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アリアドネのカタストロフィ
イデア・下
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特別心理犯罪課は、しばらく閉鎖されることになった。九月にある秋の人事異動で、復帰になる。それまで、櫻子も篠原も待機を命じられていた。竜崎の家族と篠原の家族の事件のマスコミ報道は、すぐに無くなり検索にも出ないようになった。桐生が行った事件の為、公安による情報規制だ。
笹部については、「一身上の都合で、警察を辞めた」と報告があっただけだ。櫻子と篠原、宮城と竜崎しか本当の事を知らない。曽根崎署の署長や副署長すら、本当の事を知らない。警察庁の一握りの者は、把握しているが隠していた。
村崎刑事局長の後任は、彼の派閥の事実上No.2だった小日向になるだろうと、噂になっていた。彼は五十歳前の、恒成の上司だ。洗脳される前の村崎と共に桐生の事件総解決について尽力していたので、これから櫻子の最大の味方になる――逆に櫻子側にならなければ桐生事件は解決しない、という方が正しいのかもしれない。
八月五日の水曜日。櫻子は、池田に迎えに来て貰い篠原と彼が下宿をしているという香田頼子の家に、昼前に着いた。夏休み中の唯菜は喜んで迎えに来てくれて、篠原は意外な面持ちで彼女を招いた。唯菜は、夏休みが終わると此方の学校へ転校する事になっていた。
「今日は、篠原君の誕生日でしょ?」
そう言われて、篠原はようやく自分の誕生日を思い出した。朝から頼子や唯菜が忙しそうに何かをしているのが、ようやく何をしているのか分かったのだ。
「あの――私、教えて貰ったカレーを作ってきたの…もしよかったら…」
篠崎の両親が殺される前。母のやよいと唯菜に、カレー作りを教わった櫻子。彼らにとっても、思い出深いものだった。
「味見はしたんだけど…不味い事はないんだけど、見た目がその…あまり上手じゃなくて…その、良かったら、なんだけど…」
いつもは自信満々の櫻子が、苦手な料理。それを一生懸命作ってくれた事に、篠原はそれだけでも嬉しい出来事だった。鍋を持っている池田が、おかしそうに櫻子の後ろで立っている。
「あら、櫻子さんいらっしゃい。話は聞いてるで、有難うなぁ。他の料理やケーキは準備してるから」
そこに、割烹着姿の頼子が顔を見せた。
「怪我はせえへんかった?」
「指を包丁で何回か切ったんで、ちゃんと絆創膏で手当てしましたよ」
頼子にも、櫻子が料理を苦手な事が知られているようだ。これは、ここで暮らし始めた頃に唯菜が楽しそうに言ってしまったからだ。篠原の誕生日の話をしていて、櫻子が「カレーを作ってあげたい」と言っているのを聞いた頼子が、心配して池田を向かわせていたのだ。慌てて櫻子は、絆創膏だらけの手を後ろに隠す。
「みんな揃ったんやし、ほな誕生日会始めよか」
その日の頼子の家は、賑やかだった。大きな焦げは取ったが、取り忘れが残る少し苦い櫻子のカレー。しかし、歪な切り方の野菜や肉にはちゃんと火が通っていて美味しかった。なによりやよいが作るカレーと同じ隠し味のチョコレートが入っていて、懐かしい味に篠原は胸がいっぱいになった。
頼子が作った、サラダに鱧の天ぷらに鯛の刺身、空揚げや夏野菜の煮びたしなどが沢山テーブルに並べられている。豪華な食卓を篠原と唯菜、櫻子と池田と頼子が囲んだ。食後には、頼子と一緒に唯菜が買いに行ったチョコレートケーキを食べた。楽しく賑やかな食事だった。
食事も終わり、帰る櫻子を池田に借りた車で篠原が送る事になった。
「どうぞ、唯菜ちゃんと篠原君をよろしくお願いします」
櫻子は、玄関で見送ってくれた頼子に深々と頭を下げた。「自分は雪之丞を産んだだけで、組とは関係あらへん」と言う頼子だが、彼女を巻き込んでいる事には変わらない。櫻子は、頼子に感謝してもしきれない。
「そんな事、気にせんでええ。あんたは、義に反する悪人を捕まえる事に集中して頑張りや――辛かったら、何時でも遊びに来たらええ」
「いつでも、会いに来てね」
頼子と唯菜のその言葉が、櫻子の胸のつかえを少し軽くしてくれた。
櫻子のマンションは、ミナミへ変わった。桜海會が所有するタワマンの五十階で、今は生活している。段ボールに荷物を入れたままが多かったので、引っ越しは直ぐに終わった。
