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一章「出会い」

07.二人の夜

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 ミリアを先導して、たどり着いたのは、森の奥深くでぽっかりと口を開けている洞窟だった。

「わあ……。こんなとこあったんですね」
「俺はべつに用はないがな」

 灯りをかざして、足下を照らしながら洞窟内へと足を踏み入れる。ひやりと冷気が漂ってくるが、記憶を頼りに枝分かれした道を左に進むと、行き止まりの場所に出た。
 ここなら、同じ野外ではあっても雨風はしのげる。身を潜めて眠るには最適の場所だろう。

「この洞窟、どこまで繋がってるんですか?」
「さあ。入ったことないから知らん」

 ミリアは、行かなかった右の道の先を聞いてくる。俺も調査のために一度入ったことはあるが、どうも地下深くへと道が繋がっている様子だった上に、灯りの燃料が持たなさそうだったからすぐにやめた。調査したところで、使用用途も思いつかなかったからだ。

「俺が見ててやる。寝ろ」
「クロウさんは、平気なんですか?」
「俺はどこでも寝られるしいつでも起きれる」

 根無し草の俺は、いつでもそうして過ごしていた。
 森林内の適当なところに腰を下ろして、目を瞑るだけ。何か生物の気配がすれば、すぐに目を覚ます。
 いつから身に着いたのかは覚えていないほど、俺の中ではそれが当たり前だった。

「そっかあ……」

 ミリアは、どこか感嘆したような、安堵したような、しかし悲しさが滲んだような声を漏らす。
 なるべく平らな地面を探して、道具袋を頭の下に敷き、厚手の長衣にくるまって、ミリアは横になった。
 硬い地面に慣れていないのか、しばらくは寝心地が悪そうにもぞもぞしていたが、やがて諦めたのか静かになった。
 面倒なことだ。俺が横になって眠ったときなんて、記憶の彼方だというのに。

 燃料がもったいないから灯りはすぐに消した。視界はまだほとんど暗黒に塗り潰されている。
 消す前とは何も変わっていないはずなのに、静寂の中には、呼吸のような鼓動のような些細な音が響いているような気がした。

「……クロウさん」

 暗闇の中から、声が聞こえる。

「なんだ」
「まだ起きてます?」
「常に起きてる」
「えー……。じゃあいつ寝てるんですか?」
「常に寝てる」
「どっちなんですか」

 ふふ、というミリアの笑い声が小さく反響する。
 それは霧散していくだけだったが、不思議と温かい気配が残った。

「ごめんなさい……。暗いから、ちょっと怖くて」
「寝るときはそんなもんだろう」
「そうじゃないんです。それとは違って。あと、やっぱり寒いから。震えが、止まらなくて……」

 ミリアの声が若干くぐもる。

「クロウさん」
「なんだ」

 ミリアは、躊躇うように一度言葉を切ってから、口を開いた。

「なんで、一緒にいてくれるんですか?」

 なんで、と聞かれて、俺は小さく首をひねる。単純なはずなのに、なぜだか難しい質問のように感じた。

「……今度こそ毒でくたばられても寝覚めが悪いからな」

 夜間は魔物が活発になる。それは普遍的な事象だ。この毒の森も例外ではない。
 しかしこの森の魔物の多くが、まず獲物に毒をかけてから、弱らせたところを捕食するという行動を取る。ファングベアのような危険度ランクの高い魔物は極めて例外で、元気な状態の人間を正面からハンティングするような魔物はほぼいない。だから毒が効かない俺にとっては、夜間であっても比較的安全な場所であることに変わりはない。
 しかし当然ながら、ミリアはそうではない。俺がいなければ、ミリアは寝ている間に魔物の接近を許して、目を覚ますのは毒を刺された瞬間か皮膚に食いつかれた瞬間だろう。
 そうなれば今度こそくたばることになる。あのときせっかく助けてやったというのに、結局その死なれ方をしては無意味にも程があるだろう。

