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十八膳目
しのの秘密とキャベジ巻・上
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おとよさんとわかは、長屋の皆に快く受け入れられた。数えでおとよさんが二十二歳、わかが四歳だった。もう尋常小学校に通い出している清と、弟で五歳の治郎というまつさんちの兄弟が、率先してわかの面倒を見てくれた。最初は人見知りでおとよさんの後ろに隠れてばかりだったわかだったが、毎日源三さんの家に呼びに来る年の近い治郎に、次第に懐き始めた。尋常小学校が終わるまでは二人で遊び、清が帰ってくると三人で長屋の前で賑やかに遊んでいた。
「清兄ちゃん、治郎兄ちゃん!」
わかの幼くて屈託ない明るい声が、馴染みばかりの長屋に響くとみんなが笑顔になった。特に下に兄弟がいない治郎が、わかを一番に可愛がっていた。本当の兄妹みたいに、三人は毎日一緒にいた。俺たちが清たちにしていたことを、真似ているようで可愛い。
源三さんの風邪はしばらく治らなかったが、仕入れていた野菜が傷まないようにおとよさんが二日後から彼に変わって店を開けた。商売をしたことがなかったおとよさんだったが、店の後ろで半分横になった源三さんに丁寧に教えられて、何とか八百屋を始めた。昔からの贔屓さんには可愛がってもらい、なんと翡翠楼ホテルの食堂や料亭などの新規客も増えた。客たちはみんな、愛想がいいおとよさんに喜んでいた。源三さんがいい人なのは分かってるけどぶっきらぼう過ぎて、年頃のおとよさんの正反対な笑顔にみんな癒されたからね。取り扱っている野菜も、質がいいものだし。
そうして、明治四十二年の三月ももう終わるころ。俺は、薬研氏に呼び出されて二つの事を言われた。四月の早いうちに、独逸から尊さんが帰ってくるということ。今は船に乗り、日本に向かっているとのことだった。もう一つは、俺の想像通りのことだった。来年の明治四十三年に、薬研製薬の工場拡大工事完了と共に新しい寮も出来あがること。薬研製薬の人たちは、みんなそちらに移るそうだ。
そうして長屋の家賃の条件は今までと変わらないが、この蕗谷亭を使うなら食事などの援助がなくなり建物自体を買い取るか家賃を払う、ということ。
薬研氏は懐が大きいが、やり手の商売人だ。いつまでも、俺たち親子のために金にならない慈善事業を続ける理由がない。しかし俺たちがどうするかも、彼は期待というか――この危機をどう乗り越えるのかを楽しんでいるようだ。
「蕗谷亭を買い取るなら、土地と建物、裏の畑を合わせて千円だな――買い取る気になったら、儂に話してくれ」
千円。俺は、その値段を聞いて目眩がしそうだった。いや、千円でも安い方だろう。東京のこの立地がいいところに、土地には家と畑付きだ。しかし、現代の価格でも八千万ほどになるのか? 今まで頑張ってきたが、とても用意できるお金ではない。
「兄ちゃん、おかえり」
肩を落として帰ってきた俺を、しのが迎えてくれた。もう昼の用意を始めてくれていた。りんさんの姿は、まだなかった。
「薬研様の話――蕗谷亭の今後の事、だよね?」
しのは手拭いで濡れた手を拭うと、俺を真っ直ぐに見た。もう十三歳になった俺たち。しのはおっかさんに似て、可愛い顔立ちから次第に綺麗になってきた。昼定食を食べに来る人の中に、しのを目当てに来る人も多い。それに変わらず明るいしのだったが、最近は冷静に物事を判断することが出来るようにもなってきた。
「ああ――来年には、援助がなくなって薬研製薬のまかない作りもなくなる。ここを使うには、千円で買い取るか毎月家賃を払わないといけない」
今は、家賃でもいいだろう。昼と夜も開けたら、多分やっていける。けど、これから先戦争が必ず始まる。そんな時、お金よりも食料が大事だ。畑を持っていれば、蕗谷家の子孫たちの苦労が、少しはマシになるはずだ。
「あたし――あたしね、兄ちゃんにずっと隠してることがあるの」
不意に、しのが躊躇ってから俺にそう言った――しのが俺に、隠し事?
