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七章「最後の希望まで、あと」

15.開幕、魔王降臨

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◇ダイン視点


 当日。
 今夜が満月だ。
 研究員らは、儀式はしない腹積もりだ。今回は見送り、当分は魔族の増殖計画により力を注いでいく方針だろう。ボスを含めて、俺たち戦闘員もその方針に従う体でいなければならない。
 夜までだ。満月が近づくまで、悟られてはならない。

 研究員とボスが話し合っていた。ボスは了承を示したふりをする。
 儀式に必要なものは、すでに外に運び出してある。魔族がいるのであれば、古代の環境を再現するための装置の大半は不要になる。儀式の間に誰も近寄らないことから、勘づかれる確率は低いだろう。
 当然ミリアとクロウにも接触しない。変なことをされないか、常に気を配らせてはいるが。
 あとはこのまま、夜まで待つだけだ。

「ついに……ついに……ついにだ……」

 お世話のためにボスの部屋に行くと、ボスは窓に向かって開放的な姿になっていた。

「あぁ……なんと、なんと、なんとッ……! このような天運に恵まれるとはッ……! 精霊様にお近づきになれるやもしれぬ……もしお声を聞くことができるのであればッ……あぁッ……! なんということ……! 私はこの日ために生きていたのだ……! 天運は我にあり!」

 ボスは全裸で体をよじっている。そうすると皮膚がボロボロと剥がれ落ちている。

「身を清めたほうがいいでしょうか……身なりはどう整えれば……どのような姿が相応しいのだッ……! あぁあ決して不敬があってはならない……」

 髪も抜け落ちて、動けば動くほど、みすぼらしい姿になっていく。もう限界も限界なはずだ。冗談抜きで無駄な動きをしないでほしい。
 でも、前までのボスだ。これが平常だ。戻ってきたという安心感もあるが、久々に見る奇行に耐性が落ちているのか若干ビビる。

「なんでもいいから服は着といてね……」

 このボスでいてほしいとは思ったが、そう急にチェンジされると戸惑うし、あとやっぱり体が心配でヒヤヒヤする。
 でもこの喜びよう。精霊への愛や信仰心は本心だったんだ。
 なら俺も、よりがんばれる。絶対に、成功させる。ボスに、本物の精霊を、拝ませてやる。

 部屋の掃除をする。
 建物ごと〈聖下の檻〉は放棄されることは、もう決まっている。だから掃除しても無意味なのはわかってるけど、気分の問題だ。最後くらいは、きれいな見た目にしておいてやりたい。
 散らばった物を片付けていると、床に枯れ葉が落ちているのを見つけた。顔を上げると、窓辺に置いたままの植木鉢が目についた。
 そういえば、まだ処分してなかったのか。面倒くさいだけなんだろうけど、枯れた植物はちょっと景観が悪い。
 引き続き踊ってるボスを振り返る。
 ……花。ボスにとっては、それ以外のもの。

「あのさ、ボス」

 鉢植えに顔を向けたまま、聞いてみる。

「これ。どうせ枯らすってわかってたくせに、なんで受け取ったの?」

 指を差す。踊っていたボスが止まった気配がした。
 この沈黙は、今でもやっぱり、少し怖い。

「……知っていましたか」
「え」

 返答ではなく、驚きのような声に、振り返る。
 そうだった。これがミリアから受け取ったものだとは、本人からは聞いていない。俺が知らないと思ってたんだろう。

「お嬢さんから聞きましたか?」
「ああ、いや。まあ。そんなん」

 曖昧に濁す。なんで言い訳みたいな答え方してんだろうな。
 なんだか変に探りを入れるみたいな聞き方になってしまった。ボスは黙って首をぐりぐり捻っている。
 正直、はっきりした理由が聞きたかったわけじゃない。なんとなく、ボスは何を思って受け取ったのか、ボスの口から聞いてみたいだけだった。

「嫉妬ですか?」
「へっ」

 思いもよらない質問返しに、処分しようと掴んだ植木鉢を落としそうになった。

「なにそれ……。いや、ごまかさないでよ」
「……違いましたか。ふむ」

 ボスは再び考え事をするかのように、顎に手をやっている。
 ……なんかこんなやり取り、最近もしたばっかだな。なんなんだろうか。

「受け取ったのは、ただの気分ですかね。気が向いたのでしょうね。そのときは。おそらく」

 ボスからの返答が一応返ってきたが、そんな程度だろうとは思ってたし、それ自体はどうでもよかったけど。
 ……嫉妬て。

「そうだ、ボス。もし本当に精霊様に会えたらさ。最初になんて言う?」

 話題を変えるように、冗談混じりで聞いてみる。
 叶うかどうかは誰も知らない。ただ夢物語を繰り広げるような、童心に返ったような気持ちだ。
 ボスは鳥が喉を絞められたような短い奇声を発した。かと思えば頬を上気させながら自身を抱くように体をよじってわなわなと震え、くわっと目を見開いた。

