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第38話 別れの瞬間

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「ああ。こうなった以上は仕方ないと、俺も腹を括ったんだよ。どうせ、俺は海に溺れて死んだはずなんだ。いや、時空をすり抜けるためにここでは死んだ。いや、違うな。俺はもうすぐ死ぬんだ。だから、こうやってちゃんと伝えることが出来るのか。お前たちがあの論文に辿り着いたから」
「えっ」
 急に何を言い出すんだと美織は驚いた。しかし、伶人の顔が今までとは全く違う、写真で見かけた面差しになっているのに気付いた。今の伶人は魔法使いの伶人じゃない。本当に関口伶人なんだ。なぜか、そう直感した。それは史晴も同じだろう。
「史晴。時間がない。俺が言うこと、信じられるか?」
「ああ」
 伶人の確認に、史晴は躊躇わずに頷く。
「あの論文には時空のある秘密が隠されている。俺は無自覚にそれを導き出していたらしい。実際、世間の受け止め方も、数学的にはあり得るが実際はどうか解らないという受け止め方だった」
「そうだろうな」
「その、秘密に関わる部分を探すんだ。それが、呪いに対抗できる唯一の方法のはずだ。呪ったのは俺自身だが、俺が消えても呪いは有効だ。神は、物理学では証明できない部分は、すでにお前の行動を見張っているぞ」
「っつ」
 解っていても、そう告げられるのは衝撃的で、史晴は息を呑む。それはそうだ。これは完全に物理学を越えた戦いなのだ。それに、史晴は図らずも巻き込まれてしまった。
 論文を作ったのが血縁関係の伶人で、その論文に踏み込んだのが史晴に負けたくないと思った清野だったから。
「もう見て見ぬ振りは出来ない段階だ。お前が出来るのは、何がそういう現象を引き起こすか。そして何に触れてはいけないかをはっきりさせることだ。これはもちろん、発表できる類いのものじゃない。でも、お前がそれを証明することが大事なんだ」
「それって、神を認めることになるからですか?」
 思わず美織が確認すると、あんたは本当に鋭いなと、初めて伶人に褒められた。そして、美織を見てにっと笑う。
「どうやら、あんたは呪いを躱したり、違う方向に導くことが出来るらしい。それはたぶん、あんたが理論の前に人間と向き合っているからだろう。これからも、史晴を支えてやってくれ。俺にはもう、無理だから」
 そしてそんなことを言う。美織は不覚にも泣きそうだった。そうだ。こうやって告げてしまうことは、伶人が死を受け入れたということ。もう、どんな形でも自分は支えられないから、それを解って美織に託そうとしている。
「いいか、史晴。ちゃんと線引きをするんだ。それが、呪いを逃れ、時空を越えなくて済む方法だ。しかも、数学的に完璧に証明するしかない。でも、お前なら、いや、お前とこの椎名って子ならば出来る」
「伶人」
「それと、校舎裏に埋めておいたのは、俺からの餞別だ。こうやって意識がはっきりすることが、お前と出会った後にもあってな。大急ぎで用意したんだ。いいか、ヤバいって思った時に蓋をこじ開けろ。それと川とか海には近づくな。清野の意思もねじ曲げられてカワウソになったのは、水辺に関係するからに違いない」
 そう言った瞬間、伶人の身体が透け始める。駄目だと葉月と美織はその身体に取り縋ったが、透明になることには抵抗できない。
「これで本当に最期だ。俺は、お前が生き残るって信じてる」
 その言葉を最後に、伶人の身体がふっと消えてしまった。からんっと、伶人と椅子を繋いでいた手錠が落ちる音が研究室に響く。
「そんなっ」
 結局、伶人を救うことは出来なかった。呪いも残ったままだ。それに、美織は呆然としてしまう。
「あっ」
 そこにバイブ音が響き、史晴がスマホをズボンのポケットから取り出した。そして頷く。
「解った。そうじゃないかって、そんな予感はあったから」
 そう答えて電話を切ったので、誰からの何の電話か、美織にも葉月にも解った。
「うん。伶人の死体が見つかったって。もう、十年も経ってるのに、綺麗な状態で。叔父さんは、奇跡が起きたんだなって」
 そこで、史晴の目からぽろぽろと涙が零れた。ようやく思い出して、ようやく和解して、ようやく伶人の身に何かあったか知れたのに。それが、永遠の別れのためだったなんて。美織もつられるように泣いてしまった。
 葉月はそんな二人が落ち着くまで黙って待っていてくれた。そして気持ちが落ち着いたところで、コーヒーを飲みに行こうと誘ってくれた。美織はまだ床に座っている史晴に手を差し出した。
「そうですね。何の因果か、最後に関口さんとお茶しちゃいましたし」
「そ、そうなのか」
「ええ」
 史晴は驚いたが、そういうものなんだなとすぐに苦笑した。そして、美織の手をしっかりと握って立ち上がる。
「お前が、必要らしい。助けてくれるか?」
「もちろんです。それに、初めから、私は最後まで先輩に付き合うつもりでしたから。必ず、呪いを解きましょう」
「ああ」
 打ち破るべきは論文の曖昧さだ。そして、この世に不思議があると認めること。目標がはっきりした二人はしっかり手を握り合い、笑っていた。
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