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第五章 虎狼の牙と反逆の跫音

第五十一話 狼虎の牙

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董仲穎とうちゅうえいによって皇帝を廃された、後漢第十三代皇帝は、後に『少帝しょうてい』と呼ばれる事となる。
その在位期間は、僅かに五ヶ月足らずだった。

永楽宮えいらくきゅうに閉じ込められた母子おやこの前に、長身の痩せた男が姿を見せた。
弘農王こうのうおうを外へお連れしろ。」
男は冷めた目付きのまま、表情を変える事無く部下に命じ、涙ながらに抵抗する何太后の腕から"少帝"べんを引き離す。

「私の子を、何処へ連れて行くのです…!」
「弘農王には、封地ほうちへ向かって頂きます。」
眉一つ動かさぬ男は氷の様な冷たさで、彼の足に縋り付く何太后を見下ろしながら答える。

「弁は何処へも行かせません!あなたたちには、慈悲の心という物が無いの…!?」
何太后は悲鳴にも似た叫び声で、男らを罵った。
「それなら、あなたはどうなのですか?太后…」
男は冷ややかな視線を向ける。

その目を見た何太后は、思わず息を呑み、自分の口に手を押し当てた。

「あなたは、きょう王子が生まれた時、嫉妬に駆られて生母の王美人おうびじんを殺害した。暗愚な霊帝はあなたを赦したが、天はお赦しになるだろうか?更には、養育していた董太后とうたいごうにも圧力を掛け、彼女も死に追いやった。これは、因果応報というものでは有りませんか?」

李文優りぶんゆうは淡々と語り、部下に酒器を運ばせると、それを杯に注いで何太后の前に差し出した。
それを見た何太后は、恐怖の余り泣くのも止めてしまった。

文優は何太后の震える白い指先に杯を持たせ、黙ってそれを口に運ぶ様、目で指図する。
彼女は潤んだ瞳で、虚ろに杯の酒を眺めた後、赤い目を上げて目の前に立つ文優を睨み付けた。

「お前たち、全員呪われるがいいわ…!!」

そう叫ぶと、何太后は杯の酒を一気に飲み干す。

文優が何太后に差し出したその酒は、『鴆酒ちんしゅ』と言う猛毒である。

"ちん"と呼ばれる、毒を持つ異国の鳥の羽から造られた酒で、太古の昔から毒殺に用いられた。
何太后が王美人を殺害するのに用いたのもこれと同じで、その酒を見た瞬間、傲慢ごうまんで高飛車な性格の持ち主だった何太后が、今までの数多くの罪を思い起こし、今更ながらに後悔の念を抱いた。

やがてその場に崩れ落ちた何太后は、床の上に手の爪を立ててもがき苦しむと、大量の血を吐き出し、遂に絶命してしまった。
顔色も変えずそれを見下ろしていた文優は、
「死体を片付けろ。」
と部下に短く命じ、さっさとその部屋を後にした。


董仲穎が皇帝廃立を強行してから、雒陽らくようには董卓軍の兵士たちの姿が増え、日夜にちや住民たちを監視している。

それと言うのも、執金吾しつきんごを務めていた丁建陽ていけんようが雒陽を離れ、城外に野営地を置いた事と、虎賁こほん中郎将の袁本初えんほんしょと仲穎との確執かくしつが決定的なものとなり、本紹が雒陽から出奔しゅっぽんし、冀州きしゅうへ逃亡してしまったのが要因である。

曹孟徳の屋敷も仲穎の部下たちに見張られている。
故郷くにへ帰る準備をしていた彼を逃がすまいと、毎日の様に朝廷からの使者が訪れた。

「虎淵、お前は先に故郷へ戻ってくれ。俺は見張られているから、雒陽ここを離れるのは難しい…」
「孟徳様を残して、去る訳には参りません…!」

孟徳の居室で、虎淵は向かい合って座る孟徳の前に、膝を進めながら答える。

「お前の事だから、そう言うだろうと思ってはいたが…」
そう言って孟徳は苦笑した。

「俺の代わりに、父上や姉上の事を、お前にまもっていて貰いたいのだ。」
「…主様と、香蘭こうらん様を…」
虎淵は躊躇ためらいいがちな表情で、膝の上で握った自分の拳を見詰めた。

昔からずっと、虎淵が姉の香蘭に想いを寄せている事に、孟徳は気付いていた。
香蘭から見れば、当時の虎淵はまだほんの子供に過ぎず、恋愛対象にもならなかったであろうが、今の彼は心身ともにすっかり成長し、立派な青年となっている。

今なら、香蘭も彼を一人の男として見てくれるに違いない。
孟徳としては、虎淵の背中を押してやりたい気持ちもあった。

「お前が、姉上と一緒になったら…俺はお前を義兄あにと呼ばねばならぬかな…?」
孟徳がぽつりと呟くと、虎淵は驚いた顔を上げる。

「も、孟徳様…!?」

「いやいや、こっちの話だ。も角、お前は先に帰っていてくれ。此処には楽文謙がくぶんけんも居る事だし、お前の代わりは彼に務めて貰う。」
孟徳は笑いながら、虎淵の顔の前で手をひらひらと振る。
何処か納得が行かないといった表情ではあったが、
「分かりました…では、文謙に会ってこの事を伝えて参ります。」
そう言って大人しく引き下がり、虎淵は立ち上がって孟徳の居室から出て行く。