「言う……言うッ……! 言うとはなんたる無礼者かッ……! そのような夢想を語るとはなんたる驕慢か惚け者かァァお目にかかることさえ恐れ多く身に余るというのにィィなぜわからぬ理解が浅いのだ不心得者めなぜ畏敬の念が培われておらぬのだァァッ!」
「ごめん、ごめんって。あといいかげん服着て」

 ボスは地団駄を踏んで暴れている。呆れたような、力の抜けた笑いが漏れる。
 悪いけど、これだけ一緒にいても、どう転んでもやっぱり俺は精霊信仰には染まれない。でも精霊を愛するボスの悲願は叶えたい。隣に立ちたい、と今までがんばってきたんだ。

「ボス。俺、がんばるからさ。もし、儀式の結果が失敗に終わっても……」

 それでも儀式の成功確率自体は、俺ががんばってもどうにもならない部分だ。
 俺ができるのは、儀式の前まで。その後のことは何も助力できない。
 儀式までは無事に事が運んだとしても。
 もし、儀式は不発に終わり――精霊は見られなかったのだとしても。

「……死ぬまで、仕えさせてくれるかな」

 ボスの悲願は叶えられなくとも、俺は側に置いてもらえるんだろうか。ふと、そんな不安が過った。

「……あなたは……」

 ボスはぴたっと止まって何か言いかけた。が、首をぐりっと捻ると、何かに思い当たったように、ピンと背筋を張った。
 あえてのように、言うことを変えた。それを感じ取った。

「ええ。無論です。最後まで期待していますよ、ダイン」

 なんだか、今までの期待とは、違う響きに聞こえた。
 高揚するような気持ちがない。今のボスは、俺と同じ目線の高さに立っている。ボスは、もうボスじゃない。だからボス呼びも変なんだろう。でもやっぱりボスは、死ぬまで、俺のボスだから。

「……ごめん。やっぱり忘れていいよ」

 あえてボスとしての態度で返されたのだろう。それを悲しいとは思わないけど、嬉しいとも思わない。特別な感慨さえ湧かない自分に、驚く。
 だったらどう受け止めればいいんだろう。
 ……先行きが暗くなることを、今わざわざ考える必要はないか。
 なんとなく、処分しようと思った鉢植えは元通り窓辺に置いておいて、黙々と部屋の掃除を続けた。
 いつもどおりに。普段と変わらないままに。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 夜。見回りから空の様子を聞く。もうじきだ。
 満月が出る時間が近づいている。研究員は、やはり気づいていない。警戒すべきは儀式の間回りだけだと思っているんだろう。外で儀式ができるなど、露ほども思っていないはずだ。
 クロウには合図のための石を持たせてある。合図をしたら、あとは、呪術の部屋まで突っ走ってもらう。最初の仕組みは解除してあるが、地下へ続く扉は自力でなんとかしてもらうしかない。
 クロウがどれだけ早くたどり着けるかに、俺たちの命がかかっている。

 それぞれが担当の配置についた報告を聞く。ボスは自室ではなく、すでに避難しやすい場所に移動している。普段から放浪癖があるから怪しまれることもないだろう。ミリアの避難も、それから地下牢にいるマチの救出も分担してあたる。
 戦闘員すべてに計画を伝えたわけじゃない。何も知らない下っ端は、突然の非常事態に混乱するだろう。研究員に無茶な命令を下されて逆らえなくなる可能性もある。
 研究員連中とはさっさと切り離して、全員を敷地外の避難場所に逃がさなければならない。そして控えているのはクロウとの戦闘と、降臨の儀式だ。
 決行時間が刻一刻と近づく。タイミングを見計らう。今日まで、下準備は積んできた。大丈夫だ。
 〈聖下の檻〉を捨て、ボスの――アデル様の悲願を叶えるために。戦闘員全員の命を背負って。
 時間だ。
 進もう。前へ。

 魔術士に指示を出す。
 クロウに合図が送られる。魔力が送られて、クロウに持たせた石が割れたはずだ。
 クロウが動いて、地下扉が突破されるのを待つ。異常があると、何よりも優先されて特殊な警報が鳴る仕組みになっている。
 地下扉の警報は解除していない。異常事態だと全体に知らしめることが開始の合図になる。
 仕事部屋で、普段通りに、何も知らない体で、騒ぎが起きるのを待つ。
 やがて、震動が響いた。建物自体が揺れた。
 直後、けたたましく警報が鳴り響いた。
 相当派手に壊したんだろうか。いきなり内部が揺れると、わかってたのにちょっとビビるな。
 そんなことはいいか。もう始まったんだ。
 ――行こう。
 壁に立て掛けていた太刀を、手に取った。

