36 / 46
第十章 二人の違い
第三十五話
しおりを挟む両手にエコバッグを携え、歩き慣れた家への道を行く。
この頃の桂さんは、スーパーへ買い物に行くときは出来る限り荷物持ちを買って出てくれる。こういうときは男の出番でしょうなんて雇い主の台詞じゃないだろうに、まったくこれだから『人を誤解させる天才』は……なんて、前はよく思ったものだった。
(何も言わずに一人で買い物に行ったことを、桂さんは怒るだろうか)
次は必ず呼んでくださいね、くらいは言われるかもしれない。でも、編集者さんと楽しく話すのを邪魔したくはないし、今の私の立場を考えればこれが正しい選択のような気がする。
重い荷物を携えながらとぼとぼと一人帰路を歩き、ようやく家が見えてきた頃、歩道に伸びた自分の影の先に細身の女性の足が見えた。はじめは横を向いていたその足先が、緩やかに私の方へと向けられ、それからようやく私はゆっくりとその人の方へ顔を上げる。
厚手の黒いストッキングと、薄ピンクの上品なワンピース。胸までのロングヘアをただ無造作に下ろしているだけなのに、不思議と美しくまとまって見えるのは髪そのものに艶があるからだろう。
忘れようとしていた記憶が瞬くように脳へ蘇る。天谷雛乃。……彼女の特徴とも言うべき強気に満ちた大きな瞳が、勢いよく放たれた矢のように一直線に私を射抜く。
そして彼女は私が両手に持つエコバックをちらと見ると、
「桂いる?」
と、遠慮のない声で訊ねた。
「……いらっしゃいます」
「そう。じゃあ開けて」
何も持たない両手で腕を組み、彼女は扉を顎で指す。
ぐっ、と私は唇を噛みしめ、何食わぬ顔で扉に近づきながら、
「桂さんの許可もなしに、お招きすることはできません」
できるだけ声が震えないよう、息を吐きながらゆっくりと言った。
彼女は露骨に眉を上げ、忌々しげに唇を歪ませる。舌打ちが出てこなかったのは、たぶん育ちの良さのせいだろう。
「あたしが誰だかわかってる? なんでもいいからさっさと開けて」
「わかっています。でも、私の判断で決めることはできません。確認しますからお待ちください」
彼女の横を素通りして扉を開けようと手を伸ばす。すると、彼女はキッと目尻を吊り上げ、私の肩を乱暴に掴み、
「家政婦の分際で、あたしのこと馬鹿にしてるの?」
怒声というにはあまりにも綺麗な声で、そう言った。
さすがに騒ぎが聞こえたのだろう、扉が内側から開いて桂さんが顔を出した。雛乃さんはさっきまでの怒りが嘘みたいな笑顔を浮かべ「桂!」と彼の元へ軽やかな足取りで駆け寄る。
「……どうして来たんだ」
「だって、全然連絡くれないんだもの」
「今の住所は教えていないはずだけど」
「うちのホテルのプール使ってるでしょ? 会員情報見せてもらったの」
「わかった、明日解約しておく。で、用件は?」
「そんなの、会いに来たに決まってるじゃない。家に入れてよ。あたしもう寒くって」
笑いながら玄関へ入ろうとした彼女の身体を、桂さんはごく自然に、無理のない仕草で押しのけた。
目を見張る雛乃さんを無視する形で彼は私へ向き直り、
「すみません、持ちますね」
と、両手のエコバックを取り上げる。
「ちょっと、桂!」
「悪いけど中には入れられない。すぐお前の家の人を呼ぶから」
「どうしてそうなるの!? 久しぶりに会えたのに! 手紙の返事だって全然くれないし、あたしずっと心配してたんだよ!?」
玄関口で騒ぐ彼女の姿を、道行く人が怪訝な目で眺める。男と女が言い争う姿に好奇心をそそられたのか、何かを期待するようにほくそ笑む人々を軽く睨んで、
「……迎えが来るまでだ」
と、桂さんは肘で扉を押し開く。
上機嫌で玄関に上がる雛乃さんが通り過ぎ、私と桂さんは自然と顔を見合わせる。彼は複雑そうに唇を噛み、それから眉間にしわを刻むと、
「……ちゃんと言い聞かせて、すぐに帰らせますから」
と、緊張を押し隠すような重苦しい声で言った。
リビングが狭い、とか。
このキッチンで料理ができるの? とか。
あまりにも失礼な言葉を次々と口走りながら、雛乃さんのその表情は純粋な驚きに満ちているように思う。悪意があるわけではない。ただ、生きる世界が違うだけ。……はじめて庶民の生活を見た令嬢のようにきょろきょろしながら、雛乃さんは呆れた眼差しで桂さんの背にしだれかかる。
「ねえ、本当にここに住んでるの? 別邸じゃなくて?」
「ここに住んでる。失礼なことを言うな。前の家の広さが異常だったんだよ」
「あたしはあの家好きだったけどなぁ。お父様の仏壇は? ちゃんとご挨拶しておかないと」
「いや、いい。二階に上がるな。そこに座って、僕の話を聞きなさい」
雛乃さんはダイニングチェアに軽く腰掛け、開きっぱなしのノートパソコンを自分のものみたいにカチカチいじる。
桂さんはどこかへ手短に電話をかけてから、雛乃さんの手を除けてパソコンを乱暴に閉じた。むっ、と唇をとがらせ、雛乃さんが桂さんを睨む。