あの頃の奉先に似てきたな…
冷たい風が吹き抜ける廊下に立って、孟徳は立ち去る虎淵の後ろ姿をしばら感慨かんがい深く眺めながら、その背中を見送った。


翌日、朝から酷い倦怠感けんたいかんと頭痛に襲われた孟徳は、朝廷へおもむくのを断る事にした。
使者は何度も孟徳に会わせるよう迫ったが、文謙は断固として拒絶を貫き、使者は諦めて引き上げて行った。
文謙は虎淵の友人だけの事はある。実に頼もしい護衛であった。

「孟徳殿、具合はどうだ?」
「ご心配をお掛けしました。医師の華元化かげんか先生に頂いた薬を飲みましたので、もうすっかり良くなりました。」
その日の午後、司徒の王子師が見舞いに訪れた。

子師がやって来たのは、その日の議会の報告も兼ねている。
董仲穎は、弟の叔穎しゅくえいを左将軍に任じるなど、身内の者を次々に高官職に就かせ、身の回りを一族で固め始めていた。
後宮の美女たちを片っ端から自分の物にし、雒陽の富豪から金品を奪い取るなどの悪行も行っている。
次いで、仲穎は『相国しょうこく』に就任し、朝廷で靴を履いたままゆっくりと歩いて昇殿し、帯剣する事も許される身分となった。

相国職は、漢の高祖こうその功臣、蕭何しょうか曹参そうしんが就いた職であり、この二人に匹敵する功績のある者しか就任出来ないと考えられていた、言わば神聖なる職である。
それだけで充分臣下たちを驚かせ、戸惑わせていたが、その日朝廷に集められた者たちは、更に驚くべきものを目撃した。

何と皇帝の玉座に仲穎が座り、彼はまるで孫をあやすかの様に、その膝の上に皇帝を座らせていたのである。

流石にその行動はやり過ぎであると、王子師は憤然として仲穎に怒鳴った。
すると仲穎は、

「わしは、陛下の庇護者であり父親同然。陛下はまだ幼く、か弱くあられるのに、お前たちの様な大の大人に取り囲まれては可愛そうでは無いか…!」
そう言って、まだ九歳の幼い皇帝の小さな肩に、彼の逞しく大きな手を乗せた。

一体、どの口が言うのか…!
子師は呆れて物も言えないといった表情で、仲穎を睨み付けたが、彼は全く意に介さぬといった様子で、不敵に笑いながら子師をなだめるだけであった。

「董仲穎の暴挙は、留まる所を知らない。このままでは益々付け上がり、手が付けられなくなるであろう。」
子師は首を左右に小さく振りながら、深い溜息を吐く。

「孟徳殿…!」
その時、血相を変えた文謙が、孟徳の居室へ飛び込んで来た。

「董仲穎殿が、孟徳殿の見舞いと称して此処へ…!」
文謙が言い終わらぬ内に、ずかずかと廊下を歩いて来る、大きな足音が聞こえて来た。

「曹孟徳殿、調子は如何いかがか?」

大声たいせいを放ちながら居室の扉を開き、遠慮の欠片も無く中へ入って来るのは仲穎である。

「これはこれは、司徒殿もお越しだったとは…孟徳殿は顔が広いな。」
仲穎は二人を見て破顔一笑した。

孟徳の隣に腰を下ろす仲穎に、文謙が慌てて敷物を勧めようとすると、

「心配するな。長居をする気は無い。」
そう言って、仲穎はそれを手で制し、直に床の上で胡座あぐらをかいて座った。
そして膝に手を突き身を乗り出すと、鼻を突き合わせる様にして孟徳の顔をまじまじと見る。
向かいでその様子を見ている王子師は、額に大粒の汗を浮かべていた。

「うむ、顔色は悪く無い様だな。明日の朝廷には、出席出来るだろう?」 
仲穎は口角を上げながら問い掛けたが、狼虎の如きその目は笑っていない。
孟徳は黙ってその目を見詰め返した。

「相国自ら、この様な場所へ出向かれるとは…何か問題でもお有りですか?」
やがて、孟徳は冷静な口調で問い返す。
それに対して、仲穎はようやく瞳の奥に笑みを宿した。

「お前は、袁本初とは親しい間柄であったな。一族の者は捕らえて牢へ閉じ込めてある。奴を雒陽ここへ連れ戻したいが、お前に出来るか?」
「残念ながら、それは無理でしょう。彼は脅しには屈しません。彼を脅す為一族の者を殺せば、相国の悪名を後世に残す結果となるだけです。それより、彼を懐柔かいじゅうする策をお取りになった方が良い。」

「奴を、懐柔せよと…」
仲穎は眉根を寄せて、暫し考え込んだが、やがて自分の顎髭をしごきながら小さく唸った。

「良し分かった。では、袁本初を"勃海ぼっかい太守"に任命しよう。直ぐに符節ふせつを持たせ、使者を派遣する。」
そう言うと、仲穎は廊下で待たせている従者を呼び寄せ、指示を出す。
従者が去ると再び孟徳に向き直り、歯を見せて笑った。

「お前は中々頭が切れる様だ、気に入った…!これから、わしの屋敷でうたげを開く。お前も一緒に来い!」
仲穎は有無を言わさぬといった態度で孟徳の肩を叩き、素早く立ち上がって居室から出て行く。

束の間の嵐の様な出来事を、呆気に取られて見ていた子師は、我に返ると急いで孟徳の傍へ膝を進めた。
「孟徳殿、董仲穎の足下へくだるお積もりか?!」

「それも、良いでは有りませんか?」

憤然としながら問い掛ける子師にそう答え、驚きの表情で見詰める子師を振り返ると、孟徳は相好そうごうを崩して微笑した。

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