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一章 -出会い-

氷室 誠 一章③【改】

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 眩しい。そう思いながら目を開ける。
 そのまま、ぼーっとしたまま天井を見つめていると、やがて、少しずつ意識がはっきりとしていった。


「…………あれ?」

 
 ふと、覚える違和感。
 それが少しずつ大きくなっていき、理由は何なのかと考えを巡らせる。

(眩しい?…………ああ、日が高いのか。いや、それよりも、目覚ましが鳴ってない?)

 だんだんと自分の置かれた状況を理解し始め、半分諦めながら顔を向けると、そこにはやはりというべきか、針を止めてしまっているらしい時計の姿が見える。


「……はぁ。こりゃ、朝からハードになりそうだ」


 勘弁してくれ。
 心の中でそう独り言を唱えると、俺は急いで準備を始めた。







◆◆◆◆◆






「はぁ、はぁ。このペースで行けば、なんとか間に合いそうか」

 
 たったの十分程度走っただけななのに汗が噴き出して、制服を濡らしていく。
 しかし、最後の難関ともいえる緩やかな上り坂にたどり着く頃には、既に歩いても間に合いそうなほど巻き返すことができていて安堵する。

(さすがに、遅刻したら母さんも怒るだろうしな)

 確か、今日は町内会の集まりとやらで早い時間から出かけると言っていたはずだ。
 目覚ましの不具合と、母さんの不在、それらが同じ日に重なってしまったことに運の悪さを感じるも、結局間に合ったのでよしとしよう。 
 

「………………あっ。弁当忘れた」


 しかし、紐づいた記憶が思い出されていくと、今更ながらにそんなことに気づいた。
 冷蔵庫に入れておくから持って行けと、そう言っていたのに。


「………………こりゃ、ほぼ飯抜きか」


 友達が多少は分けてくれるかもしれないが、それでもさすがに十分な量を貰うことは難しい。
 それに、購買を使おうにも今は手持ちがほとんどない。
 朝飯抜きに、昼も抜き。なかなかしんどいが、一日くらいなら我慢することもできるだろう。 

(借りてもいいけど、しばらく分の使い道はもう決めちゃってるしな)

 貯金はある。
 だが、それをわざわざ切り崩してまでするかと言われると悩ましいところだ。 
 

「まぁ、水でも飲んでれば多少は誤魔化せるだろ」


 本当に微妙なライン。
 だから俺は、自分にとってより大事なことを叶えるために、我慢することを選んだ。









◆◆◆◆◆









 ノロノロとした緩慢な動きで階段を上がり、チャイムが鳴るほんの少し前に教室に入る。
 
 そして、一瞬注目が集まるも、すぐに関心を失い離れていく視線。
 まだこちらを向いている友達だけが、腕時計も無いのに手の辺りをトントンと叩いているのが見えて思わず笑ってしまった。

(ツッコんでる時間はなさそうだな)

 また昼時にでも話そう。
 そう思いながら自分の席に座ると、どこかに行っていたらしい蓮見さんの心配そうな声がかけられたことに気づく。


「おはよう、氷室君。辛そうだね?大丈夫?」


 席替えの日から一ヶ月ほどが経った。
 
 彼女から話しかけてくるようになったところから変化は始まり、そして、朝に少しだけ話すだけだった時間が徐々に長くなった。
 最近では、授業の合間にも話すようになって、もはや最初の頃とは別人といえるほどにその態度は軟化している。
  

「おはよう、蓮見さん。大丈夫、ただの空腹なだけだから」

「本当に?」

「本当だって」

「…………よかった」


 心底安堵したような雰囲気。
 もしかしたら、保健室に行きたいと言ったら肩でも貸してくれたのかもしれないと、そう思ってしまうほどには彼女は俺のことを心配してくれているようだった。

 とはいえ、今日はいつものように話すような元気はない。
 少しの間だけでも休憩したいし、何よりあまり体力を使いたくない。
 

「心配してくれてありがとう。とりあえず今は、そっとしておいてくれると助かる」


 それだけ伝えると、彼女には悪いとは思いつつも、顔を伏せて体を机に預ける。
 
(……さすがに、今日くらいはいいか)

 最近では日課のようになった会話。
 毎日繰り返されるそれに、あまり深い意味は無い。

 内容は本当に取り留めもないようなこと――それこそ、最近はまっている本やゲーム、そんな程度のことだ。
 だったら、また違う日にでも話せばいい。

(別に、前の席の女子達とも、仲が悪いわけじゃないみたいだしな)

