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アリアドネのカタストロフィ
プロローグ
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桜の花が吹く風で舞い散る池田市の五月山公園で、櫻子は父の幸也と母の菫と3人でピクニックに来ていた。母は料理が好きで、お弁当は父の好きなから揚げや玉子焼き。小さな櫻子には少し苦手な人参が、細かく斬られて混ぜ込まれたオムライス風のおにぎり。エビフライにマカロニサラダ。ブロッコリーとウィンナー、プチトマトが時折顔を覗かせる鮮やかな弁当に、櫻子も幸也も顔を輝かせて弁当箱を覗き込んでいた。
「おじいちゃんも、きたらよかったのにね」
櫻子が早速エビフライをフォークで刺すと、小さな口で頬張った。サクサクカリカリに揚げられたエビフライは、エビの甘さが口に広がり磯の風味が際立って美味しかった。
「おじいちゃんは、今日は病院だから来れないの。でも、同じお弁当を置いてきたから大丈夫」
幼い櫻子から見ても、菫は美しかった。父によく、「お母さんは天使なの?」と、よく聞いたものだ。幸也は美しい菫と可愛い櫻子を溺愛していて、優しかった。優しい家族に包まれて、毎日が幸せだった。
「さくらこちゃーん!」
金色の髪を風に舞わせながら、幼い流星が手を振りビニールシートに座る櫻子達の所に来た。櫻子は、笑顔で手を振り返した。
「りゅうせいくん、いっしょにたべよう!」
「流星君、嫌いなのはない?一緒に食べましょ。はい、櫻子の隣に座ってね」
「うん!さくらこちゃん、たべたらウォンバットみにいこう?」
流星が、菫から渡されたフォークで空揚げを刺した。にこにこと、日本で2番目に小さいと言われる動物園に顔を向けた。
「いいよ、ちゃんとおかおみせてくれるかな?おしりばっかりだもん」
「なまえよんだら、きっとこっちむいてくれるよ」
仲良く話す櫻子と流星を眺めて、幸也は笑った。
「櫻子は、流星君が好きやなぁ。櫻子と流星君が結婚したら、父さん寂しいなぁ」
「けっこんするもんねー!」
――起きて…
「うん、はなよめさんになるの!でも、けっこんしてもさくらこはおとうさんもおかあさんと、ずっとなかよしだよ!」
――お願いしま…起き…いち…
暖かな、和やかな世界だった。櫻子はこのぬるま湯のような世界に幸せに浸っていたいが、どこかで誰かが自分を呼ぶ声が聞こえていた。聞きたくない、と櫻子は菫に抱き着いた。
「お母さん、助けて!」
「起きるんだ、櫻子さん。君は、こんな偽りの世界で満足する人じゃないだろう」
菫の口から、聞いた事がある男の声が聞こえた。驚いて、櫻子は菫から離れた。すると、菫と幸也と流星の姿が、どろりと溶ける様に消えていく。見慣れた五月山公園の風景も消えていき、真っ黒な世界に櫻子だけが残った。しかし、溶けた筈の菫の姿は、10代後半の少年の姿に変わった。
「僕は君とまた会えるよ。『君ならこっちへ来れる』筈だから」
「桐生!」
叫んだ櫻子は、その自分の声で目を覚ました。過呼吸になりそうな息を、深く深呼吸して整える。息を抑えながら辺りを窺うと、眠る前に見た病室の様だった。
「無理に起こして、すみません」
その言葉は、夢で時折聞いた男の声だ――視線を向けると、疲れたような宮城がいた。そして、その後ろに篠原と笹部も控えている。雨が降っているのか、時折雷の音が響くように聞こえた。
「いいえ、大丈夫よ――今は何時?何かあったの?」
櫻子はゆっくり上体を起こして、ベッドの脇にいる宮城に顔を向けた。いつも一緒の竜崎がいない事が、ふと気にはなった。
「深夜2時です。実は…警視を起こしたのには、あなたが休まれている間に重要な事件が起きたからです」
宮城の顔色は優れない。それは、篠原も同じだった。笹部の表情からは、何も読み取れなかった。
「何があったの?」
櫻子は、ゆっくり訊ねた。この感覚は、警視庁に入ってから覚えた――身内に何か起きたのだ。その、緊張感だ。最近だと、宮城が襲われた時の感じと似ていた。
「竜崎の家族が、全員殺されました。幸い竜崎自身は無事ですが、気を失って今は伊丹の病院に運ばれました。発見した時に俺に電話してきたんですが…気を失う前に、『桐生の仕業』と口にしていました」
櫻子の顔が強張った。
一家連続殺人事件。
それを一番先に気付いたのは、竜崎だった。
「管轄が兵庫県になるので、我々も捜査出来る様に警視から口添えをお願いしたく…一条警視!」
櫻子は唇を強く噛み絞めたため、唇が切れて真っ白なシーツにポタポタと血を滴らせていた。
「分かったわ、私から向こうに連絡をする。宮城さんは、景光の事件の裏取りを同時進行する準備をしてくれるかしら?朝から向こうに行ける様に、お願いね。私は今から、現場に行くわ」
顎を伝う血も気にせず、櫻子は宮城にそう指示をしてベッドから降りた。ベッドの下に櫻子のヒールは置かれていて、ジャケットは枕元にあったのを手にして羽織った。
「分かりました――よろしくお願いします。けど、無理はせんといて下さいね」
宮城は櫻子に敬礼をすると、慌ただしく部屋を出て行った。
バン!