「有難う、篠原君」
櫻子のマンションの前に着いた車が止まると、助手席に座っていた櫻子は篠原に礼を言った。車の外は夏の盛りで、夕方でも蒸し暑い。
「いえ、自分の誕生日を祝ってくださって…礼を言うのは、俺の方です」
篠原は、頭を下げた。
「唯菜ちゃんと、頼子さんの所での生活はどう?」
「最初は、申し訳なさで一杯でしたが――頼子さんが唯菜を本当に大事にしてくれて、俺の事も母の様に世話してくれてます。唯菜も笑顔が本当に増えて、毎日安心して生活しています」
櫻子の問いに顔を上げた篠原は、素直にそう言った。九月まで仕事に出ない事で、唯菜と過ごす日が多かった。それが、篠原にとって唯菜に少しでも今まで触れ合えなかった詫びが出来た気がしていた。
「――私と一緒に桐生を捕まえる覚悟は、変わらない?」
櫻子は、そんな幸せな日常が崩れるかもしれない事の覚悟があるのか、訊ねた。篠原は迷わず、頷いた。
「俺の決意は変わりません。俺の親の仇と――一条課長のご両親の仇を討つため。他の沢山の人は救えないかもですが、彼らがこれから殺すかもしれない人が増えないように…俺は、あなたと戦います」
迷いのない瞳を見返して、櫻子は自分のカバンの中に手を入れた。そうして、紙袋と何処かの部屋の鍵を二個取り出した。
「キンバー K6sというバックアップガンよ。蒼馬は様々な武器を使用するけれど、静馬はナイフが好きな分銃が有利になるわ。銃の練習をして欲しいの――この鍵は、私が射撃用に改造した場所の鍵よ。何時でも練習して良いから。弾は、そこに置いてあるわ――場所は、位置情報を送っておくわね。もう一つの鍵は、私のマンションよ。万が一の事があったら、使って」
櫻子と篠原のスマホやタブレットは、紫苑によって簡単にセキュリティが突破できないように、強固なロックが仕組まれていた。そして、櫻子が住むマンションも桜海會の者が警護を強化している。
渡されは紙袋の重さは、これからの未来の様だった。篠原はゴクリと喉を鳴らしてから、それを受け取った。
「それと、これは誕生日の――おめでとう」
櫻子が好きなブランドのメンズ財布と、彼女の地元の神社のお守り。少し重いそのお守りを、篠原は大事そうに握った。
「有難うございます!」
櫻子が車を降りると、篠原は車の中から一度頭を下げてどこか名残惜しそうに走り出した。
櫻子は、その車をずっと見送っていた。
笹部については、「一身上の都合で、警察を辞めた」と報告があっただけだ。櫻子と篠原、宮城と竜崎しか本当の事を知らない。曽根崎署の署長や副署長すら、本当の事を知らない。警察庁の一握りの者は、把握しているが隠していた。
村崎刑事局長の後任は、彼の派閥の事実上No.2だった小日向になるだろうと、噂になっていた。彼は五十歳前の、恒成の上司だ。洗脳される前の村崎と共に桐生の事件総解決について尽力していたので、これから櫻子の最大の味方になる――逆に櫻子側にならなければ桐生事件は解決しない、という方が正しいのかもしれない。
八月五日の水曜日。櫻子は、池田に迎えに来て貰い篠原と彼が下宿をしているという香田頼子の家に、昼前に着いた。夏休み中の唯菜は喜んで迎えに来てくれて、篠原は意外な面持ちで彼女を招いた。唯菜は、夏休みが終わると此方の学校へ転校する事になっていた。
「今日は、篠原君の誕生日でしょ?」
そう言われて、篠原はようやく自分の誕生日を思い出した。朝から頼子や唯菜が忙しそうに何かをしているのが、ようやく何をしているのか分かったのだ。
「あの――私、教えて貰ったカレーを作ってきたの…もしよかったら…」
篠崎の両親が殺される前。母のやよいと唯菜に、カレー作りを教わった櫻子。彼らにとっても、思い出深いものだった。
「味見はしたんだけど…不味い事はないんだけど、見た目がその…あまり上手じゃなくて…その、良かったら、なんだけど…」
いつもは自信満々の櫻子が、苦手な料理。それを一生懸命作ってくれた事に、篠原はそれだけでも嬉しい出来事だった。鍋を持っている池田が、おかしそうに櫻子の後ろで立っている。
「あら、櫻子さんいらっしゃい。話は聞いてるで、有難うなぁ。他の料理やケーキは準備してるから」
そこに、割烹着姿の頼子が顔を見せた。
