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三章 -変わる関係-

氷室 誠 三章②

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 重なり合った影が闇で隠れ出す頃、ようやく頭が追い付いてきた。

 相変わらず抱き着いたままの蓮見さんの体の柔らかさが、再び俺の頭を白く染めようとするのに抗いながら、何とか声を絞り出す。


「あのー。蓮見さん?そろそろ、離れては頂けないでしょうか?」


 彼女はその言葉が聞こえているだろうに、全く動く気配がない。


「聞こえてますか?ちょっと、この体勢はやばいというか、ほら、目立っちゃうし」


 我がことながら、女慣れしていないが故のしどろもどろさで悲しくなる。それに、頭の中だけでも冷静ぶらないと今にもパンクしてしまいそうだった。


「おーい。蓮見さん」


 完全にお手上げだと思ったその時、彼女が唇を耳にこすりつけるようにして囁く。


「透だよ」
 

 生暖かい吐息が耳に当たり、若干の背徳感を感じてしまう。

 とりあえず、今はこの状況を打開するのが最優先だ。
 

「透さん、離れて欲しいんだが」

「透!」


 子供のような彼女の素振りが、たまに発生する妹の駄々っ子を連想させてくれ、少し心が落ち着いてきた。


「透、離れて」
 
  
「うん。合格だね」


 穏やかで、どこか上品さを感じさせるようないつもの笑みでは無い。
  
 まるで子供のような無邪気な笑顔で彼女はこちらに笑いかけている。


「急に、どうしたんだ?俺なんかしたかな」


「……したよ。それこそ、もう取り返しのつかないことをね」


 その負のイメージを持った台詞とは裏腹に彼女は楽しそうに笑い続けている。全く記憶にないのがちょっと怖い。


「ぜんぜん身に覚えが無いんだが。俺、何したんだ?」


「ふふっ。聞きたい?」


「ああ、とってもな」


「じゃあ、今から私の部屋に来てよ」


 どうやら、選択肢は無さそうだ。家族のグループに遅くなるとメッセージを入れた後、まるで魔王城を前にした勇者のような心持ちで俺は頷いた。


「かなり恐ろしいけど行くよ」


「……大丈夫、優しくするから。ほら、早く。こっちだよ」

 
 俺がそう言うと、彼女は今ですら満面の笑みを更に深くして手を引いた。




◆◆◆◆◆



 部屋は、綺麗に片付いていた。というよりも、物自体が少ない。

 本棚と、ベッドと、テレビと机。本当にそれだけだった。

 
「女子高生っぽくないな」

 
 別に、何か意味があるわけでもない言葉が無意識に飛び出る。
  

「……誰かの部屋に入ったことがあるの?」


 すると、それまで、楽しそうに笑っていた彼女が、何故か不機嫌そうな顔でこちらの手を強く握りしめた。いや、痛いんだけど。


「無いけどさ」


「……ほんとみたいだね。それなら、よかった」

 
 彼女は、俺の目を下から覗き込むようにしてじっと見た後、安心したような顔をして俺の手を放す。


「俺、顔に出てた?」


「出てないけど、わかるの」


「そりゃ凄い。でも、それなら一緒にババ抜きはできそうにないな」


「嘘、わからない」


「おいおい。高校生にもなってババ抜きしたいのかよ」

 
「うん。きっと、誠君とならなんだって楽しいと思うから」


 揶揄うつもりで言った言葉が、倍返しされてしまい思わず言葉に詰まる。

 そして、何が楽しいのか、動揺した俺の顔を見た彼女はとても楽しそうに笑っていた。


「それで?何を話してくれるんだ?」


「待って。その前に、お腹空いてない?」


 時計を見ると既に良い時間だ。

 確かに改めてそう言われると、急に腹が減り出してくる。


「空いたかも」


「じゃあ、なんか作るから待ってて」


「別にいいよ。長居するのも悪いし」
 

「ダメ。私がお腹が空いちゃったから。それに、一人分作るなら二人分作るのも一緒だしね」


「…………なら、頼もうかな」


「うん!サッと作っちゃうから座って待ってて」
 

 手伝えるような腕もないので大人しく待っていることにする。少し手持無沙汰に感じていると、自分の好きな作品が本棚に入っていることに気づいた。


「本、読んでもいい?」


「どうぞー」


「ありがとう」

 
 それは、中学生の頃読んだ懐かしい本だった。高校生の楽しい青春を描いた特に山も谷も無い本。でも、日常の輝きを描くのがとてもうまくてつい惹きこまれる作品だった。

 









