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文車妖妃(ふぐるまようひ)の涙
エピローグ
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18時を過ぎると、櫻子は2人を帰した。そうして自分も『特別心理犯罪課』にしっかり鍵を閉めて、曽根崎警察を後にした。
今日は、どうしても飲みたい酒があった。帰り際にスマホで検索して、櫻子はお初天神の脇道に入り日本酒Barと書かれた店に入った。幸い店はそう混んでなく、櫻子は直ぐにテーブルに通された…の、だが。そこには、桜海會の若頭である香田が座っていた。
「すみません、違う席を…」
「いやいや、来るのを待ってたんや。早よ座り」
席に案内して去って行こうとする店員を呼ぼうとした櫻子の右手首を掴んで、香田は女好きのする渋みのある笑顔を浮かべた。
「――本当は困るのよ、こういうの」
腕を離そうとしない香田の顔を見つめ、櫻子は大きく溜息を零すと彼の向かい側の席に座った。反社会勢力の彼と酒を飲んでいる姿を、もし本庁の者に見られれば刑事局長に迷惑がかかる。
だが今は、警察や公安と関わりのない彼が酒の相手だと、少し気が休まる気がした――そうして、亡くなってしまった紗季を少し思い出す。彼女の追悼に、彼と共に飲むのは丁度いいように思えた。
「飲みに来たって事は、抱えてる事件が終わったんやろ?ま、乾杯や」
香田は全く気にする様子もなく、店員を呼び「持ってきてくれ」と何か頼む。その間に、櫻子の前には先付が並べられた。テーブルには、彼が頼んだだろう魚料理が多く並んでいる。不思議そうな櫻子の顔に気が付いたのか、「ここは魚が美味しいんや」と香田は教えた。
「お待たせしました、呉春特吟です」
店員が、日本酒の入ったグラスを2個持ってきた。その名を聞いた櫻子は、彼が自分の事を調べた事が分かった。テーブルに置かれたグラスに、そっと手を添えた。
呉春は、大阪府池田市の現在唯一残った酒造だ。江戸中期である元禄には甘口の酒が流行っていたが、池田市と隣に位置する兵庫県川西市の間を流れる猪名川の水で作られた、当時珍しかった辛口の酒だ。小さい蔵元の為あまり出回る酒ではなく、呉春が認めた所にしか卸されない。
現在は五月山から流れる水脈を井戸で汲み上げて、仕込みに使われている。
「飲んだ事がなかったのよね――丁度今日、飲みたかったの」
櫻子は小さく笑うと、グラスを上げる。香田もグラスを手にすると、カチンと音を立てて櫻子のグラスに触れさせた。店員が、呉春の酒瓶を持ってきて、テーブルに置いて行く。
「池田に買いに行かせたんや。1升瓶やから、飲み干さな帰さへんからな」
香田は綺麗な透明の酒を、ぐいと一息で飲み干した。それを見た櫻子も、一口飲んで味を確かめる――記憶が廻り、小さかった自分を思い出す。菫の父――櫻子の祖父が、風呂上りに美味しそうに晩酌をしていた。櫻子にとって、小さな頃の記憶にある酒の1つだ。もう1つは、父が非番の日に飲んでいたビール。早く彼らと一緒に飲みたいと思っていたが、それは叶わなかった。
「こんなの、2人では飲みきれないわよ」
明日も仕事だ。二日酔いで出勤するのだけは、嫌だった。
「無粋やなぁ…なら、真田と池田、こっち来い」
溜息混じりの香田は、違うテーブルに居た2人を呼んだ。白いスーツ姿にアクセサリーを沢山身に付けた池田と、端正な顔立ちだがどこか神経質そうな深いグレーの背広姿で眼鏡をかけた真田が、立ち上がってこちらに歩いてくる。正反対の印象の彼らだが、仲は良さそうに見える。
「姐さん、ご無沙汰してます。お邪魔しますね」
カラフルなヘアピンで前髪を留めた池田はへらへらと笑い、瓶を抱えると香田のグラスに酒を注ぐ。真田は懐から名刺を取り出すと、丁寧に櫻子に差し出す。
「弁護士の真田と申します」
櫻子は2人に軽く頭を下げて、真田の名刺も受け取った――真田伊織という、彼に良く似合った古風な名前だった。
「伊織せんせも、ほらどうぞ!」
池田は店員にグラスを頼んで、それが届けられると早速真田に渡して酒を注ぐ。そして自分のグラスにも注いで、グラスを掲げた。
「今日も綺麗な姐さんに乾杯!」
まだ若く賑やかな池田の空気に飲まれ、奇妙な4人の酒の席は意外に酒が進んで、櫻子に自然な笑顔が浮かんだ。そのお陰か、1升の酒はすぐに無くなりそうだった。
