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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華

第七十八話 思わぬ再会

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すっかり日が暮れ、夜になると雨足は少し弱まったが、夜風は凍える程の冷たさであった。
汴水べんすいから数里離れた小高い丘を越えた辺りに、小さな邑里ゆうりの門が建っているのが見える。
小さな家屋が幾つかぽつぽつと立ち並び、そこは非常に小さなむらであった。

邑の片隅に、傾き掛けた小さな家屋かおくがある。
家の中には火が焚かれ、少女が一人忙しく室内を動き回っては、慣れない手付きで火に掛けた鍋に切った根菜や青菜を放り込んでいた。

その時、入り口から聞こえた馬のいななきに、少女はぱっと顔を上げ急いで戸口へ走って行く。

兄様にいさま、お帰り…!」

少女は嬉しそうに戸口へ呼び掛けた。
入り口の戸を開いて、中へ入って来るのは伯斗はくとである。
しかし、彼の背に見知らぬ青年が背負われているのを見て、少女の顔は一瞬で怪訝けげんなものに変わった。

「すまない、今日は魚は釣れなかったよ…」
「どういう事…?この人は一体…」
「怪我を負っている。直ぐに手当てをしなければ…鈴星りんせい、湯を沸かしてくれないか?」

伯斗は問い掛ける少女の言葉を遮り、彼女を振り返ってそう頼んだ。
“鈴星”と呼ばれたその少女は、少し不満を表情に表したが、仕方が無いといった様子で部屋の奥へと向かう。

やがて、沸かした湯を桶に入れて運んで来ると、怪我人をしょうの上に寝かせ、濡れたその身体を拭き取り手当てをしている伯斗の脇に、そっとそれを置いた。
「!?」
だが次の瞬間、寝かされた怪我人を伯斗の肩越しに覗き見た鈴星は、思わず息を呑んで瞠目どうもくした。

「れ、麗蘭れいらん…っ!?」

その声に、驚いた伯斗が振り返る。
「鈴星、知り合いか?!」

「わ、わらわが…まだ劉家の屋敷にいた頃…姉妹の様に親しかった、曹家の娘だ…」

鈴星は、動揺を隠せない様子でそう答えた。

!?よく見ろ、彼は男だぞ…!」
そこに横たわる青年を、伯斗が驚きの表情で見下ろすと、僅かに冷静さを取り戻した鈴星も彼と共にその顔を見詰める。

「うん…でも、とても良く似ている…」
鈴星は眉をひそめながら、小さくそう呟いた。



「…うっ…っ」
小さくうめき声を上げて重いまぶたを上げると、薄暗い天井が目に入る。
ゆっくりと視線を移動させたが、そこには見知らぬ光景が広がっていた。

激しい頭痛と目眩めまいを感じながら、彼はゆっくりとその場で身体を起こした。
次の瞬間、首に激痛と違和感を覚え、はっとして恐る恐る自分の首筋に手を当てる。
首の傷には包帯が巻かれ、手当てが施されていた。

しかし、声が出せない。

突然、部屋を仕切るすだれが開かれ、驚いた彼は思わず足元の着物を手繰たぐり寄せ、自分の剣を探した。

「お前、目覚めたのか…!?」

そこに立っているのは、驚きの眼差しで彼を見下ろす、一人の美しい少女である。
その姿を見上げた時、彼もまた余りの驚きに目を見開いた。


り、鈴星……っ!?


思わず声を上げそうになったが、彼の喉から言葉が出て来る事は無かった。

「兄様が、怪我を負っていたお前を此処へ連れて帰って来たのだ。ずっと眠ったままだったから、もう目覚めぬかと思っていたぞ…!」
彼に近付いた鈴星はしょうの上に膝を突くと、いきなり腕を伸ばして彼の肩を掴み、その額に自分の額を押し当てる。

「良かった!熱もすっかり下がったようだ…!」

そう言うと、満面の笑みを浮かべて彼を見詰めた。
彼女のそのまぶしすぎる笑顔に、思わず赤面する。

「それにしても…本当に良く似ておるな…」
今度は床に手を突き、彼の顔を覗き込む様にしてまじまじと見詰める。

「わらわの知っている、“麗蘭”と言う娘に…」

「…っ!?」

その言葉に、彼はぎくりとして狼狽うろたえた。
鈴星は、彼のその様子にくすくすと笑った後、

「麗蘭は、わらわの姉妹の様な存在であった…今、何処でどうしておるのか…きっと、わらわがこんな所に居るなど、知らぬであろう…」
そう言って、少し伏し目がちに呟く。

「………」

鈴星は、俺だと気付いていないのか…?

