていたのかは判らない。
 危険なものでなければ、守護石が反応するわけがないのだから、あの行動は正しかったのだろうとは思うのだが。
「詳しい事は、宮廷魔術師殿が調査中だ。私は一先ず、お前が目を覚ました事と、お前の証言を報告してくる。侍女の仕事は、体が完全に回復するまで休職するようにと、エリカ殿から伝言だ」
 あの場にいた他の人々…特に、チートス王国の一行がどうなったのか、アマリアは気に掛かっていたが、何も問わずに父の言葉に頷いた。
「はい、いってらっしゃいませ」

   ***

 全身が、鉛のように重いどろどろとした粘液に浸されているようだ。
 浮上しようとする意識を、粘ついた手が強引に引き戻そうとする。
 ランドールは眉を顰め、その感触を無理矢理振り切って、目を開けた。
「…ん?」
 目を開けた筈なのに、目の前に広がるのは闇。
 一筋の明かりもない、真の暗闇。
 恐怖すら感じる黒々とした空間に、ランドールは思わず呻いた。
「目が…」
 自分は、視力を失ったのか。
 アンジェリカと話していた、あの西の離れで、何が起きた。
 ズキズキと痛む頭を必死に働かせて、記憶を辿る。
 アンジェリカが、わけの判らない理由で求婚してきたのは覚えている。
 そうだ、その後、アンジェリカの背後にいた白金の侍従の一人が、大きく体を動かして…そう、確か、何かを投げるように、振りかぶった動き。
 その時、壁際に控えていた赤い髪の侍従が動いたのを、視界の端に確認した。
 あれは、味方だったのか、敵だったのか。
 咄嗟に身を守ろうと両腕で頭を庇ったが、視界一杯に広がった真っ白な閃光と衝撃波に吹き飛ばされた、所までは覚えている。
 あの視界を焼き切るような閃光に、視力を奪われたのか。
「殿下…!お目覚めですか…?!」
 聞き覚えのある声。
 だが、上手く聞き取れない。
 話しているのが、腹心のアレクシスなのは判るのだが、ざーざーと雑音が入って、彼の声が奇妙に歪む。
「アレクシス…?」
「殿下…!良かった、心配しましたよ。すみません、お守り出来なくて…!」
 喜んでいるのは判るのだが、駄目だ、何を言っているのか、判らない。
「アレクシス。お前の声が、聞き取れない」
 何かつらつらといつもの調子で話しているのは判ったのだが、内容が聞き取れない。
 衝撃波の影響で、聴覚にも問題が生じているのか。
 目と耳を奪われた、と思うと、どうしようもない焦燥感と不安感がこみ上げてくる。
 幼い頃から優秀で、困った、と思った事が一度もなかったランドールにとって、初めてと言ってもいい心細さ。
 動揺からか、アレクシスが慌てふためいているのを感じる。
「アレクシス。手を」
 右手を差し出すと、忠実な補佐官が素直にその手を取る。
「私はどうやら、現在、目も耳を利かないようだ。だが、自分の状態を把握出来ないのは不安でしかない。今後、よい方法を探さねばならんが、まずは、私の質問に肯定であれば一度、否定であれば二度、掌を叩いて答えよ」
 早速、アレクシスが一回、指先でランドールの掌を叩いた。
「私はあれから、何日寝ていた?」
 アレクシスが、三回、掌を叩く。
「三日?三日も寝ていたのか?」
 一回。
「チートス王国の連中はどうした?いい所、軟禁程度か?」
 一回。
「あれは魔術だな?侍従が何かしたのだろう?」
 一回。
「あの部屋には、我が国の侍従もいたな。あれも向こうの仲間か?」
 二回。
「では、あの者は私を助けようとしたのか?」
 一回。
「私以外に、怪我をした者はいるか?」
 暫しの躊躇の後、一回。
「そうか…十分に休養させるように」
 一回。
「宮廷魔術師が調査しているのか?」
 一回。
「では、宮廷魔術師と、魔術医療師が私の治療にあたるのだな?」
 一回。
「ふむ…大体の状況は判って来た。私の目が見えないのは、一時的なものか?」
 一回。
 肯定されて、ランドールは安堵する。
 突然、目が見えなくなる、と言うのは、思っていた以上に心がざわつく。
 自分が如何に、目からの情報に頼っていたのかが判る。
「耳が聞こえない。正確には、お前が話しているのは判るが、上手く聞き取れない。雑音が入っているように奇妙に歪む。そのような状態だと、魔術医療師は気づいているか?」
 二回。
「そうか…」
 目が見えなくとも聞こえれば、耳が聞こえなくとも見えれば、何とかいつものように生活出来ただろうに。
 その時、軽い叩扉の音が聞こえた。
 不思議と、歪んで聞こえない事に、ランドールは気づく。
「殿下…!」
「セルバンテス…か」
「左様でございます」
 アレクシスの声よりも、幾分か聞き取りやすい。
 起きてから時間が経って、聴力が回復してきたのかと思ったのだが、セルバンテスに話し掛けているアレクシスの声は、やはり歪んで聞き取れない。
「ふむ…」
 アレクシスの声は、元々、低くざらついている。
 セルバンテスの声は、男声の中では比較的高音だろう。
 重厚な造りとは言え、木製の扉をノックする音は、男の声よりも高い。
「なるほどな…」
 これは、低い音程、聞き取りにくい、と言う事では。
「セルバンテス。アレクシスよりもお前の声の方が聞き取りやすい。私の今の状態を、説明出来るか」
 二人が驚いている気配がするが、ランドールはそれには反応せず、セルバンテスの言葉を待つ。
「はい。詳細は調査中ですが、殿下は閃光の衝撃を受けてお倒れになりました。魔術医療師殿の診立てによると、視力は三か月程、回復に時間が掛かるそうです。その間、目を光に当ててはならないとの事で、魔法石を粉状に砕いて成形した仮面に、暗闇の魔法陣を刻んで、目元を完全に覆っております」
