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Yor are mine.
しおりを挟む「おわ、ったー!」
雑音ばかりが目立つ鐘の音に息をつく暇もなく、隣からごつりと派手にぶつかる音が響いてくる。面倒臭さを隠すことさえ面倒で、眉間に皺を寄せてから隣を覗けばテスト用紙に突っ伏した男が一人。
「うるせぇよ、向井」
敢えて聞かせるように溜息を吐いて、後ろから回ってきたテスト用紙に自分のそれを重ねる。きっちりと一週間続いたテストもこれで終わりだ。
早く回収しろと言わんばかりの強さで、突っ伏した男の背中が突かれている。最初の一回は反応出来なかったのか、それとも無視しただけなのか。突かれること三度目、用紙に沈んでいた男はゆっくりと頭を起こしていく。
後ろの席ではなく、こちらに向けられたおでこは見事なまでに赤く色付いている。優しそうな目元と綺麗に山形を作った眉、それから厚めの唇がイケメンだと名高い男の顔を滑稽なものに飾っていた。
俺に言わせてしまえば、いつも眠そうにしているかにやけているかのどっちかでしかない。格好良いだ、イケメンだと囃し立てられているが、それほどのものなのだろうか。俺には分からない世界だ。
「嬉しくねぇのかよ」
「お前じゃねぇんだから」
垂れた眦を半分にまで細め、駄々っ子のように唇を尖らせる姿はバカ面を通り越して不細工そのものだった。こんな男がモテてしまうんだから、女子大生という生き物は理解出来ない。
真面目な表情を取り繕って静かにしてさえいれば確かに、この男はイケメンの部類に入るだろう。冷静に分析したときはお前もだろうとこいつににやけた顔を向けられたが、今は一旦俺のことなんてどうでもいい。
だけれど実際はただのバカで、それに加えてゲスでヤリチンときた。三つも揃ってしまえば、それは愛嬌でも何でもなく、最低な事故物件としか言いようがない。
「休みなんて色んなことできんじゃん」
子どもみたいに拗ねた顔をしたまま、後ろから回ってきた数枚の紙に自分のテスト用紙を重ね、今かいまかと待ち望んでいた前席に流す。初めて見る顔だったが、どうしてか俺が睨まれてしまった。
色んなこと、と言外に詰まった意味を不本意ながらも理解してしまって、俺は辟易とした顔を向ける。筆箱に入れようとしたシャープペンが転がって、目の前の男は手慰みにそれを拾った。
「……バイトし放題だしな」
くるくると器用にペン回しをする姿に、どこからか女の子の喜色に溢れた声が聞こえてくる。誰でも出来るだろうことをしているだけなのに、この黄色い悲鳴はなんだと呆れたくなった。
「そうかもだけどさぁ、あんじゃんか、もっと楽しいこと」
「彼女いるくせして、よく言うよ」
さっさとペンを奪い返して、中身の余った筆箱へと収納する。心の底から湧き上がってくる呆れを溜息に変えて遠慮なく吐き出せば、男は満更でもなさそうな、悪戯っ子もドン引く清々しい笑みを浮かべた。
この後に続いていくだろう言葉は短い付き合いでも分かってしまって、それがまた最低なものなのだから嫌だった。女の子相手にはもう少しまともな返事も出来るだろうに、親しい友人に配る気遣いは持っていないらしい。
「ヤれればいいの」
語尾にハートマークでも付きそうなくらいご機嫌な調子に、三度目の溜息が零れ落ちる。
そうでした、お前はただのヤリチンでした、どうぞご自由にヤりまくってください。浮かんだ言葉を声に出すことすら億劫で、楽しそうに笑う男をただぼんやりと眺めていた。
「向井ってほんと、最低だよな」
「また別れるに一票」
バカの相手はしていられない。にっこりと微笑み続ける男を放置して帰り支度を始めていると、いつの間にか前の席には久保と斎藤が座っている。
学科もゼミも同じでつるんでいることが多いせいで、二人ともこの男の性質をよく知っていた。最低だなんだと罵る中にも面白がる調子を含ませていて、最近では何日で彼女と別れるかを賭ける始末である。
「なんだよ、こいつも一緒じゃねぇか」
「椋本は特定作らんだけマシだろ」
投げかけられた事実に膨れた男は、矛先を俺に変えようと指してくる。だが残念、俺は二股なんて面倒臭い真似はしません。それを知っている斎藤は、無駄に大きな丸い伊達眼鏡を押し上げながら笑った。
不特定多数と関係を持っていること自体は似ているのかもしれないが、彼女を作ってもそこら辺で見かけた女の子を誘ってはヤっているバカな男とは一緒にされたくない。俺はただ欲を発散出来ればそれでいいし、それを良しとする相手にしか声をかけないよう気をつけている。
適当に声をかけて釣れた女の子を本気にさせて、用無しだと言わんばかりに捨てているお前とは違う。
自分だけがバカにされている状況に苛立つのか、不服そうに見上げてくる男を鼻で笑って、俺はさっさと立ち上がる。
「あれ、もう帰んの?」
「バイトあんだよ、じゃあな」
遊び行こうと思ってたのに、と続いていく久保の言葉に、さらりと手を振るだけで答える。筆箱とファイルくらいしか入っていないリュックは軽く、背負った先で右に左に揺れ動く。
一旦家に帰って、着替える必要はないか。これからの予定を組み立てていると、軽いはずの背中が急に重たくなる。
「置いてくなよなぁ」
「知らねぇよ、一人で帰れよ」
不貞腐れた表情のままで隣に並んでくる男に、なんだこいつはと思ってしまう。一緒に帰る約束をしていたわけでもないのに、どうしてかこいつはよく一緒に帰りたがる。
理由なんて女の子に声をかけられやすいからの他にはないのだろうが、俺はこれからのバイトに体力を温存しておきたいのだ。目立つことなく黙々と帰りたかったのに、分かっているはずのこいつは自分の都合ばかりを優先する。
「あのぉ、向井先輩、今日ってぇ、」
「椋本先輩!今週の休みって、」
ほら。並んで校舎を出た途端、こんな風にすぐ声をかけられてしまう。遊ぶ相手くらいこっちで決めさせてほしいのに、捕食者となった女の子たちは揃って自我が強い。
無視してしまってもいいんだけれど、隣で薄ら笑いを浮かべている男が律儀にも答えてしまうものだから、俺もそれに倣って付き合ってやるしかなかった。飛び出しかけた溜息を喉奥で飲み込んで、久保や斎藤にはわざとらしいと言われる外面を浮かべる。
目の前には、腰まである茶色い髪を綺麗に巻いた女の子。グロスでてかてかに光った唇は色っぽくも映ったが、それでも惹かれてしまうだけの魅力には欠けていた。
「ごめんね、土日は基本バイトがあるから」
上から下までを値踏みして悪態を吐くのは心の内だけだ。表面上は爽やかな笑みすら浮かべて申し訳なさそうに謝ってやれば、赤く頬を染めた女の子は惚けたように毛先を弄る。
少しだけ傷んだ髪に巻き付けた爪は、ピンク色の可愛らしいネイルアートが施されていた。
「じゃあ、授業が終わった後とかぁ?」
ヒールを履いているせいでそこまでの身長差はないはずなのに、彼女は見事なまでの上目遣いを披露してくれる。獲物として認識されていること自体は男として誇らしいことではあるのだけれど、使い古された手段が俺にも通用すると思われていることには腹が立つ。
そんな分かりやすい手に引っ掛かるのは、隣にいるようなバカか童貞くらいだ。
「うーん、バイト終わりは遅くて危ないし」
ごめんね、とまた繰り返せば、彼女は残念そうに頬を膨らませるだけでそれ以上は追及してこなかった。
隣の男も番号を交換して満足したのか、身長の低い胸の大きな子と手を振り合っている。花柄のワンピースを翻して去っていく背中に、なるほど、こいつの好きそうなタイプだと思ってしまう。
重なった視線に連れ立って歩き出せば、声をかけてくる女の子たちはもういない。今日はまだ少ない方だったな、と漏れた溜息に、隣からは鼻にかかったような笑いが返ってきた。
「美人さんだったのになぁ」
「うるせぇよ」
にやにやと緩められた口元はだらしがないくせに、スマートフォンへと向かう視線は欲を伴った捕食者のものだった。さっきの女の子たちと同じ、自分が狩る側だと信じて疑っていない強者の目だ。
どうせ、さっき連絡先を交換していた子にメッセージでも送っているのだろう。彼女がいるくせによくやるよ、とはもう既に言うのも面倒臭い。
隣で熱を帯びていく表情を隠しもしない男に、呆れるよりも先に珍獣を眺める気持ちになった。
細かにメッセージを送ることも、相手の趣味に合わせることも、一緒に出掛けることも、何もかも気乗りしない。欲さえ満たされればそれでよくて、彼女を作りたいと思うこともなかったし、一回限りの相手で充分だった。
だけどこいつはそうでもないのか、同時に何人もの子と付き合ったり、セフレを切らさなかったり、一夜限りの相手と過ごしたりと、際限のない欲望に満ち溢れていた。女の子は性欲を吐き出す相手だと前に聞いたことはあるけれど、それでもマメに付き合っているのはすごいことだと素直に思ってしまう。
「今日帰ってくんの?」
「いや、今日は朝まで」
「じゃあ俺ん家でいっか」
口笛を吹きそうなほどの上機嫌さで返信を打つ男に、ゲスとヤリチンがなくなればまともな恋愛も出来るだろうに、と可哀想な気持ちになってしまった。女の子への返信で忙しいこいつには、呆れて物が言えない俺の表情なんて視界にちらついてさえいないのだろう。
不覚にもすごいだなんて思ってしまった数秒前の自分を、いっそ記憶がなくなるまで殴ってしまいたい。
スマートフォンに夢中になってにやけている男、向井とは大学の入学式で出会った。
実家から近いという理由だけで選んだ学校は偏差値こそ高くはなかったが、ここ数年で随分と就職率を伸ばした勢いのある国公立大学だ。
講堂で行われる式には新入生とその保護者しかいないはずなのに、どこまでも続く人の波に圧倒されてしまいそうになる。真新しいスーツを着込んだ同級生たちは誰もが畏まっていて、その空気に染まりきれないまま自分は最後尾に座ってぼんやりと周りを眺めていた。
学部ごとに区切られているおかげで、周りにいるのは全て同じ経済学部の生徒だ。真面目そうな奴が多いな、と椅子に深く腰を沈めていると、すぐ前の席に目立つ金髪頭がやってきた。
明るくても茶色く染めている新入生が多い中で、白に近い金色の髪の毛は注目を浴びている。前の方の席に座った何人かもざわめきに振り向き、派手な頭を見つけては小声で何かを話し出す。
何十と視線を集めている中でも男は特に気にした様子を見せず、ただ真っ直ぐに顔を上げていた。立っているところは見ていなかったが身長は高そうで、狭い空間で長い足を窮屈そうに伸ばしている。
行儀悪く足を広げた自分とは対照的で、それがなんだか可笑しくなる。だけれどそれも一瞬で忘れてしまい、式が始まる頃には夢の中へと旅立っていた。
驚いたのは、学部棟に移動してまたそいつが前の席に座ったことだった。見覚えのある金髪頭に思わず凝視していれば、視線に気が付いたのかたまたまだったのか、振り向いた男の垂れた視線と交差する。
柔和そうな見た目とは反対によく喋る向井に面喰らって、こちらのことは名前くらいしか伝えられていない。だけれどその初対面からずっと、久保や斎藤も含めて一緒に過ごすようになった。
最初の頃は顔が良いだけのお調子者だと思っていたけれど、一緒にいるようになれば向井が如何にクズであるのかが分かってしまう。悪い意味でのギャップに、三人で大笑いしたのはよく憶えている。
親が会社を経営しているボンボンで、全てが自分の物になると何一つ疑っていないただの世間知らず。自分の顔がモテると知っていて、それをどう活用すればより良い結果になるのか、本能的に理解しているような奴だった。
まあ、欲しいと強請れば何でも与えてくれるような環境で育ってしまえばそうなるのも仕方がないのかもしれないが、向井の思考は度を超えていた。
彼女に束縛されるのも浮気されるのも嫌がるくせして、自分は好きなように振る舞ってもいいと思っている。女の子には優しいしマメに連絡も取れるし、騙されたと怒って別れを告げる子がほとんどだった。
それでも、どれだけクズだろうが女遊びが激しかろうが、つるんでいて不自由は一つもない。
優し気な外見によく喋る明るい向井と、一見すると怖く思われがちな吊り目に爽やかさを装って笑う俺。少年っぽさを残す久保と物知りでお洒落な斎藤が加わると学科でも中心にいるようなグループになっていて、先生にも何故か気に入られていた。
何より、向井は必要以上の干渉をしてこなかった。
母子家庭というだけで心配そうな目を向けてくる奴は大勢いたが、そこに七歳下の双子がいると言ってしまえば一層の同情を投げられる。俺の感情を全部置いてけぼりにして、憐れむことが正しいのだと言わんばかりの対応ばかりを見てきた。
大変だったね。
何か力になれることはない?
そんな言葉はもうずっと、俺の傍に付きまとっていた。双子が生まれて一年もしないうちに家を出て行った父親の背中を見送ったその日から、ご近所さんは何かにつけて俺たちに声をかけてくる。
昼夜を問わず働いてくれている母親に変わって家のことをするのも、幼くて一人じゃ何も出来ない双子の面倒を見るのも、大変だと思ったことは一度もない。
俺にとってはそれが当たり前だったし、力になれていることが単純に嬉しかった。慕ってくれる双子は目に入れても痛くないほどに可愛いし、いつもありがとうと疲れた顔で言ってくれる母親にやる気を募らせる。
それなのに、周りは勝手に俺を可哀想な子だと決めつける。幼い子どもの面倒を見なくてはいけなくて可哀想、自分の好きなことが出来なくて可哀想、母親の代わりに家事をしていて可哀想。
自分の信じている当たり前と違っていただけで、あいつらにとって俺は不憫な生活を強いられた可哀想な子どもだった。身勝手な正義感で、俺たち家族を憐れんで助けてやるべき存在だと判断した。
自分の正しさを押し付けてくるような奴らばかりで、向井や、久保や斎藤もそうだと思っていた。こいつらも今までの同級生と同じで、家のことを話せば似たような反応を返してくる。俺を可哀想だと、不憫な長男だと見てくるのだ。
元々どんな話をしていたのか、そんなことはもう憶えていない。サークルをどうするかとか、必修以外の科目は何にするかとか、多分そういう、どうでもいいことだったと思う。時間割が決まっていた高校までと違って、大学は右も左も分からない状態からやることが多い。
食堂の隅っこを占領して四人で話していくうちに、話題は逸れて実家の話へと移っていた。向井がボンボンだと知ったのはこのときからで、恥じも照れもなく自分の家は金持ちだと豪語するバカに俺たちは揃って引いていた。
久保は、斎藤は、と続いていき、俺は自分に来るのを分かった上で、みんなの話を楽しみながら聞いてしまっていた。椋本はどうなんだ、と振られて、いつもなら当たり障りなく流せる話題に自然と本当のことが口から飛び出してしまう。
やってしまったと気が付いたのは、全てを話し終えた後だった。
隠しているわけでもなかったけれど、進んで話したいことでもなかった。どうせこいつらも憐れみを込めてくる、可哀想だと視線で訴えてくる。
俺はどれも必要とはしていなくて、でも結局はそんな言葉も強がっているだけだと言われてしまう。
彼らの反応を見る前に離れてしまえば、少しはダメージも減ってくれるだろう。まだ知り合って数日しか経っていないのに、この三人とは気楽に付き合えるだろうと思っていたのに。
そんなことを考えながら席を立とうといつの間にか下がっていた頭を上げると、前に座っていた向井は何の感情も浮かべていなかった。それがどうした、と言わんばかりのいつもの顔で、学食の中では高い八百円のチャーシュー麺を啜っていた。
今までとの違いに茫然としていれば、斜め向かいに座っていた久保から双子の写真はないのかと聞かれた。生まれてこの方、双子という存在を見たことがなかったらしい。
興奮してきらきらと輝く視線から逃げようと顔を背けると、隣に座る斎藤からは何故か箸の持ち方が綺麗だと褒められた。そう言う斎藤は、下手ではないがなかなかに特徴のある持ち方をしている。
初めての反応に驚いて、それからこんなものかと笑ってしまった。憐れむことも、可哀想だと思われることもなく、自分の正しさを振りかざしてくることもない。
ただ干渉されないことが、とにかく心地良かった。
それからは久保にせがまれるまま双子の写真を見せた。弟と妹の二卵性双生児は顔こそ似てはいなかったけれど、お互いに離れようとしなかったせいか、笑った顔も拗ねた表情もよく似ていた。
中学校に上がった今でも揃って歩く姿は変わっていなくて、思春期に入って珍しく喧嘩をした写真を見せれば久保は腹を抱えて面白がった。
そんな風に、俺の家族と言えば仕事を頑張ってくれている母親と、まだまだ可愛いばかりの双子の弟妹。俺にとっても、三人にとってもその程度の認識で、苦労したんだなと上から物を言ってくることは一度もなかった。
二年に上がっても四人でつるんでいることに変わりはない。相変わらず久保には双子の写真を強請られて、そこに向井や斎藤が加わってくることもあった。
俺に似ている部分を探してはこんなに可愛らしい二人とはどこも似ていないと笑われて、ムキになった俺は双子にしつこく絡んでいったせいで母親にしこたま叱られた。
四人でいるのは気を遣わなくて楽だし、中身のない話で盛り上がれるのは楽しい。今までは表面的な友達しかいなかったから不思議に思う感覚が湧き上がると共に、自分はこうだったんだ、と気付くこともあった。
高校の頃からなんとなくその片鱗を自分でも分かっていたが、俺はどうやら真剣に付き合うということが考えられないらしい。もっと大人になったら変わるのかもしれないが、学生のうちはお金を貯めることが優先で、彼女に付き合ってあげる気力が湧かない。
幸いにも女の子からは気に入ってもらえる外見をしていたから、高校生のときは先輩と、大学生になってからはナンパしてくれる女の子と。ただお互いの利害を一致させた上で一日限りの遊びを楽しんでいた。
こんなこと母親にバレたくはないが、久保や斎藤はネタの一つとして楽しんでくれる。類友と冗談で呼んでくる向井は俺と同じような、いや、向井は浮気上等な時点で俺よりももっと酷いか。
俺からはあまりしないが、向井はよく俺についてきて女の子からの声かけ待ちをした。そうして引っかかってくれた女の子とセックスをして、次の日にはそのままさようなら。そんなことを、もうずっと繰り返している。
一年の春から始めていた家庭教師のバイトの他に、向井に誘われてバーでも働くようになった。
ボンボンのくせに向井は居酒屋で働いていて、金がないと嘆いている俺に良いところがある、と紹介してくれたお店だ。カジュアルな雰囲気のバーはオープンして一年も経っていないような新しい場所ではあったものの、常連客の多い繁盛店だった。
時給の良いバイトを掛け持ちしたおかげで余裕が出来た、と胸を撫で下ろしていたとき、突然向井からルームシェアをしないか、と声をかけられた。
実家から三十分以上をかけて通っている向井は、一人暮らしがしたいと頻繁にぼやいていた。充分過ぎるほどの小遣いをもらってバイトもして、お金に余裕があるのなら勝手にやればいい。
他人事だと思って適当に受け流していたのに、どうしてだか俺に白羽の矢が立った。
地方から出てきて既に一人暮らしをしている久保と、彼女と同棲している斎藤と、実家暮らしの俺。
比べるまでもなく誘えるのは俺だけしかいなかったけれど、交通に不便しているわけでもない。俺はいいや、と断れば、親の持っているマンションが大学近くにあり、家賃も光熱費もいらないと言われてしまってはそれ以上何も返せなかった。
気掛かりなことがなかったわけではない。双子は中学校に上がったからと言って家事が得意なわけではなかったし、母親はずっと忙しく働いている。俺が実家を出てしまうと、毎日の洗濯や夕飯作りは誰がやるのだろうか。
それでも、友人と二人暮らしとは言え、自分だけの空間が出来ることに憧れがないわけではない。実家は古いアパートで、俺は弟と、母親は妹と同じ部屋で眠っている。プライベートなんてそんなもの、寝息さえ筒抜けのあの家では無いに等しいものだ。
申し訳なさを感じつつもルームシェアの話を飲んでしまったのは、向井が相手だったからだろう。早朝に帰ってこようが誰を連れ込もうが、一緒に住んでいるのが向井だと気にすることもない。俺にとっても、きっと向井にとっても、都合が良かった。
お互いに女の子を連れ帰っても文句は言わない、とそれだけを条件に、二年の夏からルームシェアを始めた。案内された先には出来たばかりの新築マンションが聳え立っていて、今まで帰っていたぼろいアパートと比べてしまいそうになる。向井から見れば俺の実家は物置小屋か何かにしか見えないだろう。
十五畳はありそうな個室が二つと、オープンキッチンが備え付けられたダイニング。続きになっているリビングにはホームシアターと、バカみたいに大きなシャンデリアが吊るされていた。
家具は全てある、と言われていた通り、細かいものまで几帳面に揃えられていた。実家から持ってきた筆記用具でさえ個室に置かれていて、洋服と教科書くらいしか入っていないボストンバッグが急に重たくなった。
「何やってんだよ」
「別に、違いを実感しただけ」
入ってきて早々に寛ぎだすバカに、気後れしている自分の方がバカなんじゃないかと思った。L字型のソファはこの部屋で唯一向井が選んだものらしく、座り心地が最高なんだと腕を引かれ、肩がぶつかりそうな程近い距離に座らされた。
誘ってきた向井が気にしていないのだから、俺も気にする必要なんかない。包まれるような感覚を味合わせてくれるソファなんて初めてで、これからも堪能出来ることに満足した。
それからも向井とのルームシェアは順調で、気が付けば一年近くが経っていた。学校では別行動を取ることの方が少なかったものの、家にいる時間が短いおかげでお互いの存在を気にしたり、喧嘩したりすることもない。
結局俺は女の子を連れ込むことをしなかったけれど、自分だけの部屋が誰にも侵されないことは存外気に入っていた。
「修羅場は見せんなよ」
慣れ親しんだエントランスを潜り、自分の部屋に荷物を置いて重たいトートバッグを手にリビングへ戻ると、向井は柔らかいソファに沈んでいた。彼女が来るのか、それともさっき連絡先を交換していた子が来るのかは知らないが、眠い中帰ってきて修羅場に遭遇するのだけは勘弁してほしい。
「んなヘマはしねぇよ」
笑って手を振るバカに、嘘つけ、と笑いさえ出てこない。彼女とセフレのブッキングなんて、お前が一番得意なことじゃねぇか。
付き合いきれねぇな、と参考書の入った鞄を持ち直す。今日は数学と英語を教えてから、朝までバーで働くことになっていた。
受験を控えた生徒ばかりを受け持っているせいで、分厚い参考書と辞書はいつもセットで持ち歩いている。もっと楽な生徒を選ばせてほしい、とぼやいた言葉は、昼寝を始めた向井には届いていなかった。
*****
今日は我ながら充実した休みだった、とソファに沈みながら思う。土日は家庭教師のバイトが朝から晩まで入っていて、脳みそが擦り切れてしまいそうになりながらもバーのバイトに向かう、というのが常だった。
だけど、今日は全国模試のおかげで家庭教師は朝の二時間だけで終わり、バーの方もシフトの調節で急遽休みとなった。日曜日である明日は完全オフで、こうして時間を気にすることもなく足を伸ばすことが出来ていた。
生徒が数式を解いている間、駄目だと思いつつも何をしようかとそればかりが頭に浮かぶ。夏用の服がないから買いに行こうと決め、出歩いた先で出会ったのは派手な外見をした女性だった。
いくつか年上に見える彼女はキャバクラの出勤前かと疑ってしまうくらいきっちりと化粧をしているのに、かけてくる声色はひっそりと落ち着いていた。暇だったら、と優しく差し出された手を握って、誘われるがままに後ろを歩く。
連れて行かれたのはどこにでもあるようなラブホテルで、先払いの会計に彼女はブラックカードを出していた。何の装飾もされていない爪先を眺めながらお金持ってるんすね、なんて、不躾な言葉にも静かに笑ってくれる。
隙間なく結われた真っ黒い髪と少しだけ日に焼けた肌は、洗い立ての白いシーツによく映えていた。きっと、美しいと評されるような人なのだろう。だけど俺の目には、ただ一度だけセックスをする相手としか映らない。
年齢の読めない彼女を気持ち良くして、ついでのように俺も気持ち良くなって、お互いに欲を吐き出してしまえばそれでおしまい。休んでから帰ると言う彼女を残して、俺は何の感情も残すことなく帰ってきた。
ベッドの上で繰り広げられるピロートークなんて、甘ったるくて好きじゃない。そこは本来寝るためのもので、それ以外にはあまり多くの時間を使いたくなかった。
欲を吐き出して気怠さだけを残した体は、柔らかいソファに深く沈んでいく。男二人が無遠慮に体を横たえるようになって一年ほどが経つというのに、包まれるような心地の良い感覚は衰えることを知らない。
いくらくらいしたんだろうか、と向井に尋ねてみたこともあるけれど、買った本人は金額を憶えちゃいなかった。
持ち込んだ本人がいないのをいいことに、自分では一生買えることもないような高級ソファに体を埋める。点けたまま放置してある大型のテレビからは再放送のドラマが流れているが、最初を見ていないせいで何一つ分からなかった。
今日も明日も、この部屋には俺しかいない。向井は新しく出来た彼女のところに泊まる、と朝の早い時間から出掛けて行った。帰ってくるのは明日の夕方くらいだろう。たった一人の時間が後一日以上も残っていることに、実家で暮らしていた頃には考えられないな、と笑いが漏れた。
今まで経験したことのないような贅沢な時間に気が抜けていたのか、知らないうちに寝てしまっていたらしい。瞼を押し上げれば窓の外には夕焼け空が広がっていて、時間を認識した途端腹の虫が盛大に鳴り出した。ソファの上でだらしなく背中を伸ばし、飯でも作ろうかと立ち上がる。
普段なら冷蔵庫の中には缶ビールと水くらいしか入っていないようなお粗末な状態だけれど、今日は帰りに色々と買い込んでいた。ここに引っ越してきてから自炊をする機会は減ってしまったものの、料理自体は好きなのだ。
毎日のように飯の準備をしていたおかげで、凝ったものでもなければ自分で作れてしまう。詰め込んでいた食材から玉葱とピーマン、それからブロックベーコンを選び取る。
ナポリタンは材料も少なくてすぐに作り終わるから、実家ではよく作っていた。ピーマンが苦手だと泣いていた双子もこれなら残さずに食べてくれる。
ケチャップって万能だし作る側としてはありがたいよな、とどこか所帯じみたことを思いながら、キッチン台に置きっぱなしにしていた袋からパスタ麺を一束取り出した。
誰が用意してくれたのか、麺用の耐熱タッパーに水とパスタ麺を入れて、そのままレンジに入れる。硬めになるよう時間を調節して、待っている間に食材を切っていく。
檜の香りがするまな板に、青白く輝く真新しい包丁。そこにベーコンの塊を置いて、分厚く切り落とす。一度も使っていない包丁の切れ味は抜群で、真っ直ぐに通る光の筋は何も寄せ付けないような強さを放っていた。
すとり、と正方形に切り分けられていくベーコンの瑞々しいピンク色と、包丁の持つ白く青い光。逸らせなくなった視線の先には、そこにあるはずもない色を映し出す。
そう多くはない回数分、見てきた歪な色。見慣れているとは言い難く、好きだなんてもっと言えない。
料理は好きだし、日頃から馴染みのあるものだ。それなのに、心臓は全力で走った後のようにばくばくと早鐘を打ち始めていた。
向井は彼女の家に泊まっていて、今日は帰ってこないと言っていた。この部屋の鍵は俺と向井しか持っていなくて、こちらが呼んでいなければ他には誰も、エントランスを潜ることさえ出来ないはず。
気が緩んでいるのは、ソファの上だけではなかった。完了を知らせてくるレンジの音も、点けっぱなしにしているテレビの音も、今の俺には一つも届かない。
誰もいないと分かってはいてもキッチンは共同スペースで、勿論向井が使うこともある。俺だけの空間ではないはずなのに、光を放ち続ける包丁に惹きこまれてしまえばもう何も考えられなかった。
駄目だ、と制する言葉はどこかに捨てて、忘れてしまった。
大丈夫、向井は帰ってこない。ここには今、俺しかいない。
暴れる心臓を抑え込むように、言い聞かせるように、何度も何度も繰り返す。大丈夫だと心に刻み付けてしまえば、本当に大丈夫なのだと錯覚出来た。
そんなことしなくても、俺はもうたった一つのことしか考えられない。ベーコンのピンク色と、包丁の青白さに魅せられてしまった。
キッチン台の上には袋に入ったまま放置された野菜と、中途半端に切り刻まれたベーコンが転がっていた。握り締めた包丁は、こいつらを切るために出したもので、ベーコンは切られるのを待っている、のに。
「何してんの」
直ぐ隣で、今ここで聞くはずのない声が響いてきた。びくりと手先が揺れた拍子に黒の混じった濃い赤色が、ベーコンの上にまで飛んでいってしまう。切った断面から伝う赤色は、まるで生きているみたいだった。
なんで、どうして。大丈夫だと刻み付けた心は驚きと、不安と、恐怖で埋め尽くされてしまう。普段は割りとよく回ると思っている頭も、感情ばかりが濁流のように押し寄せてきては上手くいかない。
「む、かい、おまえ、なんで、」
ようやく絞り出された声は、情けなく震えていた。声のした方を振り向けば勘違いでも何でもなく、向井がただぼんやりと立っていた。
いつも百面相をするように豊かな感情は消え失せ、真っ直ぐに向けてくる瞳には狼狽える俺しか映っていない。感情の一つも読めない向井は本当にただ立って、俺を眺めているだけだった。
思い出したかのように切り付けた手首が痛みを訴える。じぐじぐと尾を引くような痛みは鈍く、痛いのかさえ分からなくさせる。
よく切れるだろうと思っていた包丁は想像以上で、深く押し付けた一本線からは止めどなく赤が溢れていた。俺の血を浴びてしまったベーコンは、洗ったとしてももう食べられないだろう。
「何してんの、って聞いてんだけど」
「……晩飯、作ってただけ」
「ちげぇよ。それ、わざとやったの?」
無表情を崩すことなく指を向けられた先は、未だに赤黒く染まった血を溢れさせる手首だった。どんな話をしていても気にした様子もなく、干渉してこなかったこいつが、今はただひたすらに赤い一本線を見つめている。
友人がこんなことをしていたら当たり前だと思う気持ちと、向井が気にしてくるなんてと驚く感情で心の中はささくれ立っていた。
いつもみたいに気にしないでほしかった、とは俺の勝手な感情だ。普通に考えれば家に帰ってきて、いきなり自傷行為を見てしまえばどうした、と声をかけてしまうだろう。
傷の深さに慌てふためいて救急車を呼ばれることもあったかもしれない。俺も向井の立場だったら、と思うと、こんなところで迂闊な行動をしてしまった自分に腹が立った。
「別に、なんとなくだよ」
心配されているのか、それとも驚かれているのか。こいつだったら面倒だと呆れているのかもしれない。いつもなら向井の考えていることなんて知りたくなくても分かってしまうのに、消え去った表情のせいで何一つ分からなかった。
なんで、なんで、とそれだけが頭の中を支配する。なんで、帰ってきてるんだ。なんで、声をかけてきたんだ。なんで、放っておいてくれなかったんだ。
干渉しないことはお前の美点だっただろうと、そこまでいってしまえば責任転嫁も甚だしい。
向井は俺から、と言うよりも血を流し続ける手首から、視線を外そうとはしなかった。何を思っているのか分からないままに、ただじっと見つめている。
真顔でいるだけ、言葉数が少ないだけ。たったそれだけの変化でしかないはずなのに、向井が知らない誰かに思えてしまう。
バカで、ゲスで、ヤリチンで。お調子者のところは一緒にいて楽だとさえ思うのに、今の向井は俺の知らない誰かだった。
「なに、マゾなの?」
「はぁ?ちげぇよ、普通にいてぇし」
落としていた視線を持ち上げて、色素の薄い瞳に俺を映し込む。ガラス玉のようにただ反射するだけのそこに、俺は初めて向井を怖いと思った。
一歩近付いてくるだけで、得体の知れない威圧感が湧き上がる。一歩、また一歩と踏み出すたびに何倍にも増して、普段は気にもならない五センチの身長差が恨めしかった。
マゾだったら何なんだよ。痛いのが好きなわけでも、興奮するわけでもない。人並みに痛みは感じるし、出来ることなら怪我も病気もせず健康体でいたいと思っている。スプラッター映画や手術シーンは大の苦手だ。マゾでも、況してやサドでもない。
俺の鼻と、向井の顎がぶつかる。そんな距離になるまで近付いていたことにも気付かずに、俺はじっと立っているしか出来なかった。
向井の瞳には震える俺が映ってはいたけれど、視線を逸らそうという気にはなれない。
「じゃあ、なんで?」
「……だから、なんとなく」
撫で上げるように絡みついてくる視線が鬱陶しくて、だけれど今ここで視線を逸らすことは出来なかった。目の前に立っているのは、俺の知っている向井じゃない。何をしてくるのか、何を考えているのか、さっぱりと読めない相手から視線を外してしまえるほど、俺は弱くはない。
じぐじぐと、膿んだような焼ける痛みは向井を怖いと思う度に強くなった。こいつは見てしまっただけの、言ってしまえば被害者であるはず。
それなのに、まるでこの痛みはこいつに刻み付けられたものだと錯覚してしまう。
違う、向井は関係ない。この痛みは俺がつけたものだ。向井は何一つ、関係していない。
「なんとなくでさぁ、こんな切るの?お前」
ふ、と逸らされた視線の先に何があるのか、一瞬では分からなかった。どこに話が飛んでいったのかと眉根を寄せて、そこでようやく思い当たった。
自分が今どんな顔をしているのか、映り込む瞳の先が変わったことで分からなくなってしまう。だけれど、酷く歪んでしまったのだろう。喉の奥で小骨が刺さったかのようにつかえていた空気が肺へと逆流していく。見開いた視線の先で、向井はさっきまでの無表情が信じられないくらい、可笑しそうに口元を緩めていた。
向井が見ていたのは、捲ったせいで二の腕まで晒された、俺の左腕だった。
キッチン台の上に力なく置かれ、手首からはぽつりぽつりと雨のように赤が滴り落ちていく。日に焼かれていない内側の肌は昼間に見たベッドシーツのように色を無くし、どす黒く濁った赤がよく似合っている。
俺の左腕には、フリーハンドで描いたような汚い一本線がいくつも残っていた。かさぶたになって久しいものから、爪先のように白だけを残したものまで長さは様々だったけれど、それらは等しく一直線だった。
どれもこれも、自分でつけた痕だ。実家では一人になれるような個室もなかったおかげでトイレに駆け込み、隙を見つけては自分自身を切りつけていた。
誰にもバレたことはなかった。もしかしたら、と勘づかせるようなヘマをしたこともない。それなのに、こいつには全部バレてしまった。
「おまえには、かんけぇねぇだろ」
情けなさと居心地の悪さに、視界がふらふらと揺れていく。関係ないと突っぱねて、今すぐここから逃げ出してしまいたかった。高級マンションの最上階に位置するこの部屋から逃げ出して、何処か遠くに行ってしまいたかった。それでも、何処にも行けやしないのだと悟ってしまう。
人の古傷を舐めまわして愉快気に笑うこいつを無視して飛び出してしまえば、これから先どうなるのか予想も付かなかった。弱みだと思って久保や斎藤に喋るのか、実家に言いふらしに行くのか、それとも何かを要求してくるのか。
向井が望むものを俺が与えられるとは思ってもいないだろうが、手に入らないものはないと信じて疑わないこいつが何をしてくるのか。二年以上の付き合いでも思い浮かばなくて、分からないうちはここにいるしか方法がない。
震える体を気力だけでなんとか持たせ、細めた視線を浴びせてくる相手をただじっと見上げていた。余程切れ味の良い包丁だったのか、数分経った今でも流れ落ちる赤は止まらない。
「マゾでもねぇのにこんなことするとか、何、お前変態だったの」
「……もうそれでいいよ」
何と答えてほしいのか、同じようなことばかりを繰り返してくる向井に、やっぱりただのバカだったのだろうかと穿った見方をしてしまう。口元は緩められたままで、口調もどこか面白そうな響きに変わっている。いつもの向井にしか見えないのに、それでもどこか感じた怖さを捨てきれずにいた。
溢れて止まらない赤は、キッチン台の上に血だまりを作っていた。許容範囲を超えてしまったのか、指先は真冬のように冷たく、自分の意思では動かせなくなってきた。向井の望む答えは知らないが、さっさと飽きて彼女の元に戻ってほしい。
震えていた体は段々と左右に揺れて、見上げた先には三人に増えた男が意地悪く笑っていた。ティッシュでもガーゼでも、いっそキッチン台にかけてあるタオルでも、何でもいい。これ以上流れるまま放っておいて傷口がそのままだと貧血で倒れてしまうし、もっと酷くなってしまえば入院することにもなり兼ねない。
向井がどう出てくるのか、どんな答えを求めていたのか。考えようとしてもこいつが何も喋らないのでは分かるはずもない。
愉快に笑う男のことは無視してしまおうとかけたタオルに手を伸ばせば、揺れる視界と一緒に足元もぐらついた。やばいと思って力を入れようにも、体のどこに力を加えればいいのか分からなくなる。立て直そうとする足も、どこかを掴もうと伸びる手も、実際には何一つ動いてはくれなかった。
ぐらりと、このまま倒れてしまうんだと痛みを想像して固く目を瞑れば、冷えて動かない体は存外に温かな場所へと到着した。値段も知らないソファと同じように体は柔らかく包み込まれて、嗅ぎ慣れた香水の香りが肺に満ちていく。
「ぼろぼろだなぁ、椋本くんは」
何の香りだったっけな、と思い出そうとする前に、答えは直ぐに返ってきた。さっきまでは追い詰めてくるようなことしか喋らなかったくせに、皮肉だけは息をするように吐き出される。そういうところがバカなんだよ、お前は。
「はなせ、むかい、おい、」
全身から力が抜けたみたいに動かなかったのに、離れたいという思いは神経を伝わったのか、辛うじて右腕だけが持ち上がった。
震える指先を向井との間に挟み込んでどうにか離れようと力を込めるものの、背中に腕を回されてしまっては叶わない。抱き締めるように重なった肌は、向井の体温を奪うかのように温められていく。
力任せに抱き締められて、首元に顔を埋めてくるせいでこそばゆくなってくる。叫ぼうと引き締めた喉からは空気の漏れる微かな音と、この距離だったからこそ聞き取れるような囁きしか出てこなかった。
本当に、何がしたいのか分からなかった。表情が豊かで、思ったことは考える時間も置かずに口から飛び出してきてしまうようなバカ。
それが向井という男のはずなのに、今目の前にいるこいつからは何も伝わってこない。可笑しそうに、愉快そうに笑う姿を確かに見ていたはずなのに、それが何を意味しているのかが分からなかった。
「なぁ、むかい、」
「痛いのが好きな変態なら、何したっていいよな」
抱き締められたままの姿勢も、じぐじぐと痛む手首のせいで辛くなる。囁きにしかならない声で向井を呼ぶと、なんだか訳の分からないことを言われた気がした。
「うぁ!」
何を話していたのか、聞き返そうと開いた口は、今度こそ叫びを上げた。力が入らないのを良いことに、気が付いたら何故か横抱きにされる。ぐるりと回った視界にふらついて、だけれど辿り着くのは甘い香水を染みこませた逞しい胸筋だった。
向井の白いTシャツが、俺のベージュのロングTシャツが、血によって赤く色付いていく。ぽつぽつと歪な水玉模様となった赤に、向井が気にする様子はない。
弁償になるのだろうかと、横抱きにされたまま現実逃避に財布の中身を心配していれば、いつの間にか向井の部屋へと運び込まれていた。
元々用意されていたベッドと小さな三段の棚以外は何もない殺風景な部屋は、初めて見るものだった。香水だと思っていた嗅ぎ慣れた香りは、棚に置かれたディフューザーによるものだと、これも今日初めて知ることだ。
柄にもなく手当てでもしてくれるのだろうか。場違いなことを思っていれば、ダブルサイズはあるだろう大きなベッドに投げられた。結構な高さから遠慮もなく落とされてしまったが、マットレスが沈み込んだだけで痛みが伝わってくることはない。
「向井、おまえ、何がしたいんだよ」
「何って、さぁ。ベッドですることなんて一つだろ」
血が止まったのか、それとも横たわったおかげか。さっきまではブレて何人にも増えていた向井が、ようやく一人に収まった。こちらを無情なまでに見下ろしてくる視線には、いつだって異性に向けられていた欲が見え隠れする。
ベッドの上ですることなんて、寝る以外ないだろう。纏まらない思考の末に出てきたのは昼に思っていたことのそのままで、だけれどそれを口にしてしまえば呆れられることは分かっていた。
まさか、とは思いたくなかった。こいつと俺が、なんて、冗談でも思いたくない。
向井とは友人で、一緒にいて楽で、それ以上でも以下でもない。お互いをどう思っているのかなんて口に出し合ったことはないけれど、向井も同じように思っていたはずだ。
なのに、目の前の男はなんだ。女の子が好きで、女の子とヤることが好きで、でも好みははっきりと決まっている。俺相手にこんな、熱い視線を向けてくるような奴じゃない。
いつか刺されてしまうんじゃないかと、久保や斎藤と一緒に揶揄ったことがある。そのときは修羅場を想像して面白がっていたし、そうなる前に一人に絞ってしまえよ、と心配もしていた。性欲の吐き出し方なんていくらでもあるんだから、と先輩ぶって話していた自分を殴ってしまいたい。
冗談だと、今はゆっくり寝ておけと、似合わない真似をしてくれるんじゃないかって期待して、赤で汚れたTシャツを脱ぎ捨てる姿に打ち砕かれる。鍛えられた筋肉を見せるのは何も、今じゃなくたっていいだろう。
このままだと本当にヤられてしまう。向井に抱き締められたときに戻っていたはずの体温はまた下がっていき、奥歯がかちかちと音を鳴らす。逃げようと思っても血の気のない体は言うことを聞かず、広いベッドの上で俺はただ震えることしか出来なかった。
「何逃げようとしてんだよ」
ベルトまで外しだした向井を見ていられず、どうにかうつ伏せの姿勢まで持っていく。少しでも力の入る右腕を動かして、ほふく前進の要領で藻掻いていれば突然足を掴まれた。驚きと怖さに動けなくなった俺に気を好くしたのか、空気を震わせるだけの小さな笑みを浮かべて引っ張られる。
進んだ以上に引き寄せられ、ベッドの端から足首が飛び出していく。もう少し引っ張ってくれたら立ち上がって逃げられるかもしれない。こいつはバカだからそこまで考えられないだろうと思っていたのに、膝までいかないところで止められてしまった。
「痛いのが好きなら、いいよな」
直接脳に響いてくるみたいな、ねっとりとした向井の言葉。退路を断つような声色に、俺は初めてことわざの意味を実感した。
まな板の上の鯉、蛇に睨まれた蛙。どちらも今の俺に相応しい。
ベルトのバックルが外れる音と、ループから引き抜かれる掠れた音。ジッパーの揺れる音の次には、布が床に落ちるような軽い音が聞こえてきた。かちかちと鳴る奥歯を噛み締めようとして、渦巻く恐怖にどうしようも出来なかった。
彼氏に無理矢理された、と嘆いていた同級生に、誘った自分が悪いのだろうと内心笑ったことがあった。ヤられると思えば逃げればいいし、一番にそういった雰囲気に持ち込まなければいい。怖いとか言っているけれど、実際はお前もヤりたくてじっとしていたんだろうと、あのときは本当にそう思っていた。
だけれど実際は、本当に動けないのだ。これから何をされるのかも、どんな扱いを受けるのかも分かっている。力の差はほとんどないはずで、だったら一発殴ってでも逃げてしまえばいい。全部分かっているのに、怖さと絶望に俺は少しも動けずにいた。
かちゃりと、自分の付けているバックルが外されていく音がする。うつ伏せの体勢だとやりにくかったのか、舌打ちを残して仰向けに転がされた。
逆光になっている状態でも分かってしまう。爛々と輝く瞳の色も、太腿に擦り付けては主張してくる雄の大きさも、汗ばんだ肌も、目に痛いくらい飛び込んできた。
微かに見えた左の手首からは、乾いて張り付いた赤しか見えなかった。血が止まったところで空回る思考や力の入らない体には何一つ変わりはなくて、これから向井にヤられる未来もそのままだ。
脱がされた下半身が外気に触れて、より一層体温は下がっていく。ゆっくりと太腿を這う男の手は焼け爛れてしまいそうなくらいに熱い。
「振られたんだよ、だから帰ってきた」
「いっ!」
首筋を噛まれ、耳裏を舐められて、まともに返ってきたのは随分と前に尋ねたことだった。今更帰ってきた理由を言われたところで何も返せやしないし、だったら帰ってなんか来ずに他のところへ行ってくればよかったのに。
欲求不満をぶつけられているだけだということに、涙が滲んでくる。流れ落ちる血は止まったものの深く痕を残した手首は痛かったし、貧血で力の入らなくなった体は情けない。舐められて、噛まれて、撫でまわされて、熱の伝わってくるそこかしこが気持ち悪かった。
「やめ、ぃっ、いたい、って、」
耳朶を、鎖骨を、肩を、力任せに噛み付かれては痛みに叫びが上がる。圧し掛かってくる体を押しのけようとしたところで、力の入らないままでは縋りつくように添えるだけになってしまった。
だらりと垂れ下がる足を左右に開かれて、自分でも知らない秘部を覗きこまれた。少年のような純粋な瞳で、ねめつけるような欲の孕んだ視線で、面白がるようにじっくりと見られてしまう。
そんなところを見せる趣味なんて俺にはない。どうなっているのかも分からない場所を見られる恥ずかしさに隠してしまおうと腕を伸ばせば、意地悪く歪められた視線とかち合った。
「アナルセックス、したことねぇ?」
「あるわけねぇだろうが!」
伸ばした手のひらを絡め取られてしまうと、満足に動けない俺は隠すことさえ出来なくなる。未知との遭遇なんてものは超常現象だけでいい。あんなもの、自分の身に降りかかるものじゃないからこそ楽しめるのだ。
恋人同士のように絡まった手のひらも、折り曲げられた足も、恐怖で細かに震えている。掴んでいるこいつが知らないわけもなかったが、やめてやろうという雰囲気は欠片もなかった。
「椋本の初めて、いただきまーす」
「なに、そ、ぉあ、あ、い、ぁあ!」
引き攣ったような痛みに、喉の奥が締められる。宙に浮いた足は指先にまで力が入って、じぐじぐとした赤い痛みがまた戻ってくる。内臓を直接絞られるような痛みに、目の前で星がきらきらと散った。
自分の体に何が起こっているのかと、初めは一つも分からなかった。手首を切った痛みとも、風邪を引いたときの頭痛や関節痛とも違う。もし、手術をするときに麻酔がなかったのならこんな風な痛みになるのだろうか。
開かれた足の間に割り込んできた向井に目を向けて、その先に広がっていた光景に見たものを素直に信じることが出来なかった。
腰を屈めた向井のおでこには玉のように丸い汗がいくつも浮かんでいて、苦しそうに眉間に皺を寄せている姿は珍しい。だけれど驚いたのはそんなことではなくて、その下にあるものだった。
「きっつ……」
大きく開かれた足の間、自分さえも知らない秘部に向井の雄が突き刺さっていた。破らんばかりに圧し広げてくるたびに足は震え、内臓は引き絞られていく。初めて感じる痛みと圧迫感に、全身は痙攣を繰り返していた。
「い、たい、いたい、って、むかい、」
膨らんでそそり立つ向井のそれは、まだ半分も収まっていない。慣らすこともなく無理矢理に入り込めば、そうなってしまうとバカでも分かるだろう。それに、さっきの口ぶりからして向井はアナルセックスとやらを経験しているはずだ。前戯も無しに突っ込んで、お互いに辛いとは分かっていたはずじゃないか。
絡まったまま解かれることのなかった手のひらに僅かな力を込めて、行為を続けようと腰を圧し進める向井に止まってくれと訴える。滲んでいた涙は痛みに伴って、ぼろぼろと零れ落ちてきた。
欲求不満をぶつけられているのか、みっともないところを見せてしまった嫌がらせなのか。気持ちいいことが好きなはずの向井がどうしてこんなことをしているのか、涙の粒が零れていくたびに考えようとする。だけれどそれは、腹の奥から広がってくる痛みに遮られて散り散りに消えていってしまう。
無様なまでに押し倒されて、痛いと涙を流す姿はどれほど格好悪いのだろうか。想像するだけでも悲しくなってくるが、向井が冷静になってやめてくれるのならなんだって良かった。
引かれた手の先を見上げるように、眉間に皺を寄せたままの向井と視線が噛み合った。入っていかない苦しさのせいか、孕んでいた熱はマシになり、表情もどこか冷静なものになっている。
女体との違いに我に返ってくれたのか。それならいい、早く抜いてくれ。
叫びを上げた喉は乾きを訴えていて、張り付いてしまったのか上手く言葉が出てこない。それでも、ぐちゃぐちゃに濡れた顔と痙攣する体を見たら分かってくれるだろう。これでもう大丈夫だろうと安心していればにっこりと、それはもう今まで見た中で一番綺麗な笑みを浮かべていた。
「や、だ、よ」
「っえ、ぁ、ゃめ、や、ぁあぁあああああ」
一文字ずつ区切って満面の笑みを浮かべてくる向井に、俺が出来たのはただ叫ぶことだけだった。
穿つように、切り裂くように、力いっぱい突き上げられた腰は浮かび上がり、衝撃に震えた足はぶらぶらと揺れ動く。耐えるように握り締めた手のひらは、真似するように俺が込めた以上の力で握り潰された。
尻にぶつかった腰骨の感触に、引くくらい大きく膨らんでいた雄が全部入り込んできたのだと分かった。腹の底で存在を主張してくるそれは熱く脈打っていて、動かれるのも抜かれるのも苦しくて辛い。
内臓を圧し潰してくる重みに、無理矢理広げられた穴が引き攣ったように収縮した。じぐじぐと鈍く広がっていく痛みに、手首と同じように切れてしまったのだと知ってしまう。
息が出来なくて、張り付く喉を精いっぱいに引き剥がそうとする。隙間から入り込んできた空気に何度もむせて、零れる涙は止まらない。なんでとか、どうしてとか。今はそんなものどうでもよくて、早く痛みから解放してほしいと、ただそれだけを思った。
「動くよ」
だけれどそんなことこいつには関係なくて、ただ自分の気持ち良さを求めるがままに動かれる。血が出たおかげで滑りは良くなったのか、ずりずりと出し入れをされても突き上げられたときほどの痛みは感じない。それでも痛くて、苦しくて、向井の腹で擦られるように動く自身の形はだらしなく垂れ下がったままだった。
「あぅ、やめ!ぇ、ぁ、ああ、」
入れて、抜いて、また入れて。出し入れを繰り返されるたびに感覚は麻痺していった。痛かったはずのそこは何も感じなくなって、触れられる内臓の気持ち悪さに声が漏れていく。鼻にかかったような高音は耳障りで、だけれど口を塞ぐことも出来やしない。
揺さぶられて、擦られて、そうして腹の奥に熱いものが広がったとき、俺はもう意識のほとんどを飛ばしていた。元々貧血を起こしかけていたところに無理矢理開かれた行為は限界で、支配するのは指一本も動かせないような怠さと眠気だった。
痛いのがいいんだろう、と入り込んできた向井に罵倒の一つも浴びせたかった。へらへら笑ってくるだろう男を叱って、どうしてこんなことをしたんだと怒鳴って、気が済むまで殴ってやりたかった。
だけれど水の中に沈んでいくような感覚には抗えない。ずるずると抜かれていく雄の形に、繋がれた指先が反応する。向井が何かを言っていたような気もするが、理解するよりも先に視界は黒く塗り潰された。
「これからは俺が抱いてやるからな」
恐怖と痛みに、絶望と苦しみに。冷えきった体が温かい何かに包まれるが、俺にはそれが現実なのか夢なのか、それさえも判断がつかなかった。
*****
奪い尽くすような痛みを与えられた次の日も、隣に座って授業を受けているときも、向井が謝ってくることはなかった。今までと同じようにどうでもいい話をして、家では碌に顔を合わせる時間もない。
俺も蒸し返されたくはなくて、変なところを見せてしまったことへの謝罪も、どうしてあんなことをしたのかと怒ることも出来なかった。
「何が楽しくて男四人で映画なんだよ」
「いいじゃねぇか、アクションは男と見てこそだろ」
前を歩く久保と向井の言葉にも、どこか他人事のような達観が生まれてしまう。理不尽に俺を抱いてきたくせして、平気で笑っている向井に俺は怒るべきなんだろうな、なんて。
無かったことにしたいのか、それともあんなことをしてごめん、と頭を下げてほしいのか。どっちも望んでいないような気になって、知らず溜息が漏れてしまう。
「面白くなかった?」
「ん?いや、面白くはあった」
今日は掛け持ちしているバイトが二つとも休みになってしまった夏休み。向井の発案でシリーズになっているハリウッドのアクション映画を観に来ていた。特に興味もなかったタイトルに気乗りはしなかったが、初めて4Dで観たアクションシーンは心躍るものがあった。
並んで歩く斎藤はこの中でも一番映画に詳しくて、面白かったと素直な感想を伝えると伏線の説明までしてくれる。このシーンはあの映画と繋がっていただとか、今回の主人公はずっと脇に置かれていたキャラクターだったのだとか。
いつも大人しい斎藤が熱く語っている姿が貴重で、映画を観たとき以上の面白さを感じる。本当に好きなんだな、と呆れた風を装って笑えば、本当に好きだから、と簡単に返された。
この中で唯一真っ当に彼女を作っている斎藤を、あの日以来途切れることのなかった彼女を作ろうともしない向井に、こいつを見習ってくれと言いたくなる。そうしたらあのときのことも水に流そうと思えるような気がするのに。
自分のことは棚に上げてぼんやりとそんなことを思っていると、斎藤と並べた肩の反対側に重みを感じてぐらついてしまう。大体の予想はついていたが案の定、ぶすくれたように顰めた表情の向井が腕を回していた。
薄い布地を通して、人よりも体温が高いらしい向井の熱をダイレクトに感じてしまう。分け与えるかのように移ってくる熱さに、思考の奥が沸騰していくようだった。
「……んだよ」
「別にぃ、楽しそうにしてんなぁって思っただけー」
体格のいい向井に体重を掛けられて、耐えるように中腰の姿勢を取る。俺たちのやり取りなんて見慣れたもので、久保も斎藤もまたやってるわ、と言いたいことを顔に書いて笑うだけだ。週に何度もジムに通っている向井は全身に筋肉を纏っていて、体重以上の重さを感じてしまうからすぐに腰が痛くなる。
さっさと離れろ、と回された腕を叩いてもなかなか離れてはくれず、耳元にかかる息がくすぐったい。向井の腕から俺の首筋へと伝い落ちてきた汗に、心の中はざわざわと落ち着かなくなった。
「なぁ、これからどうする?飯行く?」
「悪ぃ、俺たち帰るわ」
離せ、離さない、しょうもない攻防を繰り広げている俺たちに痺れを切らしたのか、それとも笑うことさえ飽きたのか。
救いのように差し出された久保の言葉に、これでやっとこいつから離れられると安心する。大の男が二人で縺れ合っている姿は人目を集めるのか、盗み見るように向けられる視線に嫌気が湧いてきていた。
四人で飯食って、酒飲んで、満足するまで騒いだら家に帰ってさっさと眠ろう。そう思っていたのに、俺を捉えて離さない向井が言い放った言葉に驚いてしまう。それは二人も同じだったのか、もう帰るのかと疑問の目を向けてきた。
そりゃあそうだろう。午後イチの映画を選んだおかげで今はまだ十六時にもなっていなくて、太陽は高い位置で煌々と世界を照らしている。そんな時間から帰るだなんて、お前は何を考えているのか。
「帰んねぇよ、女のとこ行くなら一人で行って来い」
「ちげぇよ、ばぁか、」
お前とヤるんだよ。
にやにやと、それはもう新しいオモチャを与えられた子どもみたいに無邪気に笑って、俺だけに聞こえるような囁きを吹き入れる。思い出した痛みと、辛さと、絶望に眉根が寄った。
向井の部屋で目が覚めたとき、無理矢理に割かれた場所で血が固まっていた。風呂に入ろうと起こした体には痛みが走って、叫び続けた喉は唸り声さえも出てこない。
ベッドの中に、向井の姿は既になかった。一緒に暮らしている同性に襲われて、どんな顔をして会えばいいのか怒りとやるせなさに悩んでいた俺を、お前は分かっているのだろうか。
「じゃあ、そういうことで」
どうしたんだと引き留める二人の声も、あんなこと絶対に嫌だと拒絶する俺の声も、向井には何ひとつ届いていない。握られた手のひらは骨の擦れる音が響いて、止まってくれと足に力を込めても勢いは止まらない。
引き摺られるようにしてタクシーに押し込まれ、抵抗らしい抵抗も出来ず、十分も経たないうちにマンションの前まで辿り着いてしまった。降りるときに逃げようとした体は抱き込まれるようにして掬い取られてしまって、こいつの好きにされるしかない事実を思い知ってしまう。
「向井、いいからさっさとどっか行って来いよ」
「いいって、何がいいんだよ」
「俺のことはほっとけってことだよ」
「椋本さ、あれから切った?」
走り去るようにエントランスを抜け、丁度良く待機していたエレベーターに乗り込んだ。二人きりの、どう頑張っても逃げられない場所でも繋がれた手のひらが解かれることはない。痛みを訴えてくる指の骨に、折れていないことを祈るばかりだった。
欲求不満を募らせたこいつの暴走だ、一発抜いてくればバカなことも言ってこないだろう。そう思ってかけた言葉にも、向井は笑ったままのろりくらりとかわすだけだった。おまけに、一番気にされたくないことを聞いてくる。バカでゲスでヤリチンで、そこにKYも付け加えてやろうかと苛立ちが込み上げてきた。
頻繁に切ってしまうときも、忘れたようにカッターを触らないときもある。意味を持たない行動の底なんて俺自身気にもしていないのに、どうしてお前が気にしてくるのか。
痛いのが好きなのか、と聞いてきたこいつに、鬼畜な一面でも湧いてしまったのだろうかと気持ち悪さを覚えた。
「言うかよ」
「ふーん、まぁいいや。確かめればいいだけだし」
逃げられないと悟った俺と、可笑しさを滲ませる向井。
たった二人だけの窮屈な空間も、場違いなほどに軽やかな音に遮られる。蒸し暑さの中に放り出されて、長い廊下を引かれて歩く姿は傍から見れば修羅場にでも映ってしまうだろう。
あながち間違ってもいない光景を思い浮かべて、自嘲にも似た笑いが込み上げてきた。ただの修羅場であったなら、俺の気持ちはもっと楽なものだっただろうに。散々見せてくれるなと断っていた場面に、憧れさえ抱いてしまった。
辿り着いた先は最上階の角部屋で、立地だけなら西日の温かな、誰もが羨む場所にあった。住み始めたときも光溢れる南西向きの自室をすぐに気に入って、こっちを譲ってくれてありがとうと感謝さえした。
だけれど今は、どうしたって入りたくなかった。ルームキーを翳す背中を殴って、この瞬間から逃げてしまいたかった。
「ほら、さっさと入れよ」
鍵が壊れていました、修理するまで入れません。そんな案内を望んで、思考そのものに意味を持たないことに悲しくなる。管理の行き届いたお高いマンションでそんなこと起こるはずもないのに、無駄な言い訳を思いつくままに並べ立てた。
掴まれていた腕はもう放されているのに、背中を向けて走り去るという選択肢を取ることが出来ない。逃げたところで、理由は知らないけどこいつは絶対に追いかけてくる。
玩具を取られて泣き喚く子どものように、しつこい取り立てで有名な本職の方のように。きっと俺が疲れて倒れてしまうまで、こいつの足が止まることはない。
だったらもう、諦めるしかない。どうしてこいつがこんなにも気にしてくるのか、自分も辛いだろうに俺を選ぶのか、何もかも分からないから、結局は諦めてしまうのが一番いい。
先に入った向井の後に続くよう部屋に入って、履き潰したスニーカーを脱ぎ捨てる。踵の擦り減った姿にそろそろ買い換えようかと現実逃避に思っていれば、隣から覆いかぶさってくる姿に気付けなかった。
「ちょ、っと!重てぇよ、バカ!」
壁と向井に挟まれて、身動きの取れない状態に陥ってしまう。繋ぎ直された右手は痛いくらいに握られて、自由であるはずの左手も縋るように甘い香りの染みついたTシャツに添えるだけしか動かない。
向井の手のひらが、片方だけなのに器用にもベルトを外していく。がちゃがちゃと鳴らされた音に、あのときへと時間が戻っていくようだった。
こちらの都合なんてお構いなしに蹂躙された体は痛みを、怖さを憶えている。男同士でもセックスが出来ると理解はしているが、どうすればお互いに気持ち良くなるかなんて、そんなものは知らない。それでも、前戯もなく慣らすこともせずに行われるなんて思っちゃいなかった。
排泄にしか使われていない場所は受け入れることを知らなくて、圧し広げられた秘部はあの後しばらくは痛みを訴えてきた。あんな痛いことは二度とごめんだと、二度目はないと誓ったはずなのに、いとも容易く絡め取られてしまう自分が情けない。
緩まった隙間から熱い手のひらが侵入してくる。思い出した痛みと恐怖に縮こまった雄を握られて、柔らかく揉まれてしまえばこんな状況でも快感を拾ってしまう。びくりと震えた体に、向井は面白そうに笑っていた。
「嫌がってなさそうだけど?」
「お前、まじで、死ね」
優しく高めていくような刺激に息が上がっていく。唇を噛んで耐えようにも、嫌味を言われてしまえば違うと答えるしかなくて、ぬるく色付いた言葉は霞んでいた。
口角を緩ませた向井の手は立ち上がりかけた雄から離れていって、探るように奥へ奥へと進んでいく。そこは駄目だと押し付けた左手は、掛けられた体重に押されてしまってなんの抵抗にもならなかった。
固く窄んだ場所を確かめるようにくるりと撫でられて、ぞわりと背中に震えが走った。肌の粟立つ感覚に、全身から力が抜けていく。崩れてしまわないようにと壁に凭れ掛かっていると、それに気付いた向井が一瞬考えるように視線を外し、またすぐに楽しそうな表情へと変えた。
交わった視線には向井の熱が込められていて、これが自分に向けられたものではなかったら、少しはこのバカを格好良いと思えるのに。
欲を孕んだ肉食獣が、獲物を前にして舌なめずりをしている。喰われてしまう痛みを思い出しては肩を震わせて、俺はさしずめうさぎか何かか、と笑ってしまう。
笑った拍子に一粒、涙が零れ落ちていった。自分でも気が付かないうちに泣いていたらしくて、弱弱しい自分に余計泣けてくるようだった。遠慮を知らない向井の前では、全てを曝け出されてしまう。
取り繕う余裕も、場を和ませるために笑う時間もなく、奪われるような強さで引き摺り出される。思考の末を、心の底を、暴かれて、晒されて、吐き出されてしまう。
ぽろりと、また一粒落ちていけば、それと同時に差し込まれていた手のひらが引き抜かれていった。まさか、とは思うが、やめてくれたのだろうか。そうしてくれ、と押し返す左手で爪を立てると、乱暴な手つきで壁に向けられてしまった。
「ぅえ、」
避けることも出来ずに頬を強かに打ち付けてしまい、飛び出た呻き声にも向井が気にする気配はなかった。回るときに離された右手は熱いままで、冷えた壁にくっつけても収まる様子はない。自分自身が焼け焦げる勢いで熱さを増して、煮え立つ心臓はいっそ壊れてしまいそうだった。
反転させられて、圧し付けるように体重をかけられて、満足に動けないのをいいことに勢いをつけてパンツを落とされる。足首に絡まり付いた布地に抗っても脱ぐことは出来ず、ただいいようにされてしまう拘束具となった。
「むか、」
「そー、れ!」
「っぃあ!ああ、あ!」
割り開くよう尻を左右に引っ張られ晒された秘部に嫌な予感が浮かび上がり、止まれと声を上げようとしたところでこのバカに届くことはない。
神輿でも担がんばかりの陽気な掛け声と共に、痛みが脳天を貫いた。力任せに圧し込められた雄の形はしっかりと成長していて、繊細に皮を伸ばす場所を痛みによって支配する。
向井は今の状況のどこに、これほどの興奮を見つけ出したのか。痛いと、苦しいと、気持ち悪いで混ぜこぜになった頭では一つも分からなかった。ただ、差し込む向井も痛いだろうに硬度を保てるこいつこそがマゾなんじゃないかと思えてくる。
滑りの悪い場所に抜き差しを繰り返し、向井の先走りと秘部から溢れた血が混ざり合ってぐちゃぐちゃと卑猥な音が漏れてくる。縋りついた先にある壁は冷たくて、少しでも熱を逃がそうとおでこを擦り付けた。
液体が泡立つ音と、腰骨と尻がぶつかる音と、おでこが擦れる音と。
漏れるたびに首元には熱い息がかかって、何も考えられなくなっていく。向井が気持ち良さを感じているのかは知らない。ただ、緩やかに雄を握られていたときに憶えた快感が消え去ってしまった今、俺が感じるのは痛みだけだった。
引き攣れたように喉がしなって、噛み締めた唇からは赤く染まった血が落ちていく。噛み切ってしまった唇に走る痛みは、小さ過ぎて感じることもなかった。
ぐちゅぐちゅと、ぐちゃぐちゃと、粘度ばかりを増した音が静かに響く。切れてせいで溢れた血と、こいつの先走りと。潤滑剤とも呼べないほどお粗末なものしか使っていないから、そうなるのも仕方がないだろう。
俺の尻は今どうなっているのだろうか。腰に添えられた両手部分は痣となって、しばらくは人前で着替えることも出来ないだろう。力任せに開かれた秘部は、この前みたいに座ることさえ辛くなるに決まっている。
後のことを考えて、だけれどこいつは今しか考えていないのだろうな、と思うと虚しさが襲ってきた。膨らんだ雄から吐き出された白濁は、今日も腹の奥に注がれていく。ゴムなんて、孕ませる可能性のない俺に使うはずもない。
赤いはずの内臓が白に犯されてしまったようで、それがまた情けなさを募らせた。痛みと気持ち悪さに、頭の隅っこがちかちかと点滅する。
「、ぁ、ぃてえ、っ、やく、ぬけよ、」
「んぁー、あー、うん」
熱の籠る腹に、全身が怠さで動かなくなっていく。駆け巡る熱に気持ち良さなんて感じないのに、底の方ではどこか満足したような、満更でもない感覚が広がっていた。
壁にかけていた左腕が、抱き締めるように張り付いた体に奪われていく。抵抗する気力もなくて放っておけば、掬い取られたのは手首の内側を見るためのようだった。
壊れ物を扱うような丁寧な手つきに、突っ込んでくるときもそれくらいの配慮があれば、と思う。あったところでこの行為に付き合いたいわけでもなかったが。
「ん、切ってねぇな」
何がしたいのか、なんて。そこに何があるのかを思い浮かべれば考えるまでもなかったけれど、どこか気恥ずかしさを覚えてしまう。親指の腹で皮膚の薄い場所を撫でられて、くすぐったさに身を捩れば圧し入ったままの感触が伝わった。
「切ったら許さねぇからな」
ぐちゅりと、一度突き上げられてかけられた言葉に、どう返すべきなのか迷ってしまう。向井の許しが必要な行為ではなかったものの、貫かれたままに言われてしまえば刻み込まれた痛みを想像してしまう。切った瞬間のあの微かな痛みと、その後に待ち構えている絶望を伴った痛みと、天秤にかけるまでもなかった。
欲を吐き出して満足したのか、抜き出されていく雄に安堵する。柔らかい親指の感触はそれでも無くならなくて、未だに全身を駆け巡る痛みや熱との違いに眠気が襲ってくる。
吐き出されたものを処理しておかないと、腹を下してしまうのだとあのときに学んでいた。自分勝手に欲をぶつけてきたこいつが後処理をしてくれるとは思えないし、なんならこのまま玄関に捨て置かれるだろう。
そう思っていたのに、支えを失って崩れ落ちていく体は抱き留められるように向井の腕の中に収まっていた。
玄関先で胡坐を掻いて、その真ん中に俺が守られるように座らされている。骨の当たる感触に居心地の悪さを覚えはしたものの起き上がる気力はなくて、背中を預ける形になってしまった。
いつの間にか溶け合うように重なっていた熱が、二人の境界線を無くしてしまう。硬い胸板は穏やかさとはほど遠かったものの、眠ってしまうには充分だった。
「あとりょり、しておけ、よ、」
離せと抵抗することも、もうやめろと怒ることも、薄れていく思考の中では何一つ力を持たない。穏やかに上下する胸元と、丁寧に撫でさする親指の感触に眠気を誘われて、俺は何を口走ったのか分からないままに全てを放棄した。
*****
「ぃっ、ぁあ、っ!」
いつもは澄ましたように笑う顔が、痛みと苦しみに歪んでいく。潰れた叫び声は女のように甲高いくせして、どんな音よりも耳に心地良かった。
椋本の中は狭い。男を相手にするのなんて初めてで、勝手なんて知るわけもないんだから、全員がそうなのかどうかも分からないんだけど。それでも、女の穴と比べてしまえば随分と狭かった。
入ってくるなと言わんばかりに閉じようとする穴を、気持ち良さなんてそっちのけで圧し進んでいく。大きいものを小さいものに無理矢理押し込めば痛いのは分かりきっていて、快感なんてほんの僅かに感じるだけ。
裂けた入り口からは血が溢れていて、潤滑剤の代わりとして巻き取るように撫で上げると抵抗も少なくなる。入れるたびに椋本の穴は裂けていき、かさぶたになったそこは膿んだようにじゅくじゅくと音を鳴らした。
初めて抱いたのは、彼女とヤって、そこら辺に転がる女とヤって、発散されていくだけの性欲に飽きてきた頃だった。どこかに出掛けようよと言ってくる彼女に気乗りがしないと断っただけで振られてしまい、燻ったままの熱さをどうにもできないままに帰り着けば、目を疑う光景が広がっていた。
頭が良くて、口が悪くて、弟妹のおかげか世話焼きの椋本の手には真新しい包丁が握られていて、それが所々赤く汚れていた。声をかけたときには何が原因で汚れているのか分からなかったけど、振り向いた彼の左手首から滴り落ちる血に、ああこいつには自傷癖があったんだと納得してしまった。
付き合ってきた奴の中にはいわゆるメンヘラと呼ばれるような、思考の狂った女もいた。そういう奴の大体は手首に包帯が巻かれているか、注射痕があるかのどちらかで、矛先が自分に向いてくることもある。文房具のちゃちなカッターを差し出されても俺には自殺願望もなく、ヤりたくて付き合ってるんだと吐き捨ててきた。
椋本がそういう危ない女どもと一緒だったことに驚いて、焦って泣きそうに眉根を寄せた表情に揺さぶられた。そんな顔は知らない、見たこともない。実家ではいいお兄ちゃんを演じていたこいつのこんな顔は、もしかしたら俺だけしか知らないんじゃないか。
そう思うともう止められなくて、気が付いたら抱き潰していた。気持ちが良いことも、セックスも好きだけど、男同士の行為に興味を持ったことはない。そういう嗜好の奴もいるだろうが、俺はそうじゃない。
自分の考えが変わることなんて一生ないと思っていたけれど、椋本を抱こうと思ったのは本当に自然だった。女相手に思うよりもずっと楽に、ああこいつを組み敷きたい。そんな風に感じた自分に、多分俺はなんの疑問も持っていない。
一直線に切られた手首はかさぶたになりかけていて、シーツを汚す赤色は椋本の尻から流れ落ちていた。穴の周りは腫れて、触るだけでも皮が引き攣れているのが分かる。
涙の滲む目元は固く閉ざされ、ぺちりと頬を叩いてみても起きる様子はない。あちこちに血を振り撒いていたし、死んでしまったんだろうか。塞がった手首の傷を爪で軽く引っ掻くと小さく反応する指先に、生きてはいるのだと安心した。
人のベッドで、と言ってもここに連れ込んだのは俺なんだけど。死んだと思うくらい深く落ちていった姿を見ながら、脱ぎ捨てたパンツに押し込んでいた煙草を吸う。数本しか減っていなかったのに箱は潰れていて、取り出した一本もぐしゃぐしゃに曲がっていた。
葉っぱ本来の苦みと、部屋に充満した甘みが交じり合って部屋は歪んだ空間を生み出した。何もかもが一緒に煮詰まった場所はどこか混沌としていて、あれだけ嫌になって飛び出してきた実家に似ていると、思わず笑ってしまった。
経営者の父親に、箱入り令嬢だったらしい母親。一歳下の弟と五歳下の妹の五人で暮らすには贅沢過ぎるくらいに広い家だった。跡継ぎとして育てられたくせに俺は何をしても上手くできなくて、高校に上がる頃には弟が跡継ぎとしてちやほやされていた。
欲しいものは何だって与えてくれた。弟の誕生日に父親がプレゼントした玩具も、妹が強請って買ってもらったお菓子も、俺が欲しいと言えば全てが手に入った。
俺の物は俺の物、お前の物も俺の物。自分ならそれがいつでも成り立ってしまうんだと幼いながらに実感して、今でも疑うことなくずっとそう信じている。
欲求を満たされるまま生きてきた俺にとって、椋本は誰とも違う人間だった。大学で出会ったこいつは頭は良いしモテるくせして、当たり前のように欲しがらなかった。家族のことは大切だと笑っているのに、それが自分の物だとは露ほども思っていない。
稼いでいるのは母親かもしれないが、椋本だって自分のバイト代の半分以上を家に入れている。ルームシェアをする前は飲みの誘いも基本は断られ、土日の約束にあいつの名前が連なることもない。自分の全てを家族に与えているようで、返ってくる全てに期待していないように見えた。
欲しがらないことは、イコールとして何も望んでいないのだと知ったのもこのときだった。彼女を作ろうとしない椋本に、一々相手を探すのは手間がかかるんじゃないかと聞いたのがきっかけだ。面倒だと表情も変えずに淡々と言い放って、バイトに向かっていく後ろ姿はひどく淋しそうに見えた。
俺には椋本の考えがずっと、理解出来ないでいた。欲求なんてものはヒトを人間として完成させる最大の美点で、そこが無くなってしまえば人間として形を失くしてしまう。
俺は人間として生きて、人間という器をただ楽しんでいるだけ。欲求を持たないように、見ない振りをしているこいつは俺と違い過ぎる。
そう思うのに、椋本の隣は居心地が良い。
彼女に振られたと何の後悔もなく話せば、呆れたように刺されないといいなと笑ってくる。テスト前には勉強を見てくれて、久保や斎藤と一緒にアホな話で盛り上がる。
他人から見ればひどいと非難されるような話にも引くことこそあれ、もっとこうしたらいいのにと説教臭い言葉を口にすることもなかった。
頭を空っぽにしていても許してくれる相手を、自分以外と言う他人を、ずっと傍に置きたいと思ったのは初めてだった。椋本の隣を狙ってくる女は何人もいたけど、その誰にも譲るつもりはない。こいつの隣は、俺の物だ。
今まで付き合っていた彼女に望んだことは、ただセックスが気持ち良いかどうかだけ。力任せに組み敷いた男の体は気持ち良いとは言い難いけれど、これは自分の物だという悦楽で頭が焼き切れる。
恋愛とも、友愛とも違う。答えは知らないし考えるつもりもさらさらないが、それでもこいつは俺のだと、ただそれだけははっきりと言えた。
零れていく灰を床に散らせて、半分ほどに減った煙草を素手で握り潰す。じりじりと焦がれるような痛みは感じるものの、特別なんの感情も抱かなかった。痛みを伴う行為に好きも嫌いもなかったけど、何も欲しがろうとしなかった椋本が痛みを望んでいるのなら、それは俺が与えてやりたいと思った。
初めて椋本とヤってから、しばらくは何も変わらなかったように思う。大学では隣り合って講義を受け、お互いに寝るためだけに帰っている家では碌に顔を合わせることもない。今までと同じ、気負わずに話せる居心地のいい距離感だった。
だけど、椋本と斎藤が楽しそうに喋っている姿を見てそれも変わってしまった。笑い声に反応して振り向くと、珍しいほどに飾り気のない笑顔を斎藤に見せる椋本がいて、何だこれは、と心がざわついた。
呼び止める久保の声も、落ち着けと伸びてくる斎藤の手も気にならない。暴れる椋本を押さえつけるようにして連れ帰り、怯えを隠して睨み付けてくる視線にようやく落ち着いた。
俺の手の中に、震えを抑えて痛みに耐える椋本がいる。反り立った息子を塞ぎ込む穴に圧し入れて、先走りの白と切れて広がった赤を交じり合わせていく。ピンク色へと変わっていった潤滑剤代わりのそれは、日に焼けていない肌の上を卑猥に染め上げた。
ぐったりと力を失くして倒れ込む体を抱き締めて、かさぶたの取れ切っていない手首を撫でた。歪んだ一本線が増えていないことに嬉しくなる。
俺が痛みを与えているんだから、こんな傷を増やす必要はない。例え椋本自身であったとしても、その体に傷を付けることは許さない。
そう思って告げた言葉に、眠そうに瞼を揺らすこいつが納得したのかどうかは分からないままだった。
夏休みが終わろうと気温の下がった今も、ただ痛みを与えるだけの関係は続いていた。週に二、三度は逃げようとする椋本を捕まえて勝手気ままに腰を振り、俺の知らないところで傷をつけていないかどうかを確認する。
何を言っても止めようとしない俺に諦めがついたのか、途中からはゴムを投げつけてくるくらいで抵抗もしなくなっていた。
「ひぅ、ぅぁあ、あ!」
萎えて縮こまった息子を気まぐれに触って、少し膨れたところで我慢の限界が訪れる。添えるように触れていたものから手を離して、無意識にずり上がっていくのだろう腰を捕まえた。
穴の周りが濡れているのはかさぶたに成りきれなかった傷が開いてしまったせいだろう。赤を滲ませる場所に痛そうだ、と他人事みたいな感想が浮かんできて、それもすぐに消えていく。抵抗するように蠢く襞が敏感なところを擦って、出ていこうとすれば離さないと絡みついてくる。
女のものよりもずっと狭くて、慣れてきた今では随分と気持ち良く感じるようになった。椋本の痛みに耐える表情も、なんとか噛み殺そうと頑張っている喘ぎ声も、きっと興奮材料になっている。
抜いては入れてを繰り返すと、椋本の口からは甲高い叫びが飛び出してくる。耐えるように噛み締められた唇が赤く色付いていて、それが俺の目にはひどく美味そうに見えた。
「口開けて」
「んぁ、ぁ?」
蕩けていく赤に興味が湧いて、痛みに表情を強張らせる椋本にお願いをする。いつもの雰囲気とは違っていたのか、眉を顰めて唸った後に、ぱっかりと真っ赤に充血する舌を見せつけた。
嫌だと拒否されると思っていたのに、素直に従った姿を見て背筋になんとも言えない感覚が滑り落ちていく。弟の玩具を取り上げたときとも、妹が最後に残していたショートケーキの苺を奪ったときとも違う。じわじわと指先まで痺れるように広がった感覚に、ごくりと生唾を飲み下す音が大きく響く。
綺麗に並べられた歯の隙間から差し出される舌の赤さと、噛み締めたせいでぷくりと腫れあがった唇の赤。眩むような色の鮮やかさに、本当にただ、魔が差しただけ。
ちゅっ。どちらの唾液が音を上げたのか、それは分からなかったけれど、随分と可愛らしい音が鳴った。さっき食べていたサンドウィッチの味なのか、マヨネーズの味が微かに移ってくる。ちゅっ、ちゅ、と幼さばかりが目立つバードキスを繰り返し、満足してから唇を離していった。
「なに、してんの、」
吊り上がった鋭い瞼を真ん丸に開いて、ぼんやりと瞬きを打つ椋本は七歳下だという可愛らしい双子によく似ていた。俺に突き上げられていることも、貫くような純粋な痛みを感じていることも忘れて、ただ俺を見上げるしかない姿はどこまでも無防備だ。
「なんか、やりたくなって?」
「んだよ、それ。だったら気持ち良くしろや」
にっこりと笑って見せると、椋本は途端に機嫌を悪くする。曰く、俺の笑顔は胡散臭いんだと。女は大体これで落ちるんだけどなぁ、と言ってしまえば、それがまた呆れと諦念を生み出すらしい。
納得はいかないまでも、ここまでくると直しようもない。開き直ってにこにこと笑って、あれ、と首を傾げた。溜息を吐いて眉間の皺を引き戻してきた椋本は、何て返してきただろうか。
気持ち良くしろ、だなんて、痛みを欲しがっていたお前がそれを言ってしまうのか。
「なに、気持ちぃ方がいいの?」
「当たり前だろ。セックスなんざ気持ち良くてなんぼだ、バカ」
咀嚼しきれない言葉に聞き返せば、不機嫌さも隠さずに言い捨てられた。セックス、と舌の上で転がして、繋がったままの場所を見る。
ゴムを付けるだけで一気に無機質なものに見えてしまう俺の息子は、しっかりと椋本の中に入り込んでいて、狭かったはずのそこは俺の形に広がっている。萎んだまま垂れ下がっている椋本のものを見て、骨張った腰回りから腹、呼吸と共に上下する硬い胸へと視線を滑らせていった。
痛いのが好きなら俺が与えてやる。そう思って始めた行為は、確かにセックスとして完成されていた。だけどずっと、俺にはセックスをしているという実感がなかった。女とはさんざんヤり尽くした行為であるはずなのに、相手がこいつだからと勝手にそうじゃないと決めつけていた。
なのに、椋本はセックスだと言った。自分は揺さぶられるだけで白濁を散らしたことも、そもそも勃ち上がらせたこともないくせして、突き上げられるまま俺とセックスをしているんだと受け入れていた。
「ぅあ!?ちょ、むか、っぃ!」
胸に込み上げてくる感情のまま、萎えている椋本のそれに指を這わせる。ゆっくりと上下に擦って、亀頭を指の腹で苛めてやればすぐに硬度を増していく。
突然の気持ち良さに体をくねらせて逃げを打つ腰を掴んで、埋めたままの場所に少しずつ刺激を与えていく。ずるずると引っ張られる皮への圧迫感と、擦られて先走りを滲ませる快感に椋本はよだれを垂らして身悶えた。
逸らされた喉に噛み付いて、鳴き声を上げる口を塞いでしまう。舌を差し入れて上顎をさすってやれば、中がきゅう、と締まった。
「んぅ、ぁ!むか、それ、やぁあ!」
離れていく唇に名残惜しさを感じて、腹いせのように力いっぱい亀頭を抉ってやる。爪を立てて痛いくらいに弄ると、良すぎる快感に耐えられなかった椋本は勢いよく精液を吐き出した。俺の指を、自身の腹を汚していく白と、よだれと涙のせいでぐちゃぐちゃに歪めた表情が頭の奥を刺激する。
いつもは痛みに顰めた顔しかしないのに、今は痛いも気持ち良いも混ざり合って蕩けた表情を隠しもしない。だらしなく開いた口からは荒い息が漏れていて、涙の滲んだ目尻は煽情的にさえ映り込む。
椋本のことを可哀想だと思ったこともなければ、勿論可愛いと感じたこともない。それなのに、俺から与えられる痛みに耐えている姿は可哀想で、突然の快感に蕩けた表情をしているのは可愛いと思う。
可哀想で、可愛くて。それが俺によってもたらされた感情だと思うと、愛おしさにも似た優越感が胸のうちに広がった。
散らばった白濁を掬い取って、つんと尖った胸の尖りに塗り込んでいく。指の腹で潰すように押して、摘まんで突き上がった先端を爪でかりかりと引っ掻いた。
飾りでしかなかったはずのそこに与えられる刺激は快感に変わっていったのか、押さえたはずの腰は気持ち良さに揺れる。男でもここが気持ち良いだなんて、椋本も相当の好き者なんじゃないだろうか。
「やぁ、だ!そこ!やだぁ!」
頭を左右に振って嫌だを繰り返す口を、舌を突き入れて塞いでやる。籠った声は直接俺の舌へと移ってきて、吐き出される息の熱さに思考が焼かれていく。摘まんだ先を爪で引っ掻いて、力任せに掴んだ腰を引き付けるようにして雄を嵌め込んでいく。下生えが尻に当たってこそばゆいのか、離れていこうとする体を重さで押し留めた。
ぱちゅぱちゅと鳴り響く音はこんな関係になってから初めて聞いたものだった。今までは血と先走りの交じり合った液体だけを支えにしていたのに、吐き出されて垂れてきた精液も加わった今はいつも以上に滑りを良くしていく。
奥を目指して圧し込んだ先は、すぐ行き止まりへと辿り着いてしまう。亀頭に当たる壁は分厚くて、こつこつと当てるたびに折り曲げた椋本の足が宙を切る。だらしなく持ち上がった薄い舌を絡め取って、搾り取るように収縮を繰り返す襞の刺激で奥の壁へと欲をぶちまけた。
「んぁー、きもちぃー」
「はっ、はぁ、んぅ、ぁ、!」
全部を出し切ろうと腰を振って、満足した辺りで引いていく。二人の体に圧し潰されていた椋本の息子からも白濁が飛び散っていて、触ってもいないのに出せるんだと感心した。過敏になった体は抜かれていく刺激も拾ってしまうのか、息を整えようとして失敗している。
脱力しきった体を横たえて、胸を上下させて息を吐き出す椋本は知らない顔をしていた。よだれと涙と汗に塗れた顔は汚いはずなのに、赤く染まった頬も、潤んだ目元も可愛らしいと思ってしまう。
「きもちかった?」
「はぁ?ん、まぁ、きもちかったよ」
何て返そうかと迷って、それでも正直に気持ち良かったと答える椋本は可愛かった。性欲があるから女を抱いている、とどこか面倒臭そうに話していたこいつが、与えられる快感に善がっている姿は男に向ける感情ではないと思いつつ、可愛いと思わざるを得ない。
俺だけしか知らない、と考えて、ひどく気分が良かった。椋本に自傷癖があることも、男に組み敷かれて善がっていることも、俺だけが知っている。
ヤった後はいつも意識を飛ばしていたのに、今日はこうして話しかければ言葉を返してくれる。子どものように嬉しくなって、起き上がろうと膝を立てたところを覆い被さるようにして抱き締めた。
「うわ、もうなに、めんどくせぇ、」
「ぇへー、椋本とえっちしちゃった」
「うっわ、気持ちわりぃ」
ちゅ、と触れるだけのキスをして、嫌がる椋本の体を抱き締める。身長はそこまで変わらないはずなのに、環境のせいで少食になった体は俺の半分くらいしかないんじゃないかって心配になるくらいに平べったい。
弟妹にご飯を分けていたから、女と同じくらいしか食べれない。学食でも一番安くて量の少ないメニューばかりを選ぶから、胃が膨らむこともない。筋肉が付きにくい体は細いわけじゃなかったけど、俺に言わせてしまえば守りたくなるような切なさが詰め込まれている。
抵抗らしい抵抗もされず、満足するまでバードキスを繰り返す。リップ音が鳴るたびに椋本の体は反応して、そんな小さなことにも嬉しくなった。
「なぁ、心臓ってどっち?」
「……なに」
「いいから」
「……こっち」
痛いことを求めていた椋本は、気持ちいいことからは逃げなかった。痛みに歪んだ顔も気に入っていたけど、それ以上に気持ち良さに蕩けた表情の方を俺だけの物にしたいと思う。
指された場所は、少し左側に傾いた真ん中だった。そこまで左右に分かれているわけじゃないんだ、と初めて知って、人差し指に指された先に唇を当てる。頭の良い椋本がぽかんと呆けている間に、俺は歯を立ててそこに痕を残した。
キスマークなんかよりももっと痛々しい、内出血を起こした胸に、そっと指を這わせていく。さすがに心臓は取り出しようがないから、これくらいで我慢するしかない。
「お前さぁ、なにがしてぇの」
「んー?椋本は俺のだって、なんだっけ、名札?」
「はぁ?意味分かんねぇ」
すっかりいつもと同じ顔に戻ってしまった椋本を残念に思うけど、これからはいつだってあの顔が見れるのだと思うとどうでもよかった。
どんなに蕩けた女の顔も、狂った嬌声も、こいつとは比べ物にならない。椋本の納得出来ないままに善がった表情も、鼻にかかった甲高い叫びも、気持ち良さによじる体も、全部俺だけが見れて、俺だけが知っている。
付けっぱなしになったゴムの感触も、べたべたに汚れた体も今は気にならなかった。抱き締めていた体を腕枕するように体勢を変え、汗で前髪の張り付いた額にキスをする。
不満気に見つめていた椋本もヤった後で疲れていたのか、いつものことだと諦めたのか、俺に抱き込まれたままに目を閉じた。
五回目のキスを落とす頃には穏やかな寝息が聞こえてくる。死んだように眠っていた今までとは違って、夢でも見ているのかもごもごと口元が動いている。これも初めて見る姿で、だけれどこれはこいつの家族も知ってるんだよな、となんだか口惜しかった。
「お前は、俺の」
最後は赤く腫れた唇にキスを落として、射精後特有の気怠さに包まれたまま目を閉じる。痛いのも、気持ちいいのも俺が全部やるから、ちゃんと俺の物でいろよ。
椋本に感じていた居心地の良さも、違っている部分に寄せる好奇心も、言葉として知ると簡単なものだった。
*****
痛かっただけの行為がただ気持ちの良さも混じる余韻に変わって、数ヶ月が経った。吐き出した熱もそのままに抱き締められて、降り注いでくる唇にも、痕の付けられた胸にも訳の分からなさだけを募らせていく。
あの日からずっと、過ぎるほどの快感を与えられていた。セックスをしようと伸ばされる手を拒めなくて、ぼんやりと見上げた先ではいつだって向井が満足そうに笑っている。
反り立った雄を咥えられたり、出し切ってしまうくらい前立腺を弄られたり、男同士の行為について勉強したらしい向井から与えられるのは、快感を通り越して痛みに近かった。
「さっむ」
白んできた中を歩きながら、そっと昨日のことを思い出していた。日曜日だった昨日は家庭教師のバイトだけで、夕方には帰宅していた。ただいま、と実家からの癖が抜けていないせいで冷えきった廊下に話しかけ、羽織っていた上着を脱いでいるときだった。
一日中引き籠っていたらしい向井に部屋へと連れ込まれ、抵抗も空しく抱かれてしまった。途切れなかった彼女を作ろうとも、一回だけの相手を引っ掛けに行こうともしなくなった向井に抱かれるのは、今週でもう四回目だ。
奪われるようなキスに、頭の奥がくらくらする。変わらずに部屋を満たす甘い香りに、腹の底に熱が溜まっていくのが分かって嫌になった。
パブロフの犬だと、頭をよぎった思考に苦しくなる。向井の部屋でばかり抱かれているせいで、この甘い香りが行為そのものと結びついてしまっている。大学にいるときでも向井の匂いを嗅げば、腹の奥が熱くなって、胸がぎゅっと締め付けられてしまう。
吐き出して、吐き出されて。ぐちゃぐちゃになった体をベッドに沈ませた頃には日付が変わっていた。筋肉の厚い腕に囚われて、起きなきゃいけないと思いつつも体は動かない。
重くなる瞼にもういいや、と意識を手放そうとして、聞こえてくるのは眠気にまみれた呑気な声だった。
「俺の、ってなんだよ」
抱き潰されて薄れていく意識の中、向井は刷り込むように何度も、何度も繰り返していた。聞こえた言葉を憶えているときもあったし、完全に寝てしまっていて知らないときもある。だけれど、毎回変わらずに言っているのだろうと分かっていた。
最中には絶対に言ってこなかったし、普段の生活で漏らすようなこともない。あいつが勝手に思っているだけだから、と無視出来てしまえば良かったのに、最近では寝ても覚めても言葉の意味を考えている。
痛みだけだった行為に気持ち良さが加わって、俺だけを求めるようになったことが十中八九の原因だろう。ヤりたいだけなら女の子を相手にする方が絶対に気持ち良いだろうし、バイトでいついるかも分からない俺をわざわざ選ぶ理由なんてない。
なのに、あいつは飽きることもなく俺の手を取って、抱き締めてくる。二人分の熱が籠った布団の中は居心地が良くて、少しずつ少しずつ、自室へと戻る時間が遅くなっていた。
分からないな、と漏れた溜息は白く染まる。秋は始まったばかりだと言うのに、朝晩の冷え込みは冬らしく透き通っていた。長袖の綿シャツに覆われた腕を擦って、凹凸のない手首を握る。
ここも随分と長い間ほったらかしにしていた。切ったのは向井に見られてしまったのが最後で、そのときの傷も塞がってしまった。周りの肌よりも少しだけ白い一本線は目を凝らさないと見えないほどに薄く、古傷と混ざってどれだったのかさえ分からない。
貧血が起こるくらい派手に血が流れていったのに、治ってしまえば呆気ないものだ。湧き上がってきた痛みに、懐かしい気持ちにさえなった。
切れば、なんて、思ってしまった自分が馬鹿馬鹿しい。
分からないのは自分の気持ちも一緒で、どうして請われるままに体を明け渡してしまうのか。痛いだけだったときも、気持ち良さが優ってしまった今も、殴るなり蹴るなりすれば逃げられたはずだ。実家に帰ることだって出来た。
癖のように切り続けていたこともしなくなった自分自身に、いい加減焦れていた。
いっそ切ってみればいい。いつものように錆びてきたカッターで、滲む赤と突いてくる痛みを思い出せば、踏ん切りが付くような気がした。帰り着いても向井はまだ寝ている時間だ、邪魔してくるような存在はいない。自分の気持ちを整理出来さえすれば、次はこの爛れた関係をどうにか出来ると思えてしまった。
起きてきたら聞いてみよう。分からないことをずるずると考えるのは好きではなかったし、どれだけ頭を悩ましたところでバカの思うところなんて知るはずもない。幸いに今日は昼から一コマ授業があるだけで、一回サボったくらいで評価は落ちないだろう。
決めてしまえば白く透明に消えていく溜息も気にならなくなった。勝手に始められたとはいえ、きっかけを作ってしまったのは自分だ。俺のだと繰り返す向井も、それを拒みきれない俺も、行き着く先に届けばいい。
十月とは思えない冷気を身に纏って部屋に滑り込み、着替えも風呂も後回しにして仕舞い込んでいたカッターを手に取った。中学のときから使い続けているカッターナイフは馴染みも深く、ざわめいていた心が少しだけ落ち着いた。
シャツを捲って、晒された手首に刃を押し付ける。ぐっと力を込めて一息に引けば、途端に赤が滲んできた。ぽつりと浮かび上がった赤い玉は一つ、二つと数を増やしていき、気付いた頃には一本の線に繋がっている。
留まって垂れていくことをしない赤よりも、想像していた痛みが襲ってこないことの方が驚いた。力は込めていた、切れないほどの錆びじゃない。それなのに微かな痛みさえやってはこなくて、驚きの次には絶望が押し寄せてくる。
痛かった、はずなのに。大きな怪我も病気もしたことがない俺にとって、この痛みこそが一番だった。たった少し切り付けただけでも痛いんだな、と思って、だからこそきっと、これまでずっと続いていた。
なのに、一番じゃなくなった。一方的に与えられてきた痛みが奥底で響いている。貫かれた痛みも、抉られる気持ち良さも、向井によってもたらされたものが一番になってしまっていた。
「何してんの」
びくりと震えて、握っていたカッターが落ちていく。かしゃりと音を立てて割れてしまった先端が回りながら転がって、止まったのは素足を覗かせたドアのところだった。
「……今日は早起きだな」
「目ぇ覚めたんだよ」
振り向いた先には無表情を張り付けた向井がいて、落ちた刃先を眺めてからゆっくりと視線を上げていく。寝癖がついて跳ねた毛先はバカみたいで、だけれどかち合った視線には怒りとか憤りとか、暗く重たいものが籠められていた。
あのときと同じだ。迂闊にもキッチンという共同スペースで赤を滲ませ、それをこいつに見られてしまったときと同じ。全てを消し去ってしまうような無表情さはあの日を呼び起こすのに、瞳の奥に押し留められた深い感情は、出会ってから初めて目にするものだった。
一歩、二歩、と近寄ってくるたびに放たれていく感情に、見られてしまったことに対する諦めと、あの日感じた恐怖が襲ってくる。気持ち良さに慣らされた体がまた、痛みに貫かれてしまえば耐えられるとは思えなかった。
滲むだけだった血は、垂れることもなくかさぶたへと収まっていく。痛みよりもかゆみの方が強くて、向井がいなければ掻き毟っていただろう。
「やんなって言わなかったっけ」
「お前が勝手に言ってきただけだろ」
怒りを煮立たせるくせに、声には拗ねたような響きが含まれていた。無表情を押し込めて、それでもやるせなさを隠しきれていない姿は小さな子どもとよく似ている。欲しがった物を残らず手に入れてきた男の台詞とは思えないような弱弱しい響きに、感じていた怖さはすぐに薄らいだ。
「お前は俺のだろ」
仲の良い双子も、幼稚園に通っている頃はおもちゃの取り合いをした。やれどっちが取っただの、やれ向こうが長く使っているだの、俺たちからしたら可愛らしい主張でしかない。
今の向井も同じような様子で、溜息がこぼれ落ちてしまいそうだ。自分の意見が通ると経験上で知っている男にしては珍しい拗ね方だが、自分が当事者になっているせいで面倒臭さが募る。
「それも勝手に言ってきただけだろ」
「ちげぇ!お前は俺の!」
「……なに、好きなの、俺のこと」
駄々を捏ね始めたバカなガキに、思ったままを言ってやると張り付けた無表情が崩れていき、ぽかんと目を丸く開いた。音が鳴りそうなほど大袈裟に瞬いて、喉の奥から唸って、それでも答えは出なかったのかことりと首を横にした。
「好き、とは、違う」
ふと思い浮かんだことを言っただけなのに、なんだか似合わないほどに考えさせてしまったらしい。疑問符を混ぜた答えは俺にもよく分からなくて、早朝に頭を悩ませる羽目になってしまった。
俺のものだと主張してくる向井は、俺に対して友情以上のものは微塵も感じていないのだろう。それは俺も同じで、どれだけ好き勝手に痛みを与えられても、気持ち良さに浮かされてしまっても、こいつを好きだと思い込むことはなかった。
あくまでも向井と俺は友人同士だ。それ以上だと思い違うことはなかったし、疎遠になる未来も思い浮かばない。
ただ、久保や斎藤とは少し違う気がする。あいつらも友人で、何か大きなきっかけでもない限りはこのままの付き合いが続いていくだろう。だけど、久保とも斎藤とも、俺は一緒に住めない。最初こそ家賃無料に惹かれてルームシェアを始めたが、向井以外とは出来る気がしない。
「でも、お前は俺のだから。勝手なことはすんなよ」
伸ばされた手は頬を滑って、剥き出しの耳に触れてくる。柔らかく指で挟まれて、擽るように爪を立てられると喉の奥が低く鳴った。唇を尖らせた向井はさっきまで浮かべていた憤りを忘れ去ってしまったのか、思い通りにいかない相手を前にして楽しむようですらあった。
俺のだと、言われることに対して疑問がないわけではない。物のように扱われることにはムカつくし、自分の考えは当たり前だと胸を反らす姿には呆れを通り越して何も言えないし、俺の話も聞けとその耳を引っ張ってやりたい。
「具体的には?」
「だからぁ!勝手にこういうことすんのも、俺以外が隣にいんのも、知らないとこで笑ってんのも、ムカつくからやめろ」
それでも、照れることもせず赤裸々に語ってくるこいつに、知らず優越感が湧き上がってくる。散々勝手なことをしてきたのは向井の方なのに、こいつは申し訳ないなんて毛ほどにも思っちゃいない。
セックスだと言うようになった行為に籠められていたのは性欲の発散でしかなかったのだろうけれど、無意識に俺だけを選び取って囲うように傍に置きたがっていたのは、こいつさえも気付いていなかった本心だ。
擽っていた指が不意に離れて、無理矢理に引き寄せられていく。後頭部を抑えられた状態でのキスは逃げ場がなくて、あいだに挟まれた両手は縋りつくように寝間着代わりのTシャツを握るだけ。差し込まれた舌を甘く噛んで、注がれる唾液を懸命に飲み込んだ。
頭の奥が痺れて、与えられる快感だけを拾っていく。せっかく考えようとしていたことが散り散りに消えていってしまうような、感じてしまうだけ無駄な焦燥感に襲われた。
向井が感じているのは所有欲と呼ばれてしまうようなものだろう。小さな子どもが自分のぬいぐるみを誰にも渡したくないような、大人がコレクションとして部屋に飾り立てるような、そんな感情ときっと変わらない。
欲しいものは欲しいと遠慮なく言葉にこそすれ、沢山の物を手に入れようとはしていなかった。自分が欲しいと思った気持ちに正直なだけであって、ないものねだりをしているところは見たことがない。
欲しいと強請る感情が薄い俺にははっきりとした違いなんてものは説明出来ないが、本当に望んだものだけを後生大事にしているのだろう。
友人として隣り合っているだけで、自分もその中に含まれているとは思わなかった。
いつの間にこいつの中で、俺に対する所有欲を膨らませていったのか。ルームシェアに誘われたときだったのか、それとも気持ちの良いセックスをしたあのときだったのか。
もしかしたら、確かなものはなかったのかもしれない。
そう考えていくと、俺のものだと言われることにさえ気持ち良さを憶えてしまう。何の努力もしないで全てを手に入れてしまえるこいつが、俺には定まっていない感情を晒して必死に手を伸ばしてくる。
ただの勝手気ままな友人だと思っていたのに、伸ばされる手に居心地の良さを感じてしまえば後は溺れるだけだった。
「んぅ、ぁ、ぁんぅ、」
言いたいことがあるのに言葉の出口を塞がれて、昨日もまた付けられた胸の痕がじりじりと焦がれていく。
体を重ねるたびに噛まれるそこは、向井に聞かれて答えた場所。皮膚の中で一番心臓に近いとも言えるようなところを染める赤は、気付かないうちに付けられた所有の証だった。
バカで、ゲスで、ヤリチンで。どうしようもない奴だと思っていたはずなのに、突然浮き彫りにされた所有欲に口角が上がっていく。一番に成り上がってしまった痛みは、一生かかってもこいつにしか与えられないものだ。
向井が俺に手を伸ばしたように、俺も無意識に向井に手を伸ばしていた。気付いていない感情を受け入れて、戸惑いながらもこいつだけだと思っていたのだ。欲しいものなんて何一つないと信じていたのに、こいつだけは欲しいと、奥深くに眠っていた感情に気付いてしまえばもう駄目だった。
背中に回っていく自身の腕に驚いて、離されていく唇にはお互いの唾液が残っていた。動かない体を苦しいくらいに抱き締められたことはよくあったけれど、俺から腕を回したのはこれが初めてだった。
「なに、びっくりした」
瞬く瞳には欲が落ちていた。キスをして、雪崩れ込むように縺れていく行為を本能が憶えているのだろう。先を望んでいることは分かったが、今言ってしまわないと間に合わないと思った。
「俺がお前のなら、お前は俺のだよな?」
「……ふはっ、確かに。そうなるな」
「じゃあいいや、お前のでも」
「はぁ?なんだよ、それ。ムードねぇな」
「んなもん必要ねぇだろ」
好き合っているわけでもないんだから、と続けた言葉に、向井は不敵に笑うだけで何も言ってはこなかった。悪戯気に上がった口元に、緩んだ目尻だけで肯定しているのだと分かってしまう。
欲しいと手を伸ばしただけで、お互いに好きだと錯覚したわけではない。ただ、こいつの隣は自分だけだと望んでいるだけだ。与えられる痛みも、過ぎる快感も、こいつだけが俺に差し出してくるし、俺だけがこいつを受け入れてやれる。
たったそれだけの、所有欲染みた関係に名前が付くのかは知らない。お前は俺のだと、それだけ知っていればいい。
艶っぽく濡れた唇が近付いてくる。差し入れられる舌を甘く噛んでやって、撫でられる上顎に走る快感を追いかけた。
*****
四年に上がって、周りは一気に就活モードへと突入した。跡継ぎは弟だと決まってはいたが、それでも両親からは傘下の会社へ入れと言われている。バカな息子を目の届く範囲に置いておきたいんだろう。
父親の言いなりになるようで口惜しかったが、周りと同じように何十社と受けるのは面倒だし、手元に自分の物が残るのなら出来るだけ楽をしたい。椋本も一緒に入れてくれるなら、とそれを絶対条件に、俺は父親の言葉に従うことにした。
俺の我儘なんて今更だと呆れることさえしなかった父親に許されて、訳の分かっていない椋本に全てを話す。最初は驚かれたし、勝手なことをと怒っていた椋本も、早々に安定企業への入社が決まったことには安心していた。
俺も椋本も、四月に入る前からもう、しがらみから解放された勝ち組だ。
「むかいぃ~、なんで俺も一緒に頼んでくれなかったんだよ~」
不貞腐れて縋ってくる久保も、見られないように準備を進めていた斎藤も、揃って五月には終わっていたから別にいいだろうが、と笑ってしまう。しかも、二人の入った企業とうちとだったら、職種も方針も全く違う。
椋本との関係は変わったようでいて、何も変わっていなかった。授業のなくなった学校には遊びに行っているようなもので、卒業までの時間を惜しむように四人で集まってはアホみたいなことで盛り上がった。
時間が出来たからと三つ目のバイトを始めた椋本を引き摺って、肉の薄い体を抱き潰すことも変わらない。気持ちが良いとかぶりを振って逃げようとする腰を捕まえて、突き当たった先にまで押し込めば相当気持ち良かったのか、白目を剥いて意識を飛ばしてしまう。あのときはさすがにやり過ぎたと反省した。
俺の物だと、何のてらいもなく言い合って、どうしようもないと笑い合った。好きでもないくせに、自分の物だと信じて疑わない。いつか好きになるのだろうかと考えたこともあったけど、椋本相手に胸をときめかせている自分は想像できなかった。
死ぬまでこのままでいいと、寝物語に告げたときはバカだアホだと罵られ、それでも真っ赤に染まった椋本を可愛らしいと思った。手首を切らなくなった反動で痛くしてほしいと泣いて縋ってくるこいつを快感だけに漬け込んで、俺だけが知っているのだと優越感に浸る。
冗談でも何でもなく、死ぬまでこのままなのだと思う。陳腐な所有欲だけを溶かして交わり合った俺たちは、それに気付いたところで離れる自由は持ちえない。
いつだってお前の隣には俺がいて、俺の隣にはお前がいる。潮を吹いて気絶した椋本を見て、それだけでいいんだと心から思った。
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