そう思い、彼は少し複雑な気持ちに染まりながら、黙ったまま彼女の横顔を見詰めていたが、

「そうだ、お前…自分の名は分かるか?」
と突然、顔を上げた鈴星に問い掛けられ、少し慌てて首を縦に振った。
そして指を動かし、宙に文字を書く仕草をして見せる。

「そうか、少し待っていておくれ。」
鈴星はそう言って微笑むと、部屋の奥から筆とすずりを持ち出して来た。

それを彼の手に握らせると、白い布切れを床に広げる。
彼は筆に墨を付け、

『孟徳』

と、その上に丁寧に文字を書いた。


鈴星は、曹家と深い親交のあった劉家の娘である。
麗蘭と鈴星は幼馴染おさななじみであり、二人は幼少の頃から姉妹の様に仲が良かった。

鈴星が十代に入ると、その美貌にかれた多くの男たちから縁談を持ち掛けられたが、彼女はどんなに良い縁談もことごとく断った。
実は、鈴星はいつも麗蘭が劉家の屋敷へやって来る時、従者として付いて来る少年、奉先に幼い頃から恋心を抱いていたのである。

それを知った鈴星の父は、曹家の主に相談を持ち掛け、奉先を婿養子として迎える事にした。

しかし、その当時、“龍神の呪い”の為、“娘”と偽り育てられていた麗蘭は、自分が男である事を鈴星に打ち明けられずにいたが、彼もまた、幼い頃からずっと鈴星に淡い恋心を抱いていたのである。

「…本人は否定しておったが、奉先の奴…やっぱり、わらわの事より麗蘭の事が好きだったのであろうな…わらわと居ても、心ここに在らずで。結局、縁談は破談となってしまった…」

孟徳の身体の傷を手当てしながら、鈴星はそう言って、小さく溜め息を漏らし力無く笑う。
「………」
孟徳は目を細めて、鈴星の横顔を見詰めていた。

「でも、奉先の気持ちは分からぬでも無い。麗蘭は、とても男勝りで勇敢ゆうかんだったが、優しくて魅力的な娘だったのだ…わらわも、麗蘭の事が大好きだった…」
顔を上げた鈴星は、孟徳を見詰め、

「もし麗蘭が男だったら、きっと…わらわは奉先より、麗蘭を好きになっていたであろう。」

そう言うと、瞳を輝かせて笑った。
その瞬間、孟徳は思わず鈴星の両肩を掴み、彼女のきらめく瞳を強く見詰め、何かを言いたそうに唇を震わせる。

「孟徳…っ、痛い…」
「…!」
驚いた鈴星が頬を紅潮させるのを見て、孟徳は慌てて手を放した。

「気が付いたか、青年…!」

そこへ伯斗が現れ、微笑を浮かべて孟徳を見ながら、二人が座ったしょうに歩み寄る。
孟徳は再び慌てて、鈴星から離れた。

「ふふ、私が居ては邪魔だったか…?」
その様子に目を細め、伯斗は少し意地悪く笑った。
鈴星は、紅い頬をふくらませながら伯斗を睨む。

「兄様ったら!何を言っておる…?!彼は、孟徳。首に受けた傷で、声が出せぬらしい…」
「ああ、そうだろう。声帯せいたいに傷を負っている様だからな…暫くは話す事は出来ぬであろうが、心配するなじきに良くなる。」
「………」
伯斗は目元に柔らかく微笑を浮かべ、少し気落ちした様に俯く孟徳の肩を優しく叩いた。

「私は、劉伯斗りゅうはくとと申す。鈴星とは従兄妹いとこ同士で、半年ほど前からこの邑に住んでいる。」
伯斗がそう言って身の上話しを始めると、孟徳の隣に座っていた鈴星は急に無口になり、少し俯いてから、

「わらわは…着物を洗って干して来る…」
と言って立ち上がると、その部屋を出て行く。
伯斗は鈴星の背を黙って見詰め、彼女の姿が見えなくなるまで見送った後、徐ろに口を開いた。

「董卓の専横が始まって、あの子の父親は財産を奪われた挙句あげくに、有らぬ罪を着せられ投獄されると、死罪を言い渡されてしまったのだ…」

「…!?」
孟徳は驚いて、思わず瞠目どうもくした。

劉家の主がその様な目に合っていたとは、今の今迄いままで知らなかった。
恐らく、曹家の主である父は知っていたであろうが、孟徳に心配を掛けまいとしたのか、彼にはその事を一言も語らなかったのである。

「彼の友人や知人が、減刑げんけいを求めて朝廷に訴えたが聞き入れられず…遂に、鈴星にまで捕縛の命が下ってしまった…」
伯斗はそこまで話すと、まぶたを閉じ、深い溜め息を吐く。

「私は誰にも知られぬ様、彼女を屋敷から連れ出し、この邑へかくまった。今まで、炊事などした事が無かったあの子が…慣れない仕事に文句も言わず、こんな家で良くえてくれている…」

近くの井戸からみ上げた水で、鈴星は桶に入れた着物を洗っていた。
水は氷の様に冷たく、かじかむ手は思う様に動かせない。
鈴星は額の汗を拭い、赤くなった手に「はあ、はあ」と自分の息を吹き掛けた。

大きな桶を両腕に抱え、あばら家へ戻って来ると、裏庭の物干し竿に、洗った着物を一枚ずつ掛けていく。
すると、彼女の背後から近寄った人影が、突然手を伸ばして、桶の中の濡れた洗濯物を掴み取った。

「!?」
驚いて振り返ると、そこには、微笑を浮かべた孟徳が立っている。

「孟徳…!寝ていなくて良いのか?!」
心配気しんぱいげな面持ちで見詰める鈴星に、孟徳は小さくうなずき、手にした洗濯物をパタパタと風にさらすと、丁寧に皺を伸ばして竿に掛ける。
鈴星はそれを見て、手を口元に当てながら「うふふ…っ」と笑った。

「お前、男のくせに、随分と器用きようではないか…!」

彼女のひたいに浮かんだ小さな汗の滴が、差し込む朝日にきらきらと輝き、頬を紅潮させて笑うその姿は実に美しかった。
笑顔をたたえたままの孟徳は、暫しその姿に見惚みとれ、彼の視線がじっと自分に注がれている事に気付いた鈴星は、はっとし恥じらう様に俯いた。

再び孟徳が桶に手を伸ばし、取り上げた着物を広げて風に曝し竿に掛けると、今度は頬をあかくして顔を上げた鈴星が、彼のその姿にぼんやりと見惚みとれる。
頬を刺す様な冷たい風が、彼女の肩に掛かる柔らかな長い髪をなびかせていたが、鈴星は不思議と少しの寒さも感じなかった。


そうやって暫く彼らの元で療養し、気付けば既に十日が経過していた。

虎淵こえん文謙ぶんけんたちが心配して、俺を探しているだろう…
きっと、奉先も…

孟徳はかまどに火をべながら、燃え盛る炎を瞳に映し、ぼんやりと考えていた。
ふと自分の胸に手を当てて、小さく溜め息を漏らす。

翡翠の首飾りを何処かで失ってしまった…

あれは、“降龍の谷”で劉玄徳に貰った物だが、その後翠仙に贈り、彼女が命を落とした後、再び孟徳の手に戻った。
彼にとっては思い出深いしなであり、それからは何時いつ肌身はだみ離さず持ち歩いていた。

鈴星は、俺が“麗蘭”であるとは思っていない…やはり、真実を話すべきであろう…

それまで何度もそう思ったが、実際に鈴星を前にすると、どうしても言い出せない。
そもそも今は声を出す事が出来ぬので、彼女と筆談をするしかないが、その筆を取る手が伸びなかった。
孟徳は、部屋の隅に置かれたすずりに、胡乱うろんな眼差しを送る。

俺は…もう自分を偽って生きるのはやめると、呂興りょこう将軍の前で誓った筈である。
今更、真実を語る事に何を躊躇ためらう必要が有ろうか…!

そう思い、暗い瞳に小さな燈火ともしびを照らすと、孟徳は顔を上げてかまどの前から立ち上がろうとした。
その時、突然入り口の戸が開かれ、野菜の入った籠を抱えた鈴星が元気良く入って来る。

「孟徳、火の番を任せて悪かったな!直ぐに食事の支度をするから、待っていておくれ!」
彼女はそう言って、驚きの表情で見上げる孟徳に笑顔を向けた。

「?どうかしたのか…?」
彼のその様子に、小さく首を傾げながら鈴星が問い掛ける。

途端に孟徳は表情を変え、慌てて無い作り笑いを浮かべると、首を激しく横に振った。
鈴星はくすくすと笑い、炊事場へと向かう。

心折れるの早過ぎるだろっ…!何をやっているのだ、俺は…!!

思わず自分で自分をののしりたくなった。
鈴星の顔を見ると、奮い立った勇気も決意もあっと言う間にしぼんでしまう。
彼女を想う気持ちは日毎ひごとに強くなって行くが、それと同時に、後ろめたい想いもどんどんと増して行くのである。

本当の事を知ったら…きっと彼女は怒るであろうな…

彼女の後ろ姿を見詰めながら、孟徳は強く唇を噛み締めた。

「美味しくなかったか?…孟徳?」
浮かない表情でわんに注がれたかゆすする孟徳に、鈴星が心配気に問い掛けた。
はっとして顔を上げ、孟徳は苦笑を浮かべて小さく首を振る。
それから少しかげりのある眼差しを向け、悲しげな瞳で彼女を見詰めた。

「そうだ…!後で兄様が釣りに行った河へ一緒に行ってみないか?」

ぱっと顔を上げた鈴星が、明るい表情で嬉しそうに問い掛けると、孟徳は微笑し、彼女に大きく頷いてみせた。


伯斗は、早朝から汴水の下流へ魚をりに出掛けていた。
そろそろ日も中天ちゅうてんに差し掛かる頃である。
捕った魚を竹で編んだ魚籠びくに入れていると、彼の視界に、丘の上から此方へ歩いて来る人影が映った。

その若い青年は伯斗に近付くと、

「この辺りで人を探しています。“曹孟徳”という人物なのですが…聞き覚えは有りませんか?」
彼にそう声を掛け、丁寧に拱手きょうしゅした。


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