 だから、目を開けても闇なのか。
 魔法石で作られたという仮面は軽く、身に着けている感触が薄い。
 セルバンテスの声でもかなり集中しないと聞き取るのが難しいが、それでも欲しい情報が聞き取れた事に、ランドールは満足する。
「視力の回復に三か月と言う事は、聴力も同じかもしれんな。どうやら、低い音が聞き取れんようだ。高い音…例えば、女性の声ならば、もう少し聞き取りやすいかもしれん。母上を、呼んでみてくれるか?」
「リリーナ様でございますか?」
「母上には、状況が伝わっているのだろう?」
「はい」
「必要以上に事態を広めたくない。私の状態が知れると、不安に思う者も多いだろうし、他国に付け入られても困る。出来るだけ、この事を知る者は少なくしたい」
「はっ、承知致しました」
 セルバンテスが、リリーナの都合を聞く為に部屋を辞した後、ランドールは再び、アレクシスに手を差し出した。
「今回の件は、チートス上げての企みと思うか?」
 二回。
「アンジェリカ王女の企みか?」
 二回。
「…では、あの侍従の独断か…?」
 一回。
 王女付きの侍従が、他国の王宮で、他国の王族を害そうとするとは。
 侍従であれ、侍女であれ、より国の頂点に近い者に仕えるのであれば、相応の政治力と判断力が必要とされるものなのに。
 あの王女が侍従を採用する基準が、自分と同じだとは思わないが、傍に置く以上、しっかりと教育するのが上に立つ者の責任だろう。
「肯定、否定だけだと、会話が迅速に進まんな…陛下は、チートスに抗議されるおつもりか?」
 暫く考えたのち、アレクシスは三回、掌を叩いた。
 それから、ゆっくりと一文字ずつ、文字を掌に綴っていく。
「詳細が判ってから、抗議するか、取引するか、お考えになる、か…」
 確かに、事故だ、と言い逃れ出来ないようにしっかりと証拠固めをしてからでないと、動く事は出来ないだろう。
 考え込むランドールの耳に、やはり鮮明に聞こえる叩扉の音。
「ランディ…!」
「母上」
 リリーナは、二十八と二十六の息子がいるとは思えない位に、若々しく美しい。
 ランドールのものによく似た月光色の豊かに波打つ髪に、琥珀色の瞳、白い肌には、しみ一つない。
 公爵令嬢時代は、他国からも求婚があったと言う社交界の花だった。
 仕事が忙しく、同じ王城で生活していながら、なかなか母と顔を合わせる事のないランドールだが、息子として相応の思慕はある。
 だが。
 母の声だ、と言うのは判るのだが、きんきんと、金属がこすれ合うような不快な高音が混ざって、母の声が聞き取れない。
 それどころか、集中して聞き取ろうとすると頭が痛くなって、そっと耳を覆った。
 本来であれば、囀る小鳥のように高く愛らしい声をしている人なのに。
「…申し訳ありません、母上。お呼び立てしておきながら、母上の声も、聞き取るのが難しいようです」
 絞り出すような息子の声に、リリーナはそっと、彼の手を取った。
「いいの、気にしないで。貴方はまず、回復に努めて頂戴。他の者には、何とか誤魔化しておくから」
 母の言葉を、セルバンテスが伝えてくれる。
 耳を凝らしていたからか、酷く頭が重い。
「殿下、三日間も、何もお召し上がりになっていないのです。何か口にされた方が…」
 気遣うセルバンテスの声に、ランドールは少し悩んでから頷いた。
「胃に優しい粥などがよいのだろうが、この状態では、食器を正しく使えるとは思えない。汁物にして、直接飲める器で提供して欲しい」
「承知致しました」
 セルバンテスが退室する足音が聞こえる。
 もどかしく、ランドールは唇を噛んだ。
 低音のアレクシスの声。
 中低音のセルバンテスの声。
 高音のリリーナの声。
 その中で、一番、聞き取りやすいのはセルバンテスだが、やはり、意識を凝らしていないと難しい。
 王城には、ランドールの身の回りの世話をする侍従であるジェイクが居るが、彼の声はアレクシスよりなお低いから、聞き取れるとは思えない。
 これでは、これまで通りの執務など、とても行えないだろう。
 魔術医療師は、三か月程度で回復すると診立てているものの、回復と言っても、どの程度までを指すのか。
 イアンの在位三十周年式典は、既に三か月半後に迫っている。
 ただでさえ、どの部署も多忙な中で、ランドールが引き受けていた膨大な仕事量を割り振るのは困難だ。
 せめて、この目と耳の代わりを務められる者が居れば…。
 懊悩する主の姿を黙って見ていたアレクシスは、ふと思い立って、ランドールの手に文字を記した。
「男性と女性の声なら、どちらが聞き取りやすいか…?そうだな、お前とセルバンテス、母上では、セルバンテスの声がまだ聞きやすい。だが、嵐のようなザーザーという雑音が入る所を見ると、まだ低いのだろう。母上の声は、また別の、金属を打ち付けたような甲高い雑音が入った。一番鮮明なのは、扉を叩く音だ」
 ランドールの手を離し、アレクシスは扉に歩み寄ると、こんこん、と叩きながら何かを確認する。
 それから、おもむろに主の手に、「試してみたい事があります」と綴った。
「試す…?何か思いついたのだな。判った。お前の考えに乗ってみよう」
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うたた寝している間に運命が変わりました。

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