降りたベッドを両手で叩いて、櫻子はいつもの表情に戻った。
「篠原君、タクシーを呼んでくれない?今から伊丹に向かうわ」
「…はい」
病室から出て、篠原はタクシーを呼ぶためにスマホを取り出した。笹部はゆっくり櫻子に歩み寄ると、ポケットから取り出したハンカチを渡した。
「有難う」
驚くほど、櫻子の表情に感情がなかった。受け取ったハンカチで、顎を伝う血を拭った――ハンカチからは、微かにミントの香りがした。
「おじいちゃんも、きたらよかったのにね」
櫻子が早速エビフライをフォークで刺すと、小さな口で頬張った。サクサクカリカリに揚げられたエビフライは、エビの甘さが口に広がり磯の風味が際立って美味しかった。
「おじいちゃんは、今日は病院だから来れないの。でも、同じお弁当を置いてきたから大丈夫」
幼い櫻子から見ても、菫は美しかった。父によく、「お母さんは天使なの?」と、よく聞いたものだ。幸也は美しい菫と可愛い櫻子を溺愛していて、優しかった。優しい家族に包まれて、毎日が幸せだった。
「さくらこちゃーん!」
金色の髪を風に舞わせながら、幼い流星が手を振りビニールシートに座る櫻子達の所に来た。櫻子は、笑顔で手を振り返した。
「りゅうせいくん、いっしょにたべよう!」
「流星君、嫌いなのはない?一緒に食べましょ。はい、櫻子の隣に座ってね」
「うん!さくらこちゃん、たべたらウォンバットみにいこう?」
流星が、菫から渡されたフォークで空揚げを刺した。にこにこと、日本で2番目に小さいと言われる動物園に顔を向けた。
「いいよ、ちゃんとおかおみせてくれるかな?おしりばっかりだもん」
「なまえよんだら、きっとこっちむいてくれるよ」
仲良く話す櫻子と流星を眺めて、幸也は笑った。
「櫻子は、流星君が好きやなぁ。櫻子と流星君が結婚したら、父さん寂しいなぁ」
「けっこんするもんねー!」
――起きて…
「うん、はなよめさんになるの!でも、けっこんしてもさくらこはおとうさんもおかあさんと、ずっとなかよしだよ!」
――お願いしま…起き…いち…
暖かな、和やかな世界だった。櫻子はこのぬるま湯のような世界に幸せに浸っていたいが、どこかで誰かが自分を呼ぶ声が聞こえていた。聞きたくない、と櫻子は菫に抱き着いた。
「お母さん、助けて!」
「起きるんだ、櫻子さん。君は、こんな偽りの世界で満足する人じゃないだろう」
菫の口から、聞いた事がある男の声が聞こえた。驚いて、櫻子は菫から離れた。すると、菫と幸也と流星の姿が、どろりと溶ける様に消えていく。見慣れた五月山公園の風景も消えていき、真っ黒な世界に櫻子だけが残った。しかし、溶けた筈の菫の姿は、10代後半の少年の姿に変わった。
「僕は君とまた会えるよ。『君ならこっちへ来れる』筈だから」
「桐生!」
叫んだ櫻子は、その自分の声で目を覚ました。過呼吸になりそうな息を、深く深呼吸して整える。息を抑えながら辺りを窺うと、眠る前に見た病室の様だった。
「無理に起こして、すみません」
その言葉は、夢で時折聞いた男の声だ――視線を向けると、疲れたような宮城がいた。そして、その後ろに篠原と笹部も控えている。雨が降っているのか、時折雷の音が響くように聞こえた。
「いいえ、大丈夫よ――今は何時?何かあったの?」
櫻子はゆっくり上体を起こして、ベッドの脇にいる宮城に顔を向けた。いつも一緒の竜崎がいない事が、ふと気にはなった。
「深夜2時です。実は…警視を起こしたのには、あなたが休まれている間に重要な事件が起きたからです」
宮城の顔色は優れない。それは、篠原も同じだった。笹部の表情からは、何も読み取れなかった。
「何があったの?」
櫻子は、ゆっくり訊ねた。この感覚は、警視庁に入ってから覚えた――身内に何か起きたのだ。その、緊張感だ。最近だと、宮城が襲われた時の感じと似ていた。
「竜崎の家族が、全員殺されました。幸い竜崎自身は無事ですが、気を失って今は伊丹の病院に運ばれました。発見した時に俺に電話してきたんですが…気を失う前に、『桐生の仕業』と口にしていました」
櫻子の顔が強張った。
一家連続殺人事件。
それを一番先に気付いたのは、竜崎だった。
「管轄が兵庫県になるので、我々も捜査出来る様に警視から口添えをお願いしたく…一条警視!」
櫻子は唇を強く噛み絞めたため、唇が切れて真っ白なシーツにポタポタと血を滴らせていた。
「分かったわ、私から向こうに連絡をする。宮城さんは、景光の事件の裏取りを同時進行する準備をしてくれるかしら?朝から向こうに行ける様に、お願いね。私は今から、現場に行くわ」
顎を伝う血も気にせず、櫻子は宮城にそう指示をしてベッドから降りた。ベッドの下に櫻子のヒールは置かれていて、ジャケットは枕元にあったのを手にして羽織った。
「分かりました――よろしくお願いします。けど、無理はせんといて下さいね」
宮城は櫻子に敬礼をすると、慌ただしく部屋を出て行った。
バン!
降りたベッドを両手で叩いて、櫻子はいつもの表情に戻った。
「篠原君、タクシーを呼んでくれない?今から伊丹に向かうわ」
「…はい」
病室から出て、篠原はタクシーを呼ぶためにスマホを取り出した。笹部はゆっくり櫻子に歩み寄ると、ポケットから取り出したハンカチを渡した。
「有難う」
驚くほど、櫻子の表情に感情がなかった。受け取ったハンカチで、顎を伝う血を拭った――ハンカチからは、微かにミントの香りがした。
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