 問題は特になさそうだ。
 俺は、そうして、自分だけの時間をただただ静かに過ごしていった。








◆◆◆◆◆








 授業中はずーっと集中できないまま、なんとなく時間だけが流れていく。
 休憩時間は、話しかけてきた友達に今日は昼までオフモードで行くことを伝えつつ、机に突っ伏して過ごす

(思ったよりも、しんどい。耐えられないほどじゃないけど)

 母さんが基本的に何かしらを用意してくれているので、朝食抜きになることなんて初めてだった。
 頻繁になる腹の音と脱力し力を入れられない体、予想以上に影響が大きいことに驚かされてしまう。

(元々、燃費が悪いのもあるかもしれないけど)

 周りには、帰宅部の癖に運動部並に食べるとよく揶揄われる。
 俺は、コスパの悪い体に苦笑しつつ、もう一度目を瞑るとじっとすることを選んだ。









 そのまま、同じようなことを繰り返していると、ようやく午前中の授業が終わり昼休みを迎える。

 ノロノロと周囲を見渡すと、既に昼食を取るため移動し、仲の良い連中と集まり始めていた。
 俺も、そろそろ動かないといけないだろう。


「…………よし、行くかな」


 老人のように机を支えに立ち上がり、いつも自分が食べる場所へ歩いていく。
 すると、そこに座っていた友達――隆と健が笑いながらこちらを見ているのが分かった。


「おいおい、顔やべーな。噛みついてくるなよ?」

「ゾンビじゃないからな?朝飯食べ忘れた上に弁当も忘れてきただけだ」

「なんだよそのドジっ子。誰得だよ」

「可愛いだろ?ちょっとでいいからなんか分けてくれ」


 どっこいしょといって大げさに座ると、二人は苦笑したまま弁当を少しずつ分けてくれる。
 しかし、彼らも食欲溢れる高校男児だ。
 支障ない分だけ分けて貰ってもほとんど膨れた気にはならなかった。


「あー、水でも飲んでくるかな」

「購買行ってくりゃいいじゃねぇか」

「そうそう。財布忘れたなら貸してやるぞ?」

「ありがとう。でも、いいや。ちょっと入用で金貯めてるんだ」

「はぁ、お前……いや、もう何も言うまい。お前が頑固なのは前からだしな」


 なにか言いかけた後、呆れたようにため息をつかれる。
 しかし、言い返すには身に覚えがありすぎることなので、俺は首を竦めて応えるほかなかった。


「じゃあ、ちょっと水飲んでくる。しばらく戻ってこないから、勝手にやっといてくれ」

「「へいへい」」


 そう言うと、二人にしっしと追い払われるようなしぐさで見送られる。
 何かを言い返す元気もないので視線だけでやめろと訴えかけると、俺はウォーターサーバーの置いてある体育館の方までフラフラと歩いていった。
 
 








 水を飲んだ後、それでも空腹音を鳴り響かせ続ける腹を宥めながらふと空を見る。

(もう、夏だな)

 そこには、大きな入道雲が遠くにそびえ立っていて、何となく夏を感じさせられた。
 それに、耳を澄ますと蝉の声が微かに響き始めていて、彼らは既に準備を始めているようだ。
 

「………………なんか、わたあめみたいに見えてきた」


 しかし、もう頭は幼稚園児並の回転しかできなくなっているらしい。
 夏の訪れに、何かしらの情緒ある台詞を言いたかったはずなのに、アホみたいな言葉だけが宙に放りだされるだけだった。


「ふふっ。そんなこと言うなんて、かなり重症だね」


 誰もいないはずの場所。
 不意に聞こえてきた綺麗で、澄んだ、聞き慣れつつある声に後ろを振り返る。 
 

「…………蓮見さんか。どうした?」

 
 そこには、何故か穏やかな笑みを湛えた蓮見さんが、風で揺れる髪を抑えるようにして立っていた。

(なんか、絵でも見てるみたいだ)

 他にも気にすべきことはあるはずなのに、最初に浮かんできたものは、そんな感想だった。

 抑えられた手から零れた髪の毛先が、たなびくようにして動き、キラキラと輝く。
 浮かべた笑顔は、まるで月のように穏やかで、どうしてか目を惹かれる。




「少し分けてあげようと思って」
 
 
 声が聞こえたことで、吸い込まれるようにして奪われた視線が、急激に引き戻される。
 まるで夢を見ていたかのように思える感覚に、改めて彼女の凄さを見せられた気がした。

(…………けど、気を遣わせちゃったみたいだな)

