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第6話 近づく嵐
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「これはヤバそうですね」
そう言って研究室に駆け込んできた奴がいたので、天翔は何事だと顔を上げた。パソコンに集中していて時間を忘れていたので、すでに時刻が三時を回っていたことにも驚いてしまう。
駆け込んできたのは、天翔の元で研究している博士課程の中井主馬だ。眼鏡が特徴の真面目な学生で、彼がヤバいと表現するのは珍しかった。
「どうした。何かあったか」
「かなり曇ってきたんですよ。これは一雨来ますよ。あまり激しくならなければいいんですが」
ほらっと窓の外を指差すので、天翔はそちらに目をやった。すると確かに窓の外は重く暗い雲に覆われている。今にも雷が鳴りそうな雰囲気だ。
「確かに拙いな。望遠鏡を仕舞って対策を立てた方がいい」
これはのんびりと自分の論文に取り組んでいる場合ではないと、天翔は慌てて立ち上がった。それに倣って他の人たちも立ち上がる。望遠鏡を守るのは最優先事項だ。万が一、望遠鏡に雷が落ちるようなことがあれば一大事となる。被害額がいくらになるか解ったものではない。さらに重要なのはお金には換算することが出来ない貴重なデータがあることだ。何としても天体望遠鏡と周辺機器は守らなければならない。
「島田は他の研究室に連絡を入れてくれ。中井は所長に連絡を。もう気づいている可能性はあるが、南館の望遠鏡についても対策を取ってもらわないとな。阿部と平沢はついて来てくれ」
点でバラバラに動いては意味がないと、研究室の主である天翔はてきぱきと指示を出した。そのおかげで一時はそわそわした空気となった研究室の中が落ち着きを取り戻す。そしてそれぞれが指示されたとおりに動き始めた。
「まだ時間はある。それにこのまま過ぎる可能性もあるからな。ただ、出来るだけの対策を取るだけだ」
落ち着いたのを確認し、天翔は名前を呼んだ二人の学生、修士課程の安倍伸司と学部四年の平沢佐介を連れて研究室の外に出た。すると、仮眠から起きていた葉月が学生とともに隣の研究室から出てきたところだった。
「気象庁に問い合わせたら、発達した雨雲が近づいているって。それもかなり大きなものらしいよ」
すでに気象状況を調べた葉月が深刻な顔で告げる。どうやらやって来ている雨雲はゲリラ豪雨をもたらすような急速に発達したものではなく、日本海側から帯状になってやって来ているそうだ。このままやって来ると大雨になる可能性があった。
「それは拙いな。所長には」
「伝えたわ。一先ず望遠鏡の天井を閉めるのと、コンピュータ関係の対策ね。雨漏りをしているところがないかチェック。それと、高台だから大丈夫だと思うけど浸水対策もした方がいいって」
すでに所長である雅之の耳に入り、対策に対しての指示があったという。これは心強かった。天翔はほっと息を吐くと、焦る気持ちを整える。
「解った。俺たちは天文台の天井を閉めに行くから、コンピュータは頼む」
手分けした方が早いと、二人は頷き合った。これは本格的なものとなる。今夜は帰れないなと、天翔は窓から見える急速に暗くなっていく空に舌打ちした。
「よお。俺も行く」
三人が早足で駆けていると後ろから将貴が追い付いてきた。他のところは人員が足りているから追い払われたと将貴は笑った。
「どうやら俺たちが一番遅く動いているのか」
「いや、ほぼ同時だぜ。こんなに暗くなったのはついさっきだ」
階段を駆け上がると重々しいドアが目の前に現れる。天文台に繋がるドアだ。それを持っていた鍵で開け、四人は中へと流れ込んだ。
天文観測の準備のために開けられている天井から見える空は、今にも降り出しそうに重々しくなっている。これは急がなければならない。
この天文台にある天体望遠鏡は大型反射式望遠鏡と呼ばれるもので、望遠鏡の口径が二〇〇センチもああり、日本最大級の大きさを誇っている。望遠鏡はコンピュータによる完全自動制御が可能となっており、そのために自家発電が備えられていた。
「ここのコンピュータの自家発電が動くか調べる」
将貴は落雷で電気が止まってもデータが飛ばないようにと、天文台室の横にある自家発電機の置かれた部屋へと駆けて行った。その間に天翔たちは天井を閉じるボタンを押す。そして万が一雨漏りしても大丈夫なように周辺機器にカバーを掛けて行った。
「うわっ」
急に空が明るくなったと思ったら、どんっと大きな音が鳴った。雷が近づいてきたのだ。それもかなり早い。
「あと少し」
開いていた部分が小さかったとはいえ、重い天井が閉まるのには時間が掛かる。あと少しだけ雨が降らないでくれれば、そう祈りながら急いで不要な機械類の電源を落とした。被害を少しでも少なくするためだ。
「こっちは大丈夫だ」
自家発電のチェックを終えた将貴が、天井の閉まる様子を見つめる天翔の横に駆け寄ってくる。そこに新たな閃光が走った。続いて大きな音が鳴る。そして激しい雨音が鳴り響いた。天井を叩くその音はどんどん大きくなっていく。
「これはきついな」
「ああ」
思わず耳を塞いで顔を伏せていた二人が、もう一度天井を見ると無事に閉まった後だった。何とか雨が降る前に天井を閉じることは出来たが、この先が不安になる。他の二人も激しく打ち付ける雨音につられて天井を見上げていた。
「ともかく気象情報に注意しないとな。どこかに一回集まるべきだろう。所長に指示を仰ぐか」
天翔はここはもう大丈夫だろうと、学生二人を促して天文台室から出た。最後に将貴が対策の終わっていない箇所がないか見回って出る。これから全員で泊まるとなるか、一部は帰ることが可能なのか。しかしそんな考えも、この激しい雨音に消えそうになる。このままでは本当に雨のせいで帰ることが不可能になりそうだった。
「嫌な予感がするな」
「そういうこと言うなよ」
思わず呟いた天翔に、追いついた将貴がすかさず注意する。それは将貴も同じ懸念を抱いている証拠だった。それを裏付けるかのように大きな雷の音が廊下に響く。それで気持ちが怯んだ二人は、足早に天文台室の階段を降りていた。
「あ、いた。もう大変だったのよ」
階段を降り切ると、雨合羽を着た葉月がやって来た。前髪も合羽もしとどに濡れていて、外に出ていたのは一目で解るがどうしてだろうか。葉月はたしかコンピュータの制御室に向かったはずだ。先ほど会った時は雨合羽を持っていなかったし、何より外に出る用事はない。天翔がそう思って不思議そうに見ていると、ああこれっと気づいた葉月が雨合羽を引っ張った。
「ああ、これ。あの坂井のせいよ。制御室に行こうとしたら呼び止められてね。南館は今日が休業日の影響で人員が足りないから応援に行ってくれって。自分が行けばいいのに。もう大変だったんだから。ねえ、坂本」
ねえと、葉月は後ろからタオルとビニール袋を持って追い駆けてきた博士課程の学生である坂本修実へと声を掛けた。修実は身長が百八十ある影響でここに常備されていた合羽が合わなかったらしい。ズボンも髪も濡れてしまっていた。
ここの天文台は南館にも天体望遠鏡が備え付けられている。北館の望遠鏡が新しく着けられるまでは南館の望遠鏡で観測していて、今でも現役だ。南館の天体望遠鏡は口径が六〇センチの反射望遠鏡だ。こちらの望遠鏡も壊れては多くの研究者が困る。
「凄い雨です。台風並みですよ」