「そうじゃないですよ」

 するとまた、ミリアの小さな笑い声が響いた。

「そこじゃないです。だって、わたし、故郷の話、しましたよね?」
「……したな。それが?」
「クロウさんは、自分のことは、考えなかったんですか?」

 言われてみて、ああそうか、と思い当たった。
 ミリアの近くにいれば、巻き込まれて殺される可能性もある、という話か。村一つ平気で潰すような連中じゃ、無関係だからといっても一緒にいるだけで見逃してはくれないだろう。
 そういえば、そのことはあまり考えていなかった。楽観視しているわけでもないが、やはり自分自身のことは他人事のように感じる。
 それとも。ミリア自身について口を挟んだ時点で、俺の中では選択肢が決まっていたような気がする。
 ミリアと一緒にいるのが、気づけば、ここまで当たり前になっていたのかもしれない。

「……明日にはあの街を発ったほうがいい」

 俺は言う。
 ミリアは返事をしない。

「今の手持ちの金をはたいてでも立ち去れ。遠くへ行け。そのほうがいい」
「……嫌ですよ。だって……」
「あの街が巻き込まれるのが嫌なんだろう。それなら尚更だ」
「でも、見つけてもらわないと、わたし……」

 ミリアは、支離滅裂なことを言う。
 街にはいたくない。けれど街を出るのは嫌だ。でも見つけてもらわないと困る。
 この街を出て、再び資金をやりくりする方法を整えるには苦労するだろう。また低俗な輩にあっさり騙される可能性もある。比較的安定している今を手放したくないのは当然の心理だ。
 ましてや今の住み込み先の宿屋にはずいぶんと良くしてもらっているとの話だ。恩を返したい、という感情もあるのではないか。

「……わたし、何がしたいんだろう」

 ミリアは、消え入りそうな声で言う。

「この街に、こんなに、いるつもりなんてなくて。すぐ次の街に向かおう、早くもっと大きな街に行こうって、急いでたはずなのに……」

 それは、おそらく独り言だ。
 けれど独り言で終わらせてほしくない。そんな裏の声が聞こえてくるかのようだった。

「楽しくて、いつの間にか……。なんで、わたし……」

 ばさ、と布が揺れる擦れる音がした。ミリアが長衣を被りなおしたらしい。
 やはり支離滅裂だ。どこも言動が一貫していない。あれもこれもと、ただ子どもがわがままを言ってふらついているだけにしか見えない。
 しかしそれは、当人にも自覚のあることだったらしい。自覚した上でなお、答えが出ないのだろう。
 ミリアは、微かに涙ぐんだような声で、聞いてきた。

「……クロウさんは、これからどうするんですか?」

 俺は正直に答える。

「俺はここから離れる理由がない」
「……そうですよね」
「居続けられる限りは居続ける。ここほど俺に適した場所もそうないだろうしな。……しかし――」

 ミリアと行動するようになってから、常に頭の片隅にあったことだ。
 そろそろ潮時だ。面倒事が起きる前に、決断するなら早いほうがいい、と。
 けれど、いまだに踏ん切りがつかなかった。
 ……俺も、ミリアのことは言えないな。

「ミリア」

 俺は呼びかける。しかしミリアは微かに苦しそうな息を漏らすだけで、返事はしない。

「……ミリア?」

 ミリアは、呼吸を求めるように、嗚咽を漏らす。
 ミリアは、こちらに背中を向けたまま、泣いていた。

「うん……。わかってます。わかってました……。こんなの、わたしのわがままだ、って。そんなの、ただ自分勝手なだけで……。わかってる、わかってました……」

 ぐす、ぐす、と鼻を鳴らす音が響く。
 本当に、小さな子どもと一緒にいるような気分だ。
 俺がまだ母親よりも背が低く、精神も未熟だった頃、どうしてもらっていただろうか。
 母さんは、いつも傍にいて、優しく寝かしつけてくれていたような気がする。
 小さくて弱々しい手だった。いつも何かに怯えて震えているような手だった。
 けど、それでもあたたかかった。

 俺は、ずりずりと尻を擦って、ミリアに近づく。
 暗闇に目は慣れてきた。ミリアの頭の位置くらいはわかる。そこに、そろりと手を伸ばす。
 恐る恐る、ミリアの頭に手を置く。これがどんな効果があるのか、明確な理屈としては不明だが。
 ミリアはこちらに背を向けたまま、良い反応も悪い反応もしない。やはり、こういうのは母という存在がやってこそ意味があるのだろう。けれど触れてしまった以上、引っ込みもつかず、髪に指が絡まないようにしながらゆっくりと動かす。
 ミリアの髪の感触は良いのかどうか俺にはわからない。俺よりかはきれいだとは思うが、比較対象としては不十分だろう。
 撫でる、という行為にさえ、なっているのかどうか。堪えきれないぐらいもどかしい気分になっていると、指先がミリアの頬に当たってしまった。

「手、冷たいです、クロウさん」

 ミリアは長衣の下でもぞりと動く。が、おかしさを堪えるように、鼻を詰まらせたままながらも、またくすくすと笑っていた。

「文句を言うな」

 やっぱり、母さんには勝てないようだ。
 当たり前か。親というのは、それだけ特別な存在なのだから。

「でも、やっぱり……優しいです。……返しきれないくらいに」

 ミリアは、長衣の下に吐き出すように言う。その声からは少しだけ息苦しさが抜けていた。
 俺は少しだけわざと乱暴に、ミリアの髪をぐしゃりと掻いた。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ぼんやりと、また何かの夢を見ていた気がする。
 ふと目を覚ました俺は、横を見る。ミリアは俺が眠りに就く前と変わらず、長衣にくるまって静かだった。

 なら、なぜ目が覚めたのだろうか。俺は周囲に意識を向けるが、生き物の気配はない。洞窟の空洞音のようなものが微かに響いているだけだ。
 しかし、何かがおかしい。何か起きている気がする。
 これはただの直感だ。俺はミリアを起こさないように気をつけながら、灯りを持って外の様子を確認しにいった。

 洞窟を出ると、いっそう、その直感は強くなっていった。
 森の空気が妙にざわついている。魔物たちが声もなく騒いでいるような気配を感じる。
 これは――。ひどく嫌な予感だ。俺は息を潜めるように灯りを消す。
 不審なものを探そうとしたが、探すより先に、ミリアを起こしに戻ってこの場を離れる算段をしたほうがいいのかもしれない。

 そう思うのと、不可解な光を視界に捉えたのは、ほぼ同時だった。
 遠目だが、まるで一列に連なるように、複数の光が瞬いている。そしてその光に呼応するかのように、森の入り口の方角が、空が白むように徐々に不気味な輝きに包まれていた。

 ――なんだ、これは。

 光が強くなる。その光からは、青白い炎が生み出されていた。
 あの挙動は、知っている。魔術士による、魔術を放つための動作だ。
 しかし火の魔術は、通常橙色に近い赤色だ。ミリアが火災を起こしたときの色が一般的なものだ。
 見たことのない青い炎が、周辺の木々を無差別的に襲っていた。次々と着火し、まるで森林を呑み込むかのように燃え広がっていく。
 森林を包囲することが目的かのように。炎はゆっくりと姿を大きくして、着実にこちらへと迫っていた。

 ……嘘だろ。
 いったい何人、魔術士がいるんだ。
 こんな大規模なことを、なぜ。
 この森を焼き尽くすつもりなのか。
 これが、ミリアの言っていた、盗賊団なのか――?

 しかし、まだこちらの姿を見られたわけではない。まだ間に合う。俺は身を翻して洞窟に戻ろうとする。
 確証はない。しかし直感が告げている。
 逃げるべきだ。ミリアを連れて。

