アナグラム

アリアドネのカタストロフィ

エピローグ

　自宅待機の間、櫻子はテレビやネットで日本各地の様々なニュースを見た。生活苦の為、一家無理心中。刑務所に入りたい為の、通り魔未遂。幼児虐待死。いじめによる自殺。

　桐生が関係しなくとも、毎日知らない所で誰かが死んでいる。それは自然死でもあり事故死でもあり、自死や殺人など多岐に渡る。
　果たして、『悪』は桐生だけなのだろうか。蒼馬が計画して静馬が導いていた一連の事件――それは、誰もが越えてはいけない一線を越えた為に起こった事件だ。桐生は、あえてそれを考えさせるように導いていたのではないか？

　超えてはいけない一線。それは、『人を殺してはいけない』という法律にはっきりと定められていない、人間のモラルの概念の一つ。
　桐生だけが、犯罪者ではない。この日本の中でも、すれ違う人々の中何人かは何らかの罪を犯している確率で考えると、桐生を捕まえただけで日本は平和になるのだろうか。
　そもそも、何故警察は桐生を始末しないのか。危険を冒してまで彼を生かす理由が、今も櫻子には分からない。警察は、本当は桐生とどんな『密約』を取り交わしているのか――


　暗い部屋の中、久し振りに赤ワインを飲んでいた櫻子のスマホが鳴った。それは、篠原からのメールだった。

　『お疲れ様です。時間に余裕があったので、桐生によって犯人にされてしまった人たちに何か無いか、自分なりに調べてみました――アナグラムが無いか、です。そうすると、意味のある文字が出てきたんです

　『ＳＡＫＩ』、『ＭＩＨＡＲＵ』、『ＨＡＹＡＴＯ』、『ＫＡＧＥＭＩＴＵ』、『ＲＹＵＵＫＩ』

　これらのアルファベットを並べ替えてみました。すると、こんな単語が出たんです。

　『ＫＡＧＥ』、『ＨＡ』、『ＫＩＲＹＵＵ』、『ＫＩＭＩ』、『ＴＵＹＡＭＩ』、『ＳＡＴＯＲＵ』

　『影』、『は』、『桐生』、『君』、『艶味つやみ』、『悟る』です。艶味って単語の意味が分からなかったんで、調べてみました。愛情や慈しみって意味らしいんです。五人の犯人の名前だけで長い文章は作れないので、単語になってしまったと思うのですが――これは、一条課長に向けた最後のアナグラムではないでしょうか？
「影は桐生。君は、艶味（と）悟る」という意味だと思います』


　菫のコピーでしかない私を、愛してる…？

　櫻子は、乾いた笑いを浮かべた。九月になれば、また捜査が始まる。上層部上が何と言っても、櫻子は今度こそ桐生を――桐生親子を、殺害する。生かしてまた牢獄に入れても、無駄なのだ。それに、彼の言葉は本当なのか、誰にも分からない。未解決事件の裏取りが完全に出来るとは、考えていなかった。膨大な未解決事件の中から、桐生が犯人であるものを、完全に探し尽くせるとは考えられない。

　それなら、これからの事件が少なくなるように、彼らを始末した方が日本の安全な生活が保たれる。


　室内の冷房が、効きすぎている。櫻子はワイングラスを置くと、ソファに横になりタオルケットを肩まで上げて瞳を閉じた。


　次こそ、桐生親子を殺害する。そうすれば、自分はようやく解放される。桐生と菫の呪縛から、解き放たれる。そうして、普通の生活が出来る…
　ソファのクッションの下にある、櫻子を護るM&P9のシールド。この固さが、櫻子の現実を表現していた。



　私は、二人の男を殺す。自分の自由を勝ち取る為――国民の安全を守るというのは、詭弁だ。




　だから、今は休もう。沢山の出来事があり過ぎて、櫻子は疲れていた――弱くなり過ぎた。もっと強くなる為、少しの休憩。


　記憶の遠くで、二人の少年が立っていた。
「櫻子さん、愛してますよ。一緒に、『向こう』へ行こう」
　と、二人は優し気に囁いて櫻子の腕を引こうとしていた。だが、櫻子はその腕を振り払い叫んだ。

「私は、人を殺す喜びなんて感じない！お前たちと一緒になんか行かない！」
　勢いよく、櫻子はソファから身を起こした。そうして置いていたワイングラスを掴むと、壁に向かって叩きつけた。ワイングラスは白い壁に叩きつけられて割れると、中に残っていたワインが赤い血のように壁をしたたり落ちた。


「絶対に殺してやる――桐生蒼馬…静馬…」






→to be continued…