修実は困ったと額に張り付く前髪を払いながら言った。それだけで雫が飛ぶ。すでに本降りだということは、そんなところからも実感できた。
「台風か。被害が出なければいいんだが」
そう天翔が懸念を口にしたところに、館内放送を告げる音が鳴った。
『職員及び学生は直ちにミーティングルームに集まってください。繰り返します。直ちにミーティングルームに集まってください』
続いてそう恭輔がアナウンスする。これはいよいよ差し迫った状況らしい。天翔が集合することを提案するよりも前に恭輔が手はずを整えていた。
「急ごう」
将貴の一言で、その場にいた全員が廊下を進み出した。その間にも雷はごろごろと音を立て、窓ガラスに激しく打ち付ける雨音が館内に響く。建物の中でこれだけ音を聞き取れるほど降っているとなると、記録的豪雨になるのではと心配になった。
「こうなるんだったら家に帰るんだったわ。ここでやらなければ論文が一日遅れるってこともないんだし」
家でやればよかったと、昨日から泊まり込んでいる葉月は、家でゆっくりお風呂に入りたいと文句を言う。恵介によって南館の手伝いをさせられるし、このままでは帰れなくなりそうだ。まったくついていない。
ミーティングルームは階段を挟んで研究室とは反対側にあった。天翔たちは一度研究室方向に戻り、そこからミーティングルームに向かうことになる。
「あ、団体ですねえ」
階段を過ぎようとした時、下から上がって来た研究員の春日典佳に声を掛けられた。典佳はおっとりした性格で、今も一人マイペースでやっていましたという感じだ。二十九歳なのだが、どこか幼い雰囲気を持っていた。
「たまたまよ。そっちは何もしてなかったんじゃないでしょうねえ」
そんな典佳と仲のいい葉月は揶揄う。どうせどこかでのんびりしていたんだろうと笑っていた。
「ちゃんとやってましたよ。備蓄食料の確認をしていたんです。坂井さんが下手したら長期戦になるかもしれないから、確認してくれって」
ぷうと膨れる典佳は可愛いのだが、今はそれどころではなかった。
「ちっ。また坂井か」
葉月はお前も仕事しろと小さく悪態を吐く。そう、恵介は腰巾着であるだけでなく、仕事を人に指示するだけで自分は嫌なことをやらないところがあった。ここでも火種を抱えている。
「これは今夜、細心の注意を払わないとな。ていうか、お前が長期戦を考えるなよってとこか」
将貴は苦笑しながら天翔の肩を叩いてくる。言われるまでもなく注意はするが、そもそも天翔は今日まで恵介のことを意識したことはなかった。周囲にはあれこれ言っているようだが、天翔に向けて何かを言ってきたことはない。それを考えると、妙なケンカになることはまずないと思われる。
「さっさと行こう」
葉月が不機嫌な理由を知らない典佳は首を捻っていることだしなと、天翔は一行を促した。そして真っ先にミーティングルームに入る。
中はすでに事務員の大野広国と杉山真子が、協力してモニターやパソコンの準備を済ませていた。今から気象状況についての説明をするということだろう。窓際では館内放送を行った恭輔が、腕を組んで激しく降る雨を睨みつけていた。
部屋の中を見ると後は学生が徐々に集まり、部屋の後方の席に着いているだけだった。まだ恵介は来ないだろうと、天翔はちょっと気になるものの恭輔の元へと近づいた。
「先生」
「ああ。これはしばらく止みそうにないな。むしろ強まっている。雷もまだ鳴っているようだ」
見てみろと恭輔が首で外を指すので、天翔もそこから外の様子を確認した。なるほど、修実が台風と表現したように、外は雨で視界が利かない状態だった。風はそれほど吹いていないようだが、雨粒が当たる度に近くの木々がせわしなく揺れている。
「しばらく雨は抜けないようだ。それについて所長から説明がある」
「はい」
先に恵介が所長の雅之とともに入って来たことに気づいた恭輔が席に座るよう促す。やはり恭輔も最大限警戒するつもりなのだ。それを思うと、今日が泊りになるというのは気が重くなる。
恵介は一度天翔の方へと視線を向けたものの、雅之がいるために無表情を貫いていた。しかし何か冷たい空気が流れたように天翔は感じてしまう。
「意識し過ぎだな」
天翔は頭を掻くと最前列の席に座る。横は葉月と将貴だ。葉月の横に典佳が座っている。
「それでは揃ったようなので、今後の対策について説明を行います」
恭輔がそう開始を告げ、マイクを雅之に渡した。雅之は五十七歳なのだが、恰幅がよく髭を生やしていた。大きな眼鏡を掛けていることから、その姿は有名なアニメ映画の監督を彷彿とさせた。
「ええ、気象庁からの情報によると、現在この上を雨雲の帯が留まっている状況だという。この中で最近耳にしたことがある人もいるだろう、線状降水帯というヤツだ」
雅之の言葉に数人がどよめく。天翔もニュースで線状降水帯について聞いたことがあった。大雨が長く降り続くもので、各地で甚大な被害を引き起こしているものだ。発達した雨雲が同じ地域にずっと掛かり続け、大雨をもたらす。これは厄介だった。
恭輔が手早くパソコンを操作し、気象庁から配信されている雨雲の状況を前に設置されたモニターに映し出す。そこには雨雲がこの山の付近に集中している様子がはっきりと映っていた。それにどんどん大陸側から流れ込んでいるのが見て取れる。
「これを見てわかる通り、今降っている雨も、抜けるのにまだまだ時間が掛かるとしか言えない状況だ。気象庁から随時連絡は入るようになっているものの、予断を許さないのは確かだと肝に銘じてくれ。周辺の状況にも気を配ると同時に、今日は全員がここに留まるように。雨で視界が悪く、車での移動は困難だ。それに時間も夕方となり、余計に見通しが利かないからな。無理に帰して怪我人を出すわけにはいかん」
今日はここに泊まることを了承してくれと、雅之は厳しい表情だ。視界の悪さを強調しているが、本当の懸念は土砂崩れにあることは誰もが察知していた。近くに川が流れていることから、その懸念は当然だろう。まだごろごろと鳴り続ける雷も、窓を激しく叩く雨音も、それがいつ起こるかと気を焦らせるかのように耳に届く。
「寝る場所はこのミーティングルームを使うこととする。モニターも繋ぎっぱなしにするから、常に誰かが状況を確認できる。今から机と椅子を後ろの一か所に集めてくれ」
今はここに留まり状況を見る。その雅之の決断に合わせ、恭輔がそう指示を出した。どうやら集まった理由はここを拠点にするためというのがメインらしい。
「布団はどうします。さすがにないですよね」
ここで寝るのかと、将貴が気まずそうな学生たちを気遣って質問した。机と椅子を除ける必要もないのではとの思いもあった。
「何かあった時のために、常日頃から毛布は用意してある。枚数はここにいる人数分より多いから、何枚か使ってくれ。同じように段ボールも常備してあるから、それを床に敷けばまだマシなはずだ」
工夫すれば何とかなると、恭輔は苦笑した。たしかに床に雑魚寝は厳しいが、緊急事態に文句も言っていられないだろうというわけだ。
「なるほど。宿泊棟にも行けそうにないですしね」
雷と雨の激しさから、レストランの脇にある外部研究者用に用意されている宿泊施設に行くことも難しい。今日は布団を諦めるしかないというわけだ。
しかし将貴が質問を挟んだことでその場の空気は和んだ。誰ともなく仕方ないなと立ち上がり、長机の移動を開始する。
「後は何もないことを祈るだけ。だな」
まだ難しい顔をしている天翔に、お前も少しは気を抜けと将貴が笑った。
「そうだな」
しかしこの状況は気を抜いていられないと、天翔は表情を緩めることなく窓へと目を向けていた。
そう言って研究室に駆け込んできた奴がいたので、天翔は何事だと顔を上げた。パソコンに集中していて時間を忘れていたので、すでに時刻が三時を回っていたことにも驚いてしまう。
駆け込んできたのは、天翔の元で研究している博士課程の中井主馬だ。眼鏡が特徴の真面目な学生で、彼がヤバいと表現するのは珍しかった。
「どうした。何かあったか」
「かなり曇ってきたんですよ。これは一雨来ますよ。あまり激しくならなければいいんですが」
ほらっと窓の外を指差すので、天翔はそちらに目をやった。すると確かに窓の外は重く暗い雲に覆われている。今にも雷が鳴りそうな雰囲気だ。
「確かに拙いな。望遠鏡を仕舞って対策を立てた方がいい」
これはのんびりと自分の論文に取り組んでいる場合ではないと、天翔は慌てて立ち上がった。それに倣って他の人たちも立ち上がる。望遠鏡を守るのは最優先事項だ。万が一、望遠鏡に雷が落ちるようなことがあれば一大事となる。被害額がいくらになるか解ったものではない。さらに重要なのはお金には換算することが出来ない貴重なデータがあることだ。何としても天体望遠鏡と周辺機器は守らなければならない。
「島田は他の研究室に連絡を入れてくれ。中井は所長に連絡を。もう気づいている可能性はあるが、南館の望遠鏡についても対策を取ってもらわないとな。阿部と平沢はついて来てくれ」
点でバラバラに動いては意味がないと、研究室の主である天翔はてきぱきと指示を出した。そのおかげで一時はそわそわした空気となった研究室の中が落ち着きを取り戻す。そしてそれぞれが指示されたとおりに動き始めた。
「まだ時間はある。それにこのまま過ぎる可能性もあるからな。ただ、出来るだけの対策を取るだけだ」
落ち着いたのを確認し、天翔は名前を呼んだ二人の学生、修士課程の安倍伸司と学部四年の平沢佐介を連れて研究室の外に出た。すると、仮眠から起きていた葉月が学生とともに隣の研究室から出てきたところだった。
「気象庁に問い合わせたら、発達した雨雲が近づいているって。それもかなり大きなものらしいよ」
すでに気象状況を調べた葉月が深刻な顔で告げる。どうやらやって来ている雨雲はゲリラ豪雨をもたらすような急速に発達したものではなく、日本海側から帯状になってやって来ているそうだ。このままやって来ると大雨になる可能性があった。
「それは拙いな。所長には」
「伝えたわ。一先ず望遠鏡の天井を閉めるのと、コンピュータ関係の対策ね。雨漏りをしているところがないかチェック。それと、高台だから大丈夫だと思うけど浸水対策もした方がいいって」
すでに所長である雅之の耳に入り、対策に対しての指示があったという。これは心強かった。天翔はほっと息を吐くと、焦る気持ちを整える。
「解った。俺たちは天文台の天井を閉めに行くから、コンピュータは頼む」
手分けした方が早いと、二人は頷き合った。これは本格的なものとなる。今夜は帰れないなと、天翔は窓から見える急速に暗くなっていく空に舌打ちした。
「よお。俺も行く」
三人が早足で駆けていると後ろから将貴が追い付いてきた。他のところは人員が足りているから追い払われたと将貴は笑った。
「どうやら俺たちが一番遅く動いているのか」
「いや、ほぼ同時だぜ。こんなに暗くなったのはついさっきだ」
階段を駆け上がると重々しいドアが目の前に現れる。天文台に繋がるドアだ。それを持っていた鍵で開け、四人は中へと流れ込んだ。
天文観測の準備のために開けられている天井から見える空は、今にも降り出しそうに重々しくなっている。これは急がなければならない。
この天文台にある天体望遠鏡は大型反射式望遠鏡と呼ばれるもので、望遠鏡の口径が二〇〇センチもああり、日本最大級の大きさを誇っている。望遠鏡はコンピュータによる完全自動制御が可能となっており、そのために自家発電が備えられていた。
「ここのコンピュータの自家発電が動くか調べる」
将貴は落雷で電気が止まってもデータが飛ばないようにと、天文台室の横にある自家発電機の置かれた部屋へと駆けて行った。その間に天翔たちは天井を閉じるボタンを押す。そして万が一雨漏りしても大丈夫なように周辺機器にカバーを掛けて行った。
「うわっ」
急に空が明るくなったと思ったら、どんっと大きな音が鳴った。雷が近づいてきたのだ。それもかなり早い。
「あと少し」
開いていた部分が小さかったとはいえ、重い天井が閉まるのには時間が掛かる。あと少しだけ雨が降らないでくれれば、そう祈りながら急いで不要な機械類の電源を落とした。被害を少しでも少なくするためだ。
「こっちは大丈夫だ」
自家発電のチェックを終えた将貴が、天井の閉まる様子を見つめる天翔の横に駆け寄ってくる。そこに新たな閃光が走った。続いて大きな音が鳴る。そして激しい雨音が鳴り響いた。天井を叩くその音はどんどん大きくなっていく。
「これはきついな」
「ああ」
思わず耳を塞いで顔を伏せていた二人が、もう一度天井を見ると無事に閉まった後だった。何とか雨が降る前に天井を閉じることは出来たが、この先が不安になる。他の二人も激しく打ち付ける雨音につられて天井を見上げていた。
「ともかく気象情報に注意しないとな。どこかに一回集まるべきだろう。所長に指示を仰ぐか」
天翔はここはもう大丈夫だろうと、学生二人を促して天文台室から出た。最後に将貴が対策の終わっていない箇所がないか見回って出る。これから全員で泊まるとなるか、一部は帰ることが可能なのか。しかしそんな考えも、この激しい雨音に消えそうになる。このままでは本当に雨のせいで帰ることが不可能になりそうだった。
「嫌な予感がするな」
「そういうこと言うなよ」
思わず呟いた天翔に、追いついた将貴がすかさず注意する。それは将貴も同じ懸念を抱いている証拠だった。それを裏付けるかのように大きな雷の音が廊下に響く。それで気持ちが怯んだ二人は、足早に天文台室の階段を降りていた。
「あ、いた。もう大変だったのよ」
階段を降り切ると、雨合羽を着た葉月がやって来た。前髪も合羽もしとどに濡れていて、外に出ていたのは一目で解るがどうしてだろうか。葉月はたしかコンピュータの制御室に向かったはずだ。先ほど会った時は雨合羽を持っていなかったし、何より外に出る用事はない。天翔がそう思って不思議そうに見ていると、ああこれっと気づいた葉月が雨合羽を引っ張った。
「ああ、これ。あの坂井のせいよ。制御室に行こうとしたら呼び止められてね。南館は今日が休業日の影響で人員が足りないから応援に行ってくれって。自分が行けばいいのに。もう大変だったんだから。ねえ、坂本」
ねえと、葉月は後ろからタオルとビニール袋を持って追い駆けてきた博士課程の学生である坂本修実へと声を掛けた。修実は身長が百八十ある影響でここに常備されていた合羽が合わなかったらしい。ズボンも髪も濡れてしまっていた。
ここの天文台は南館にも天体望遠鏡が備え付けられている。北館の望遠鏡が新しく着けられるまでは南館の望遠鏡で観測していて、今でも現役だ。南館の天体望遠鏡は口径が六〇センチの反射望遠鏡だ。こちらの望遠鏡も壊れては多くの研究者が困る。
「凄い雨です。台風並みですよ」
修実は困ったと額に張り付く前髪を払いながら言った。それだけで雫が飛ぶ。すでに本降りだということは、そんなところからも実感できた。
「台風か。被害が出なければいいんだが」
そう天翔が懸念を口にしたところに、館内放送を告げる音が鳴った。
『職員及び学生は直ちにミーティングルームに集まってください。繰り返します。直ちにミーティングルームに集まってください』
続いてそう恭輔がアナウンスする。これはいよいよ差し迫った状況らしい。天翔が集合することを提案するよりも前に恭輔が手はずを整えていた。
「急ごう」
将貴の一言で、その場にいた全員が廊下を進み出した。その間にも雷はごろごろと音を立て、窓ガラスに激しく打ち付ける雨音が館内に響く。建物の中でこれだけ音を聞き取れるほど降っているとなると、記録的豪雨になるのではと心配になった。
「こうなるんだったら家に帰るんだったわ。ここでやらなければ論文が一日遅れるってこともないんだし」
家でやればよかったと、昨日から泊まり込んでいる葉月は、家でゆっくりお風呂に入りたいと文句を言う。恵介によって南館の手伝いをさせられるし、このままでは帰れなくなりそうだ。まったくついていない。
ミーティングルームは階段を挟んで研究室とは反対側にあった。天翔たちは一度研究室方向に戻り、そこからミーティングルームに向かうことになる。
「あ、団体ですねえ」
階段を過ぎようとした時、下から上がって来た研究員の春日典佳に声を掛けられた。典佳はおっとりした性格で、今も一人マイペースでやっていましたという感じだ。二十九歳なのだが、どこか幼い雰囲気を持っていた。
「たまたまよ。そっちは何もしてなかったんじゃないでしょうねえ」
そんな典佳と仲のいい葉月は揶揄う。どうせどこかでのんびりしていたんだろうと笑っていた。
「ちゃんとやってましたよ。備蓄食料の確認をしていたんです。坂井さんが下手したら長期戦になるかもしれないから、確認してくれって」
ぷうと膨れる典佳は可愛いのだが、今はそれどころではなかった。
「ちっ。また坂井か」
葉月はお前も仕事しろと小さく悪態を吐く。そう、恵介は腰巾着であるだけでなく、仕事を人に指示するだけで自分は嫌なことをやらないところがあった。ここでも火種を抱えている。
「これは今夜、細心の注意を払わないとな。ていうか、お前が長期戦を考えるなよってとこか」
将貴は苦笑しながら天翔の肩を叩いてくる。言われるまでもなく注意はするが、そもそも天翔は今日まで恵介のことを意識したことはなかった。周囲にはあれこれ言っているようだが、天翔に向けて何かを言ってきたことはない。それを考えると、妙なケンカになることはまずないと思われる。
「さっさと行こう」
葉月が不機嫌な理由を知らない典佳は首を捻っていることだしなと、天翔は一行を促した。そして真っ先にミーティングルームに入る。
中はすでに事務員の大野広国と杉山真子が、協力してモニターやパソコンの準備を済ませていた。今から気象状況についての説明をするということだろう。窓際では館内放送を行った恭輔が、腕を組んで激しく降る雨を睨みつけていた。
部屋の中を見ると後は学生が徐々に集まり、部屋の後方の席に着いているだけだった。まだ恵介は来ないだろうと、天翔はちょっと気になるものの恭輔の元へと近づいた。
「先生」
「ああ。これはしばらく止みそうにないな。むしろ強まっている。雷もまだ鳴っているようだ」
見てみろと恭輔が首で外を指すので、天翔もそこから外の様子を確認した。なるほど、修実が台風と表現したように、外は雨で視界が利かない状態だった。風はそれほど吹いていないようだが、雨粒が当たる度に近くの木々がせわしなく揺れている。
「しばらく雨は抜けないようだ。それについて所長から説明がある」
「はい」
先に恵介が所長の雅之とともに入って来たことに気づいた恭輔が席に座るよう促す。やはり恭輔も最大限警戒するつもりなのだ。それを思うと、今日が泊りになるというのは気が重くなる。
恵介は一度天翔の方へと視線を向けたものの、雅之がいるために無表情を貫いていた。しかし何か冷たい空気が流れたように天翔は感じてしまう。
「意識し過ぎだな」
天翔は頭を掻くと最前列の席に座る。横は葉月と将貴だ。葉月の横に典佳が座っている。
「それでは揃ったようなので、今後の対策について説明を行います」
恭輔がそう開始を告げ、マイクを雅之に渡した。雅之は五十七歳なのだが、恰幅がよく髭を生やしていた。大きな眼鏡を掛けていることから、その姿は有名なアニメ映画の監督を彷彿とさせた。
「ええ、気象庁からの情報によると、現在この上を雨雲の帯が留まっている状況だという。この中で最近耳にしたことがある人もいるだろう、線状降水帯というヤツだ」
雅之の言葉に数人がどよめく。天翔もニュースで線状降水帯について聞いたことがあった。大雨が長く降り続くもので、各地で甚大な被害を引き起こしているものだ。発達した雨雲が同じ地域にずっと掛かり続け、大雨をもたらす。これは厄介だった。
恭輔が手早くパソコンを操作し、気象庁から配信されている雨雲の状況を前に設置されたモニターに映し出す。そこには雨雲がこの山の付近に集中している様子がはっきりと映っていた。それにどんどん大陸側から流れ込んでいるのが見て取れる。
「これを見てわかる通り、今降っている雨も、抜けるのにまだまだ時間が掛かるとしか言えない状況だ。気象庁から随時連絡は入るようになっているものの、予断を許さないのは確かだと肝に銘じてくれ。周辺の状況にも気を配ると同時に、今日は全員がここに留まるように。雨で視界が悪く、車での移動は困難だ。それに時間も夕方となり、余計に見通しが利かないからな。無理に帰して怪我人を出すわけにはいかん」
今日はここに泊まることを了承してくれと、雅之は厳しい表情だ。視界の悪さを強調しているが、本当の懸念は土砂崩れにあることは誰もが察知していた。近くに川が流れていることから、その懸念は当然だろう。まだごろごろと鳴り続ける雷も、窓を激しく叩く雨音も、それがいつ起こるかと気を焦らせるかのように耳に届く。
「寝る場所はこのミーティングルームを使うこととする。モニターも繋ぎっぱなしにするから、常に誰かが状況を確認できる。今から机と椅子を後ろの一か所に集めてくれ」
今はここに留まり状況を見る。その雅之の決断に合わせ、恭輔がそう指示を出した。どうやら集まった理由はここを拠点にするためというのがメインらしい。
「布団はどうします。さすがにないですよね」
ここで寝るのかと、将貴が気まずそうな学生たちを気遣って質問した。机と椅子を除ける必要もないのではとの思いもあった。
「何かあった時のために、常日頃から毛布は用意してある。枚数はここにいる人数分より多いから、何枚か使ってくれ。同じように段ボールも常備してあるから、それを床に敷けばまだマシなはずだ」
工夫すれば何とかなると、恭輔は苦笑した。たしかに床に雑魚寝は厳しいが、緊急事態に文句も言っていられないだろうというわけだ。
「なるほど。宿泊棟にも行けそうにないですしね」
雷と雨の激しさから、レストランの脇にある外部研究者用に用意されている宿泊施設に行くことも難しい。今日は布団を諦めるしかないというわけだ。
しかし将貴が質問を挟んだことでその場の空気は和んだ。誰ともなく仕方ないなと立ち上がり、長机の移動を開始する。
「後は何もないことを祈るだけ。だな」
まだ難しい顔をしている天翔に、お前も少しは気を抜けと将貴が笑った。
「そうだな」
しかしこの状況は気を抜いていられないと、天翔は表情を緩めることなく窓へと目を向けていた。
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