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第五章 虎狼の牙と反逆の跫音
第五十七話 闇に潜む怪物
しおりを挟む「どちらへ、出掛けておられたのです?」
夕刻、屋敷へと戻っていた董仲穎は、居室に数名の美女を招き、両腕に抱きながら機嫌良く酒を飲んでいた。
屋敷の外では、相変わらず雨が降り続いている。
仲穎は酔眼を上げ、目の前に座す一人の男に向けた。
「なに、少し野暮用があってな…」
「外出されるなら、俺が護衛として付いて参ります。相国のお命を狙う輩は大勢おります故…」
仲穎にそう忠告するのは、彼を真っ直ぐに見詰めて座している呂奉先である。
「ふんっ、丁建陽の部隊を取り込み、今やこの雒陽で絶大なる軍事力を持つこのわしに、逆らおうと考える者など何処にもおらぬ…!」
白く美しい肌を露にした美女の肩を抱き寄せ、大声で笑いながら答える仲穎を、奉先が黙ったまま見詰めていると、突然ふと笑いを収め、
「所で…武勇に名高く、人格者である丁建陽を裏切り、貴様がわしに寝返った理由は何だ…?!」
と、彼に鋭く酔眼を向けて問い掛けた。
「主君と仰ぐには、及ばぬ人物だったからです…」
奉先は、悪びれた様子も見せずそう答える。
「丁建陽は、俺に謂われ無き罪を着せた上、部下たちの前で罵り辱めた。その場に居合わせた者たちが、それを目撃しております…」
奉先の語る話に偽りは無かった。
彼と共に仲穎に降った建陽の元兵士たちから、それと全く同じ話しを聞いていたからである。
「成る程、貴様には奴を裏切るだけの理由が有ったという訳か…」
そう言って杯を傾けた後、再び酔眼を上げた。
「では、わしも主君に値しないと判断すれば、同じ様に斬るか?」
仲穎はその眼に怪しい光を宿して奉先を睨み付ける。
奉先は暫し黙していたが、やがて表情を変える事無く答えた。
「相国が詰まらぬ人物であれば…同じ事をするでしょう…!」
沈黙し、睨み合う二人の間に激しい雨音だけが響き渡る。
「ふっ…!」
やがて仲穎が先に笑い声を上げた。
「貴様を心服させるには、まだ時が掛かりそうだ…!だが、そうでなくては面白く無い…!」
そう言って、仲穎は一頻り笑った後、膝を立ててその膝頭を軽く叩いた。
「そうだ、お前に褒美として馬をやる約束であったな…!どれ、馬を見に行くとしよう!」
仲穎は美女たちの肩を押し退けてふらりと立ち上がり、奉先に部屋を出るよう促すと、配下たちを引き連れ雨の降り頻る中厩舎へと向かった。
大きな厩舎の立ち並ぶ場所までは、車で移動せねばならない。
雒陽内にそれ程の広大な土地と財産を持ち、軍事力も掌握している仲穎は、今や皇帝以上の権力者と言っても過言では無い。
誰も仲穎に手出しが出来ないというのも、あながち間違ってはいないのであろう…
奉先は、仲穎と共に乗り込んだ車に揺られ、遠い雷鳴を聞きながらぼんやりとそんな事を考えた。
やがて厩舎に到着し、彼らは広い厩の中へ入った。
「どれでも良い。気に入った馬を連れて行くが良い!」
仲穎は機嫌良く、奉先の背中を叩く。
言われるがまま、取り敢えず馬たちを検分して回る事にした。
幾つもの馬房の中に繋がれた馬たちは、みな西方域から集められた立派な毛並みの名馬ばかりである。
奉先が迷いながら厩舎の奥の方へ向かうと、一際大きな馬房の前に辿り着いた。
その馬房だけは、明らかに他の物とは違っていた。
枠組みは鉄格子で組まれ、それはまるで牢獄である。
その中には光が全く差し込まず、漆黒の闇があるだけだったが、目を凝らし良く見ると、何か巨大なものが蠢いているのが見えた。
時折遠くから響く雷鳴に紛れ、鎖を引きずる様な不気味な物音も聞こえて来る。
「そこに居るのは、怪物よ…!そいつだけは止めておけ…」
突然、仲穎に肩を掴まれ、奉先ははっと我に返った。
怪物…?
奉先は眉を顰めて振り返り、険しい表情の仲穎を見上げた。
「そいつは、わし以外の人間には決して従わぬ。このわしですら、何度振り落とされそうになった事か知れぬ。馬房から出すだけで、何人蹴り殺されるか分からんのだ…!」
そう言ってにやりと笑い、奉先の肩を叩くと別の厩舎の方へと足を向ける。
暗闇の奥に潜む"怪物"の存在は無性に気に掛かったが、奉先もやがてそこを離れた。
結局、選んだ三頭の立派な馬を後日仲穎から譲って貰う約束を得て、その日は厩舎を後にした。
だが彼の胸には、あの"暗闇に潜む怪物"の事がずっと離れないでいた。
どんな馬なのであろうか…?
