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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆
第百二十話 軍師の智謀
しおりを挟む曹孟徳が雒陽で皇帝を迎え入れた頃、軍師の荀文若から一人の青年を紹介された。
彼の名は戯志才と言って、文若と同じく豫州潁川郡出身で、優れた戦術眼と智謀の持ち主であった。
彼とは軍略について時も忘れて語り合う程で、孟徳は戯志才を重用したが、都を許に遷してから程無く急逝してしまった。
孟徳はその事を非常に嘆き、文若に手紙を書いて送ると、暫くして文若から返書が送られて来た。
“知略に優れた同郷の者を、新たに推薦しましょう”
広げた書簡に書かれていたのは、その言葉だけである。
「…文若、これでは情報量が少な過ぎやしないか…?」
孟徳はそう呟き苦笑した。
それから数日が経ったある日、楽文謙と李曼成の二人が揃って許に構えた孟徳の屋敷を訪れた。
一人の青年が、孟徳に面会を求めてやって来ていると言う。
「来たか…!」
早速、家人に命じてその青年を屋敷へ迎え入れ、孟徳は急いで身支度を整えると広間へと向かった。
そこには文謙と曼成の姿があったが、二人の間には粗衣を身に纏い、何本もの後れ毛を肩から垂らした、すらりとした長身の後ろ姿がある。
それを見た瞬間、孟徳は思わず、はっと息を呑んだ。
孟徳が入って来た事に気付いた青年は振り返り、彼に向かって拱手する。
顔を見れば、それは彼の思い描いていた人物よりずっと若く、全くの別人であった。
少しだけ落胆を覚えつつも、孟徳は微笑を浮かべて彼に問い掛けた。
「荀文若から推薦された者か?」
すると、その若者は少し眉を顰め、
「推薦で無ければ、成らぬのか…?」
と、問い返す。
「いや、そう言う訳では無いが…」
何だ…文若が言っていた人物では無いのか…
稍々狐に抓まれた様な表情で彼を見上げる孟徳を、青年は暫し見詰め、やがて目元に微笑を漂わせた。
「貴方が曹孟徳殿か…噂に聞いていた通りだ。」
「噂…?」
孟徳が首を捻ると青年は、ふっと笑う。
「寸足らずの洟垂れ小僧だと。」
「?!」
“寸足らず”とは、「寸法が足りない」詰まり「背丈が低い」と言う意味であるが、転じて「普通より劣っている」と言う意味でもある。
「おい、お前!いきなり何を言い出すかと思えば、孟徳殿に対して失礼ではないか…っ!」
彼の言葉に驚いた孟徳より先に、文謙が大声で彼を怒鳴り付けた。
「俺は思った通りの事を言っただけだ。あんたは、“鹿”を見て“馬”だと言うのか?」
「はぁ?何を訳の解らぬ事を…?!」
「あんたが怒るのは、それが真実だと認めているからでは無いか?人は、真実を指摘されると怒るものだ…」
「な、何だと…っ?!」
「落ち着け文謙…!」
狼狽える文謙を曼成が宥め、孟徳は彼を制した。
「もう良い、それ以上言えば、俺の精神力が破綻し自尊心が損なわれるだけだ…」
苦笑しながら言うと、青年に向き合う。
「お前の言う通り、俺は他の諸侯たちの様に立派で優れた容姿では無い事を、自分でも良く理解している積もりだ。ただの一兵卒と見間違われる事さえある。だが、俺だって人間だ、面と向かって欠点を指摘されれば傷付く。」
そう言って真っ直ぐに彼の瞳を見詰めると、青年は再び小さく笑い、
「そうか…古から、君子の優劣は外見の美麗さに依ると言われるが、貴方はそうは思わぬか?」
「確かに、心魂の豊かさが外見に表れる事はある。だが、春秋時代の斉の名宰相だった晏平仲(晏嬰)は、身の丈六尺(約135cm)程度だったと言われている。 必ずしもそうとは言い切れぬと思うが。」
「成る程、曹将軍は外見が劣っていても、内面の才知が優れていれば、その人物を評価するお方だとお見受けする…実は、俺は最近まで袁本初の元に居た。彼は優れた容姿を持っていて、立派な体躯の持ち主だったが、中身は貴方に遠く及ばない…!」
