ネコノハナ

夢ノ瀬 日和

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ネコノハナ

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 ベランダで猫が倒れていた。

 俺の家は二〇階建てマンションの八階にあるので、登ってきた可能性は低い。上の階から落ちてしまったのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。取りあえず、念のために病院で診てもらったが、異常はないとのことなので俺が猫を飼うことになった。友人たちに助けてもらいながら、猫の生活基盤を大急ぎで用意したので心配だったのだが。すべて気に入ってくれたようでひとまず安心した。

 拾った猫は雑種らしいが、黒く長い毛は血統書付きではないのかと疑ってしまうほど綺麗だ。倒れている時ですらフワフワとした気持ちの良い肌ざわりだった。換毛期ということもあってか、作った毛玉はもうすでに大きい。綺麗なのは毛だけではない。蒼碧そうへきの瞳は光を受けてキラキラと輝いている。あの瞳で見つめられると何でもしてあげたくなるし、何をされても許してしまいそうだ。まあ、今のところは大して怒るようなことはされていないが。





 つい最近、独り身になってしまった俺にとって、現れた猫は寂しさを紛らわせに来てくれた天使のようだ。本当にかわいい。一生忘れられそうにない彼女の写真の隣に猫の写真を飾ってみたが、中々しっくりくる。あの子にも見せてあげたいくらいだ。彼女は大の猫好きだった。しかし、アレルギー持ちで触れるどころか、近寄ることすらままならなかった。そんな彼女のためというか、影響というか……俺は猫専門の写真家のようになってしまったが、これはこれで楽しいので良しとしよう。それに、猫の写真は需要があるようで購入者が多いのだ。

 彼女のことを思い出すと、どうしてもアンニュイな気分になってしまう。そんな俺を察しているのか、それともたまたまなのか、そういう時は決まって猫が傍に寄ってきて、一声「にゃあ」と鳴く。そんな姿に癒されて心が落ち着いていく。





 その日は随分と天気が荒れていた。轟々と音を立てて通り過ぎていく風と雨が、時折気まぐれに窓を叩く。そういえば、彼女は雷が苦手だったなあ。などと呑気に思い出していると、いつもなら起きているはずの猫がいない。布団を覗きに行くと、真っ黒の毛玉が丸まっていた。

「どうしたんだい?」

「……にゃぁ」

 怯えた様子の弱々しい声があの子と重なってしまう。笑いをこらえず、猫の傍へ座った。

「じゃあ、こっちにおいで。一人よりも二人のほうが怖くないよ」

 布団ごと抱えてリビングへ。俺がコーヒー を淹れている間、チラチラと窓の外を確認していた。おそらく、他の猫がやってもあざとといだけだろうに。やはり、うちの猫が一番かわいい。一人の男と一匹の猫が雨音の響く部屋で布団に包まりのんびりと過ごす。なんとなく自分には似合わない気がしてこっ恥ずかしいが、三秒もあれば慣れてしまった。

 ゴロゴロとなったのが雷なのか猫の喉なのか考える間もなく分かった。猫が変な声を上げて、どこかへ飛んで行ってしまったからだ。なかなかに面白かった。できれば、もう一度見たいが可哀想でもある。『可哀想は可愛い』とはよく言ったものだ。

「おぅい。戻っておいで。もう怖くないよ」

 ブルブル震える黒い毛玉が最高に面白かわいい。まるで、どこかのゲームに出てくるTのようだ。狭いところにはさまっているのもポイントが高い。ああ、彼女もこうやって隠れていたっけ。怖がっている猫を引っ張り出して、二人して布団に閉じこもる。雷が鳴る日は必ずと言っていいほど観てきたコメディ映画。この映画は、彼女が一番好きだと言っていたものだ。もう何度観たのか覚えていない。だが、飽きないのだ。いつも同じところで笑ってしまうし、次の展開にドキドキする。なんなら、観終わって五日も経てば内容を忘れている。彼女はそんな俺を「何回でも初見の楽しみがあるなんておトクだね。毎回感想を聞かせてもらおうかな」と受け入れてくれた。本当に寛大で素敵な人だった。

 また猫が短く鳴いた。布団の中で控えめに光る蒼碧が俺の顔を覗き込む。そんな姿にすらあの子を思い出してしまい、涙が零れかけたのをたまたま感動シーンに入っていた映画のせいにした。誰に言い訳しているのかすら分からないまま涙を拭う。猫はテレビに視線を移したままで、尾だけは俺の小指に絡めて離れようとしない。それから、雷は鳴らなかった。