 しかし俺は驚いて足を止める。
 洞窟までの道のり、暗がりの中には、ミリアが立っていた。

「ミリア……!?」

 異常を感じ取って、起きてきたのか。それとも俺がいないことに気づいて追いかけてきたのか。
 どちらでもいいか。むしろ好都合だ。
 急いで、ここから逃げ――

「……見つけた」

 しかし、ミリアは、俺のことを見てはいなかった。

「間違いない……。あの青い炎……!」

 ミリアは、ふらふらと俺の横を通り過ぎる。
 まるで青い炎が見せる幻影に、取り憑かれたかのように。

「村を焼いた……。わたしの、お父さんとお母さんを……。村のみんなを……。わたしの、大切な人たちを……!」

 ミリアの目は、闇夜を煌々と照らす、炎の海に吸い込まれていた。
 ミリアは、大きく息を吸い込む。
 そして、声を張り上げた。

「――わたしは、ここだッ!!」

 闇に包まれた毒の森に、その声は響き渡る。

「連れていけ! 今度こそ間違えるな! さっさと捕まえろッ!!」

 静寂を裂き、炎の海にまで届かんばかりの、鮮烈で明瞭な声が走る。
 今まで聞いたことのない声。見たことのない横顔。明るく笑っていたミリアの面影はそこにはなかった。
 ふと、規則的に点灯していた魔術の光が、ぴたりと止んだ。
 俺はそれを、こちらに気づいた合図だと受け取った。
 ぞっと背筋に冷や汗が伝う。
 俺は、ミリアの肩を強く掴んだ。

「馬鹿野郎! 何やってんだ、早く逃げ――」
「逃げて」

 しかしミリアは反抗するように、俺の手を振りほどいた。

「奴らがわたしを捕まえにきてる間に、早く逃げて」

 何のつもりだ。再び肩を掴もうとする。
 正直、あれがミリアの言っていた盗賊団なのかどうかは、この際どうでもいい。
 相手は躊躇なく森林を燃やしてくるような奴らだ。立ち止まっている場合じゃない。いったい何人いるのか。そんな連中に追いつかれたらどうなるのか。
 しかし、ミリアの様子に気圧されたように、俺はミリアへと手を伸ばせなくなっていた。

「……わたし、こんなに楽しかったの、まだ故郷があったとき以来でした」

 ミリアは、ぽつりと言う。

「ここまでは、匿ってくれた両親の知り合いの人には、黙って飛び出してきたんですよ。自分から家出して、絶対復讐してやるって決意してたのに。楽しかった時間が、忘れられなくて」

 まるでゆっくり思い出話でもするかのような口調で、ぽつりぽつりと。

「……お父さんもお母さんも、村のみんなも、復讐なんて望まないってことぐらいは、わかってました。でも、村がなくなっちゃってからは、ずっと怖くて。いつも、何かに追いかけられてるみたいで……。だから早くこの怖い時間が終わってくれないかな、楽になれないかな、って思って。……都合のいい、復讐なんて大義名分、口にしてただけです」

 ざわ、と木の葉が鳴り、俺とミリアの間を突風が吹き抜ける。
 周辺にのみ巻き起こった風は、明らかに自然の風ではなかった。俺は炎の方向を見る。
 人影のような黒い影が、疎らに宙へと浮かび上がるのが見えた。炎の海を飛び越すために風の魔術を使ったのだろうか。黒い影が、次々と炎の手前へと着地していく。
 光源の手前にきたからか、人の形まで認識できるようになった。

 俺の脳裏には、ふと似たような記憶の映像が蘇る。
 いつの日か見た光景。物心つく前の幼少期だろうか。しかしなぜか、今唐突に思い出した。
 理屈ではない。意識ではない。しかし身体がおぼえている。今ならはっきりと理解できる。
 ――あれは、人を人などと扱わない連中だ、と。
 風に煽られた青い火の粉が、周りをちりちりと舞っている。
 だが、ふと見たミリアの顔は。何もかも恨んでさえいないという顔で、笑っていた。

「本当は……本当は、復讐なんて、どうでもよくて。クロウさんが、もしわたしと一緒に死んでくれるなら、それでもいいかな。なんて思っちゃった」

 ミリアは、どこか掴みどころのない人物だと思っていた。
 それは、通常人間が持つはずの、自己の利益を得るための欲が薄いからだったのだと、今の笑みを見て理解した。
 しかしふとしたように、瞳からは涙が流れ落ちた。
 本人も意識外だったのか。自身の涙に一瞬動揺したように見えたが、それさえも受け入れるように、ミリアはまた、笑った。

「最低です。クロウさんは、わたしの、命の恩人なのに。本当に、わたしは……」

 しかし笑顔が保てなかったのか、その顔は涙で潰れるように、くしゃりと歪んだ。
 堪え切れなかったように、涙が溢れてくる。ミリアはそれを押し留めようと、手の平で顔を覆った。