「怪我はせえへんかった?」
「指を包丁で何回か切ったんで、ちゃんと絆創膏で手当てしましたよ」
頼子にも、櫻子が料理を苦手な事が知られているようだ。これは、ここで暮らし始めた頃に唯菜が楽しそうに言ってしまったからだ。篠原の誕生日の話をしていて、櫻子が「カレーを作ってあげたい」と言っているのを聞いた頼子が、心配して池田を向かわせていたのだ。慌てて櫻子は、絆創膏だらけの手を後ろに隠す。
「みんな揃ったんやし、ほな誕生日会始めよか」
その日の頼子の家は、賑やかだった。大きな焦げは取ったが、取り忘れが残る少し苦い櫻子のカレー。しかし、歪な切り方の野菜や肉にはちゃんと火が通っていて美味しかった。なによりやよいが作るカレーと同じ隠し味のチョコレートが入っていて、懐かしい味に篠原は胸がいっぱいになった。
頼子が作った、サラダに鱧の天ぷらに鯛の刺身、空揚げや夏野菜の煮びたしなどが沢山テーブルに並べられている。豪華な食卓を篠原と唯菜、櫻子と池田と頼子が囲んだ。食後には、頼子と一緒に唯菜が買いに行ったチョコレートケーキを食べた。楽しく賑やかな食事だった。
食事も終わり、帰る櫻子を池田に借りた車で篠原が送る事になった。
「どうぞ、唯菜ちゃんと篠原君をよろしくお願いします」
櫻子は、玄関で見送ってくれた頼子に深々と頭を下げた。「自分は雪之丞を産んだだけで、組とは関係あらへん」と言う頼子だが、彼女を巻き込んでいる事には変わらない。櫻子は、頼子に感謝してもしきれない。
「そんな事、気にせんでええ。あんたは、義に反する悪人を捕まえる事に集中して頑張りや――辛かったら、何時でも遊びに来たらええ」
「いつでも、会いに来てね」
頼子と唯菜のその言葉が、櫻子の胸のつかえを少し軽くしてくれた。
櫻子のマンションは、ミナミへ変わった。桜海會が所有するタワマンの五十階で、今は生活している。段ボールに荷物を入れたままが多かったので、引っ越しは直ぐに終わった。
「有難う、篠原君」
櫻子のマンションの前に着いた車が止まると、助手席に座っていた櫻子は篠原に礼を言った。車の外は夏の盛りで、夕方でも蒸し暑い。
「いえ、自分の誕生日を祝ってくださって…礼を言うのは、俺の方です」
篠原は、頭を下げた。
「唯菜ちゃんと、頼子さんの所での生活はどう?」
「最初は、申し訳なさで一杯でしたが――頼子さんが唯菜を本当に大事にしてくれて、俺の事も母の様に世話してくれてます。唯菜も笑顔が本当に増えて、毎日安心して生活しています」
櫻子の問いに顔を上げた篠原は、素直にそう言った。九月まで仕事に出ない事で、唯菜と過ごす日が多かった。それが、篠原にとって唯菜に少しでも今まで触れ合えなかった詫びが出来た気がしていた。
「――私と一緒に桐生を捕まえる覚悟は、変わらない?」
櫻子は、そんな幸せな日常が崩れるかもしれない事の覚悟があるのか、訊ねた。篠原は迷わず、頷いた。
「俺の決意は変わりません。俺の親の仇と――一条課長のご両親の仇を討つため。他の沢山の人は救えないかもですが、彼らがこれから殺すかもしれない人が増えないように…俺は、あなたと戦います」
迷いのない瞳を見返して、櫻子は自分のカバンの中に手を入れた。そうして、紙袋と何処かの部屋の鍵を二個取り出した。
「キンバー K6sというバックアップガンよ。蒼馬は様々な武器を使用するけれど、静馬はナイフが好きな分銃が有利になるわ。銃の練習をして欲しいの――この鍵は、私が射撃用に改造した場所の鍵よ。何時でも練習して良いから。弾は、そこに置いてあるわ――場所は、位置情報を送っておくわね。もう一つの鍵は、私のマンションよ。万が一の事があったら、使って」
櫻子と篠原のスマホやタブレットは、紫苑によって簡単にセキュリティが突破できないように、強固なロックが仕組まれていた。そして、櫻子が住むマンションも桜海會の者が警護を強化している。
渡されは紙袋の重さは、これからの未来の様だった。篠原はゴクリと喉を鳴らしてから、それを受け取った。
「それと、これは誕生日の――おめでとう」
櫻子が好きなブランドのメンズ財布と、彼女の地元の神社のお守り。少し重いそのお守りを、篠原は大事そうに握った。
「有難うございます!」
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