店を出ると以前の時の様にほろ酔いになった櫻子の為に、池田がタクシーを拾いに向かう。真田は会計をしていた。
「今日は目薬を用意しようと思ってたけど――大丈夫そうやな」
目元にかかる櫻子の前下がりの髪を指先で上げて、店に来るまで僅かに赤かった瞳が治っているのを確かめた香田は、唇の端を上げて小さく笑った。
「『桐生』って奴は、そんなにヤバい奴なんか?」
香田のその問いに、酔っていた櫻子の顔がすっと真顔に変わる。その様子に、香田は答えを聞かずとも危険な人物であると再確認した。
真田に櫻子を調べさせ、『桐生蒼馬』という男のが浮上した。だが、彼の経歴や犯罪歴全てに警察と公安による厳重なガードがされていて、まだ実体が分からない。しかし、この男の為に彼女が大阪に帰って来た事だけは、分かった。
ただの犯罪者なら気にしないが――だが昔、桜海會に挑んできた謎の若い男がいた。組の者が多く殺され、仕返ししようにもその男は鮮やかに姿を消してしまった。香田は秘かに、その男を探していた。もし、その事件に桐生が関わっていたなら、もっと彼女に張り付いて調べなければいけない。
そして、処分しなければならない。
「貴方まで、あの人を知ってるの?――すごい男よね、でも負けないわ」
櫻子は、改めて自分に誓った。自分の今までの人生を取り戻すために、『桐生の全ての罪』を明らかにする。そして、解放されるために。
「――ええ目、してるな」
香田は瞳を細めて、何処か眩しそうに櫻子を見つめた。
「姐さん、タクシー来ましたよー!」
そこに池田が現れて、会計をしていない櫻子が慌てて自慢のバックから財布を取り出そうとしたが、香田がまた止めた。
「女に金出させるなんて、野暮な事させんといてくれや」
接待に思われる…と櫻子は迷ったが、香田に小さく頭を下げた。その櫻子の背中を押して、池田は待たせているタクシーに向かう。
「ご馳走様でした――あのお酒を用意してくれて、有難う」
櫻子の、小さなお礼の言葉を残して。
「これからも、彼女の行動を探ります。あんなに厳重なガード、すぐには開けられません」
店から出てきた真田はそう言って、財布をスーツに戻す。桐生の経歴についての事だろう。香田は頷いた。
「名前の通り――桜吹雪、起こしよるな」
香田は櫻子の向かった反対側に向かい、大阪の夜の闇の中に姿を消した。
今日は、どうしても飲みたい酒があった。帰り際にスマホで検索して、櫻子はお初天神の脇道に入り日本酒Barと書かれた店に入った。幸い店はそう混んでなく、櫻子は直ぐにテーブルに通された…の、だが。そこには、桜海會の若頭である香田が座っていた。
「すみません、違う席を…」
「いやいや、来るのを待ってたんや。早よ座り」
席に案内して去って行こうとする店員を呼ぼうとした櫻子の右手首を掴んで、香田は女好きのする渋みのある笑顔を浮かべた。
「――本当は困るのよ、こういうの」
腕を離そうとしない香田の顔を見つめ、櫻子は大きく溜息を零すと彼の向かい側の席に座った。反社会勢力の彼と酒を飲んでいる姿を、もし本庁の者に見られれば刑事局長に迷惑がかかる。
だが今は、警察や公安と関わりのない彼が酒の相手だと、少し気が休まる気がした――そうして、亡くなってしまった紗季を少し思い出す。彼女の追悼に、彼と共に飲むのは丁度いいように思えた。
「飲みに来たって事は、抱えてる事件が終わったんやろ?ま、乾杯や」
香田は全く気にする様子もなく、店員を呼び「持ってきてくれ」と何か頼む。その間に、櫻子の前には先付が並べられた。テーブルには、彼が頼んだだろう魚料理が多く並んでいる。不思議そうな櫻子の顔に気が付いたのか、「ここは魚が美味しいんや」と香田は教えた。
「お待たせしました、呉春特吟です」
店員が、日本酒の入ったグラスを2個持ってきた。その名を聞いた櫻子は、彼が自分の事を調べた事が分かった。テーブルに置かれたグラスに、そっと手を添えた。
呉春は、大阪府池田市の現在唯一残った酒造だ。江戸中期である元禄には甘口の酒が流行っていたが、池田市と隣に位置する兵庫県川西市の間を流れる猪名川の水で作られた、当時珍しかった辛口の酒だ。小さい蔵元の為あまり出回る酒ではなく、呉春が認めた所にしか卸されない。
現在は五月山から流れる水脈を井戸で汲み上げて、仕込みに使われている。