 分けると言ってくれているのは、その手に掲げられた弁当箱とお菓子のことを差しているのだろう。
 優しい彼女らしいといえば、そうなのだが、少し悪いことをしてしまった気がする。


「それ、どうしたんだ?」  

「女の子達の嗜みってやつかな?みんな部室とかロッカーに蓄えてるから」


 どうやら、袋一杯に入れられた大量のお菓子の出所はそこだったようだ。  
 きっと、俺が知らないだけで女性にはいろいろとあるのだろう。
 

「そうだったのか。でも、悪いからいいよ。今回は、完全に自業自得なんだ」

  
 細かいことによく気づく彼女には、些細なことだとしても、既にいろいろと世話になっている。
 しかし、隣の席とはいえ、ここまでして貰う理由はさすがにない。
 相手から受け取るよりもまず先に、友達に金を借りてでも自分で買うべきだと思う。


「いいの。テスト期間に私のノート貸し出す分の前払い分だから。前回のテストの時も自分じゃ食べきれないくらいだったし、家にもまだ余ってるくらいなんだ」


 確かに、彼女は几帳面だし、学年トップの成績だと本人も言っていた。
 そんな彼女のノートをみんなが見たがる理由はよくわかるし、実際事実なのだろう。
 
 でも、それとこれとは話が別で、俺が貰っていいことにはならない。


「ほんとに、いいよ。それは、蓮見さんのものだ」

「……ううん、そうじゃないの。逆に、食べさせに来たんだよ?だって、自分だけでこんなに食べたら、太っちゃうもん」


 その言い方をされると、断りづらい。
 しかし、恐らくそれは嘘であるはずなのだ。

 たった一ヶ月、それだけだったとしてもいろいろと話して、分かってきたから。
 ある意味、必要以上に自分を犠牲にするような、他人がどう思うかを気にし過ぎて、自分の気持ちを後回しにしてしまうようなそんな人だと。
 


「でもさ」

「…………ダメ、かな?」


 上目遣いに向けられた寂しそうな目。
 それを見せられてしまえば、もう何も言うことは出来なかった。
 
 それに、ここまで言ってくれている以上、それを断るのも逆に悪いだろう。


「……ありがとう。助かるよ」

「やった!」


 それほど、嬉しいのだろうか。
 満面の笑みで小さくガッツポーズを取った様子に、思わず苦笑してしまう。
 
 そして、彼女に促されるようにして、二人で体育館の床に座って昼食を取り始めた。





「ほんと、ありがとうな」

「もう、お礼はいいってば」

 
 返ってきた声が、思ったよりも近い距離から聞こえて少し違和感を感じる。

(なんか、近いな……いや、いつもは位置が決まってるし、これくらいが普通だったっけ?)
 
 考えてはみるものの、個人差のあるそれに当然答えは出ず、結局俺が慣れていないだけかと結論付ける。

 


「必ず、この借りは返すよ。首を洗って待っていてくれ」

「あははっ。それだと意味が違ってくるよ?」


 空腹が収まり、調子を取り戻し始めた俺がそう軽口を叩くと、相手が楽しそうに笑いながら言葉を返してくる。
 
(いつか、何かしらの形で恩を返さなくちゃいけないな)

 なんでもできてしまう彼女に、何が返せるのかはわからない。
 でも、それでも、ただ貰い続けるのだけは嫌だ。
 
 それこそ、それが引け目になって続いてしまうような不健全な関係にはしたくない。


「……………………」

「ごめん、何か言ったか?」


 そんなことを考えていた時、ふと彼女が小声で何かを言ったように感じ、聞き返す。
 

「ううん、なにも」


 しかし、どうやらそれは俺の聞き間違いだったらしい。
 先ほどまでと変わらない穏やかな笑みを湛えた蓮見さんが、ゆっくりと首を横に振っている。

 
「そうか?」

「うん」

「ならいいけどさ。でも、昼飯忘れたってよく気づいたな?隆か健か、どっちかに聞いたのか?」

 
 特に話したいこともないようなので、なんとなく、気になっていたことを尋ねる。
 
 確か、弁当を忘れたことまでは伝えていなかったはずだ。
 なら、誰かに聞くしかないのだが、正直、そんな些細な出来事を周りに触れ回っているわけでもないので、二人のどちらかに聞いたのだろう。