「なんでそんなに冷たいの? 機嫌悪いの?」
「そうじゃない。個人的に撮った写真を他人に見られるのは嫌なんだ」
「別にいいじゃん、あたしたちの仲なんだし。……でも、桂って写真なんか撮る人だったっけ? 新しい趣味?」
雛乃さんの指先が、当然のように馴れ馴れしく桂さんの手へ触れようとする。
彼はそれを軽く払いのけ、
「僕は、写真を仕事にしていきたいと思っている」
と、突き放すように力強く言った。
雛乃さんの綺麗な顔から、すぅっと笑みが薄らいでいく。飲み込まれそうなほどの目線を真っ向から受け止めて、桂さんは奥歯を噛むように薄い唇を引き締める。
「……冗談でしょ? あたしとの婚約は? お父様の後を継いで、政治家になるんじゃなかったの?」
「父は死に、僕らの婚約もとうの昔に破棄された。僕は今、やってみたいことがようやく見つかったところなんだ」
「何言ってるの? そんなの……嘘だよ。だって、身体の具合はもうよくなったんでしょ? だったらもう仕事もできるし、結婚していいっておじいちゃんが」
「お前はそのつもりかもしれないけど、僕はもう政治家になる気はない。悪いけど、会長にもそう伝えてくれ」
言葉の意味が理解できない幼児のようなあどけなさで、雛乃さんは大きな瞳を何度も瞬きさせている。
やがて彼女は目の周りの筋肉をぶるぶると震わせ、
「……あたし、桂と結婚できないの?」
と、蚊の哭くような細い声で言った。
「ああ」
桂さんの返事は、残酷なほど端的だった。
「他に結婚したい人がいる」
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
私は既にフラれましたので。
椎茸
恋愛
子爵令嬢ルフェルニア・シラーは、国一番の美貌を持つ幼馴染の公爵令息ユリウス・ミネルウァへの想いを断ち切るため、告白をする。ルフェルニアは、予想どおりフラれると、元来の深く悩まない性格ゆえか、気持ちを切り替えて、仕事と婚活に邁進しようとする。一方、仕事一筋で自身の感情にも恋愛事情にも疎かったユリウスは、ずっと一緒に居てくれたルフェルニアに距離を置かれたことで、感情の蓋が外れてルフェルニアの言動に一喜一憂するように…?
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。
文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。
父王に一番愛される姫。
ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。
優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。
しかし、彼は居なくなった。
聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。
そして、二年後。
レティシアナは、大国の王の妻となっていた。
※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。
小説家になろうにも投稿しています。
エールありがとうございます!
【完結】愛していないと王子が言った
miniko
恋愛
王子の婚約者であるリリアナは、大好きな彼が「リリアナの事など愛していない」と言っているのを、偶然立ち聞きしてしまう。
「こんな気持ちになるならば、恋など知りたくはなかったのに・・・」
ショックを受けたリリアナは、王子と距離を置こうとするのだが、なかなか上手くいかず・・・。
※合わない場合はそっ閉じお願いします。
※感想欄、ネタバレ有りの振り分けをしていないので、本編未読の方は自己責任で閲覧お願いします。
前略、旦那様……幼馴染と幸せにお過ごし下さい【完結】
迷い人
恋愛
私、シア・エムリスは英知の塔で知識を蓄えた、賢者。
ある日、賢者の天敵に襲われたところを、人獣族のランディに救われ一目惚れ。
自らの有能さを盾に婚姻をしたのだけど……夫であるはずのランディは、私よりも幼馴染が大切らしい。
「だから、王様!! この婚姻無効にしてください!!」
「My天使の願いなら仕方ないなぁ~(*´ω`*)」
※表現には実際と違う場合があります。
そうして、私は婚姻が完全に成立する前に、離婚を成立させたのだったのだけど……。
私を可愛がる国王夫婦は、私を妻に迎えた者に国を譲ると言い出すのだった。
※AIイラスト、キャラ紹介、裏設定を『作品のオマケ』で掲載しています。
※私の我儘で、イチャイチャどまりのR18→R15への変更になりました。 ごめんなさい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる