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四章

二節

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 程なくして酒屋の老人はこの世を去った。老人の魂は太い尾を引いていた。しかしローレンスには回収通知が来なかった。ハデスに指名された別のタナトスが来て魂の尾を断ち切った。ローレンスの言動から情が移ったと察したイポリトが報告した所為だ。

 老人には一人娘がいたが既に他界していた。遠方に住む孫娘が葬儀を取り仕切った。年若い彼女は唯一の縁者だった。老人の希望で火葬を行った。孫娘は老人が愛した海へ遺灰を撒いた。主人を失った酒屋には孫娘が入り浸り、幼い頃老人と遊んだ想い出に浸った。

 夜遅くまで明かりが灯る酒屋の前を通る度、窓に浮かぶ影を見てローレンスは心を痛めた。小雨降る中、黒いレディを押し歩くが酒屋の前でどうしても足が止まった。孫のように接してくれた老人の魂を送りたかった。ある事件以来心を閉ざしたローレンスを慰め、光を与えたのが老人だった。

 ローレンスは一輪の白バラを取り出すと酒屋のドアに供えた。自己満足かもしれない。偽善かもしれない。それでも白バラはそこにあるべきだ。ローレンスはアパートの駐車場に入った。

 帰宅しソファでクッションを抱きしめテレビを眺めていると子供の泣き声が聞こえた。天井からだ。耳を澄ませているとイポリトが帰宅した。彼はリモコンを取り上げ、チャンネルを変えた。ニュース番組から映画番組に変わる。

「あんだ? また泣き声がすんのか?」イポリトは赤いライダースジャケットを脱ぐと黒い革張りのソファへ放った。

「うん、夜泣きかな? お母さんは大変だろうね」

「まさか。真上には誰も住んでねぇ筈だぜ」イポリトは酒とミネラルウォーターしか入っていない冷蔵庫から瓶ビールを出すと、歯に王冠を充てがい外す。

「じょ冗談だろ」ローレンスは強ばった笑顔を向ける。テレビには邪悪な子供が不安定な足場で作業する母親を殺害するシーンが流れていた。

「マジ。ってかじいさん、死神の癖に幽霊が恐ぇのか?」イポリトは瓶ビールを呷ると嫌な笑みを向ける。

「そ、そんな訳ないだろう」ローレンスはクッションをきつく抱きしめた。

「ホムンクルスやら悪魔やらと友人だわ、仕事で殺人現場に赴くわ、死神の始祖だわ、矛盾してねぇか?」

「管轄外の霊や極東ホラーは無理!」

「死神が何言ってんだ。阿呆か」

「だって霊は太い尾の魂が刈られずじまいで悪さをする難儀な物だろ! そんなもの手に負えないよ!」

 叫ぶローレンスを尻目にイポリトは鼻をほじる。

「仕事と私生活の感覚を分けるのは健康的だよな。極東ホラーは情緒があって淫靡だ。そういや極東にも誰も住んでない階上から夜な夜な物音が聞こえるって話があってだな」

「やめてくれよ!」

 涙を浮かべたローレンスはクッションを投げつけた。イポリトはクッションを受け止めると豪快に笑って自室へ入った。リビングに残されたローレンスは耐え切れず、イポリトを追いかけた。



 数日して酒屋のシャッターは下ろされた。孫娘が帰ったのだろう。シャッターに白バラの便箋が貼られ、店主の他界と閉店を知らせる旨が綴られている。ローレンスはそれを読むと黒いレディを押して大通りに出た。

 その日は仕事を早めに切り上げられた。ローレンスは以前から気になっていた焼き菓子の店に立ち寄り菓子を購入した。夕食時の店には客はいない。ショーケースの陳列は寂しいが仕方ない。これ以上早く来店するのは不可能だ。時間を外さなければ店内は御婦人だらけで一秒たりとも居られない。