 ――命の恩人?
 俺が?
 俺には、ミリアの命を助けたという意識はない。
 毒で倒れているところを見つけたのは、単なる偶然だった。ファングベアに遭遇したときは、自分の命もかかっていた。
 偶然の出来事が重なり、たまたまお互いが同じ場所にいただけなのだと。それだけのことだと思っていた。
 あんなに元気に笑って、失敗ばかりやらかしながらも、手伝えることを懸命に探して。
 そんな日を過ごしながら、そんなふうに、感じていたのか。

「だから、最後くらい、わたしに、生きてた意味をください」

 ミリアは、手を伸ばしてくる。俺の肩に触れる。
 体を預けるように、寄せてくる。本当は怖くてたまらないのだと、隠しきれない震えに包まれている。
 けれどそれでも、触れた手は、体は、あたたかった。

「クロウさんのこと、守らせてください。それで、死なせてください」

 ミリアは俺から体を離すと、前を向いた。
 じわじわと距離を詰めてくる人影らを見つめて。
 ミリアの足下からは、竜巻の目が形作られていくかのような波紋が巻き起こる。
 風の魔術だ。いや――精霊の力、というべきか。
 砂が舞い上がり、渦を巻き、徐々に竜巻の形がはっきりとしていく。
 精霊の力が、今、解放されようとしていた。

「待て、ミリアッ……!」

 ――いつまで意味のわからないこと言ってるんだ。
 馬鹿なことを言うな。逃げたほうがいい。誰がどう考えたってそうだ。
 自滅なんて馬鹿馬鹿しい。自己犠牲なんてもっとくだらない。
 馬鹿なことするな。おまえは、そんなんで――
 けれど、頭の中に繰り出される言葉は、息が詰まったかのように出てこない。
 ミリアに届く言葉は。ミリアに響く言葉は。
 それは、何一つ出てこなかった。

「最後の最後に、幸せな思い出をくれて、ありがとうございました。クロウさん、大好きです」

 ミリアは、振り返って笑う。
 まるでいつもの、街中での別れ際のように。
 ぶわりと風が襲ってくる。
 俺は踏み留まれず、後方へと吹き飛ばされる。地面を滑るように転がっていく。
 ようやく勢いが止まり、上体を起こしたときには、ミリアは遠くなっていた。

「ミリアッ――」

 強風に煽られながらも体勢を立てなおして、俺はミリアのもとへ戻ろうとする。
 が、俺の周囲には、突然透明な壁が発生した。
 壁に阻まれて前へ進めなくなっている。俺だけを隔離しているかのように背後も、頭上も、足下まで円型に囲まれていた。
 厚みはないが、触れると硬質な感触が返ってくる。強風を防いで、それどころか、真空空間のように外側の音さえすべて遮断しているようだった。
 これは、魔術なのか。
 しかし捕らえているのではなく、守られていると感じる。まさか、ミリアの精霊の力か?
 風の力でか、背中を向けたミリアの体は、宙へと浮上していく。
 大きく何か動作している素振りはない。ただ祈りを捧げるように、少し肩を狭めて、背中を丸めている姿だけが見えた。

 俺はそれをただ、見ていることしかできないのか。
 魔素を反発する力があっても、魔術を破れるわけじゃない。
 俺の体質は、ただ自分の体内に魔素が侵入してきた場合、拒絶反応を起こすだけのものだ。魔術自体をどうにかできる力なんて持ち合わせていない。

 いや、待てよ。こうして直に触れられる魔術ならば。
 俺はナイフを抜いて、腕を出し、皮膚を深く切りつけた。
 俺の血には、魔素を反発する力が大量に含まれているはずだ。その力を任意に放出することなどはできないが、ファングベアにわざと食べさせたときと同じように、俺の血を魔術に直接ぶつければ、もしかしたら。
 ぼたぼたと、ぬめりのある血が流れ落ちていく。足下の防護壁に付着する。
 すると付着した血は、沸騰しているかのようにぶくぶくと泡立ちだした。予想どおり、俺の血は、リザードに噛まれたときと同じように魔素に反応していた。
 しかし、血はみるみる減っていく。やがては鉄板に乗った水滴が蒸発するかのごとく、ジュ、と音を鳴らして、垂らした血は跡形もなく消滅した。

