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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華

第七十七話 貂蝉

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午後には再び長安へ向けて移動を開始する為、兵士が休んでいる民たちに出発の準備を急ぐよう告げて回っている。
わずかな休息時間に睡眠を取って置こうと、奉先は少女の為に寝床を用意し、彼女をそこへ座らせた。

「貴方は、何処で休むの…?」
貂蝉ちょうせんは、敷かれた筵に横になりながら、大きな瞳で奉先を見上げ問い掛ける。

「俺は、起きて入り口を見張っているから、安心して眠って良い。」
方天戟ほうてんげきを肩にかつぎ、幕舎の入り口に腰を降ろしながら、奉先は彼女に微笑を向けてそう答えた。

自分では意識していなかったが、相当疲れていたらしく、貂蝉は横になると直ぐに眠りに落ちた。
それからどれ位経ったのか、薄暗い幕舎の中でふと目を覚ますと、彼女が眠っている間に被せたのであろう、彼女の肩には奉先の外套がいとうが掛けられていた。
貂蝉はそっと上半身を起こし、眠い目を擦りながら周りを見回した。

幕舎の入り口に座ったままの奉先を見ると、彼は項垂うなだれて身動き一つしない。
寝床からい出し、彼の足元へ静かに近寄った貂蝉は、うつむく彼の顔を覗き込んだ。
どうやら、すっかり眠り込んでいるらしい。
奉先は方天戟に寄り掛かり、小さく寝息を立てていた。

「………」
貂蝉は無言で彼を見詰めた後、彼の腰にいた剣に視線を送り、気付かれぬ様ゆっくりと鞘から抜き取った。

それは、怪しい七色の光を放つ美しい宝剣である。
貂蝉はその輝きを瞳に映し、眩しそうに目を細めてその剣刃を見詰めていたが、やがてその目を鋭く上げ、重いその剣を両手に握ったまま静かに立ち上がった。

剣のつかを両手に握り、切っ先を奉先の頭上に向けて高く振りかざす。
貂蝉は目をいからせ、激しく脈打つ心臓の鼓動を抑えようと、何度も深く息を吐き出した。
「はぁ!はぁ!はぁ…!!」
手が小刻みに震え、てのひらに汗がにじんで来る。

「どうした?躊躇ためらっているのか…?」

「はっ…!?」
その声に驚き、貂蝉は思わず息を呑んでその剣を振り下ろした。
頭上から振り下ろされた剣刃を咄嗟とっさに避け、奉先は身をひるがえすと貂蝉の腕を素早く掴み取る。

「うっ…!は、放せっ!!」
暴れる貂蝉を背後から抱える様にして押さえ込み、手から剣を奪い取ってその身体を強く抱き留めた。

「お前は、董卓の手下だ…!お前なんか、殺してやる…!!」
貂蝉は腕の中で激しくもがき叫んだが、奉先の腕の力には及ばず、やがて肩で激しくあえぎ抵抗する力を失った。

「…わかった、俺を殺してお前の気が晴れると言うなら、それでも良い。俺は、殺されて当然の人間だ…だが、今はまだお前に殺されてやる訳には行かぬ…」

「……?!」

耳元で囁くと、貂蝉はいぶかしげな瞳で彼の顔を見上げる。
奉先は彼女の両肩に手を乗せて、少女の赤い目を見詰めた。

「俺には、やらねば成らぬ事が有るのだ。それを果たすまでは、待ってくれないか…?その後、俺を殺したければ、好きにして構わぬ…!」

その言葉に貂蝉は大きな瞳を見開き、目に驚きを浮かべて彼を見詰め返す。

「貂蝉…お前、董卓が憎いので有ろう?ならば大事だいじを成す為、小事しょうじこだわり、無謀な真似をしては成らぬ…!」
奉先はそう言って、彼女の肩を強く揺すった。
やがて戸惑う様に視線を漂わせた貂蝉は、力無くうつむくとその場にへたり込んだ。


再び長安へ向けて長い行列が連なり、住民たちの大移動が開始される。
仲穎ちゅうえいは長安へ向かう道すがら、富豪の屋敷や邑々むらむらを襲っては金品や婦女たちを奪って行った為、通過する邑にはほとんど何も残されず、何処も荒れ果てていた。
その上、途中で力尽き倒れた人々はむくろと成り果て、道端に打ち捨てられたままになっており、それは正に地獄絵図の如くであった。

そんな過酷な道程みちのりを、少女は歯を食い縛って歩いていた。

「貂蝉、疲れたであろう?飛焔ひえんに乗っても良いのだぞ。」
愛馬を引いて歩いていた奉先は振り返り、後ろから付いて来る貂蝉に声を掛けた。
しかし、彼女は首を強く横に振って歩き続ける。
その姿に奉先は小さく溜め息を漏らしたが、それ以上何も言わず、向き直って再び黙々と歩いた。

次の野営地へ辿り着いた頃には日は完全に落ち、辺りは夕闇に包まれていた。
貂蝉の体力は既に限界に達していたのであろう、彼女は幕舎へ入ると、直ぐにその場へ倒れ込み、泥の様に眠ってしまった。
奉先は、彼女の身体を抱き上げ用意した寝床へ寝かせる。