 懐かしさで読み始めたものの、なんだかんだ深く入り込んでしまっていたようで、気づいた頃には料理が出来上がっていた。
 

「あんまり、大した食材無くて。こんなものでごめんね?」


「いや、十分美味そうだ。一人暮らしって聞いてたけど、流石だな」


 目の前には野菜炒めと生姜焼きが綺麗に盛り付けられている。みそ汁はインスタントのようだが、これで文句を言ったら罰が当たるだろう。


「そんなことないよ?でも、ありがとう」

 
「どういたしまして。じゃあ、早速。いただきます」


「いただきます」


 生姜焼きを口に含むと、いい具合に甘みとのバランスが取れていて絶品だった。


「こりゃ美味い!」


「ふふっ。どうぞ、どんどん食べて」


「ああ」


 しかし、本当に美味いな。うちの母さんもレベルが高いが、正直それに匹敵するかもしれない。主婦と高校生であることを考えると彼女の方に軍配をあげてもいいくらいだ。


「ありがとう」


「ん?何が?」


「ううん。なんでもないよ」


 そして、全てを平らげ終わると、満腹感と共に眠気がこみあげてきた。

 さすがに、ここで眠るわけにも行かないので眠気を覚ます目的もあって立ち上がる。
 


「ごちそうさま。食器ぐらいは洗わせてもらうよ」


「お粗末様でした。別に私がやるからいいよ?」


「いや、やらせてくれ。これくらいやらないと申し訳ない」


「本当にいいのに。でも、だったらお願いしようかな」


「ああ。台所にあるスポンジと洗剤借りるな。蓮見さ……透は座っててくれ」


 苗字で呼ぼうとしたが、睨まれたので訂正する。

 昨日までの彼女とはまるで別人だが、それでもいいのかもしれない。

 それこそ、今のが自然体で気楽そうに見えるから。









「洗い物終わったけど。理由って結局なんだったんだ?」


 手をタオルで拭きながら後ろを見ずに尋ねる。

 しかし、しばらくしても何も声が戻ってこないので、不思議に思い振り返る。


「なんだ、寝ちゃったのか」


 視線の先では彼女が、ベッドに寄りかかった姿勢で可愛らしい寝息を立てていた。


「ったく。まるで我が家のわがままお姫様だな」


 このままにしておくわけにもいかないので、悪いとは思いつつ、彼女を手で抱きかかえてベッドに乗せる。


「けど、どうするか。鍵開けたまま帰るわけにもいかないしな」

 
 ポケットやらをまさぐって探すわけにも行かず途方に暮れる。


「仕方ない、諦めるか…………しかし、本当に何もない部屋だ」


 周りを見渡すが、生活感のあるものはほとんど見つからなかった。

 ベッドにすらも皴がほとんど無くてあまり使っていないようにも見える。

 そして、本棚の横にある無地のタオルケットの位置が、彼女の普段の寝床を教えてくれているようにも感じた。


「うちとは大違いだな」


 我が家は趣味人が三人もいるのでそれこそ生活感の塊だ。

 物が散らかって、所狭しと置き場が無いほどに居座っている。


「どちらがいいなんてことは、人それぞれだとは思うが」


 そんな光景に見慣れているからだろうか、この部屋がとても冷たく、寂しいように感じる。


「いつも、そんな顔で眠れてるのか?」

 
 今の彼女は、とても幸せそうに眠っている。もし、そうなら問題は無い。

 でも、その目元の隈と少し青白いように見える顔が事実を物語っているように、俺には思えた。
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