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第40話 何が禁忌なのか?

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 しかし、二人の目下の困りごとはカワウソに変化するタイミングだ。長い時間変化するようになったことで、タイミングが毎日のようにずれるようになってきた。どうやらこの呪い、人間になっている時間を基準に発動しているらしい。
「そういうところも人間っぽいのよ。一体誰なのかしら?異次元で神のポジションにいる人って」
「さあ。しかし、こっちの物理学と数学に精通しているのは間違いないだろう」
「ああ。そうですね。論文になったことを問題視したわけですから」
 つまり、あの伶人の論文を正確に読み解けるだけの数学力が必要というわけだ。そうなると、相手も史晴のような人なのか。
「さあね。それか、本当に何もかも見通せる神なのか。人間くさいのはわざとという可能性もあるからな。それに神様って無駄に試練を課すイメージがあるんだけど」
「ははっ。救いではなく」
 史晴の一方的イメージに笑いつつも、美織も神様に関して具体的なイメージはないなと気付く。それはそうだ。日本は一神教ではない。八百万と表現されるように、色んな神様がいるのだ。こういう神様だと、一つをイメージ出来なくても仕方がない。
 そんな和やかな雰囲気でベッドの上にコンビニのおにぎりを広げた時だ。
「あっ」
 ぶんっと、音を立てて電気が消える。変化の合図だ。
「ぐっ」
 そして続く史晴の呻き声。いつも、これを聞くとぎゅっと胸を締め付けられる。どうして、史晴だけが苦しまなければならないのか。ああ、だから史晴は試練だと例えるのだろうか。
 そんなことを思っている間にも史晴の身体はみるみると縮み、そしてカワウソになってしまう。同時に電気が戻った。
「せ、先輩」
 最近では本当にカワウソになってしまって喋れない時がある。まず確認する。この時もまた心臓に悪い。
「大丈夫だ。意識はある」
 史晴は服の間から出てきて、喋れると頷いた。途端に美織の身体から緊張が抜ける。
「はあ。よかった。ここでカワウソと一人だけって、結構辛いなって思ってました」
「自宅じゃないからなあ」
「ええ。それに加藤先生に助けを求められないですし」
 取り敢えずはほっとし、まずはご飯にしようと決める。チェックアウトをどうするかという問題は、朝まで棚上げだ。
「色々と不便になってきたな」
「そうですね。あ、先輩はどれを食べますか?」
「明太マヨ」
「はい」
 おにぎりの外装を剥いてあげつつ、タイムリミットが迫っているだとひしひしと感じてしまう。それは今日、伶人の死に顔を見てより強くなった。あれが、史晴になるかもしれないと思うと焦ってしまう。
「大丈夫だ。必ず線引きは出来る」
「はい」
 美織の焦りが解ったのだろう。カワウソ史晴はその小さな手でぽんぽんと美織の膝を叩いた。自分が支えなければならないというのに、支えられてしまっている。
「どうぞ」
「ありがとう」
 カワウソ姿で器用におにぎりを受け取り、もぐもぐと食べ始める。ううむ、いつ見ても凄い。
「それで、論文の読み解きですけど」
「ああ。時空の穴に関してだな。それは数学でいうところの虚数に該当するようだ」
 史晴はもぐもぐとおにぎりを食べ終え、手に付いたご飯粒を舐め取ってから言う。
「虚数ですか。もともと、ブラックホールの一番奥は特異点だって話ですもんね。でも、ゼロではないってことですか」
「ああ。ゼロだったら、向こう側と繋がらないしな。しかし、虚数というのは曲者だ。数学の概念上は存在するが、実在はしない。物理で言えば仮想粒子や反物質だ」
「そうですね」
 虚数。それはマイナスの世界と言えば解りやすいだろうか。ともかく、実世界を現すものではない。
「ただ、これが反転するらしいんだよな。マイナス掛けるマイナスはプラスというのは、数学の基本だろ?そういうことが、時空の穴を通ることで起きるみたいだな。そしてそれこそ、すり抜けられる要因でもあるってわけだ」
「あっ。だから死ななければ向こう側に行けないんですか」
 閃いたという美織に、史晴はカワウソながら怪訝そうな顔をする。
「ええっと。つまり、生きている状態ってプラスですよね。こちらの次元で成り立っていられる条件ですから。しかし死んだらマイナス。マイナスの状態だと、次元の穴を潜れちゃうと。で、潜っちゃうと生き返るわけですよ。マイナスの世界にはプラスで働くわけですね」
「まるで死後の世界の話のようだな」
「ええ。でも、それが一番考えやすいですよ。だから、関口さんはこちらに戻ってくると死体になってしまったんです。操られている状態、つまり神の手先になっている間は、何か特殊な力で干渉できるようになっていただけってことです」
「なるほどね」
 別次元は反転した世界であり、生きている限りは干渉できない世界。たしかにそれは考えやすい。
「そもそも、虚数は実数がなければ意味がないですし」
「そうだな。それこそ、別次元があってもおかしくないってことに繋がるんだろう」
「ええ」
 ずいぶんと理解しやすい部分まで来た。美織は梅おかかおにぎりを食べつつ、理論が見えてきた実感が生まれる。
「こちらでは理解できない現象も、マイナスの干渉の結果だと考えれば解りやすいわけか」
 そして史晴も、本質が見えてきたとビックリした。虚数であり、ブラックホールの向こう側で反転するとは思っていたが、こうもすっきり説明できるのか。思えば、魔法として史晴たちの前に現れた現象は総てマイナスだ。
「ええ。呪いも死に向かうもの。関口さんが消えてみせたのもそう。記憶を一時的に消すというのも、あるものから引く行為です。加藤先生の記憶を改ざんするのもまた、マイナスです。つまり、この世界に対してマイナスに働くことが、魔法として使える」
 魔法使いに関しても説明できてしまった。ああ、だからかと気付くこともある。伶人の姿が鬼っぽかったのも、この日本においてマイナスだからだ。鬼は陰。魔法使いだろうと悪魔だろうと陰だ。つまりはこの世界にとってマイナス。ここでも理論は成り立っている。
「後は、何が禁忌なのか、か」
「ええ。そこを間違えて欲しくないんですもんね」
 向こう側にいる誰かは。美織はそれが誰なのか、知るのが怖く思えていた。
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