 警報に反応したふりをして、仕事部屋を出る。
 クロウは無事に扉を破壊し、突破したのだろう。あとは、クロウが呪術の部屋にたどり着くまでだ。信じて任せるしかない。俺には俺でやることがある。
 研究室のほうからは、早くも慌ただしく研究員たちが出てきていた。

「なんだ、何が起きてる!」
「この警報の音……! まさか、地下か……!?」

 などと騒ぎながら集まっていると、再度、建物に震動が走った。
 クロウが呪術の部屋に向かっているんだろう。建物自体に対魔術用の防護や衝撃用の耐久は施してあっても、地下を直接叩かれる震動にはどれだけ耐えられることか。

「敵襲……いや、これは……」
「まさか、あの魔族っ……!?」

 研究員は、すぐさま件の危険生物に思い当たる。俺に詰め寄ってくる。

「だが拘束が外れた警報は鳴らなかったぞ! 突然内部に敵襲などあるわけがない! どういうことだ!」
「ダイン! 状況を説明しろ! なぜ地下の警報が鳴っている!?」

 警報の種類からして、呪術に続く地下を狙われたことはすぐにわかるだろう。そして今、内部で騒動が起こるとなれば、あの魔族の仕業が真っ先に思い当たる。
 だがなぜ地下を的確に狙われたのか。研究員は焦りを怒りとして俺にぶつけてくる。

「俺にもわかんねーよ。様子を見てくる。あんたらは早く避難しててくれ」

 実際、仕組んでなければ今すぐ答えられるわけはない。
 研究員たちは、まとめて内部に設置してあるシェルターに押し込む予定だ。組織が襲撃された際の緊急時の避難所だ。外に避難するよりも安全、という認識だろう。保身第一なら真っ先に逃げ込もうとするはずだ。これなら簡単に分断できる。

「待て! もしあの魔族が脱走したというのなら、ダインの近くが一番安全じゃないのか!」
「地下に入られてるんだぞ! もし呪術が潰されたらどうするつもりだ!」
「そんなことより俺たちの安全を確保するのが先だろうが!」

 研究員たちは意見が分かれて早くも内輪揉めしている。俺を護衛に使おうとされたら厄介だな。早くシェルターに移動してくんねえかな。
 こいつらなんかとは別れて、早く戦闘員らと合流したいところだ。今の状況が知りたい。

「報告! あの魔族が脱走し、呪術の部屋に向かっている模様! このままでは呪術に到達されるのは時間の問題かと……!」

 計画を知っている戦闘員が、伝令のふりをして走ってきた。
 助け船だ。研究員は一気にますます騒然とする。

「急いで止めろ! 死ぬ気で止めろ! 絶対に呪術を守れ!」
「でなければ死ぬのは貴様らだぞ! 動かなければ今この場で殺してやる!」
「なぜ魔族を逃がした! ダイン、貴様、ぬかったか!?」

 俺への非難も飛んでくるが無視。伝令にきた戦闘員に奴らの誘導は任せて、俺は急いで地下に向かって走り出すふりをする。
 途中、別の戦闘員に、研究員がシェルターに向かったことを伝達する。奴らに気づかれないように、魔族の対応にあたっているふりをして、全員を外に脱出させる必要がある。
 ボスたちはすでに外に脱出済みだという報告を聞く。あとは残りの戦闘員の誘導だ。
 通路を走る。震動が響いている。地下がどうなっているのかはわからないが、このままなら崩落するのは時間の問題かもしれない。

「ティナ! 状況は?」

 ティナの姿を見つける。ティナは俺を探していたのか、急いで駆け寄ってくる。

「順調に避難できてるわ。でも、フィリスの姿が見当たらないの」

 大半の戦闘員は無事に誘導できているようだが、フィリスの姿が見当たらないという。
 フィリスはたしか、漏洩を危惧されて、何も知らされていない下っ端分類だったはずだ。
 前に見せしめとしての呪術を食らった上に、魔族の餌として実験的な利用をされそうになっていた。誰よりも不安を抱えて過ごしていたことは知っている。フィリスの様子を思い出すと嫌な予感がして、ティナは探しに戻ってきていたらしい。