 もう猫と生活を共にして早くも三年が経った。ほぼ毎日変わらない穏やかな日々が繰り返されていく。一ヶ月に一度だけ少し高めの猫用食品を与えて、何も用事がない日は二人でのんびり過ごして、一週間に二日のブラッシング、たまに入れる風呂で鬼ごっこ、『おやすみ』のキスをして一日を終える。なんてのどかな日々だろう。猫がうちに来てから生活がガラリと変わった。彼女のことは相変わらず忘れられないが、アンニュイで気分が沈むことは減った気がする。あの子との想い出はキラキラと輝く宝石のようにこれからも大切にしていくつもりだ。もう過ぎてしまった日常を羨ましがることはしない。猫との日々のおかげで彼女ことは前向きに考えられるようになった。写真家としての仕事活動も来月からやっと再開することに決まった。周囲の友人・知人がいい人ばかりなおかげか、何の苦労もなく仕事がスタートできそうだ。みんなには感謝してもしきれない。





 今日は猫と共に彼女の実家を訪ねさせてもらった。とても優しいあの子の両親と仕事を継いだ兄、そして親友のように仲の良かった妹。みんなが私と猫を歓迎してくれた。あの子のお仏に手を合わせた後、ご家族に近況を報告した。近々仕事を再開すること。今は彼女の好きだった猫と暮らしていること。彼女以外の女性は考えられないこと。最初は安心したような表情をしていた二人はだんだんと困ったように笑って、

「あの子より素敵な女性なんてたくさんいる。君が前向きになってくれたのは嬉しいが、どうか、あの子のことは忘れて幸せになってくれないか」

 と切実に言った。この家族は本当に優しすぎるのだ。きっと、あの子の闘病を支えていたときもそんな風に思っていたのだろう。今はその優しさが惨い。

「瞬矢さん、この子のお名前は?」

「かぐやっていうんだ。どこぞの姫様みたいに月を眺めることが多いから」

「かぐやちゃーん」

 咲哉さくやさんと恵実えみさんが猫の相手をしてくれている。うちでの態度と同じすぎて笑ってしまいそうだ。基本的にはいい子なのだが、名前を呼んでも反応してくれない。まるで違う名前があるかのように。ベランダで拾ったのだから可能性はあるが……。全く、この猫には謎が多すぎる。





 うちへ帰ると一目散にソファーを陣取ってはドヤ顔を披露する。外から戻ってくると大体こうだ。かわいい。なにがなんだかさっぱりだが、取り敢えずかわいいのだ。「どうだ、座れないだろう」という声が聞こえてきそうだ。しっとりとした百合のような愛らしい声。もう一度聴きたい声。失った声。

「ははは、参ったな。これじゃ君の隣に行けないよ、花那はな

 つい、あの子の名前で言ってしまった。ああ、また心配させてしまう。はっと猫の方を見やると、猫は驚いた顔をしながら、嬉しそうに尾を揺らしていた。ぱちぱちパチ。三度瞬いた瞳は幸せそうに歪んで、

「んる゙ぁあぉ」

 機嫌がいいらしい時の鳴き声を一つ上げた。
 君だったのか。
 どうりで似ているわけだ。黒くて長い毛にクリっとしてキラキラ輝く瞳。怖がりではあるけど、寛大で優しい。この世で一番かわいい子。何でもしてあげたくなる子。何よりも失いたくなかった子。

「花那」

「るる゙ぁああ?」

「……花那」

 猫は嬉しそうに、幸せそうに尾を揺らす。そっか、君に「かぐや」と呼んでも反応がなかったのは─ ─ 。何度も何度も愛おしい名前を呼ぶ。さすがにうるさいかもしれない。
 今日の夕飯は少し贅沢をして、猫と一緒の食卓を囲んだ。もう無かったはずのワンシー ンに涙があふれかけた。猫がうちに来てから一番の幸せだった。離れるのが惜しい幸せ。また別れなければいけないという現実があと四ヶ月ほどに迫っていた。