そう言うと青年は、にかりと口元から白い歯を覗かせ、その時初めて満面に笑みを湛えた。
「申し遅れたが、俺は郭奉考と言う者だ。以後お見知り置きを。」
彼は爽やかに孟徳に向かって拱手する。
「荀文若とは同郷で、旧知の仲だ。」
「やはり、文若が言っていた“知略に優れた者”とはお前の事だったのだな、郭奉考…!」
孟徳が笑って彼の肩を叩くと、奉考は少し含羞を浮かべつつも小さく頷いたのであった。
郭嘉、字を奉考と言うこの青年は、荀文若と同郷の豫州潁川郡出身で、産まれは陽翟県である。
彼は少年時代から将来を見通す能力に長けていたが、暫くの間名や素性を隠して英傑らと交際し、俗世から離れた生活を送っていた為、その天賦の才を知る者は少なかった。
荀文若は、そんな彼を知る数少ない英傑の一人だったのである。
郭奉考を幕僚に迎え、孟徳は彼と今後の戦略について語り合ったが、彼は遠方に居乍らにして、各地の諸侯らの動向を的確に把握しており、中原の情勢を良く理解していた。
「孟徳殿が今、最も留意するべき相手は誰だとお考えか?」
「それは…やはり、袁本初であろう。」
孟徳は居室へ招いた奉考と二人で酒坏を酌み交わして談笑していたが、やがて二人の会話は自然と軍略に及んだ。
奉考は良く酒と女を好み、朝からでも酒に浸っている事がある。
曹操軍は軍律が厳しく秩序を重んじる為、その様な奉考の態度に眉を顰める者も多かったが、一度軍略の話となると、彼は酒が入っていても冴えた意見を提案するので、孟徳は気にしなかった。
奉考はいつも通りの酔眼を光らせ、ふうんと小さく頷くと、
「袁本初は、公孫伯圭を易京に包囲している最中で、こちらに兵を向ける事は無い。こうしている間に孟徳殿がやらねば成らぬ事は…」
そう言って、再び眼光を孟徳へ向ける。
「呂奉先と劉玄徳の討伐だ…!」
その言葉に孟徳は一瞬、表情を曇らせた。
「どういった経緯であれ、呂奉先は劉玄徳から徐州の地を奪い取った。劉玄徳を誘って共に呂奉先を斃し、その後、劉玄徳を斃せば良い…!」
奉考は卓の上に置かれた酒坏を三角に並べ、それを倒しながら淡々と語る。
少し虚ろな眼差しでそれを眺めていた孟徳であったが、やがて小さな溜め息を交えて口を開いた。
「お前の戦略には隙が無く、最も効率的と言えるだろう…だが、俺は彼奴等とは長い付き合いで、特に奉先は、俺の従者であり親友だった…」
すると奉考は顔を上げ、「ほう…」と小さく驚きを示す。
「今は戦乱の世だ。情に流されていては、天下を平定させる事は出来ぬぞ…孟徳殿には天の時が有り、地の利が有る。仲間たちも一丸となって貴方の力になってくれる。」
力を込めてそう語る奉考に、孟徳は大きく頷く。
「お前の言いたい事は、良く分かっている…俺は先ず、二人の元へ降伏を促す使者を送ろうと考えている。」
「そうか…だが、呂奉先は兎も角、劉玄徳は人の下に付く様な人物では無いと思われる。使者を送るのは徒労に終わるであろう。」
「ああ、それでも構わない。それで駄目なら武力行使も厭わぬ…」
孟徳は、そう自分自身に言い聞かせる様に答えた。
酒坏の中で小さく揺れる、白濁した酒に憂いの眼差しを落としている孟徳を、奉考は暫し黙して見詰めている。
「呂奉先は、元従者で親友だったと言ったが…それならば、彼は元主に反旗を翻したと言う事になる。それでも充分、討伐の理由になると思うが…孟徳殿が彼を討伐したくない理由とは何だ?!」
「それは、どう言う意味だ?」
唐突な奉考の問いに、孟徳は戸惑った。
「彼を斃したくないと考えるのは、親友だったからと言う理由だけか…?他に、何か理由が有るのではないか…?!」
「……っ!」
鋭い彼の追及に、思わず狼狽える。
「孟徳殿、俺は貴方の軍師だ。貴方が俺を信用しなければ、俺は貴方を信用する事が出来ない…!何か隠している事が有るなら、話して欲しい…!」
「そ、それは…っ…」