「ティナ、おまえももう避難しろ。あとは俺が見てくる」
「えっ!? でも、ダインは……!」
「いーから。もしあとでおまえが逃げ遅れた報告なんか聞いたら祟るぞ」

 ティナは止めようとしたものの、勢いに押されてか頷いた。
 クロウとの戦闘が控えてる。主戦力の俺がやるべきことじゃない。でもたぶん俺が一番身軽だし、何があっても自力で脱出できる。
 フィリスの他にも残ってる奴はいないか、自分の目で確かめないと安心できない。逃げ遅れて、巻き添えなんて、絶対あっちゃならない。

 ティナと別れる。フィリスの姿を探して、再び走り出す。
 いそうな場所から当たるべきか。けど救護室にはいなかった。共有の設備か、あとは個室か。
 でも、こういうとき、ああいうメンタルの奴って、なんでか意味のわからない場所に身を潜めてるもんなんだよな。
 普段は人なんかいない場所。思いもよらないような、一人きりになれるような場所……。
 中庭を通り過ぎようとする。ミリアが世話をした花が、まだ咲いてる。
 もし建物が崩落したら、ここも巻き込まれるだろう。
 べつに植物自体はどうでもいい。色鮮やかなのはきれいだ、とは思うけど。保存しておきたい、とまでは思わない。
 ただ、ここにいた証が。ミリアが手を加えた証が消えてしまうのは、嫌だな、とは思うけど――

「……! フィリス!?」

 急ブレーキを踏む。
 中庭の角っこ、物が雑然と置かれた物陰に、人の頭が見えた気がした。
 時間がない。窓を割って、中庭に飛び降りる。
 物陰で、今にも消え入りそうな雰囲気で、フィリスは膝を抱えて縮こまっていた。

「何やってんだ、馬鹿……」

 無事見つかった。よかった。喜ぶよりも呆れた声が出るけど。
 安堵してる暇もない。フィリスは顔を上げない。震える声で呟く。

「ここ、もう、終わりなの……? 私どうしたらいいの? どこにも行きたくない……! 頭領……私、見捨てられて……見限られて……」
「……頭領はもう外に避難してるよ。俺らと一緒だ」
「え……?」
「逃げるぞ。ここはもう危ない」

 状況を呑み込めないままのフィリスを、強引に抱え上げる。いつ崩れるかもわからない屋内を移動するのは危険だろう。そのまま屋根に飛び移る。
 ……保存しておきたい、とまでは思わない。
 でも。それでも。俺の育ちの場所は、ここだ。ここで人生のほとんどを過ごしてきた。
 建物自体も、もっと言うなら〈聖下の檻〉自体も、どうでもいい。
 それでも。俺の生きた証が、ここには、詰まっている。

 一際大きな震動が起きた。
 屋根、もとい足場が崩れた。危うく巻き込まれて落下するところだった。俺一人ならともかく、今はフィリスがいるから安全第一に進まなければ。
 外の避難場所までは、このまま屋根を伝っていけばたどり着ける。戦闘員としての身体能力があればそう難しいことじゃない。崩れた足場を飛び越えようとする。

「ダイン! 貴様、そんなところで何をしてるッ!」

 不意に、真下から、窮鼠のような声が響いた。
 崩れた箇所を見下ろすと、研究員が数人そこにいた。俺を見上げて癇声を上げている。

「どういうことだ! シェルターが崩れた! あそこは絶対安全じゃないのか!!」
「脱出経路も先が塞がれてる! 不備じゃないのか!」
「外にはあの怪物がいるんだろう!? 俺たちはどこに逃げればいい!」

 そうか。ここ、シェルターに続く通路だったのか。
 シェルターが崩れた……。ああ、そういえば。シェルターはべつに使わないよな、と戦闘員たちと話した記憶があるような。
 誰かが脆くする仕掛けでもしていたのかもしれない。崩れたから慌てて通路まで逃げてきたってところだろうか。まあ、もう、関係ないけど。

「手を貸せ! 降りてこい! 俺たちを守れ! でなければ――!」

 研究員が手を前に出す。
 腕に抱えたフィリスが、ひっと悲鳴を上げる。体を固くして縮こまった。
 呪術を使う気か。
 まずい。なんでこんなタイミングで、俺はフィリスを連れてるんだ。
 俺は攻撃されることはない、とたかを括っていた。これじゃあまた――

「……、あ、あれ……?」

 ふとフィリスは、間の抜けた声を上げた。自身の呼吸を確認するように、胸に手をあて、何度も息をついている。
 ……発動しない。
 呆けているフィリスと、まだ事態を把握していない研究員とを、交互に見やる。
 ああ。そういうことか。
 無事、済んだのか。クロウは、最初の目的を達成してくれたんだ。
 ならもう、喰われた、のか。
 よかった。それなら、これで。
 ……もう妹は、人を殺さなくて済むんだ。
 フィリスをぎゅっと抱えなおす。なら余計に、こんなところでぐずぐずしてる暇はないな。