「……そんなところかな」

「やっぱそうか。でも、ほんと助かったよ」

「ううん、気にしないで。氷室君にはお世話になってるから」
 

 世話をした記憶は全くない。
 むしろ、恩をどうやって返していけば悩んでいたくらいだったのだが、覚えていないだけで何かしていたのだろうか。


「ほんとか?俺の方は、全く心当たりが無いんだけど」

「うん。本当に…………助かってるんだ」

「んー、わからん。例えば?」

「ふふっ。内緒」

「え?なんで?」

「私、ミステリアスな女だから」


 どうやら、彼女はそれを教えてくれる気はないらしい。
 ただ意味深な笑みを浮かべた彼女は、何を尋ねてもそれに続く言葉を伝えてくることはなかった。









◆◆◆◆◆









「そう言えば、どうして購買には行かなかったの?」


 昼食を食べ終わり少しまったりとしていた時。
 彼女が不思議そうな顔で質問を投げかけてきた。

(まぁ、当然の疑問だろうな)

 外に買い出しにはいけないが、購買はちゃんとあるし、それなりに品ぞろえもしっかりしている。
 逆に、我慢している理由がわからないくらいだろう。
  
 
「実は、バイクの免許取りたくてさ。バイク自体は親父がくれるっていうし」

 
 そして、その理由はある意味単純明快。金がない、それだけだ。
 実際には今はまだあるので、将来的な担保に入っていると言ってもいいかもしれない。

(まぁ、学校には内緒でだけどさ)

 四月生まれの俺は既に免許を取れる年齢を迎えている。
 だが、それとは関係なく学校的にはNGだろう。
 だから、勝手に取って、そのまま隠していくつもりだった。


「そうなの?なんか似合わないね」

「わかってるから改めて言わないでくれ。はいはい、どうせ、似合わないですよ」


 当然、この地味面に似合わないのは知ってる。
 妹にも散々笑われたし、ちょっと背伸びしているような感じに見えてしまうのだろう。
 それでも、こう何度も周りに言われるとそんな反応をしたくもなる。


「あははっ、ごめんね。でもなんで?」

「うーん。特に意味は無いな。ただ、乗りたいからってだけ」

 
 正直なところ、深い意味は無い。 
 単純に親父が乗っている姿を見て楽しそうだなと思っただけだ。
 元々、だいたいのことを楽しそうにやる人ではあるのだが、バイクに関して言えばそれ以上に楽しそうにしているから。


「そうなの?それでバイクって凄いね」

「凄くはないよ。自分がやりたいからやる。ほんと、それだけ」

「……自分がやりたいからやるか。私にはちょっと遠く聞こえちゃうかな」

 
 自嘲するような笑みを浮かべながら、蓮見さんはそんなことを呟く。
 
 確かに、彼女は周りがどう思うかということを気にし過ぎているように感じる。
 自分のしたい事よりも、周りとの調和を大事にする。そんなイメージだ。

(息が詰まりそうだよな)

 彼女が選んだ生き方にとやかく言うつもりはない。
 しかし、自分のしたいことを一番大事にしている俺にとっては、それがどうしても辛いものであるように見えてしまうのだ。


「蓮見さんは、もう少し自分のしたいことをしてもいいと思うけどな。なんかやりたいことは無いのか?」


 もし自分のしたいことをして、それでも距離を置くような人がいたら、それはそれで仕方がないはずなのだ。
 結局、そんなことで離れていくような人と最後まで仲良くすることなんてできないんだから。
 
(それに、自分を押し殺して、何もできないままなんて、可哀想だ)

 もしあるなら、手伝ってあげたい。
 そんな思いで、質問を投げかけた。


 
「………………やりたいことか。なんだろう、考えたことも無かった」

「じゃあ、一回考えてみたらどうだ?それこそ簡単なことでもいいんだ」 

 
 蓮見さんはやろうと思えばそれこそ何でもできる人なのだ。
 だから、自分の想いに気づくことができれば、きっとできる。

 それこそ、俺が助けてあげられるなんてことは、後押しする程度のことでしかない。


「………………そうだね。一度、考えてみるよ」

「ああ、それがいい。手伝えることがあったら、言ってくれ」

「……ありがとう。なんだか、世界が広がった気がするよ」


 こんな、簡単なことですらも世界が広がったという蓮見さんが、何を思って、どう生きてきたのかはわからない。
  
 だけど、少しでもいい、これからの人生を彼女が楽しめるようになればいいと、勝手ながらに思う。


「なら、良かった。じゃあ、そろそろ教室に戻るか」

「そうだね」


 窓から見える世界は区切られていて、まるで小さく狭いように思えてしまう。
 でも、一歩外へ踏み出してみれば、それが違うということに気づけるはずなのだ。

 だって、今俺達が見上げた空は、どこへでもいけそうなほどに大きく広く俺達を包みこんでいるように感じられたから。


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