「――は……」

 ああ、そうか。簡単なことだ。
 魔素を反発する力は、触れている魔素に反応して、確かに反発しようとした。
 しかし、精霊の力が、それを上回っただけの話だった。

「は……、はははっ……」

 ――どうにもできない。
 思わず漏れたのは、乾いた笑い声だった。
 この体質のせいで、魔術というものは知識として聞きかじっただけで、実践することは叶わなかった。
 だからこの防護壁に対して、どう手を尽くしたらいいのかわからない。唯一持っている体質の力でも、嘲笑うかのように消し飛ばされた。
 何もできない。俺はただ、この中で、ミリアを見ていることしかできなかった。

「……ッ、くそ――ッ」

 炎の海から腕が伸びてくるかのように、ミリアに向かって、青い炎が走る。
 しかしそれを押し返すように、ミリアからは、波紋のような光が溢れ出した。
 水とも炎とも風ともとれない、真っ白な波動のようなものだ。それがミリアを中心として円のように広がり、地上の木々まで迫る。枝葉に触れると、触れた先から、まるで削り取られるように白い光に一瞬で呑み込まれていく。
 波動は地面まで押し寄せ、地表さえも覆う。
 俺には、音は何も聞こえない。
 しかし真っ白に染まっていく眼前の景色は、まるで世界の終わりのようだった。

「くそ、くそッ……」

 どん、という虚しい音だけが俺の耳に響く。

「なんで、なんで……ッ」

 あとは物理的に抵抗するしかない。
 どん、どんと壁をひたすらに叩き、殴り、額を打ちつける。

「――待ってくれ」

 この絶望的な白い空間の中には、まだ――

「まだ、ミリアが……ッ!」

 能天気すぎるだろってぐらい、いつでも笑っている奴だった。
 けれど危なっかしくて、何度どこかに繋いでおこうと思ったことか。
 目を離せば、すぐに何かをやらしてばかりだった。失敗だらけで、邪魔になることばかりだったし、二度手間になることも多かった。

「――ミリア」

 けれど、別方向から役に立とうとしていたのかは知らないが、いろんな食べ物をしょっちゅう持ってくる奴だった。
 これなら食べられるはず、こうしてみたら美味しいはず、とどうでもいいことばかり考える奴だと思った。
 もしかしたら食い意地が張ってるだけなんじゃないか、という気さえした。
 けど、そうじゃない。
 そうじゃなくて。

「ミリア、ミリア」

 感情豊かで、表情豊かで。
 素直すぎて、どこか浮世離れしていて。
 精霊術士の素質だとか、故郷の復讐だとか。そんな話、嘘だろってぐらい、普通の少女だった。
 ただ普通に生きていただけだ。
 笑って過ごしていただけだ。
 人から好かれる性質も持ち合わせた、ただの明るい少女だっただけだ。
 それなのに、どうして。
 こんな不条理なことがあってたまるか。
 そんな奴が、どうして、こんな目に遭わなきゃならないんだよ。
 どうして、自分を犠牲にして死ななきゃならないんだよ。
 こんなの納得いくか。
 ふざけやがって。
 でも、俺には、もうどうすることもできない。
 ただここで、音も聞こえない場所で。ミリアの姿すら見えない場所で。
 ただ、無力で。どうにもできない、と。
 ただ、打ちのめされているしかなかった。

「――ミリアアァァッッ!!」

 腹の底から、叫び声が出る。
 こんな声、出せたのか俺。
 けれどこの声は、きっとミリアには届かない。
 ただ虚しく、頭が割れそうなほど、自身に反響して返ってくるだけだった。
 何がしたかったのか。ミリアに少しでも声が届かないか。この隔離された状況から抜け出せないか。そう思ったのかは、自分でもわからない。
 あとはこれくらいしか、できることが頭に浮かばなかっただけの話なのかもしれない。

 眩い光を眼球に喰らい、瞼を開けていられなくなる。
 意識が薄らいでいく。抵抗できない。
 ただ身を任せるように、瞼を強く閉じる。
 けれど俺の周りは、やはり不気味なほど、無音のままだった。
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