「――知らねえよ。自分たちの身は自分たちで守れ」

 研究員たちにふいと背を向ける。
 シェルターもない、戦闘員たちも従えられない。こんな奴らを自主的に助けようなんていう奴もいない。
 呪術さえなければ、こんなにも滑稽な。こいつらは、もう終わりだな。研究員の必死な声が、背に浴びせられる。

「なぜ! クソ! チクショウッ! なぜ呪術が発動しないッ!?」
「俺たちを守るのがおまえの役目だろうがッ!! どこへ行くつもりだッ!」
「貴様らに居場所などない! 外で生きていけるわけがない! いいから俺たちを守れ! 下っ端はいくら死んでもいいんだからよぉぉ!」

 まだ何か喚いているが、崩壊していく建物の上を、走り去る。
 ここが、育ちの場所。俺の生きた証が、詰まってる。

「……そんなもの自分たちで見つけるよ」

 でももう、そんなのにこだわったってしょうがないことはわかったから。
 ここに従うのが生きる術。ここが生きる場所。
 リカルドもそう言っていた。そうだった。でもそんなのは洗脳みたいなもんだよな、とも思う。
 ただ怖いだけだ。状況が変わるのが。我慢して、耐えて、生きられるのなら、それでいい。
 これが悪いと知っていても、歩き出す勇気がなかった。変える力がなかった。だからそうして、根本から何もかも、気力を失くしてしまっただけなんだ。

「ど、どういうこと……?」
「こういうこと」

 フィリスはいまだ困惑しているが、説明は後だ。合流すれば誰かが話してくれるだろう。
 建物の敷地内から脱出する。開けた岩場に向かう。示し合わせていた、避難場所だ。
 フィリスはあっと声を上げる。避難場所に、多くの戦闘員が揃っていた。

「よかった! 見つかったのね……!」

 フィリスを下ろす。ティナが駆け寄ると、フィリスは声を上げて泣いて、ティナに抱きついていた。あとはティナに任せておけばいいだろう。
 戦闘員らに加えて、ボスとミリアもちゃんといることを確認する。
 あと一人。不安の種だった人物の姿を探す。

「マチ!」

 他の戦闘員に支えられるようにして、少し離れたところにいる姿を見つけた。
 マチ。久しぶりに顔を見る気がする。
 地下牢にずっと閉じ込められっぱなしだったのだ。顔色は悪いし、少し痩せたようにも見える。急いで走り寄る。

「無事だったか! 話は聞いたか」

 おっかなびっくり周囲に目をやっていたが、俺が近づくと、マチはびくっとして若干後ずさった。
 嫌いだからって、そんな露骨に避けなくてもいいだろうに。

「……き、聞いたわ」

 マチは下を向いて、ぽつりと答える。何か言いたげにも見えるが、マチに割ける時間は少ない。

「ロードの、悲願が、叶うって……。あの小娘が、言い出して、協力してるんだ、って……。なら! わ、私だって、ロードのために! き、協力……」

 マチは言いかけて、ぶんぶんと首を振った。

「……が、がんばって……ちょうだい」

 おずおずと言いながらこちらを見上げてきて、一瞬だけ目が合うが、すぐに逸らされた。
 ずいぶん気まずそうだ。まあ今までさんざん反抗してたくせに、がんばれだなんて都合がいい。それにマチ自身はたいした戦力にはならない。
 でも、それでも、十分だ。

「任せろ。お父さんがんばってくるからな」
「あ、あんたがいつ私のお父さんになったのよッ!?」

 肩に手を置いて言うと、マチはすぐに牙を剥くような、可愛げのない顔に戻る。
 手を貸してほしいとは思ってない。だからこそ、そう一言かけてくれただけで胸に響く。本当はもう抱きしめてやりたいところだったが、さすがに絶対嫌がられるからやめておいた。
 これならもう大丈夫だろう。ボスやミリアと同じ場所に隠れていてもらう予定だが、もうミリアに攻撃することはないはずだ。
 ……よし。なんか活力湧いてきた。今なら飛べる気がする。

「負傷者は?」
「問題ない。全員無事だ」

 戦闘員全体の確認をする。リカルドからの報告と合わせて、一段落つく。
 これで、最初の関門は突破した。一時的な安堵は終わりだ。
 ここからだ。最初で最後の大仕事。本物の精霊を降臨させられるか否か。今までのすべてが、かかることになる。