こんな幼い女の子が…
憂いを帯びた眼差しで彼女を見下ろすと、奉先は彼女の小さな頭をそっと撫でた。

翌朝になると、貂蝉の両足の裏に出来た肉刺まめつぶれ、酷く出血していた。

「これはひどい…とても自力では歩けぬでしょう…」
彼女の傷を手当てし、足に布を巻き付けながら士恭が言った。
その様子を側で見ていた奉先は、

「貂蝉、今日は大人しく飛焔に乗って行け。」
そう言って、彼女に肩を貸して立ち上がらせようとした。
すると、貂蝉は彼の肩を押し退け、

「大丈夫…!あたしは自分で歩ける…っ!」
そう言って、足を引きりながら幕舎を出て行こうとする。

「貂蝉…っ!!」

奉先が彼女の背に呼び掛けたが、貂蝉は振り向こうとはしない。
奉先は、士恭と二人で顔を見合わせながら眉をひそめた。

外へ出ると、寒風の吹き荒ぶ中、再び長安へ向かう民の長い列が動き始めていた。
貂蝉は足の痛みをこらえ、行軍を開始した民の行列に懸命に付いて行こうとしたが、人々の歩行の速さに追い付かず次々と追い越され、やがて一人取り残されてしまう。
痛ましいその姿を、見るにえない眼差しで見詰めた奉先は、彼女に歩み寄ると、

「俺が背負ってやるから、乗れ。」
と言ってかたわらにしゃがみ込み、自分の背に掴まるよううながした。
しかし、貂蝉はかたくなに首を横に振り、

「嫌よ、貴方の助けなんて要らない…!」
そう言ってこばむ。
立ち上がった奉先は、遂に語気を荒らげ、険しい顔付きで彼女を怒鳴り付けた。

「いい加減にしないか!此処へ来るまで、途中で力尽き倒れた者たちの姿を、大勢の当たりにしたであろう…!お前もその一人になりたいのかっ!!」

すると貂蝉は思わず肩をすくめ、彼を見上げた大きな赤い瞳を途端とたんに潤ませる。
それを見ると、胸に多少の後悔の念をいだき、奉先は小さく溜め息を吐いた。

「怒鳴って悪かった…だが、もう意地を張るのはせ。長安へ着くまでの辛抱だ…!」
うつむく貂蝉に今度は出来るだけ優しく声を掛け、奉先は彼女の前に手を差し出した。

俯いていた貂蝉は、やがて紅潮させた顔を上げ、潤んだ瞳で奉先を見上げる。
彼を見詰めるその顔は、言い表せない程に美しかった。
彼女の長い髪を、冷たい風がなびかせながら二人の間を通り過ぎると、やがて貂蝉はゆっくりと腕を伸ばし、差し出された奉先の手を強く握り返した。

その様子を、離れた場所から眺めている大男の姿がある。

「ふん…っ!奉先の奴め、あの小娘をすっかり手懐てなずけたらしい…!」
牛毅ぎゅうきは面白く無い顔で呟き、きびすを返すと肩を怒らせながらその場を歩き去った。



袁本初えんほんしょの本隊と合流した劉玄徳りゅうげんとくは、汜水関しすいかんを突破し、直ぐに雒陽らくようへ向けて進軍を開始したが、彼らの目に映ったのは夜空を赤々と照らしながら炎上する雒陽城の姿であった。

「な、何と言う事だ…!董卓め、かんの都に火を放つとは…!!」

本初はその光景に目をいからせた。
その後、連合軍は長安ちょうあんへ向かった董卓軍の追撃を行ったが、途中で伏兵ふくへいに遭い反撃を食らった為、止む無く雒陽へと引き揚げたのである。

燃え盛る炎の勢いは翌日になっても収まらず、炎は数日を要してようやく鎮火したが、都は文字通り灰燼かいじんし、本初らは焦土しょうどと化した雒陽の後始末を行った。
そんな折、彼の耳に更に信じ難い噂が聞こえて来た。

「何だと…?孫文台そんぶんだいが…?」
配下からの報告に、本初は眉間に深くしわを刻む。

南から雒陽へ入城し、火災が鎮火すると、董卓の配下たちが荒らし回った皇帝の陵墓りょうぼを修復するなどしていた孫文台が、突然、魯陽ろようへ引き揚げて行ったと言う。
しかも噂にると、文台はその時、皇帝だけが持つ事を許されている、伝国璽でんこくじ(玉璽ぎょくじ)を拾ったとされていた。

「もし、それが事実であれば、由々ゆゆしき事態だ…どんな理由であれ、皇帝の物をかすめ取ればきっとむくいを受ける。孫文台は、良い死に方をしないであろう…」

本初は焼け野原となった雒陽の城内を歩きながら、夕暮れに染まり行く空を見上げると、遠く魯陽の方角を憂いを帯びた眼差しで見詰めた。

その頃、劉玄徳は雒陽に残った本初らと別れ、自分たちの兵を引き連れて酸棗さんそうに集結する連合軍の拠点を訪れていた。

十万を号する酸棗の連合軍では、既に兵糧ひょうろうが底を尽き、彼らは周囲の邑々むらむらから略奪を始めていた。
得る物が無くなると、兵を纏め去って行く諸侯たちも後を絶たず、最早、連合軍とは名ばかりの状態であった。