数日が経過しても尚、奉先はぼんやりとその事を考えていた。
「それは、噂に聞く"赤兎馬"では無いでしょうか?」
話を聞いた高士恭が、雒陽警備の為、巡回する奉先に馬を並べてそう言った。
彼は孟津に於いて、奉先と一騎討ちを演じたあの若い将である。
士恭は丁建陽の死後、奉先と共に仲穎に降り、常に傍らに侍って彼を補佐していた。
奉先が養父を裏切り、殺害したという事実について彼は何も言わず、黙って付いて来てくれたのである。
士恭は武勇に長けているだけでなく知識も豊富で、都会の事を殆ど知らない奉先に色々と教えてくれる。
「"赤兎馬"は汗血馬と呼ばれ、血の様な赤い汗をかき『一日に千里を走る』と言われる伝説の名馬です。」
「赤兎馬、か…」
奉先は小さく呟き、感嘆の溜め息を吐いた。
噂には多少なりとも聞いた事はあったが、それが実在しているとは知らなかった。
実在するなら、その伝説の名馬を仲穎が所有している可能性は大いに考えられる。
「士恭、その馬を見てみたくは無いか?」
「え…?!」
いつに無く悪戯な表情を浮かべながら、奉先は士恭に笑い掛ける。
彼がそんな事を言い出すとは思ってもみなかった士恭は、驚いた顔を向けた。
数日降り続いた雨もすっかり上がり、澄み切った爽やかなその日の午後、二人は仲穎の厩舎を訪れた。
厩舎の兵士は、彼が現れる事を予め聞かされていたのであろう。
「約束の馬を貰いに来た。」
と告げると、彼らにそこで待っている様に言い残し、厩舎へ馬を引き出しに行った。
兵士が姿を消すと、奉先は士恭の肩を叩き、急いであの馬房のある厩へ向かった。
厩の中は薄暗く、鉄格子で閉ざされたその馬房へ近付くにつれ、次第に空気が冷たくなっている様に感じた。
異様な空気が漂っている事に、士恭は不安感を募らせる。
「奉先殿、やはり止めておいた方が良いのでは…」
「しっ…!」
鉄格子に素早く近付き、扉を開こうとしていた奉先が彼の口に手を押し当てた。
闇の奥から、じゃらじゃらと鎖を引きずる音が聞こえる。
馬を鎖で繋ぐなど、聞いた事が無い…
奉先は鉄格子をそっと開き、馬房の中へ足を踏み入れた。
暗闇の中で蠢く黒い巨大な影は、突然現れた闖入者を警戒しているのか、息を潜めてこちらの様子を伺っている様である。
奉先は暗闇に目を凝らし、その姿を捕らえようとした。
やがて、そこには真っ赤な鬣を揺らして佇んでいる、一頭の巨大な馬の姿が浮かび上がる。
これが、赤兎馬…!
奉先は思わず息を呑んで、その堂々たる威容を見上げた。
赤兎馬は恐ろしく冷静にそこに佇んでおり、時折深く鼻息を吐き出している。
これ程大きく、立派な馬を見た事は無い。
奉先はそっと近付き、手を伸ばして赤兎馬の鼻面を優しく撫でた。
赤兎馬は一度大きく首を横に振ったが、抵抗する様子は見られない。
目に掛かる長い鬣を掻き上げると、下から赤い瞳が覗いた。
哀しい目をしている…
奉先はそう思い、その瞳を見詰め返した。
馬の脚には枷が嵌められ、鎖で繋ぎ留められている。
「奉先殿、何をする積もりです…?!」
鉄格子の側で様子を伺っていた士恭が、驚いて声を上げた。
奉先は突然、赤兎馬の目の前で佩いていた剣を抜き放ったのである。
慌てる士恭を尻目に、奉先は赤兎馬の脚に繋がれた鎖を手繰り寄せ、足元に敷かれた藁を掻き分けると、地面の上に現れた鎖に剣を突き立てた。
そして、両腕に力を込めて一気にその鎖を断ち切る。
「このままでは、可哀相であろう…」
奉先はそう言って、赤兎馬を繋いだ四本の鎖を全て断ち切ってやった。
やがて立ち上がった奉先は、剣を鞘に収め、入り口で待つ士恭を振り返って声を掛けた。
「心配ない。この馬は…」
「ほ、奉先殿…!」
言い掛けた時、士恭が彼の言葉を遮った。
「!?」
その瞬間、背後から沸き上がって来る異様な殺気を感じ、奉先はその場に固まった。
さっきまでは、全く何も感じなかった。
背筋を冷たい汗が流れる。
奉先はゆっくりと剣に手を掛け、後ろを振り返ろうとした。