 彼は女性が苦手だ。多くの女性も彼が苦手なようで死神然とした容貌を見る度に驚いた。彼も自分の顔が嫌いだった。従って黒いレディに乗らない時や雨天時以外はサングラスを掛けて容貌を隠した。子孫を望まないローレンスにとって女性は遠い存在でも問題は無かったが友人ともなれないと思うと寂しい事だった。

 帰宅したローレンスはキッチンに立つ。焼き菓子の箱を開きペットボトルからケトルに軟水を注ぐと火にかける。白磁のポットに水道水を注ぎそれを電子レンジで温めた。茶葉を出すと天井から子供の泣き声が聞こえる。彼は瞬時に肩を跳ね上げた。

 脳内でイポリトの言葉が鳴り響く。

 ──真上には誰も住んでいない筈だぜ。

 だったら何故天井から声が響き渡るのだろう。折角美味しいお菓子を買ったのに。ステュクスに避難しても後でイポリトに馬鹿にされるだろう。かと言って痩せ我慢してお菓子の味が分からずいい香りの紅茶を楽しめないのも嫌だ。

 歯の音が合わないローレンスが涙ぐんでいるとケトルが音を立てる。彼は肩を跳ね上げた。コンロのスイッチを切ると決心をした。真実を確かめよう。安心してお菓子を味わえない。人が居なければステュクスに駆け込みパンドラに新居を手配するよう頼めばいい。

 決心すると震えていた体に力が戻る。彼は黒いレディのキーを取り水色のマフラーを巻き、ライダースジャケットを羽織る。そしてヘルメットを抱え、家を飛び出した。

 階段を駆け上がり四階の部屋の呼び鈴を押す。しかし反応はない。

 もう一度呼び鈴を押し一分程待った。臆病者のローレンスにとって一時間にも感じられる一分だった。今度も反応はない。叫びたい衝動に駆られたが口を押さえて必死に思考を巡らせる。幽霊部屋を肯定すれば階下に死神二柱が居を構えたと言う事になる。部屋を手配した聡明なパンドラがそんなミスを犯すだろうか。いやしまい。

 彼はパンドラに全幅の信頼を寄せていた。何百年か年下だがしっかり者の彼女はいつでも彼の悩みを受け止めた。他の女性のように彼の死神然とした容貌を厭わなかった。優しい姉のようだ、とローレンスは心から尊敬していた。

 パンドラがミスを犯してない事を立証するべく、件の部屋に入る決心をした。右手のグローブを外して包帯を解く。暗闇で光る青白い眼と同じく、死神の証の爛れた皮膚が覗く。

「……お邪魔します」

 律儀に挨拶すると右手でドアに触れる。ドアは水面のように波紋を広げる。手を差し込むと体を突っ込んだ。

 問題の部屋は暗かった。スイッチを入れても点灯しない。グローブを嵌めると携帯電話のライトをオンにした。光の筋が辺りを照らす。脳内で鼓動を聞いていたが泣き声に阻止された。リビングからだ。足音を忍ばせリビングと廊下を隔てるドアに近付くと少し開く。暗いリビングに雑然と家具が置かれているので泣き声の在所が分からない。ドアを広く開けたローレンスはリビングを照らす。床に物が散乱しているので気を配りながら歩いた。

 テーブルの下で二人の子供が身を寄せ泣いていた。幼児だ。瓜二つで男児と女児だ。頬が痩けている。しっかり者の女児がすすり泣く男児の頭を撫でている。女児はローレンスに気付くと瞳を細めた。彼女はローレンスの青白く光る不思議な瞳を見つめる。

