それでも僕らは夢を見る

雪静

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第十三章 それでも僕らは夢を見る

第四十三話

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 薄暗い、部屋。

 布団からはみ出た肩が寒い。でも、湿った布団に潜り込むのも正直気が進まなくて、私はゆっくり身体を起こすと、くすんだベージュのカーテンへ手を伸ばす。

 朝だ。

 何か……良い夢を見ていたような気がする。

 身体の痛みを堪えながら、散らかされた下着をかき集める。春だというのに早朝の床は突き刺すように冷たくて、一瞬躊躇した足先を叱って、私はその場に立ち上がった。

 クローゼットの隅から取り出した、毛玉だらけの黒い服。

 我ながら似合っていると思う。血色の悪いすっぴんの顔にも、この重たい真っ黒な髪にも。

「遅えんだよ」

「ごめんなさい」

 卓弥はすでに起きていた。ダイニングチェアで足を組み、新聞を広げている。

 私が朝食を用意して出すと、彼はその手元を一瞥し、結局何も言わないまま再び新聞へ目を向けた。

 足元には合皮の剥げた古い旅行鞄が置かれている。ぱんぱんに膨れ上がっているあたり、どうやら中身は入っているようだ。

「お前もさっさと支度しろよ」

 私の視線に気づいたらしく、呆れたような声が投げかけられた。振り返った私の間抜け面を見て、卓弥は大きくため息を吐く。

「昨日言っただろ。新しい家を探しに行くって」

「言ってたっけ……?」

「言ったよ。……言ってないか? まあ、そんなのどっちでもいい」

 新聞をぱらぱらとめくりながら、卓弥は上機嫌に言う。

「これから地方に拠点を移して、まずは市議会議員になる。そこで政治の経験を積んで、いずれ県議会、そして国政へと、俺は自分の力でどんどん成り上がっていくんだ。俺を馬鹿にした二世どもをこの手で見返してやる」

 市議会議員選挙なら推薦してくれるって党も見つけたしな、と卓弥が名を上げたのは、ここ最近できたばかりの野党のひとつだった。その党の推薦を受けることが選挙にどれほど影響を及ぼすのか、無知な私ではわからないけど、卓弥は手ごたえを感じているらしい。

(引っ越しするなんて聞いてない)

 でも、連絡の不手際を指摘したところで何を得るものがあるだろう。

 今の私にできることといえば、ただ諾々と卓弥に従うことだけ。卓弥の朝食を用意してから、ひとり寝室へと戻り、大きくもない鞄へと荷物を詰め込んでいく。

 そうしながら時々、手が止まる。自分で選んだ淡い緑のブラウス。プチプラだけどお気に入りのコスメ。

 お店で見つけた時のときめきが胸をぎゅうと締めつける。このブラウスを身にまとい、丁寧に化粧をした私を見て、彼は目元をやわくほころばせ綺麗ですねと言ってくれた。

 でも、もう、私には必要のない物だ。

「何ちんたら準備してんだよ」

 背後から声がかかると同時に、びくと私の肩が跳ね上がる。

「服なんて適当でいいだろ。今回はアパート決めに行くだけで、引っ越しはそれからなんだから」

「あ……うん。ごめん、そうだよね」

 卓弥が立ち去るのを待って、私は自分の手元へ目を落とした。大慌てで隠したブラウスは一瞬でくしゃくしゃのしわだらけ。軽く広げて叩いてみたけどあんまり綺麗にならなくて、私の胸に言いようのない物悲しさが去来する。

(……仕方ないか)

 どうせこの先着る機会なんてきっとないような服だ。多少しわがついたところで、今更落ち込む必要もない。

 だって私は、ここへ戻ってきた。自分の頭で考えて、自分の意思で決めたんだ。

 私が卓弥と一緒に居れば……もう桂さんが傷つくことはない。







 卓弥に聞いた引っ越し先は、今まで一度も行ったことのない東北の端の方だった。

 今となってはどこに住もうと私には影響のないことだけど、それでも今後のことを思うと少し不安になってしまう。寒い地方に移り住むなら、今ある服では凍えてしまうかも。かといって卓弥は私に新しい服など買わせてくれないから、何枚も何枚もたくさん着込んで寒さをしのぐしかないのだけど。

 重い荷物を両手で持って、空港までの道を歩く。透き通るような青空には飛行機雲がひとすじ伸びていて、清々しい風景のはずなのに足枷がついたみたく歩みは重い。

「おい、由希子」

 空港に近づくなり、卓弥は私を呼び止めた。

「どうしたの」

「お前、ちょっと空港の中で待ってろ。俺はタバコ吸ってくる」

 旅行鞄を押しつけられて、私は無言でそれを受け取る。卓弥はくるりときびすを返すと、スマホを片手に喫煙所へと向かっていった。

 両手にひとつずつ荷物を持って、私はその背中を見送る。喫煙所へ連れ込まれるよりは、空港内で待つ方が遥かにましだろう。

 さすがに場所が場所だけに、歩く人々も皆忙しそうだ。私が荷物に振り回されながらよたよた歩いていると、大きなキャリーバッグを片手に電話をかけていた男性が、

「邪魔だ! ふらふらするな!」

 と目尻を釣り上げて言い捨てた。

「すみません」

 足を止め、頭を下げる私を無視して、男性は電話をかけながら宙に向かって唾を飛ばす。私はしばし無表情のままその姿を見つめていたけど、小さなため息を軽く飲み込んで再び歩き出した。

 空港の入口にさしかかったとき、大きく大人しそうな犬が一匹繋がれているのが見えた。さらさらの白い毛並みに、賢そうな見目かたち。わあ、ボルゾイだ。やっぱり可愛いな。こんなところで良い子に座って、誰かのことを待っているのかな……?

「……え……?」

 ふいにその犬の隣へ、一人の男性が現れた。彼は長い指で犬の首筋を撫で、それからこちらへつま先を向ける。

 どうして、と。

 言いかけた声は喉で止まり、代わりに引き攣れた音が漏れる。立ち止まるべきじゃないとわかるのに、吸い込まれたみたく目を離せない。

「髪、黒く染めたんですね」

 犬を――スカイくんを優しく撫でながら、彼は以前と変わらない落ち着いた声で言った。

「僕は、明るい方が似合うと思います」

 心臓を優しく握られたような、甘い苦しみが胸に滲んだ。
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