「飲んだ事がなかったのよね――丁度今日、飲みたかったの」
櫻子は小さく笑うと、グラスを上げる。香田もグラスを手にすると、カチンと音を立てて櫻子のグラスに触れさせた。店員が、呉春の酒瓶を持ってきて、テーブルに置いて行く。
「池田に買いに行かせたんや。1升瓶やから、飲み干さな帰さへんからな」
香田は綺麗な透明の酒を、ぐいと一息で飲み干した。それを見た櫻子も、一口飲んで味を確かめる――記憶が廻り、小さかった自分を思い出す。菫の父――櫻子の祖父が、風呂上りに美味しそうに晩酌をしていた。櫻子にとって、小さな頃の記憶にある酒の1つだ。もう1つは、父が非番の日に飲んでいたビール。早く彼らと一緒に飲みたいと思っていたが、それは叶わなかった。
「こんなの、2人では飲みきれないわよ」
明日も仕事だ。二日酔いで出勤するのだけは、嫌だった。
「無粋やなぁ…なら、真田と池田、こっち来い」
溜息混じりの香田は、違うテーブルに居た2人を呼んだ。白いスーツ姿にアクセサリーを沢山身に付けた池田と、端正な顔立ちだがどこか神経質そうな深いグレーの背広姿で眼鏡をかけた真田が、立ち上がってこちらに歩いてくる。正反対の印象の彼らだが、仲は良さそうに見える。
「姐さん、ご無沙汰してます。お邪魔しますね」
カラフルなヘアピンで前髪を留めた池田はへらへらと笑い、瓶を抱えると香田のグラスに酒を注ぐ。真田は懐から名刺を取り出すと、丁寧に櫻子に差し出す。
「弁護士の真田と申します」
櫻子は2人に軽く頭を下げて、真田の名刺も受け取った――真田伊織という、彼に良く似合った古風な名前だった。
「伊織せんせも、ほらどうぞ!」
池田は店員にグラスを頼んで、それが届けられると早速真田に渡して酒を注ぐ。そして自分のグラスにも注いで、グラスを掲げた。
「今日も綺麗な姐さんに乾杯!」
まだ若く賑やかな池田の空気に飲まれ、奇妙な4人の酒の席は意外に酒が進んで、櫻子に自然な笑顔が浮かんだ。そのお陰か、1升の酒はすぐに無くなりそうだった。
店を出ると以前の時の様にほろ酔いになった櫻子の為に、池田がタクシーを拾いに向かう。真田は会計をしていた。
「今日は目薬を用意しようと思ってたけど――大丈夫そうやな」
目元にかかる櫻子の前下がりの髪を指先で上げて、店に来るまで僅かに赤かった瞳が治っているのを確かめた香田は、唇の端を上げて小さく笑った。
「『桐生』って奴は、そんなにヤバい奴なんか?」
香田のその問いに、酔っていた櫻子の顔がすっと真顔に変わる。その様子に、香田は答えを聞かずとも危険な人物であると再確認した。
真田に櫻子を調べさせ、『桐生蒼馬』という男のが浮上した。だが、彼の経歴や犯罪歴全てに警察と公安による厳重なガードがされていて、まだ実体が分からない。しかし、この男の為に彼女が大阪に帰って来た事だけは、分かった。
ただの犯罪者なら気にしないが――だが昔、桜海會に挑んできた謎の若い男がいた。組の者が多く殺され、仕返ししようにもその男は鮮やかに姿を消してしまった。香田は秘かに、その男を探していた。もし、その事件に桐生が関わっていたなら、もっと彼女に張り付いて調べなければいけない。
そして、処分しなければならない。
「貴方まで、あの人を知ってるの?――すごい男よね、でも負けないわ」
櫻子は、改めて自分に誓った。自分の今までの人生を取り戻すために、『桐生の全ての罪』を明らかにする。そして、解放されるために。
「――ええ目、してるな」
香田は瞳を細めて、何処か眩しそうに櫻子を見つめた。
「姐さん、タクシー来ましたよー!」
そこに池田が現れて、会計をしていない櫻子が慌てて自慢のバックから財布を取り出そうとしたが、香田がまた止めた。
「女に金出させるなんて、野暮な事させんといてくれや」
接待に思われる…と櫻子は迷ったが、香田に小さく頭を下げた。その櫻子の背中を押して、池田は待たせているタクシーに向かう。
「ご馳走様でした――あのお酒を用意してくれて、有難う」
櫻子の、小さなお礼の言葉を残して。
「これからも、彼女の行動を探ります。あんなに厳重なガード、すぐには開けられません」
店から出てきた真田はそう言って、財布をスーツに戻す。桐生の経歴についての事だろう。香田は頷いた。
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