「あ、ごめん。眩しいよね」

 ローレンスはライトを天井に向け二人の幼児の前で胡座をかいた。

「僕はローレンス。君達の名前は?」ローレンスは優しく問うた。

 男児は泣き続けていた。女児はローレンスを見つめていたが口を開いた。

「……ユウ」

「そっか、ユウって言うんだ。素敵な可愛い名前だね」ローレンスは微笑む。

「……あ、りがとう」ユウははにかんだ。ブロンドの長髪をくしゃくしゃに絡ませていたが琥珀色の瞳が美しい女児だ。

「偉いなぁ! ちゃんとお礼言えるんだね! ユウはしっかりしてるね!」容貌を見られた女性に短い悲鳴をあげられるローレンスは、ユウに気を良くする。

 ユウは照れて俯いた。無我夢中で泣いていた男児は男の声がしたので椅子の脚に隠れた。

「男の子のお名前はなんて言うの?」ローレンスは囁き問う。

「……リュウ。弟なの」

「リュウって言うんだ。かっこいい名前だね!」

 リュウは頭を横に振った。

「おどかしちゃったね。ごめんね、リュウ」

 仏頂面のリュウは椅子の脚からローレンスを窺う。

「嫌われちゃったかな。ねぇユウ。僕達お友達になれないかな?」

 頬を染めたユウはローレンスを見つめていたが小さく頷いた。

「わぁ! 良かった! 嬉しいな! ねぇユウ。パパとママは何処に居るの?」

「……分かんない。帰って来ないの」ユウは表情を崩しローレンスを見つめる。瞳に涙を浮かべたが泣くのを堪えた。

 歯を食いしばるユウをいじらしく思い、ローレンスは優しく引き寄せて抱きしめた。
「大丈夫。泣いて良いんだよ」

 ローレンスは彼女の頭を撫でた。長い間風呂に入っていないのかすえた臭いが漂う。しかし構わず撫で続けた。ユウは肩を跳ね上げたがローレンスに気を許して涙を流した。抱きしめられるのは久し振りだった。

 ローレンスはユウを抱きしめ考えた。この姉弟は放置子だろう。電気が点かない家に子供だけ留守番するなんて変な話だ。これでは死んでしまう。

 ひとしきり泣くとユウは腕の中で眠ってしまった。ローレンスは彼女を静かに床に寝かせた。緊張して今まで気付かなかったが部屋が冷えきっている。月捲りカレンダーも次ページが無くなったばかりだ。水色のマフラーとジャケットを脱ぐとユウにかけた。

 リュウは相変わらず椅子の脚に隠れ震えていた。

「ねぇリュウ。お姉ちゃんと君はご飯を食べているのかい? 何処で寝ているのかい?」

 リュウは首を横に振るとぶっきらぼうに『ここ』と答えた。

「直ぐに戻るから、お姉ちゃんを守ってくれないかな?」

 リュウは顔をしかめてローレンスを見つめていたが小さく頷いた。

「偉いぞ。流石男の子だ。君は騎士だ。頼んだよ」ローレンスは微笑むと立ち上がり、双子の部屋を後にした。

 自宅に戻ったローレンスは熱い紅茶を水筒に淹れると焼き菓子と共に紙袋に入れた。パンドラから貰ったホルダー付きキャンドルと非常用のライターも紙袋に詰める。二人を保護したかった。しかし未成年者略取になりかねないので衝動を堪えた。事を起せばハデスに認められたランゲルハンスとの契約も泡になりかねない。メモ帳を破ると外泊する旨を記してソファの側のコーヒーテーブルに置いた。そして毛布を抱え紙袋を提げて家を出た。

 双子の部屋に戻るとユウが水色のマフラーを抱きしめ彼を探していた。か細い声でおにいちゃん、おにいちゃん、と辺りを見回す。リュウはユウの服を握り締め、彼女を暗闇から騎士のように守っている。短時間で姉弟の役割が逆転したなと微笑むとローレンスは携帯電話のライトを点けた。

「待たせてごめんね。ユウ、突然居なくなってごめんね。リュウ、お姉ちゃんを守って偉いね」

 二人はローレンスを見ると笑顔になった。

 テーブルの側で胡座をかいたローレンスは側に寄った二人に毛布を掛けた。そしてキャンドルに火を点け、テーブルに置く。部屋が仄明るくなり双子の表情が柔和になる。微笑んだローレンスは水筒のコップに紅茶を注ぎ、息を吹きかけてユウに渡した。姉のユウは弟のリュウにコップを差し出した。リュウは当然のように手を伸ばそうとした。