 仕事が再開しても自宅にいる時間はほとんど変わらない。元々、写真を撮りに行く日以外ではあまり外出をするようなタイプではなかったのもあり、猫と過ごす時間は今まで通りのはずだった。“はずだった”というのも、猫の外出が増えたのだ。初めは賢いうちの猫のことだから、仕事の始まった俺に遠慮しているのだと思っていた。「別に気にしなくてもいいんだよ」と言ってやると、猫はどこか寂しそうな顔で力なく短い声を上げた。あれがどういう意味なのか最初は分からなかったが、先日の健康診断でなんとなく理解してしまった。猫の余命はあと三ヶ月もないとのことだった。外に出かけているのは死に場所を探しているらしい。悲しいが、あの頃と比べれば耐えられそうだ。

「かぐや」

 相変わらずこの名前では反応してくれない。思わず苦笑を零した。猫のそばに座って目線を合わせにいく。こちらを見つめ返してくれるが、名前を呼んでも応答はなし。私にとって君はあくまで「かぐや」なのだが。純粋でかわいい蒼碧に催促されてついに私が折れてしまった。

「花那、少しお話ししようか」

「んなぁぅ?」

 やっと返事をしてくれた。本当に困った猫だ。ああ、かわいい。鼻と鼻がくっついてしまいそうな距離でこれから来てしまう別れの話をする。終始、寂しそうな悲しそうな顔でたまに相槌を打ってくれるのが、心を締め付けて仕方ない。三年前の俺はこんな感じだったのだろうか。思わず猫を抱きしめてベッドに移ってしまう。布団に二人っきりで包まるのは中々気分が良い。暖かい熱にキスを落として夢へ微睡まどろんでしまった。





 二ヶ月が経ったある日、かぐやが行方不明になってしまった。まさか、もうそんな頃だとは。せめて看取るだけでもしてあげたいのに。とにかく、朝からいろんなところを捜して回った。

 マンションの隣にある公園。優しい風が頬を撫でるだけで猫はいなかった。

 通っていた知り合いのレストラン。暖かい声を掛けられるだけで猫はいなかった。

 よく逃げ込んでいた路地裏。明るい陽が差し込むだけで猫はなかった。

 一緒に散歩した椿通り。デートに訪れたショッピング街。有名になりすぎた市民ホール。お気に入りの時計塔。どこにも猫の姿はなかった。

 小さな丘の上に建つ展望台でため息を吐く。猫はどこへ行ってしまったのだろうか。こういうとき、彼女ならどこへ行くだろう。確か病院でそんな話をしたはずなんだ。思い出さなければ。一刻も早く、猫の、あの子の元へ辿り着かなければ。傾く太陽に急かされる。手すりにモンシロチョウが泊まった。


「私ね、最期の日は好きな場所を巡りたいな。展望台で朝日を見て、時計塔を眺めて、ホー ルで演奏して、ショッピング街で踊って、椿通りで散歩して、路地裏で猫とおしゃべりして、あそこのレストランでジェノベーゼを食べて、公園のブランコで君を待つの。君と一緒にゆっくり微睡んで、『おやすみ』のキスをしたら……ずっとずっと、幸せな夢を見て眠れる気がする。そんなこと出来るわけない。けど、」

 覚えていてね。いつか叶えてみせるから。

 そう言った彼女はひどく可愛らしい笑みを浮かべた。そうだ、逆だったんだ。スタートを間違えていた。時間を確認すればもう夕方だった。私はあわててタクシーを捕まえ、家へ戻った。





 キィ。キィ。ブランコが淋しい音を立てている。思っていたより時間がかかってしまったようだ。月を眺めている猫の後姿は光を受けて、黒に染まった天使の翼のようにサラサラと流輝りゅうきしていた。本当に俺がつけた名前の通りのような猫なのに、呼んでもこちらを見ようともしない。黒く美しい毛並み、月を眺める寂し気な顔。神秘的な瞳。今すぐにでも旅立っていきそうな儚さ。輝く夜空に相応しい存在。
 純黒がしびれを切らしたかのようにこちらを振り向いた。普段から光の失うことのない蒼碧はランランとして、まるでこの時を待ち侘びていたかのようだ。いつものように鳴いていたはずの声はあの子の言葉のように聞こえた。