そんな諸侯らの姿を、愁眉を寄せて見詰める玄徳の元へ一人の青年が走り寄ると、振り返った玄徳は顔をほころばせ、彼の肩を掴み強く揺すった。

虎淵こえん、暫く振りだな!元気だったか?!」

だが、黙ったまま眉間に皺を寄せて彼を見詰める虎淵の様子に、直ぐに異変を感じ取り、玄徳は笑顔を消し去った。

「孟徳に、何かあったのだな…?」

実は汴水べんすいの戦いの際、虎淵は連合軍の補給を担当していた為、孟徳の側には居なかった。
彼は、楽文謙がくぶんけん李曼成りまんせいらと共に行動しており、彼は汴水で孟徳の軍が徐栄じょえいの軍に破れた事を知って、急ぎ帰還して来た。

敗北した孟徳ら連合軍は大打撃を受け、済北相さいほくしょう鮑信ほうしんは重症を負った上、弟の鮑韜ほうとうを失った。更に、陳留ちんりゅう太守の張邈ちょうばく配下であった衛茲えいじまでもが討ち死にしてしまったのである。

「孟徳様は…従弟いとこ子廉しれん殿と、汴水を渡ろうとなさいましたが…途中、敵の矢を受け河へ落ち…その後、行方が分からなくなって仕舞しまわれました…!」

虎淵は俯き、声を震わせながら玄徳にそう告げると、握り締めた右手を彼の前に差し出した。
開かれた彼の手の上を見ると、泥で汚れた翡翠ひすいの首飾りが乗っている。

「汴水の下流を捜索した所…兵士の死体が、河から多数引き上げられている場所がありました。孟徳様の死体は見付かりませんでしたが、その首飾りは、そこで発見したのです…」

玄徳は汚れたその首飾りを手に取り、指で泥を拭き取りながら黙ってそれを眺めていたが、やがて目元に微笑を浮かべると、肩を震わせる虎淵に視線を送った。


「孟徳は生きている。心配するな、俺には分かるのだ…!」


その声に、虎淵は潤んだ瞳に驚きを浮かべて彼を見上げたが、確信を持ったその強い瞳を見詰めると、表情に明るさを取り戻し白い歯を見せて笑った。



その日、汴水の下流域で朝から漁を行っていた青年、伯斗はくとは、河から網を引き上げ帰路に着いていた。
上流域で董卓軍と連合軍の戦闘が行われた為、河でおぼれた兵士や馬の死骸が流れ着き、漁をする所では無くなってしまった。
更には雨も落ち始め、今日は僅かしか魚を取ることが出来なかったが、彼は諦めて切り上げたのである。

次第に強くなる雨の中を暫く歩くと、丘の上から河岸に大勢の人が群がっているのが見えた。
それは、近くのむらから集まって来た農民たちが、河から兵士や馬の死骸を引き上げ、武器や金目の物をあさっている所であった。

伯斗はその光景に小さく溜め息を吐きながら、彼らの脇を通り過ぎようとした。
その時、

「おい、こっちにもまだ生きてる奴が居る…!」
農民の一人がそう叫び、仲間を呼び集めていた。

「見ろよ、こいつは指揮官らしい。立派な戦袍せんぽうを着てるぞ…」
「そいつは良い。退け、俺が始末する…!」
槍を手にした男が走り寄り、倒れた人物にとどめを刺そうとする。
握った槍を振り下ろそうとした瞬間、突然、何者かが男の身体を弾き飛ばした。

「止めろ!大将首を取って、お前たちに褒美でも出るのか?!」

「何しやがる?!」
突き飛ばされた男が怒鳴って見上げると、そこには一人の青年が立っていた。

男は落とした槍を拾い上げ、その青年に襲い掛かったが、彼は素早く男の腕を掴み取り地面に放り投げる。
更に拳を身体の前に構え、襲って来る男の仲間たちを次々に叩きのめした。
彼の動きは、ただの農民とは思えないものである。

やがて諦めた男たちは悔しげに歯噛みをし、みな身体を引きりながらその場を去って行く。
伯斗は仰向けに倒れている人物に近寄り、膝を突いてその顔を覗き込んだ。

血の気の失せた青白い顔で倒れているのは、まだうら若い将である。
彼は喉の辺りに矢傷を受け、戦袍は血に染まっていた。

伯斗は自分の着物を割いて彼の傷口を押さえ、素早く布を巻き付けると、彼の身体を肩にかつぎ上げる。
その時、足元に何かが滑り落ちた事に伯斗は気付かず、その青年を担いだまま、彼はくさむらの中へと姿を消して行った。

河岸に残されたのは、泥の中に沈み掛けた翡翠の首飾りであった。

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