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第一章 出会い

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「今日は商談を終えて、ケーキの特集本を買って、ひと息ついたところだったんですよ。別の取引先を回ろうかとも思いましたが、ちょうどいい口実ができました。この店に戻って、また交渉してみましょう。是非うちに出店してほしいんですよ。……とはいえ、オーナーパティシエがなかなかの頑固者でしてね。フランス人の女性なのですが」
 男は、軽く肩をすくめてみせた。
「え、そのお店、デパートに置くのを嫌がってるんですか?」
 何となく仕事の内容はつかめてきたが、そんなチャンスを逃す店があるとは意外だった。男は、真凜の素朴な疑問を馬鹿にするでもなく、真剣な表情でうなずいた。
「オーナーによって、考えはいろいろですからね。でも僕は、あの店の商品を、より多くの人に知ってほしいから……。あなたと一緒に行ったら、少しは心を開いてくれるかな。新規の客を連れてきた、ってね」
 男が冗談めかして笑う。その笑顔に、真凜はふっと緊張がほぐれるのを感じた。ちょうど、K駅に到着する。
「行きましょうか」
 駅前は、多くの人でにぎわっていた。男は、さりげなく真凜を庇うように雑踏を歩く。距離が近づくたびに、コロンとアルファフェロモンの入り交じった香りが漂い、真凜は全身が痺れるような感覚を覚えた。 
「さ、あの店です」
 駅から歩くこと四、五分、男が案内したのは、こぢんまりとしたレトロな洋菓子店だった。真凜は、おやと思った。
「うちの近くに、こんな店があったんだ」
 そこは、真凜のマンションから目と鼻の先だったのだ。駅へ行く途中ではないので、全く気づかなかった。とはいえ、年中引きこもっていると、こんな近所のことも知らないものか。同居人の叶真は甘い物嫌いだから、関心がないにしても……。
「この近くにお住まいなんですか?」
 男も、意外そうな顔をする。わけもなく恥ずかしくなり、真凜はもごもごと呟いた。
「はい。あまり外出しないので、ちっとも知らなくて」
「在宅のお仕事だと、そうかもしれませんね」
 男はあっさり受け流すと、真凜を店へと促した。チリンという入店の合図に反応して、若い女店員が顔を上げる。彼女は男を見て、目をぱちくりさせた。
麻生あそうさん? 忘れ物でもされました?」
 麻生というのか、と真凜は心の中で反芻した。相当気長に交渉中なのだろうか、麻生は女店員と、すっかり顔馴染みのようだ。
「いやいや、さっきいただいたこれなんですけどね」
 麻生は彼女に向かって、真凜が潰した箱を見せた。
「僕の不注意で、落っことしてしまって。同じものをいただけます?」
「いえ! それは、僕のせいなんです……」
 慌てて訂正しようとする真凜に向かって、麻生は軽く片目をつぶってみせた。その間に、女店員は早くも箱を開けている。一瞥したとたん、彼女は顔をしかめた。
「ありゃー、残念なことになってる。もう、麻生さん気をつけてくださいよ。ケーキがかわいそうじゃないですか」
 案の定というべきか、箱の中ではフルーツタルトとシュークリームが、無残な様相を見せていた。自分用というのは本当らしく、どちらも一個ずつだ。
「申し訳ない。これはこれで、ちゃんと食べますから。で、同じのをくれます? 二個ずつね」
 え、と麻生の顔を見上げれば、彼はにっこり笑った。
「ここのは絶品なんですよ。是非あなたも、食べていってください」
 見れば、イートインのスペースがある。弁償して帰るつもりだった真凜は、ためらった。
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