「花那、待たせてごめん。……帰ろう」

 猫が幸せそうに喉を鳴らす。弱々しい足取りが見ていられなくて、抱えて部屋に帰っていった。





 帰って早々、同時に鳴った腹の虫に笑いが耐え切れず漏れた。レストランの味には劣るが、彼女の好きだったジェノベーゼを作る。猫は興味津々といった様子でキッチンに忍び込んできた。足元でじっとこちらを見上げてくる瞳には何が見えているのだろう。ジェノベーゼソースを作っている間、香ってくるにおいにときどき尾を揺らしていた。

「そういえば、いつになったら教えてくれるの?」

 彼女の声が聞こえた気がした。外回りの仕事が多かった彼女を楽にしてあげたくて、料理はもっぱら俺が担当していた。彼女はどうしてもジェノベーゼが作りたいと息を巻いていたが、わざと教えなかった。そうすれば、あの子がこっそりキッチンに忍び込んで、俺の後ろを陣取ることを分かっていたから。あの子と離れてから、教えてやればよかったかもしれないと後悔していた。しかし今でもこうして来てくれるのなら、教えなくて正解だったかもしれない。

「君がまた人として逢ってくれたら考えるよ」

 茹で上がったパスタを冷水で絞めながらいたずらっぽく言ってみた。猫の不服そうな声が聞こえて、つい得意げに鼻を鳴らした。

 思い出のジェノベーゼを食べた後、風呂に入り、寝支度をササっと終わらせてしまった。猫は一足先に布団へ入り、ウトウトしている。一日中、思い出を巡っていたのだから疲れたのだろう。ゆったりと頭をなでるとゴロゴロ喉を鳴らす。いつもと変わらない夜に寂しさが湧いてくる。でも、きっと泣きたいのはこの子の方だろう。

「花那、短い間だったけどまた来てくれてありがとう。君が来てくれてからとても穏やかで幸せな日々が続いたよ。……でも、また寂しくなるね」

 まだ暖かい熱に微笑みかける。猫は花那の声で鳴いていた。ぽろぽろ零れていく涙はシ ーツに生きている跡を残していく。柔らかな風が二人を包み込んだ気がした。二度目の別れは花那の方が離れ難そうだ。私は寂しくはあっても、泣きはしなかった。いつかまた逢える。姿かたちが変わろうとも。記憶がなくなろうとも。それを教えてくれたのは花那自身だから。今度は私が逢いに行けばいい。その時、この子に別の大切な人ができていたら、きっぱり忘れて別の幸せを見つけに行こう。それまでは、花那を想う幸せに浸る。
 泣き止んだ花那に『おやすみ』のキスを贈った。花那は幸せそうに笑って、そのまま永く夢を見続けた。





「やっべ、遅刻する!」

 午前八時の街を駆け抜ける。一秒でも短縮できるように近道を使って走り過ぎる。そもそも、あいつが変な時間に気味の悪い話をするから悪いんだ。寝不足と寝坊を人のせいにして、朝の道を過ぎていく。次の角をたしか右だったはず。グッと足に力を入れてカーブに備えた。

「ふにゃっ!? 」

「うわっ!」

 曲がった先で運悪く人とぶつかってしまった。ぶつかった女の子はとてもかわいらしくて、パンツの色も……。いや、なんでもない。慌てて目を逸らした。大丈夫ですか、と少し素っ気なく手を差し伸ばせば、女の子は嬉しそうな愛らしい顔を見せた。その顔にどこか既視感を覚えて、つい名前を聞いてしまった。

「私は花那。青野花那だよ、瞬矢くん」

「……はな? てか、どうして俺の名前を」

「さぁ、どうしてだろうね?」

 コロコロ笑ういたずら猫のような女の子が愛おしくて堪らなくなる。俺は遅刻ギリギリなことも忘れて、女の子との時間に浸っていた。

「また会おうね」

 そう言って軽やかに駆けていった後姿は月からやって来た猫みたいだった。俺はそんな女の子との余韻をずっと恋焦がれていた気がした。もう、遅刻だ。
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みんなの感想(1件)

薪原カナユキ

長く艶やかな黒の毛並み、蒼く光る宝石の如き瞳。
天から舞い降りた、美しく可愛らしい天使な存在。

そう――猫です。

この作品に登場するのは、
青空の下、野原に咲いた刹那の時に留めたくなる美しい花。
そんな儚き表現すら感じる、可愛らしい猫なのです。

偶然にも黒猫を保護した"彼"の、猫にまつわる物語。
とても楽しく読ませていただきました。
この感想を見た方も、気になりましたら是非とも読んでみてください!

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