蒼白となった顔を上げ、孟徳が奉考の鋭い瞳を見詰め返した時、いつの間にか薄暗くなった室内に閃く雷光が差し込んだ。
遥か遠方の空に浮かぶ黒雲が時折雷光に閃き、幻想的に光っているのが見て取れる。
嵐が近付いている様だ…
奉先は飛焔の背に跨り、冷たい風に吹かれながら遠く兗州の空を見詰めていた。
徐州と兗州は隣接しており、奉先らが居る下邳から州境まではそう遠く無い。
その日、奉先は飛焔と共に久し振りに遠乗りし、従者には俊と成廉(爽直)、魏越(伯卓)の三人だけを連れて、州境の辺りまで来ていた。
あの空の下に、孟徳殿が居る…
奉先は冷たい空気を胸に吸い込みながら、手を伸ばせば届きそうな遥かな黒雲を眺めた。
「奉先様、そろそろ戻らねば、帰りは夜になってしまいますよ。」
後方で待機している従者の爽直が呼び掛ける。
振り返った奉先は、彼らに大きく頷いて見せた。
「ああ、そうだな。そろそろ戻ろう…!」
曹孟徳からの使者が訪れたのは、その翌日の事である。
晩から朝に掛けて続く雨は止む事無く、その日は強い風雨の一日となった。
奉先は使者を下邳城内に留め、武将らを集めて軍法会議を開いたが、この時、高士恭、張文遠らは、奉先は曹孟徳への降伏を受け入れるだろうと考えていた。
所が、それに 異を唱える者があった。
軍師の陳公台である。
「曹孟徳が、徐州で虐殺行為を行った事は記憶に新しい。我々はまだ、この地で人心を掌握出来ておらず、その様な状況で降伏を受け入れたとしても、各地で反乱が起こるのは必至だと考えられます。」
それが彼の意見であった。
「今はまだ…その時では無い、と言う事か?」
「はい、その通りです。今は民を慰撫し、内政を安定させる事が最も大事です。」
「成る程…軍師の意見に反対の者は居るか?」
奉先が集まった将らを見渡したが、反対する者は居ない。
そもそも呂布軍に、曹孟徳に降伏したいと思っている者は居なかったのである。
室内には沈黙が流れ、屋根に降り注ぐ雨音だけが響き渡っている。
「そうか、皆が同じ意見なら、俺もそれに従おう…」
奉先は反論せず、感情的になる事も無いまま、大人しく公台の意見を受け入れた様子であった。
会議が終了し皆が広間から出て行くのを、高士恭は一人憂いの眼差しで見送っていた。
「公台殿!何故、反対意見を述べたのだ…?!」
回廊で、士恭が公台を呼び止めながら走り寄る。
立ち止まった公台は振り向かず、ただ黙して彼の次の言葉を待った。
「奉先殿が、曹孟徳の元へ帰りたがっている事を一番良く知っているのは、お前ではないか…?!」
「………」
公台はやがて士恭を振り返り、彼の瞳をじっと見詰め返すと感情を押し殺すように答えた。
「勿論、その通りです。でも、僕は間違った事は言っていない…」
「そうかも知れないが…何か、他に考えが有るのか?」
「そうですね…考えは有ります。」
公台は一度瞼を伏せ、その後徐に瞼を上げると、怪訝な士恭の顔を見上げた。
「僕は…奉先様こそ、この天下を統べるべき人物だと思うのです…!」
「…?!」
公台の言葉に士恭は思わず瞠目し、驚きに言葉を失った。
「士恭殿は、そうは思いませんか?!」
「そ、それは…確かに奉先殿は、天下の英雄となる方だと俺は信じている。だが、奉先殿がそれを望んでおられるであろうか…?」
「奉先様が、望む望まないは関係無く…そう有るべきなのです…!」
「?!」
士恭は眉を顰め、更に怪訝な表情を作る。
「僕は、先日ある方にお会いしました…」
「ある方…?」
「はい、その方とは…趙夫人です。」
「趙夫人とは、雒陽でお会いした、あのご婦人か…?!」
士恭は記憶を辿り、一人の美しい女性の姿を思い出した。
「実は…趙夫人の故郷は、此処からそう遠く有りません。以前、夫人は故郷へ帰る途中に曹家を訪れていました。孟徳様は、雒陽で奉先様に世話になった礼を言う為に来たのだと、僕に仰っておられましたが…どうしても気に掛かってしまい、密かに夫人を訪ねたのです。何故、わざわざ曹家に立ち寄ったのか…?」
そこまで話すと、公台は一度深く息を吐き、僅かに呼吸を整えてから再び強く士恭を見詰めた。
「僕は、そこで夫人から重大な話を聞かされました…!」
「重大な話とは、何だ…?!」
公台に掴み掛かろうとした時、雨の中を激しい稲妻が走り、士恭は思わず怯む。
「それは、僕の口からは言えません…!しかし士恭殿、どうか僕の事を信じて下さい。僕が必ず、奉先様を天下を統べる覇者へと導いてみせます…!!」
「………っ!」
力強く語る公台の気迫に押され、返す言葉を失った士恭は、ただ彼の瞳を見詰め返す事しか出来なかった。
「最近、軍師の陳公台の様子が少し可怪しい様だけど…何かあったのかい?」
「公台の様子が…?!」
憤る赤子をあやしながら、心配な表情を浮かべて問い掛けるのは妻の雲月である。
彼女を驚きの眼で見上げた奉先は、床に敷かれた筵の上で腕を組んで考え込んだ。
「あんた、気付いてないの?」
「ああ、いや…言われてみれば、確かに最近の公台は何処か余所々々しい感じがしなくもない…」
「一人で、何か悩みを抱えている様に見える。悪い気を起こさなければ良いが…」
「………」
赤子に憂いの眼差しを向ける雲月を見詰め、奉先は再び深く考え込んだ。
「公台殿の様子が可怪しい…?」
「ああ、士恭お前は何か感じないか?」
「…さあ、俺は特に何も感じませんが…」
奉先に呼び出され、彼の居室で面会した士恭は、表情を変える事無くそう答えた。
「奉先殿…彼が謀反を企てているのではと、お疑いなのですか?」
「まさか…!そうでは無い。ただ、妻に少し様子が可怪しいと言われてな…」
「成る程、奥方様が…女性は勘が鋭いと良く言いますからね。」
士恭が苦笑すると、奉先も釣られて苦笑を浮かべる。
「俺は、公台の事を信じているさ。だが、悩みを抱えているなら一言相談してくれても良いのでは無いかと思ったのだ…」
「そうですか…」
やがて士恭は、神妙な面持ちで奉先を見詰めて言った。
「奉先殿、貴方が公台殿の事を信用しているなら、それで良いでは有りませんか。彼はきっと、自分の職務を全うしようとしているのです…!」
彼の言葉に奉先は大きく頷き、微笑を返す。
「そうだな、お前の言う通りだ。公台は俺たちよりずっと頭が良い。我々では、軍師の智謀に遠く及ばないであろう…」
奉先の屋敷を後にした頃、雨足は少し弱まっていた。
薄暗い空を見上げれば、遠くの雲の隙間から差し込む陽光が幻想的に見える。
「…公台殿、お前は人の目を欺くのが下手だな…奉先殿は、お前の事を心配しているぞ…」
瞳に憂愁の色を浮かべて呟くと、士恭は遠い空を見詰めた。
結果、奉先は使者に降伏の意思が無い事を伝え、孟徳の元へ送り返した。
同じ頃、劉玄徳の元を訪れていた使者もまた、降伏の受け入れを拒絶され帰路に着いたのであった。
「劉玄徳だけでなく、呂奉先からも降伏を受け入れぬと返事が届いた…こうなっては、第二の策を用いらねばなるまいな、孟徳殿…!」
軍師の郭奉考は、渋い表情で孟徳を振り返る。
「………!」
孟徳は彼らからの返書を手に、眉間に深く皺を刻んでいた。
陳公台と呂奉先の二人までもが、降伏を拒否するとは正直驚きであった。
公台に依ると、孟徳の徐州侵攻で民衆に反曹感情が高まっている事が一番の理由だと言う。
確かに正論ではあるが、彼らが本気で孟徳から離れようとしているのではと疑いが湧いて来る。
孟徳の胸に、一抹の不安が過ぎった。
俺の考え過ぎかも知れないが…公台は、奉先を天子に担ぎ上げる積りでは無かろうか…?!
そんな矢先、孟徳の陣営へ偵諜からの急報が齎された。
何と、宛城に駐屯していた張繍が、突如として曹操軍に対し反乱を起こしたと言う。
一先ず、この反乱を抑える為に孟徳は自ら兵を率い、宛城へと向かう事となった。
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