「レディファースト」二人は優しく窘められた。彼らは不思議そうにローレンスを見つめた。

「レディ・ユウ、貴女からお茶をどうぞ。リュウ、君はお姉ちゃんの騎士だ。お茶の順番を譲れるかな?」

 リュウは力強く頷いた。ローレンスはリュウに拳を差し出した。リュウは不思議そうに眺める。

「リュウ、ほらグーを握って。僕のグーと合わせるんだ」

 リュウは拳を握るとローレンスの拳と合わせた。

「これなあに?」

「男同士のあいさつさ」

 微笑んだローレンスは空のコップを受け取ると紅茶を注ぎ、息を吹くとリュウに渡した。そして焼き菓子の箱を取り出すと蓋を開け二人にマカロンを見せる。甘い香りが漂う美しいマカロンに二人は瞳を輝かせはしゃいだ。

「こらこら、夜だよ。静かにしようね。さてユウは何色のマカロンにする?」

 小首を傾げてユウが悩むので先にリュウに選ばせた。リュウは迷わず黄緑色のマカロンを取った。再びユウに選ばせたが悩むので『全部二人で食べて良いんだよ』と諭した。それでもユウは悩む。マカロンを喰い入るように見つめるリュウを待たせても可哀想だ。ローレンスはベビーピンクのマカロンをユウに渡した。

「可愛いピンクならユウに似合うね!」ローレンスは微笑む。ユウはマカロンと同じ色に頬を染めて微笑んだ。

 マカロンを平らげ、熱い紅茶を飲み干し、双子は舟を漕ぐ。ローレンスは彼らを抱き寄せると毛布に包まり夜を明かした。ユウはずっと水色のマフラーを握っていた。

 日が昇り、朝日が瞼に当たるとローレンスは目醒めた。寝ぼけ眼で天を仰ぐと自室とは違うシミだらけの天井が見える。ここは何処かと自問する。腕の中で眠る姉弟に気付くと階上の部屋で寝泊まりした事を思い出した。

 ローレンスは姉弟を起さぬよう上体を起こす。物が溢れた部屋には脚がぶら下がっているのが見えた。テーブルに尻をつき腕を組み凄まじい形相をするイポリトの脚だった。

「……何故ここだと分かったんだ?」ローレンスは口内の粘つきに不快感を覚えつつ問う。

 テーブルから降りたイポリトはローレンスの胸倉を掴み肉薄した。

「いい加減にしろ。一時の情に流されたらどれだけの奴らが迷惑被ると思ってんだ」

「……なんだよそれ。僕はもう何もしないしまだ何もしてないだろ」

 イポリトは爛れた右手でユウとリュウの頭に素早く触れる。死の切っ掛けを与えた。

「何するんだよ!?」ローレンスが叫ぶと双子は目を覚ました。何も無い宙を睨むローレンスを彼らは寝ぼけ眼で見つめる。

 イポリトは携帯電話の液晶をローレンスに見せた。近日中の死亡者リストにユウとリュウの氏名、画像が載っていた。ローレンスは唇を噛み締めた。

「情に流され易いじいさんには幽霊部屋ってパチこいたんだよ。酒屋のじじいの時もじいさんが喰い付いたから報告した。辛い思いをするのはお前じゃねぇ。お前に情を掛けられ死んで逝くガキ共だ」イポリトは鼻を鳴らすと出て行った。

 ローレンスはユウとリュウを抱き寄せると涙を流した。人の世の喜びも悲しみも知らずに幼い子供達が死んで逝くなんて。やり切れなくなった。突然泣き出したローレンスにユウとリュウは戸惑った。静かに泣き続ける彼の頭や背を優しく撫でた。
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