途端に、何者かに背後から着物の襟首を掴み取られ、勢い良く後ろへ引き倒される。
更に、奉先の体は宙を飛び、馬房の壁に激しく打ち付けられた。
「奉先殿ーーー!!」
士恭が叫び、馬房の中で倒れた奉先に駆け寄ろうとしたが、その前を黒い大きな影に阻まれた。
赤兎馬が目を光らせ、ゆっくりと士恭に向かって来る。
「お、おい…止せ…!」
士恭は後退り、慌てて鉄格子を潜ると、馬房から出て急いで扉を閉めようとした。
だが次の瞬間、赤兎馬は鉄格子に勢い良く体当たりを食らわし、鉄格子を扉諸とも破壊してしまった。
恐るべき破壊力である。
「ま、まずい…!」
背中の痛みに顔を歪めながら体を起こし、奉先が青褪めた顔を上げた時には、既に赤兎馬の姿はそこには無かった。
「赤兎馬が…!飛焔が逃げたぞーーー!!」
厩舎の外へ走り出ると、兵士たちが騒ぎ立て走り回っている。
暴れる赤兎馬は、逃げ惑う兵士たちへ襲い掛かり、彼らを次々に跳ね飛ばして行く。
厩舎の塀や壁は破壊され、赤兎馬は門を破って遂に街中へ飛び出してしまった。
「俺の責任だ…連れ戻して来る…!」
そう言うと、奉先は乗って来た馬に跨がる。
「奉先殿、俺も行きます!」
士恭もまた急いで馬に跨がり、彼と共に逃げた赤兎馬の後を追い掛けた。
「か、怪物だぁー!逃げろーーー!」
雒陽の街中は阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
「これは…酷い有様だな…!」
士恭は逃げ惑う雒陽の住民たちを見回し、眉を顰め呟いた。
赤兎馬の走った後は、まるで嵐が去った後の様に、何もかもが破壊されている。
逃げる赤兎馬の速さには到底追い付けないが、何処へ向かったのかは容易に推測出来る。
その痕跡がくっきりと残っているのである。
奉先は赤兎馬が走り去った街道の先を暫く黙って見詰めていたが、やがて、ふっと笑い声を漏らした。
「何が可笑しいのです?」
士恭が怪訝な表情で彼を見上げる。
「あの馬は、恐ろしい程賢い…そうは思わないか?」
「そうでしょうか…?」
奉先の言葉に、士恭は首を傾げた。
「あいつは、俺が鎖を切るのを待っていたのであろう。無抵抗な振りをして、俺たちを欺いたのだ…!」
「ま、まさか…!そんな事は有り得ない…!」
士恭が驚きの声を上げた時、通りの向こうから赤兎馬の激しい嘶きが聞こえて来た。
「この街道を真っ直ぐ行けば、突き当たりになっていた筈だ。先回り出来るかも知れぬ!」
奉先は馬首を返して、別の路地へと向かった。
路地を抜けると再び広い通りに出た。
通りは人々で賑わっており、多くの通行人や荷車、貴人の車などが行き交っている。
遠くから赤兎馬の咆哮がこちらへ向かって来ている。
人々の悲鳴と共に通りの人垣が割れ、荷車や店先の屋台を破壊しながら走る赤兎馬の姿が見えた。
「あそこだ、行くぞ…!」
奉先はそちらへ馬を向け走り出す。
士恭もその後に続いた。
誰も赤兎馬を止める事は出来ない。
彼を止めようとする者は皆蹴り飛ばされ、道端へ放り出される。
人々は恐怖し、暴れる赤兎馬をただ唖然として見ているしか無かった。
その時、一台の車が通りを渡ろうとしていた。
車を御していた従者は、人々の悲鳴と激しい馬の嘶きに気付き、慌てて馬の手綱を引いたが、あっという間に赤兎馬は目前まで迫り、車を引く馬がそれに驚いて飛び上がってしまった。
従者は必死に馬を宥めようとしたが、制御不能となった車から放り出され、遂に車は暴走を始めた。
「ああ!お、奥方様…!」
道に倒れた従者の青年は顔を上げ、青褪めながら叫んだ。
そこへ奉先と士恭が駆け付け、士恭は素早く馬から降りると青年を助け起こした。
「大丈夫か!?」
「あの車には、奥方様が乗っておられるのです!お助けを…!」
青年は声を震わせ、士恭の腕に縋り付く。
「待っていろ!俺が止める…!」
そう言うと、奉先は馬を走らせ暴走する車を追った。
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