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七海美桜

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アリアドネのカタストロフィ

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 その日から暫く、大きな事件は起きなかった。検死を終えた竜崎の家族と篠原の家族は返され、最近の流行でもある家族だけの小さな葬式でそれぞれ見送った。その間、唯菜と篠原は桜海會が管理しているマンションに仮住まいをしていた。竜崎は、運よく空いていた警察官舎の宮城の隣に入れた。しかしこれは、竜崎を心配した宮城が手配したそうだ。

 室生署長から伝えられたのは、「竜崎警部補と篠原巡査部長は、2週間の公休」だけだった。その間に、葬式を終えて生活を安定させろという事だった。

 竜崎は、住んでいた実家を売った。安くしか買い取って貰えなかったが、家族のあの無残な遺体を見た家は精神的苦痛でしかなかったからだ。篠原は、祖父の代からの家を手放す気がなく、売らなかった。しかし暫くは住む事が出来ず、唯菜と共に紹介して貰った桜海會のマンションで住んでいる。事情を知らぬ唯菜は、篠原に送り向かいして貰って明るく学校に通っていた。
 だが、自分が復帰すれば唯菜の世話が出来ない。篠原は、不慣れな家事をしながらこれからの事を考えていた。

 そんな時、池田と年配の女性がマンションを訪れた。女性は意志が強そうなきりっとした美人で、この暑い中薄い紫の着物を涼し気に着ていた。手にした日傘も、シックだがさり気無いお洒落さがあった。
「よりこおばちゃん!」
 暑い中玄関先、というのも失礼に思った篠原が二人をマンションの中に招くと、唯菜が嬉しそうに駆け寄って来た。荷物は少なく、片付けるまでもなかった。
「突然すみませんね。この子池田から貴方達の事を聞いて、どうしても様子を見に来たかったんですわ。雪之丞が世話になっています、母の頼子です」
 冷たい麦茶を出した篠原は、唯菜の頭を撫でる女性のその名前を聞いて驚いた。
「あ、香田さんの…!その、唯菜が先日はお世話になりました、あの…式の時も預かって貰って、お礼がすっかり遅くなってしまって…」
 葬式と、家の中の片付け。このマンションに暫くの荷物を運び、篠原は忙しさでお世話になっていた桜海會への挨拶を忘れていた事に、慌てて頭を下げた。
「構わへんよ、頭を上げて下さい。うちが勝手にさせて貰った事やさかい…あんな事があってんから、仕方ない。それより元気そうで、安心したわ――池田」
「はい――唯菜ちゃん、ちょっとアイスでも買いに行かへん?俺、めっちゃアイス食べたいねん」
「うん、行く!」
 頼子に呼ばれた池田は、唯菜が席を外せるように促した。唯菜の手を握り、池田は篠原に軽く頭を下げてマンションを出て近くのコンビニに向かった。
「今日は、これからの貴方達の事について話に来たんですわ」
「俺たちの事、ですか?」
 二人が部屋を出て行くのを確認してから、頼子が口を開いた。篠原の問いに頼子は小さく頷いてから、篠原が淹れてくれた麦茶を一口喉に流した。
「貴方は、凶悪犯を追う一条櫻子さんの下で仕事してはるんやろ?正直、唯菜ちゃんの世話、これからどないするつもりなんや?」
 頼子の言葉は、ストレートだった。それについて悩んでいた篠原は、すぐに返事が出来なかった。
「返事が出来ひんという事は、貴方も悩んでるという事やね?唯菜ちゃんは、これから大きくなる。女になる成長もこれからある――まだ若い独身の篠原さん一人では、大変やと思います」
「――はい。自分でも分かってます…でも、唯菜は兄の残したたった一人の俺の家族なんです。俺が成長を見守って兄に報告せな、死んだ家族たちに顔向けできないんです…」
 養女に出せ、そう言われている気がした。慌てた篠原はどう答えていいか分からず、思うように言葉が出ない。
「心配せんでええ。うちは、唯菜ちゃんと貴方を引き離すつもりでここに来たんやあらへん。雪之丞と、組長に話はしてます。学校が変わる事になるけど…貴方達二人、うちの所に来たらええ。貴方が仕事の時はうちが世話見るし、家に居る時は二人でおられるようにする。勿論、居候の食費は貰うで?どないや」
 篠原の心配そうな顔で、彼の心の内が分かったのだろう。頼子は優し気に笑うと、そう篠原に話した。
「え?…頼子さんの所に、…ですか?」
 篠原は、頼子の話が最初頭に入らず、混乱していた。
「幸い、うちは家だけは大きくてなぁ。池田も、うちの家の居るんよ。まあ、護衛も兼ねてるんやろうけどなぁ…うちは、本当は女の子育ててみたいと思っててん。貴方からきちんと食費貰ったら、下宿になるやろ?家主と下宿人の関係や。うちは組の事について関わってへんから、反社との付き合いやないって言えばええ」
「なんで…なんで、俺達にそこまでしてくれるんですか…?」
 篠原は、桜海會とは深い関わりがない。この春に曽根崎警察署期異動になってから、香田や池田と顔見知り程度になっただけだ。桜海會に入るつもりもない。彼らがこんなにも自分に良くしてくれる理由が分からない。

「貴方達が追っかけてる『桐生』は、うちの――雪之丞の腹違いの兄を殺したんよ。だから、一条櫻子さんの傍にいれば、桐生の動きが分かる。ま、組にしたら取引や。一条櫻子さんにも、ちゃんと話付けてる。けど、うちは唯菜ちゃんを預かった時から可愛く思えてなぁ…単純に、世話したいだけや。それに、篠原さん――貴方、うちの初恋の男の子に似てるんよ」
「え!?」
 母親以上の女性の言葉に赤くなる篠原に、頼子は楽し気に吹き出して笑った。それにつられる様に、ようやく篠原も笑った。

「おばちゃん、おじちゃん、アイス買ってきたよー!」
 そこに、明るい声の唯菜と池田が入って来た。篠原と目が合った池田は、何も言わずに頷いた。「安心したらええ」と、促すように。
「おかえり、唯菜ちゃん」
「おかえり、唯菜。あんな――学校変わるけど、頼子さんの家で暮らしてもええか?池田さんもいるから、賑やかになるで?」
 篠原に、迷いはなかった。唯菜はきょとんとしていたが、頼子と池田の顔を見てから篠原に笑いかけた。
「うん、じいちゃんとばあちゃんいなくて、おじちゃん大変みたいやし。学校変わっても、唯菜は良いよ。はい、アイス解けるからはよ食べよう」
 
 ――大人になったなぁ…。

 篠原は、アイスを受け取りながら唯菜を見つめた。両親の惨殺の記憶を封じた代わりに、唯菜は他のクラスメイトと比べて精神的に幼いままだった。だが、篠原の負担も考えられるようになっている。

 兄さん、唯菜だけは必ず守るから――

 篠原はアイスの封を開けて、それを一口齧った。
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