「いつ言おうか、ずっと悩んでて――これを言ったら、なんだか兄ちゃんがいなくなるような気がして、言えずにいたの……でも、今が言う機会なのかもしれない。夕食の支度前に、時間作って欲しい」
「う、うん。分かった」
俺たちは、それ以上言葉が続かずに黙って見つめ合った。確かに恭介としのは双子だが、中身が恭志でもしののことはなんだか分かる。今しのは、よほどの秘密を抱えているようだ。
「遅くなって、ごめんよ!」
タイミングよく、りんさんが入ってきた。そこで俺たちの間にあった、細い緊張の糸がようやくぷつりと切れた気がした。
「大丈夫だよ、りんさん」
しのは、深刻そうな顔からぱっと笑顔になった。俺も、笑顔を浮かべる。
「あ、もう火を起こしてくれたんだね。じゃあ、あたしは味噌汁を作るね。昼は、葱とわかめだったっけ?」
もうそろそろ春が近づいている。来年の春――俺たちは、どうなっているんだろう。
「りんさん、そうだよ。じゃあ、あたしは里芋の皮を剥くよ。兄ちゃんは、蛸を切ってね」
りんさんの言葉に続いて、しのは俺から離れて里芋が入っている竹ざるを手にした。俺も、蛸が入っている桶に向かった。
しのとりんさんは、高藤さんの最新作の話をしていた。最近二人は、高藤さんが書き始めた江戸時代のお転婆お姫様の冒険小説にハマっているらしい。その会話を聞きながら、俺はしのの隠し事が何なのか考えていた。
もしかして、長屋の引っ越しや、ふみが神戸に行くときの辺りのことか? あの時、しのが俺から何かを隠していたような、そんな素振りをしていたようなことを思い出した。
夕方まで、俺は落ち着かなかった。
「清兄ちゃん、治郎兄ちゃん!」
わかの幼くて屈託ない明るい声が、馴染みばかりの長屋に響くとみんなが笑顔になった。特に下に兄弟がいない治郎が、わかを一番に可愛がっていた。本当の兄妹みたいに、三人は毎日一緒にいた。俺たちが清たちにしていたことを、真似ているようで可愛い。
源三さんの風邪はしばらく治らなかったが、仕入れていた野菜が傷まないようにおとよさんが二日後から彼に変わって店を開けた。商売をしたことがなかったおとよさんだったが、店の後ろで半分横になった源三さんに丁寧に教えられて、何とか八百屋を始めた。昔からの贔屓さんには可愛がってもらい、なんと翡翠楼ホテルの食堂や料亭などの新規客も増えた。客たちはみんな、愛想がいいおとよさんに喜んでいた。源三さんがいい人なのは分かってるけどぶっきらぼう過ぎて、年頃のおとよさんの正反対な笑顔にみんな癒されたからね。取り扱っている野菜も、質がいいものだし。
そうして、明治四十二年の三月ももう終わるころ。俺は、薬研氏に呼び出されて二つの事を言われた。四月の早いうちに、独逸から尊さんが帰ってくるということ。今は船に乗り、日本に向かっているとのことだった。もう一つは、俺の想像通りのことだった。来年の明治四十三年に、薬研製薬の工場拡大工事完了と共に新しい寮も出来あがること。薬研製薬の人たちは、みんなそちらに移るそうだ。
そうして長屋の家賃の条件は今までと変わらないが、この蕗谷亭を使うなら食事などの援助がなくなり建物自体を買い取るか家賃を払う、ということ。
薬研氏は懐が大きいが、やり手の商売人だ。いつまでも、俺たち親子のために金にならない慈善事業を続ける理由がない。しかし俺たちがどうするかも、彼は期待というか――この危機をどう乗り越えるのかを楽しんでいるようだ。
「蕗谷亭を買い取るなら、土地と建物、裏の畑を合わせて千円だな――買い取る気になったら、儂に話してくれ」
千円。俺は、その値段を聞いて目眩がしそうだった。いや、千円でも安い方だろう。東京のこの立地がいいところに、土地には家と畑付きだ。しかし、現代の価格でも八千万ほどになるのか? 今まで頑張ってきたが、とても用意できるお金ではない。
「兄ちゃん、おかえり」
肩を落として帰ってきた俺を、しのが迎えてくれた。もう昼の用意を始めてくれていた。りんさんの姿は、まだなかった。
「薬研様の話――蕗谷亭の今後の事、だよね?」
しのは手拭いで濡れた手を拭うと、俺を真っ直ぐに見た。もう十三歳になった俺たち。しのはおっかさんに似て、可愛い顔立ちから次第に綺麗になってきた。昼定食を食べに来る人の中に、しのを目当てに来る人も多い。それに変わらず明るいしのだったが、最近は冷静に物事を判断することが出来るようにもなってきた。
「ああ――来年には、援助がなくなって薬研製薬のまかない作りもなくなる。ここを使うには、千円で買い取るか毎月家賃を払わないといけない」
今は、家賃でもいいだろう。昼と夜も開けたら、多分やっていける。けど、これから先戦争が必ず始まる。そんな時、お金よりも食料が大事だ。畑を持っていれば、蕗谷家の子孫たちの苦労が、少しはマシになるはずだ。
「あたし――あたしね、兄ちゃんにずっと隠してることがあるの」
不意に、しのが躊躇ってから俺にそう言った――しのが俺に、隠し事?
「いつ言おうか、ずっと悩んでて――これを言ったら、なんだか兄ちゃんがいなくなるような気がして、言えずにいたの……でも、今が言う機会なのかもしれない。夕食の支度前に、時間作って欲しい」
「う、うん。分かった」
俺たちは、それ以上言葉が続かずに黙って見つめ合った。確かに恭介としのは双子だが、中身が恭志でもしののことはなんだか分かる。今しのは、よほどの秘密を抱えているようだ。
「遅くなって、ごめんよ!」
タイミングよく、りんさんが入ってきた。そこで俺たちの間にあった、細い緊張の糸がようやくぷつりと切れた気がした。
「大丈夫だよ、りんさん」
しのは、深刻そうな顔からぱっと笑顔になった。俺も、笑顔を浮かべる。
「あ、もう火を起こしてくれたんだね。じゃあ、あたしは味噌汁を作るね。昼は、葱とわかめだったっけ?」
もうそろそろ春が近づいている。来年の春――俺たちは、どうなっているんだろう。
「りんさん、そうだよ。じゃあ、あたしは里芋の皮を剥くよ。兄ちゃんは、蛸を切ってね」
りんさんの言葉に続いて、しのは俺から離れて里芋が入っている竹ざるを手にした。俺も、蛸が入っている桶に向かった。
しのとりんさんは、高藤さんの最新作の話をしていた。最近二人は、高藤さんが書き始めた江戸時代のお転婆お姫様の冒険小説にハマっているらしい。その会話を聞きながら、俺はしのの隠し事が何なのか考えていた。
もしかして、長屋の引っ越しや、ふみが神戸に行くときの辺りのことか? あの時、しのが俺から何かを隠していたような、そんな素振りをしていたようなことを思い出した。
夕方まで、俺は落ち着かなかった。
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