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第六章 反逆の迅雷と戦火の都
第六十四話 丁建陽の最期
しおりを挟む目元を赤く染めながら、玲華は黙って彼女を見下ろしている奉先を見詰めていた。
風が辺りの草木を強く揺さ振り、木の葉が渦を巻いて彼らの足元を吹き抜ける。
「あたしが此処へ来たのは…叔父様に、危険が迫っている事を知らせる為なの…!」
玲華は声を震わせながらそう語り始めた。
「故郷へ戻った後、密かに雒陽へ送り込んだ偵諜に、董仲穎の周りを探らせていたの。仲穎は刺客を叔父様の元へ送り、その暗殺は表面上は失敗したかに見えていた… でも、実は刺客は既に叔父様のすぐ近くにまで迫っている…!」
「!?」
その話に、文遠と奉先は瞠目し思わず息を呑んだ。
「あたし…まさか奉先がと驚いたけど…やっぱり、あなたでは無かったのね…」
「その刺客とは、一体誰なのだ!?」
奉先は俯く玲華に鋭く迫った。
「それは、まだ分からない。ただ、叔父様はこうなる事を予測していたんだと思う…!」
玲華の長い黒髪が風に吹かれ、彼女の表情を暗く陰らせる。
『玲華、お前は何があっても…奉先を信じると誓えるか…?』
腕の中に玲華を強く抱き締めながら、昨夜、建陽が呟いた言葉を思い出していた。
『叔父様…?それは、どういう事なの…!?』
玲華は戸惑いを瞳に宿し、建陽を見上げた。
『あいつは、やがて此処を去るだろう…そうなった時、黙ってあいつに付いて行け…!』
動揺する玲華の肩を強く掴み、何処か悲しげな眼差しを向ける建陽の言葉は、その時の玲華には不可解でしか無かった。
『そして、決して此処へ戻っては成らぬ…!』
建陽の言葉が玲華の胸に木霊する。
「叔父様は、それ以上何も話してくれなかった。でも、きっと今の状況を予測していたのよ…!あなたを、敵に悟られぬよう自分の元から去らせた。あなたにとって、良くない事が起こると知っていたんだわ…」
玲華は潤んだ瞳を上げ、奉先を見詰める。
強く歯噛みをし、俯いた奉先は低く唸った。
「…!父上に危険が迫っていると分かっている以上、俺は戻らぬ訳には行かぬ…!」
奉先は立ち塞がる玲華の肩を押し退け、前へ進もうとした。
「これは、叔父様の"意志"なの…!あなたは彼の息子である以上、父の意志に逆らうべきでは無い!」
玲華は潤んだ瞳のまま、素早く奉先の腕を掴み、睨み付ける様にして叫んだ。
「玲華殿、父上を見殺しにせよと申すのか…!?」
「そうじゃ無いわ…!」
強く頭を振る玲華の瞳から、遂に涙が溢れ出した。
「あたしは、叔父様を…あなたを信じてる!だから、叔父様の選んだ道が最善であると信じるわ!例えそれが、残酷な結果になっても…!」
「玲華殿…」
奉先は目元を赤くして瞳を見開き、涙で濡れる玲華の顔を見詰めた。
冷たさを増して行く強風が、立ち尽くす彼らの長い外套の裾を激しく靡かせている。
やがて、愛おしい目付きで玲華を見詰めた奉先は、彼女の肩を優しく撫で下ろし、紅く染まった頬を伝うその涙を、そっと指で払った。
「残酷な運命なら、受け入れよう…!だが、父上が斃されるのを黙って見過ごせば、俺は一生後悔するだろう…」
玲華は咄嗟に彼の胸に飛び込み、強く抱き付いた。
「奉先…お願い、行かないで!!」
肩を震わせ、胸の中で泣いている玲華を強く抱き締めながら、奉先は彼女の艶やかな黒髪を撫でた。
「玲華殿、文遠と共に行ってくれ。文遠は、俺よりずっとあなたの事を想ってくれている…!」
そう耳元で囁くと、奉先は目を上げて立ち尽くす文遠に視線を送る。
「………!」
文遠は戸惑いを顔に現しながらも、黙って彼の瞳を見詰め返した。
幕舎の外では、まだ兵士たちの怒号が飛び交い、騒がしく走り回っていたが、燃え盛る炎の勢いは衰えを見せない。
建陽は薄暗い舎の中、黙したまま瞑座し、静かにその音を聴いていた。
目の前の卓の上には、運命を占う"卦"が置かれている。
不意に、背後の幔幕が風に揺らめいたかと思うと、突然切っ先が幕を切り裂き、建陽の背に迫った。
剣は、建陽の背中を貫いたかに見えた。が、建陽は素早く身を躱しながら立ち上がり、切り裂かれた外套を脱ぎ捨てた。
破かれた幔幕が揺らめき、そこからゆっくりと現れた人影を鋭く睨み付け、建陽は剣を構えた。
「…送り込まれた刺客は、貴様であったか…!」
その人影は口の端を歪めると、
「流石は、武勇に名高い丁将軍ですね…」
そう言ってにやりと笑う。
薄暗い燭台の灯に照らし出されたのは、玲華の従者としてやって来た男、貫である。
貫は細めた目から、黒目がちな瞳をぎょろりと動かして建陽を睨み付ける。
「あの男に、あなたを斬ってもらう積もりでしたが…残念ながら失敗していまいました。まあ、結果的には邪魔者は消えてくれたので、随分とやりやすくなりましたがね…!」
「玲華を騙して、従者として潜り込んでおったか…!あの書簡を、奉先の舎に隠したのも貴様であろう!」
怒りを湛えた瞳で剣を構え、建陽は鋭く貫を睨み据えた。
「ご推察の通りですよ。あの男を嵌めたのも、兵舎に火を放ったのも、この私です…!!」
再び口元を歪めた貫は、次の瞬間、握った拳を顔の前で開き、素早く息を吹き掛けた。
「うっ…!?」
咄嗟に身を反らしたが、貫の掌から一瞬にして散布された黄色い砂塵の様な粉は、建陽の目や喉を襲った。
目を閉じた瞬間、貫は鋭く剣を突き出し、建陽の心臓を狙う。
だが、その攻撃を素早く躱し、突き出された剣刃を右手に握った剣で受け止めた。
「くっ…!」
建陽は強く歯を食いしばったが、右腕には力が入らない。
額から脂汗が浮かび、眉間から滝の様に流れた。
「ほう、まだそんな余力が有るとは驚きですね…!これは、即効性の猛毒なのですよ。やがて全身が麻痺し、動かなくなるのです…!」
そう言って、再びにやりと笑いを浮かべた貫は、震える建陽の手から剣を跳ね上げると同時に、その右腕を斬り付けた。
「はぁ、はぁ、はぁ…!」
腕を斬られた建陽は傷口を押さえ、その場に片膝を突いて激しく肩で息をした。
次第に視界が霞み、建陽の顔は見る間に青褪めて行く。
貫は「くっくっ…」と不気味な笑い声を上げながら建陽に歩み寄り、目を三日月の様に細めて、ぞっとする様な微笑を作って彼を見下ろす。
血の付いた剣を頭上に翳し、それを建陽の首を目掛けて一気に振り下ろした。
「!?」
その時、貫は咄嗟に振り返り、幕舎の外から飛び込んで来た矢を素早く剣で払い落とす。
矢は三本同時に放たれたものであったが、貫は目にも止まらぬ速さで、全てを巧に叩き斬っていた。
足元に切断された矢が、ばらばらと落ちる。
「ほう、三本同時に打てると言うのは、嘘では無かったようですね…!」
顔を上げた貫は、幕舎の入り口に立つ者を鋭い目で睨み付けながら、不敵な笑みを浮かべた。
幕舎の入り口に立った奉先は、矢筒から残った一本の矢を抜き取り、弓に番える。
「放てる矢は、三本だけと言ったか…!?」
奉先のその言葉に貫は訝しげに眉を顰めたが、次の瞬間、彼は「かっ」と口から血を吐き出した。
「くっ…!」
見ると、腹部に矢が突き立っている。
「な、何だと…!!」
貫は青褪め、よろめいた。
「これで終わりだ…!!」
奉先が放った矢は貫の胸を貫き、その体は後方へ弾かれて燭台と共に倒れた。
倒れた燭台の炎が彼の体へと燃え移り、忽ち激しい炎を立ち上らせて、幕舎を火の海へと変える。
「父上…!」
奉先が叫んで走り寄ろうとすると、建陽はそれを手で制し声を振り絞って叫んだ。
「来るな!今すぐ此処から立ち去れ、奉先…!」
「し、しかし…!」
奉先は狼狽え、その場に立ち尽くす。
ゆっくりと青褪めた顔を上げた建陽は、虚ろな眼差しを奉先に向け、やがて僅かに微笑した。
「わしの命数は、既に尽きておる…わしの事は、もう良いのだ…何故戻った?お前は、此処へ戻るべきでは無かった…」
「父上を、見捨てて行く訳には参りません…!」
奉先は赤い目を潤ませ、建陽を真っ直ぐに見詰めた。
「そうか…わしは少し、お前を見縊っていたようだな…お前は誰かを見殺しにして、我が身を護るような男では無かった… 」
建陽が悲しげな瞳で、立ち尽くす奉先を見詰め呟いた時、突然、背後の炎から人影が浮かび上がり、いきなり建陽の背中へ飛び付いた。
「父上!!」
その瞬間、奉先は悲鳴にも似た叫び声を上げた。
「ぐっ…!がは…!」
突然、建陽は大量の血を吐き出した。
血走る瞳を動かし、建陽が自分の胸を見ると、焼けたどす黒い剣刃が鮮血を纏って突き出している。
死んだと思われた貫が、背後から建陽を襲い、背中から彼の体を貫いていたのである。
「はーっはっはっはっ…!これで策は成った!馬鹿め、共に地獄へ堕ちろ…!」
貫は、焼け爛れた悍ましい顔を歪め、勝ち誇った様に声を上げて笑う。
咄嗟に走り寄った奉先が腰の剣を抜き放ち、貫の体を一刀両断に斬り伏せた。
真っ二つに切り裂かれた貫の体は、血飛沫を上げながら、再び燃え盛る炎の中へと消えて行く。
「父上!!」
その場へ崩れ落ちた建陽へ駆け寄り、奉先は彼の体を抱き抱えて絶叫した。
建陽は血の気の無い顔のまま、瞼を重そうに持ち上げ奉先の顔を見上げる。
奉先の瞳は真っ赤に染まり、瞼に大粒の涙を溜めていた。
血に塗れた震える手を、手探りで彼の頬へと伸ばし、建陽は何かを呟く様に唇を動かす。
その手を強く握り締めた時、奉先の目から涙が溢れ出し、堰を切った様に流れ落ちた。
「わしが…愚かであった…」
消え入りそうな掠れた声で、息も絶え絶えとなりながらも建陽は呟いた。
「お前に、辛い運命を背負わせてしまったな…赦してくれ…」
声を震わせながら吐き出したその言葉を最後に、建陽は大粒の涙を流して静かに瞼を閉じた。
やがて握った建陽の手から、握り返す力が失われる。
「父上…!父上ーーーっ!!」
止めどなく流れる涙を拭う事すらせず、絶命した建陽の体を強く抱き締めながら、ただただそう叫んで奉先は泣き続けた。
空に立ち込めていた暗雲から、やがて大粒の雨が落ち始め、乾いた地面を濡らした。
次第に強くなる雨が、燃え盛っていた炎を鎮火する。
雨は激しく降り注ぎ、気付けば陣営からすっかり火の手を消し去っていた。
何時しか建陽の幕舎の炎も消え、燃え落ちた天幕の間から雨が降り注いでいる。
冷たくなった建陽の体を床の上に横たえ、奉先は深く項垂れたまま、その前に跪いていた。
頬を伝う涙は雨と共に流れ落ち、既に枯れ果ててしまった様に思えた。
赤く腫らした目で虚ろに建陽を見下ろしていたが、やがて床に落ちた剣に腕を伸ばし、血塗れの手に掴み取った。
火事が収まった事で、指揮官たちは兵士たちに指示を出し、燃え落ちた兵舎の片付けを始めていた。
「おい、丁将軍はどうした?どちらにおられるのか…!」
この混乱の間、建陽の姿を見た者は誰も居ない。
雅敬は不吉な予感を胸に抱きつつ、周りの兵士たちを捕まえては問い掛けていた。
その時、背後から兵士たちの騒めきが上がり、雅敬は振り返って彼らの視線の先を追った。
兵士たちを掻き分けながら前へ出ると、焼け落ちた建陽の幕舎の入り口に立つ奉先の姿が目に映る。
彼は血塗れた剣を握り締め、そこへ立ち尽くしていた。
「奉先、貴様…!まさか…!」
雅敬は青褪め、彼の右手に握られた包みに目を留めた。
それは破かれた建陽の外套であり、包みの底からは、まだ凝固すらしていない鮮血が滴り落ちている。
「………」
奉先は答えず無言のまま、取り囲んだ兵士たちを睨み付けている。
「お、おのれ…!この裏切り者、よくも丁将軍を…!」
雅敬は強く歯噛みをすると剣を抜き放ち、立ち尽くす奉先に斬り掛かった。
しかし、その攻撃は奉先の片腕に握られた剣に防がれ、雅敬の剣は弾き返された。思わずよろけた彼の腹部に、奉先の蹴りが入る。
「うぐっ…!」
雅敬は幕舎の床から転げ落ち、土砂の中へ倒れた。
体を起こして立ち上がろうとする雅敬を更に足蹴にし、奉先は彼の体を踏み付けて土砂の中へ押し付ける。
そして鋭く赤い目を上げ、唖然としながら取り囲む兵士たちを睨み付けると、
「俺の邪魔をする者は、誰であろうと斬り捨てる…!!」
そう凄みのある声を放ち、悪鬼の如き表情で血濡れた剣の切っ先を彼らに向けた。
兵士たちは皆戦き、歩き去る彼を誰一人止める事が出来なかった。
冷たい雨の中、項垂れて馬を進めていた玲華は、ふと濡れた顔を上げて後ろを振り返った。
「玲華殿、どうなされた?大丈夫か?」
前を進んでいた文遠は馬を止め、心配そうな表情で玲華に問い掛ける。
遠い空を見上げる玲華は、落ちて来る冷たい雨粒を暫し無言で見詰めていたが、やがて赤い瞳に涙を浮かべ小さく呟いた。
「奉先…あたしは、何があっても…あなたの事を信じてる…!」
遥か遠くに連なる山々と、暗雲の立ち込める黒い空との間を激しい稲妻が走るのが見えた。
辺りは既に漆黒の闇となり、時折激しく光る雷光だけが辺りの闇を照らしている。
降り頻る雨は次第に強くなる暴風に煽られ、何時しか横殴りの豪雨へと変わり、雒陽の城門を激しく打ち付けていた。
再び雷光が閃いた時、城門の真下に立つ黒い人影を照らし出す。
轟く雷鳴の中、泥と血に塗れたその人物は、城門の上から訝しげに見下ろす門兵を鋭く睨み付けながら、大声を放った。
「俺は、丁建陽配下の呂奉先である!相国に土産があると伝えよ!!」
やがて豪雨の中に立ち尽くす彼の目前で、重い城門がゆっくりと開かれると、彼は無言のまま門を足早に潜った。
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