 魔術士たちには所定の位置についてもらう。
 岩壁の高い位置に空間を作り、戦闘開始までは待機だ。攻撃部隊と治療部隊、それからミリアとボスの護衛に分かれている。高台から全体を見下ろして、必要に応じて魔術による援護をしてもらう。
 俺は、滝壺付近まで移動してきた。谷底に鳴り響く滝の音はいつもと変わらない。けど、一人きりで、だだっ広い空間で聞いていると、なんだか物悲しくなってくる。
 滝の周辺。ここが、主戦場になる。起伏こそあるものの、岩盤が広がっているだけで、視界を遮るほどの大きな障害物はない。頭上には、大きな谷の裂け目から、満月が浮かんでいた。

 後ろから魔術士たちの援護があるとはいえ、魔術を直にぶつけるのはリスクがある。その他の方法を駆使して仕掛けを作れば、殺しきれなくとも封じ込めることはできるかもしれないが、それは目的じゃない。
 捕縛して、生け贄にする。やはり頼りは、俺の持つ結界術一つだ。厳重に縛ってある太刀の紐をほどいていく。

 谷底に潜むようにして造られた、〈聖下の檻〉本拠地。
 崩壊は、あっという間にも、ゆっくりにも見える速度だった。
 敷地は斜面になっているから、支えを失くして倒壊した建物の大量の瓦礫が、ガラガラと滑り落ちていくのが見える。滝の音に掻き消されることなく、谷底に響き渡る。
 〈聖下の檻〉という名の組織は、陥落した。再建の余地さえなく。
 形を保てなくなった建物が、物語る。

 ……崩れた。本当に。
 壊れたんだな。
 これでいい。これで。
 何よりも――終止符を打つべきだ。
 俺たちは、精霊を求めて、降臨の儀式をするために、ここまで歩んできたんだ。
 魔族を生け贄に、最後で最大の儀式をして。
 そうして、終わろう。
 もう大丈夫。俺の後ろには、守るべきものがある。
 あんな建物なんかじゃない。何のために、今日まで生きてきた。
 今こそ、俺がいる意味がある。俺が、戦うべき時だ。

 やがて、辺りは滝の音だけになった。
 建物方面は静まり返っている。瓦礫の土煙も収まった。
 ……もしや、巻き込まれて死んではいないだろうな。
 そんな不安も過ったとき、崩壊した建物の一箇所が、下から風が吹き上げたかのように吹き飛んだ。
 土煙が舞う。中から、一つの影が出てきた。
 ゆったりした歩みだ。餌に飛び付く獣のようでもない。理性を失っているようにも見えない。
 てっきり、一直線に向かってくるものとばかり思っていたが。様子が違う。構えて待つ。

「……おいおい」

 黒い影は、まっすぐにこちらに向かってくる。姿を徐々にはっきりと視認して、思わず声がもれた。

「育ちすぎだろ……」

 予想はしていた。
 書物で見た、魔族の絵画。あれに近いものになるであろうことは。
 姿は、ほとんどが黒く塗り潰されている。近くまで来ると、黒い衣のような、外皮のようなもので全身が覆われていることがわかった。
 背丈や全体の大きさは変わらない。ただ、両肩からは、真っ黒な両腕がぶら下がっている。
 変質したのは、右腕だけじゃなくなっていた。両腕ともに魔物のような鋭い爪を持っている。魔族の力が強まった証拠だろうか。

 しかし絵画ほどに、いかにもな邪悪の象徴といった魔物のような様相はしていない。あれよりも、遥かに人型だ。
 いや、むしろ、ほぼ人のままだ。なぜか片腕だけのときよりかそう感じる。
 腕のサイズが一回りは小さくなっているからだろうか。そのせいか、姿は変わっても、より人に近く感じる。動きやすいように洗練されたような印象さえある。
 獣のような前傾姿勢ではなく、人と同じようにただゆったりと歩いて、近づいてくる。
 身体のおおよそを黒に覆われた見た目の中。両の瞳だけが紅く、毒々しい輝きを放っていた。

 近づいてくるごとに、空気の変化を感じる。でかくて凶悪、という印象もないのに、はっきりとのしかかるような圧を感じる。
 単純な姿の問題ではないのだろう。もし魔物の生息地に足を踏み入れて、この気配を察知したなら、振り返るより先に脱兎のごとく逃げ出している。
 上位ランクの魔物とかいう話じゃない。そんなもの比じゃない。肌で感じる。
 これが世界を混沌に陥れた、精霊と対になる力を持つ、最強の破壊の種族――

「魔人……」

 クロウは魔人の血を受け継いでいると聞いた。魔族の中でもとりわけ優れた資質を持つのが魔人だ。その中から、次世代の魔族の頂点が選定されるという話もある。
 それは、単なるお伽噺のように、現代に伝わっているだけだが。

「いや――魔王……?」

 口をついて、そんな言葉が出た。
 目の前にすると、魔人では生ぬるい、と感じたのだ。
 魔王。
 そう言い表すのが相応しいのかどうかは、わからないが。
 近づかれるごとに、まるで背後から頭を鷲掴みにされているような感覚に陥って、思わずひれ伏したくなった。許しを乞いたくなった。そんな衝動さえ覚えた。
 意識して、集中する。理性を保たせる。
 俺がそんなことしたら終わりだ。けど、生物としての本能のようなものが、そう訴えかけてきていた。
 ……嘘だろ。
 こんなのと戦うつもりなのか、俺は。

「――……」

 ふと、奴の口が動いた。
 依然として、こちらに襲いかかってくる様子はない。
 いつでも動けるよう構えたまま、集中する。

「……静かだ」

 ぽつ、と声が聞こえた。
 それは、確かにクロウの声だ。外側が変貌しても、中身が変わるわけではないのだろうが。
 喋った、という事実に目を見張る。前は魔物のように理性を失い、暴れていただけに見えたが。

「ここは、ひどく静かだ……。他に、誰もいないのか……?」

 喋れる、のか。クロウは、俺に目を向ける。
 両側とも、深紅色に染まった瞳だ。前は侵食された右側だけだったが、それが魔族に染まりきったことを表しているようにも見える。
 見た目はすっかり変貌している。だが、問いかけるように、こちらを見ている。以前と違い、理性は残っている、ということになるのだろうか。

「貴様は、なぜここにいる? たった一人きり。俺を待ち構えていたのか?」

 たった一人きり。
 結界術は、ちゃんと機能しているらしい。魔術士たちは気配を遮断する結界術の内側に待機している。いきなり後方を狙われたら対処が難しいからだ。
 しかし、喋るとは思わなかった。理性があるのなら、今喋っているのは、誰の意識なのか。

「こっちこそ聞きたい。おまえは、誰だ?」

 魔王のような佇まいの奴に、呼び掛けてみる。
 もしこれが、クロウでないとすれば、誰なのか。

「俺を前にして、逃げ出さず、存在を問うか。……ククッ。いいだろう。その蛮勇に免じて答えてやろう」

 そいつは、不気味に肩を揺らして笑う。
 理性はあるが、人間らしさがない、となんとなく感じる。
 まるで遥か頭上から見下げられているかのような。それが当たり前の立ち位置であるかのような。
 自身は人間ではない、と自覚している、生まれながら人とは違う存在であると自負しているかのような――

「俺は――魔王となる者。世界を蹂躙する者だ」

 奴は、禍々しい爪を広げて、答えた。
 つり上げた口からは、人ならざる鋭い牙が覗く。見開いた瞳は鮮烈な紅に輝き、不気味さを増している。
 何言ってんだこいつ。と一蹴したい気持ちも引っ込む。
 異形の姿が、まざまざと突きつける。呪術の源という膨大なエネルギーを吸収したことで力を得て、蘇った、絶対的な強者であると。

「ようやく手に入れた。至高の肉体だ。よもや、これほどまでに完成されているとはな。ならばここから、俺自身の手で、魔族が支配する世界を作り上げようではないか」

 奴は見せつけるように、黒い両腕を広げている。その表情は満足げだ。

「貴様はそのための最初の礎だ。光栄に思え。すべて呑み込む。貴様は俺の中で、人間によって汚染された世界が生まれ変わる様を見ているがいい」

 鋭利な指先を器用に動かして、人差し指にあたる爪先で、俺を指差す。
 発言も、態度も、人格が変わっているとしか思えない。いや、まるで、別の何者かに乗っ取られたような。

「クロウは、どこへいった?」

 俺の正面にいるのは、ただの魔族だ。力を取り戻した古代生物がそこにいるに過ぎない。
 中にそんな人格を飼ってたなんて聞いてない。だとしたらあいつは、クロウ自身は、どこへいったのか。

「クロウ?」

 そいつは、不思議そうに口元を歪める。
 やがて気づくと同時に、くだらないとばかりに、言った。

「俺がどうした?」

 そいつは、真っ黒な手で、己を指し示す。
 自分自身がクロウだ、と。

「別の誰かに成り代わったわけじゃない……のか?」
「ああ。何かと思えば。下位の生物が使うくだらん識別記号のことか」

 そいつは、吐き捨てるように言う。

「名前など些事だ。魔王となる俺に、個々の認識記号など必要ない。俺は俺という存在だ。その他に何を定める必要がある?」

 魔王という存在のみでいい。識別される必要などない、と言いたいのか。
 こいつは自身をクロウだと肯定したが、やはりこれは、とてもクロウだとは思えない。
 すると奴はふと、両腕をだらりと下げ、呟いた。

「今まで……どれだけ虐げられてきた? どれだけ身を潜め、息を殺して生きてきた? なぜ窮屈な世界で生きねばならない? 何も許されず、望めず。そのような生に何の意味がある?」

 急に何の話だ。恨み、長い間の怨念、宿怨。それらを吐き出すように奴は言う。

「その恨みは古来より脈々と血に刻まれ、受け継がれてきた。魔族に生まれたのならば、俺には使命がある」

 奴は、両腕を広げる。

「この世界を作り替える。世界を俺のものへ! 我々魔族の繁栄を! 選ぶ余地のない世界など、俺が滅ぼす!」

 魔族としての言葉、だろうか。だが不思議と、今の言葉がクロウ自身と大きくかけ離れているとは思えなかった。
 もし、クロウ本人が言ったのだとしても、ある程度は納得できたかもしれない。そんなふうに思えた。

「そしてすべては俺が支配する。この体ならば、それが可能だ」

 クロウじゃないはずだ。だが、もしかしたら、根底は……。

「――きっと、母さんも喜んでくれる」

 母さん。そう言った奴の顔つきには、ほんの少し、人間らしいものが覗いた。
 クロウにも、当然生みの親がいたはずだ。クロウの親なら、当然魔族だろう。ましてや今、名前を挙げるということは。

「……世界を作り替える、ねえ」

 それは、親を慕う気持ちなのだろうか。
 自分を生んでくれた親に報いたい、そんな気持ちだろうか。
 俺にはわからない。俺には親がいなかったから。

「そうだね。息を潜めなくてもいい、日陰者でいる必要もない、魔族が堂々と表舞台に出られる世界なら、自由に生きられるのかもな」

 迷いなく言葉が出てくる。さっきまでの恐れは不思議と薄れていた。
 魔族というだけで、現代ではとんでもない希少価値だ。何せ人間にはない、あらゆる可能性を秘めた肉体を持つのだ。それは研究員どもを見ていて、改めて思い知ったことでもある。
 人間の欲深さ。弱い人間は、魔族という強さに食い付き、欲するだろう。そこには際限などない。今の人間の世の中に知れ渡るのは、どう考えても危険だ。
 だが、もし魔族が支配する世界が築かれるのであれば。
 魔族であっても、息を潜める必要などなくなる。魔族の数が増えれば、人間の危険性などに怯える必要もなくなる。
 窮屈さなどない。本物の自由だ。そんな世界があるなら、理想的だろう。

「けど……あんたには似合わねえ」

 ただそれは、魔族にとって、の話だろう。
 クロウにとって、じゃない。そうとはとても思えない。

「あんたは、たかだか小娘一人のために、這いずり回って、泥臭く駆け回るのがお似合いだよ。そんなでかいもの手にしたって、持て余すだけだよ」

 欲しかったのは、魔族の生きられる世界なんかじゃないだろう。そんなご大層なものを夢見ていただなんてお世辞にも思えない。
 馬鹿馬鹿しい。アホくさい。どっからそんな発想が出てくるんだ。てことは、こいつはクロウじゃなくて、やはり。

「いいぞ。威勢の良い人間は嫌いではない。活きが良くて喰い甲斐がある。さあ貴様はどの程度の糧となってくれる?」

 ――敵だ。
 理性こそあるものの、言うことは獣のような願望に直結したものでしかない。クロウとしての意識は、どうなっているのかはわからないが、どっかにいってるっぽいし。なら尚更、ぶちのめさなくちゃならない。
 紐のなくなった太刀を、鞘から抜く。
 太刀といっても、かなり長めの作りにしてある。大太刀ぐらいの長さだが、素早く斬り込めるように刀身は細くしてある。
 抜き去った刃を左手に持ち、右手に持った鞘を、地面に突き立てる。

「――《天位テンイ絶式結界ゼッシキケッカイ》」

 呪文を口にする。魔術の工程と同様に、呪文を唱えることで、鞘から結界術が発動する。
 鞘を伝い、周囲の仕込みが連動する。見た目には何の変化もないが、周囲を覆うフィールドみたいなもの出来上がる。結界術の効力を強める効果がある。
 これで、戦う準備は整った。

「現代で魔王だとかほざく奴の餌になると思うなよ」
「ならば抵抗してみせろ。滅びの運命を変えてみせろ。蛮勇の人間」

 相手は、古代の種族。精霊と双璧をなす、魔族の頂点にも匹敵する敵。
 こちらの手持ちは、現代の技術と、魔術。そして結界術だ。
 どれだけ生まれ持った力量差があろうとも、対抗してみせる。
 ――こいつには、負けるわけにはいかない。
 戦闘開始だ。
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