双子協奏曲

渋川宙

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第2話 若宮天翔

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 西日本にある、とある天文台。こここそ龍翔が失くした定期入れを売っているところだった。標高五百メートルほどの小高い山に立つ天文台で、車ですんなりと行ける便利な面がある。舗装された道は一本道でそれしかないものの、それで困ることはない。道の横には一級河川に指定される幅の広い川も流れており、夏場は吹き抜ける風が心地よく夜には蛍も舞う、自然豊かで過ごしやすいところだった。
「今日も快晴か。このまま夜まで持ってくれるといいけど」
 そこに車で出勤してきた若宮天翔は、降りるなり伸びをして空を確認する。天文学者である天翔にとって空を見上げることは自然な動作だ。晴れていないと天文観測はままならない。こうやって朝から雲一つない快晴であると、夜の観測に期待が持てるというものだ。
しかしここ最近、夕方にゲリラ豪雨となることがある。そうなったら天文観測のスケジュールが狂ってしまって非常に困る。ここの天体望遠鏡を使う人の中には、論文に必要なデータが揃わなくなる者も出てくる。これは大きな問題でもあった。
 そんな天翔は左頬に少し大きめの黒子があることが特徴の三十一歳だ。少々童顔なためによく学生に間違われるが、ここの特任助教という地位にある学者だ。ワイシャツに黒いズボン。これがお決まりのファッションとなっている。というより、他のファッションを採用することがない。長めの前髪を左側に分け、より爽やかな印象を与えていた。しかしどこか表情が乏しく、物悲しげな空気を纏っているのが、その見た目と対照的であった。
「あ、先生。おはようございます」
 空を確認していると、もう一台勢いよく車が駐車場に入ってきた。そして降りてきた人物はすぐにそうやって挨拶をしてくれる。
「ああ、島田君。おはよう」
 挨拶をしてきたのは島田駆という研究員だ。短く刈り込んだ髪がトレードマークで、人懐っこい笑顔を浮かべている。天翔とは何かとよく議論している仲で、微笑ましい後輩だった。
いや、天文台の勤務は駆の方が長いから先輩ともいえる。現在は自分の研究室に所属していて、色々と教えてもらっていることも親密になる理由だろう。駆は人見知りでなかなか天文台に馴染めなかった天翔をよくサポートしてくれている。
「今日はまた暑そうですね。晴れが続くのは嬉しいですけど、毎日猛暑日というのは勘弁してほしいです。天文台は涼しくていいけれど、家は暑くて寝不足ですよ。このままだと夏バテしそうです」
 駆はそう言って眠そうに目を擦ると、少し失礼しますと慌てて駐車場の端へと向かった。仕事前の一服に行ったのだ。世の中の流れを受けて二年前に全館禁煙となり、この駐車場の外に設置された喫煙場所でしか吸えなくなったのである。
この暑さの中でじっと立っているのは賢明ではないなと、駆が駐車場の奥へと走っていくのを見送った天翔は先に天文台へと歩き始めた。蝉の声がうるさく耳に響き、より暑さを感じてしまう。山の上だからか蝉に種類は多く、それが大合唱しているものだからより大きな音だ。
 ここの天文台は北館と南館の二つに分かれていて、北館をメインと使っている。その理由は北館が新しく出来た建物で大きいということと、こちらに最新式の天体望遠鏡が備え付けられているというのがあった。
 だから天翔の研究室も北館にある。北館へと入っってみて、ふといつもと違って静かなことに気づく。
「あ、今日は月曜日か。一般客を相手にするところは休みなんだな」
 観測の関係で夜通しいることもあるため、どうにも日付感覚がおかしくなる時がある。おかげで一般開放の休業日も、日々通り抜けている土産物店の準備状況で解るという有様だ。いつもならばいる店員がいない。それが天翔の生活での大きな変化というわけだ。
「道も空いてましたよね。ちょっと下のキャンプ場はお盆休みも近いからか、ここ最近は客が多くて渋滞する時もありますよ」
 また立ち止まってしまった天翔に、煙草を吸い終えた駆は声を掛けた。煙草の臭いを払うように服をパタパタと叩きながら笑う。研究の関係で朝早くから来て夜遅くに帰る天翔は気づいていないが、夏休みとあって付近は一般客だらけの日が続いていたのだ。
「そうなのか。じゃあ今日は珍しく静かな日って感じか」
 ふうんと、人のいない土産物店以上には何とも思えない天翔だった。天文台の周辺が公園として整備され、より天文台を訪れやすいようになっているのは知っているが、普段は気に留めないのだ。公園が山の下の方にあり、普段から目にしないというのも理由になっているだろう。
「まあ、静かなのは助かりますね。やっぱり一般の人が下の階にいると、それなりに声が聞こえたりしますから。それに夜の一般観測会がないのは、当番が回ってくる身としては有り難いです」
 そんなこと言ってはダメなんですけどねと、駆は付け足して笑う。一般観測会は、夜の僅かな時間だが一般の人に望遠鏡で夜空を見てもらおうと、ほぼ毎日開催されているものだ。三十分程度のものだが大人気で、当番になった人はあれこれ知恵を絞ってやっている。これも休業日の月曜日にはない。
「そうか。俺は口下手だからな。一回やったら所長にお前はもういいって言われてしまったよ」
 ははっと笑うも何だか悲しい。昔からあまりお喋りな方ではなく、人前で話すのは苦手だった。もちろん研究者となって人前で話す機会は多くなったのだが、研究の発表と一般の人への説明は大きく違った。笑いを取ってみたり難しい用語を容易なものに置き換えたりと、日頃使わない気苦労がある。それがまるでダメなのだ。おかげでここに着任して早々に戦力外となってしまった。
「それはそれでラッキーですよ。まあ、先生は研究に専念していろってことですね」
 特任助教は任期付きだ。ここでは三年となっている。その短い間にある程度の成果を出さなければ、次に任期のない職に就くのが難しい。それを考えると、煩雑な業務をさせるより研究に励んでもらいたいとの思いがあるのではないか。ここの所長である片桐雅之はそういうところに理解のある人なのだ。
「そうだといいんだけどな。単なるお荷物と思われていないか。そう考えてしまうよ」
 一応そういう仕事もこなさないとと、真面目でちょっと後向きな性格の天翔は頭を掻いてしまう。好意と考えられれば楽なのだろうが、研究の世界はそんなに甘くない。それが足を引っ張ることはないか。それも考慮していなければならないのだ。
「先生は心配性過ぎますよ。藤枝先生くらいにタフにならないと」
「誰がタフだって」
 噂をすれば影とはこのことだ。二人が後ろを振り返ると、腕を組んでこちらを睨む藤枝葉月の姿があった。葉月は天翔と同い年であるだけでなく同じく特任助教だ。着任は葉月の方が早く、ここではムードメーカーのような存在となっていた。
そんな二人は互いに切磋琢磨している仲と言えば聞こえがいいが、天翔が一方的に揶揄われているとも言えた。今も葉月はにやにやと、天翔がどういう反応をするのか窺っている。
「あれ、今日って確か観測当番じゃなかったか」
 しかし天翔もいつも揶揄われているわけではない。ともに研究しているこの一年半で学習している。睨んでくる葉月の言いたいこと、すなわち見た目のほっそりした具合や女性らしい部分を褒めろといったことは上手く回避し、話題を切り替えた。
「そうよ。さっきまでずっと空を見ていたわ。いくら自動でデータを取っているとはいっても、やっぱり自分の目で確かめたいからね。おかげで寝不足。家に帰るのは面倒だから仮眠室で休もうと思ってたの。そしたらあんたたちが人のことを話題にしているから」
 思わず立ち止まったでしょと葉月は笑ってくる。その笑顔が何だか怖いのは、たぶん気のせいではないだろう。
 ここでいう観測当番とは文字通り、天文台の観測状況を見張る当番のことだ。最近では自動で行えることも多いが、それでも人の力が必要なことがある。
例えば、急に起こった天体現象に対応するためにデータ切り替えをするには、観測場所の変更をする必要がある。そんな時、コンピュータを操作して天体望遠鏡の向きを変える人が必要だ。だから月に数度、誰かが寝ずの番で天文観測をしているのだ。この仕事が最も天文学者らしいと思うもので充実感がある。
「藤枝の話題をしていたのはたまたまだよ。さっさと寝て来いよ。どうせすぐに起きて研究の続きをやるつもりなんだろ」
 文句はそれくらいにしてと天翔が言うと、そうねと葉月はあっさり踵を返して行ってしまった。ポニーテールがゆらゆらと揺れているのを、二人でしばらくぼんやりと見送った。
「はあ。予想外でしたね」
「ああ。さっさと行こう」
 こういうのを気疲れというのだろうか。なぜか二人はどっと疲れを感じながら先へと進むことになった。廊下を進み階段で二階に上がる。そして左へと曲がった先にあるのが研究室の並ぶエリアだ。反対の右曲がるとミーティングルームや給湯室といったものがある。
「あ、おはようございます」
 天翔の研究室のドアを開けた駆が、急に改まった様子で挨拶をする。それに後から入った天翔はどうしたと部屋の中に目を向けた。すると、中には副所長の鳥居恭輔の姿があった。恭輔は細身で落ち着いた雰囲気のある人物だ。四十一歳とは思えない、威厳と物静かさを持っている。そんな恭輔は天翔の席に座って何やら雑誌を読んでいた。
「おはようございます。どうかされたんですか?」
 恭輔の姿を見た天翔は慌てて駆け寄ってしまう。何と言っても恭輔は大学の頃から世話になっている人だ。いわば師匠に当たる。さらにはここの特任助教にも推薦してくれた。天翔からすれば絶対に迷惑の掛けられない相手なのだ。
「そんなに慌てなくても大丈夫だ。この間の論文について話を聞こうと思っただけだよ。もちろん、いいものだったからだ。恒星の輪の構成について、いいモデルを見つけたようだな」
 そう言って笑うと、恭輔は持っていた雑誌を振る。それはこの間、天翔が書き上げた論文が載る日本天文学会が発行している欧文研究報告誌だった。
 つい最近まで、天翔はある恒星に出来た輪、つまり降着円盤について観測していた。それは二重になっていてしかも円盤が赤道面に対して平行なものと垂直なものがある奇妙なものだった。要するに、円盤が恒星にクロスする形で出来上がっていたのである。
その出来た過程は、今までも多くの天文学者がモデルを提唱していたものの、上手く説明できずにいたものだ。それに、その観測していた星に対してだけだが説明することに成功したのだ。ちゃんと観測結果と照らし合わせ、見事に論文として完成したのである。
「恐縮です。しかしたまたま観測していた恒星にそのモデルが当て嵌まっただけということは否定できませんからね。もっと多くのサンプルを見つけたいところです」
 自分が作ったモデルはまだまだ一般的なものとはいえない。そう自覚する天翔はより気持ちを引き締めなければとの思いに駆られる。どうしてクロスする二重の輪が出来上がるのか。他にも別の過程を経て同じような輪が出来たものが見つかっているだけに、それを一般的にモデル化することが出来れば大きな発見となる。
「相変わらず遊びのない奴だな。褒められた時は素直に喜んでおけばいいんだよ。君がちゃんと次を見据えていることくらい解っている」
 朝から堅苦しい話をしてすまなかったなと、恭輔は立ち上がると天翔の肩をぽんっと叩いた。あまり気持ちを張り詰め過ぎていると躓いた時に立ち直れなくなるぞと心配することも忘れない。
「はい」
 そんな気遣いに、天翔は畏まったままであるもののしっかりと頷いた。この人の下で研究していてよかったと実感もする。それに恭輔も良しと頷いた。
そしてそのまま出て行くのかと思いきや、恭輔は辺りをきょろきょろと見渡す。その様子は今から拙い話をするぞと言っているようなものだ。
「それはそうと、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
 そして声を潜めてそう言った。これは何やらただならぬ雰囲気を感じる。天翔は自然と表情を引き締めた。
「あの、俺は外しましょうか」
 その空気に駆は自分がいない方がいいのではと出て行こうとした。二人の間で処理すべき問題かもしれない。
「いや、君からも意見を聞きたい。というのは、講師を務めている坂井君のことなんだ」
 その名前に二人は思わず、ああと声を漏らしていた。坂井恵介は天文学者としては十分な実力を持っていて、講師としては何一つ問題ないのだが、厄介な一面を抱えていた。
それは所長のご機嫌取りが目に余るというものだ。いわゆる腰巾着というヤツである。ことあるごとに雅之の機嫌を取り、気に食わないことがあれば告げ口をしているのではないか、というのがここにいる全員が感じていることだった。
「他と上手くやれているならば、どういう場所にもああいうタイプはいるからと目を瞑れるんだがな。その、最近は君に対して何かと言っているようではないか」
 それは自分の気にし過ぎなのか。それを恭輔は確かめたいんだと天翔の顔を覗き込む。これは一概に否定できないものであるものの、自らそうですとはいえない問題でもあった。
「まあ、研究に支障はありません」
 そう答えるのが無難というものだ。それにこの問題へ恭輔が下手に介入すれば事態をややこしくしかねない。今や研究ポストはどんな場所でも争奪戦だ。おそらくここに来て恵介が妙に雅之に取り入ろうと必死になったり天翔の悪口をこそこそ言っているのは、そういう事情を抱えてのことである。
 というのも、天翔が任期付きのポストにいるということが厄介なのだ。任期はまだ一年以上残っているとはいえ、そろそろ次をどうするか考え始める頃だ。
そうなった時、いわば恭輔の弟子にあたる天翔が自分を追い越していいポストに就くのではないか。もしくは自分を追い出して講師のポストに納まるのではないか。そんな懸念を恵介は抱いている。それは天翔としても問題となっていることで、次に関して考える場合、恭輔を頼るべきか否かは避けられないものだ。
「お前が気にしないと言うならば俺があれこれ言える立場にはないが、島田から見てどうなんだ。よく一緒にいるならば何か感じることはあるだろう」
 それは駆に対して恵介が間接的な嫌がらせをしていないか。そう確認する問いである。たしかに不快に感じることがないでもないが、我慢できる範囲であった。
「まあ、困っているほどじゃないですよ」
 天翔が苦情を申し立てていないのに自分が言うわけにもいかない。何とも微妙な力関係が透けて見える事態になってしまった。それに気づいた恭輔はすまないと謝る。
「いえ、心配してくださってありがとうございます」
 ついに恭輔が解決に乗り出そうと考えるほどか。天翔はのんびりしていられないなとの気持ちになる。次が見つからなければ研究を続けられないのだ。それだけは避けなければならない。が、安易な方法は後々の禍根となりかねない。それを今のやり取りでよく理解した。
「まあ、困るようなことがあったらいつでも言ってくれ」
 この場で何らかの解決が出来るわけでもなく、そして天翔の本音を引き出せるものでもなかった。
「引き続き恒星の輪に関して研究していくということだな。解った」
 淀んでしまった空気を振り払うように恭輔はそう言うと、今度は素直に研究室を出て行った。
「何だか妙に疲れる朝ですね」
「ああ」
 静かな珍しい朝は、こうして波乱含みで始まったのだった。
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