それでも僕らは夢を見る

雪静

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第七章 写真のない写真立て

第二十話

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 この家の玄関に置かれた、白い大きな写真立て。

 長い間一枚の写真も飾られていなかったそこには、今、大量のクラゲの写真がみっちりと詰め込まれている。







「写真」

 私の言葉をおうむ返しにして、桂さんはぱちくりと瞬きをした。

 瞳に浮かぶ純粋な驚きに、私はぐっと喉を詰まらせる。まずい。ちょっと唐突過ぎたかな。でも、出した台詞を引っ込めるわけにもいかず、勢い任せに言葉を続ける。

「ほら、前に仰っていましたよね? 写真立てに飾るような写真が一枚もないって。だからその、今日みたいな時こそ写真を撮って、これから思い出を少しずつ増やしていくのはどうでしょうか」

「……思い出を」

「はい! そうやって写真がたくさん増えたら、きっとあの写真立ても映えるものになると思うんです。弟さんたちもそういう風に使ってほしいと思ったから、あの写真立てを贈ってくださったのかもしれませんよ」

 ……真剣でまっすぐな視線が痛い。私、そんなに変なこと言ってるかな?

 桂さんは私の顔を穴が空くほど見つめていたけど、やがて花開くように微笑むと「わかりました」とスマホを取り出した。

 ほっと胸をなでおろす私の前で、カシャッと軽快な音が響く。ぎょっとしていると立て続けに二回、連写する音が鳴って、それから桂さんは小首を傾げてうーんと小難しい顔をした。

「僕の撮り方が悪いのか、肉眼で見るほど綺麗には撮れませんね」

「わっ、私を撮るんですか?」

「違いましたか?」

「違うというか、……だって、飾らないでしょう、私の写真なんて」

 玄関の写真立てにひとり飾られている女なんて、普通は家族が恋人か……少なくともただのハウスキーパーではないはずだ。

 でも、桂さんはまた瞳をまん丸にして、何か言いたそうに私の目をじいっと無言で見つめてくる。心臓に悪いこの沈黙。さっきからなんだか私たち、何かこう、上手く噛み合っていない気がする。

「……そっか。そうですか」

 桂さんは眉を寄せ、軽く唇をとがらせると、カメラをそのまま水槽へ向けて無造作に何枚も連写した。その、情緒もへったくれもない雑な撮り方はいつもの彼らしくなくて、今度は私が瞬きしながら思わず閉口してしまう。

 カメラロールを流し見しながら、桂さんは小首を傾げている。それからふっと寂しそうに笑って、彼はスマホをポケットへとしまった。

「……さて。これで全部回りましたが、もう一度見たい場所はありますか?」

「あっ、いえ。十分楽しませていただきました」

 カワウソのぬいぐるみを抱きしめながら、私はぺこぺこと頭を下げる。嘘じゃない。本当に楽しかった。一生の思い出になったと思う。

 桂さんは小さく頷き、それからふいと目を逸らすと、

「帰りましょうか」

 と言って、私に先立って歩き始めた。







 確かに私、写真をたくさんここに飾って思い出を増やしましょう、とは言ったけど。

 まさかその結果、クラゲの写真だけがみっちり飾られるとは思わなかった。なんだかちょっと複雑な気持ちで青々とした写真立てを眺める。

(まるでクラゲ研究家の家みたいだな)

 こうなるくらいなら私の写真を飾ってもらう方がマシだったろうか。それともスタッフさんに頼んでツーショットを撮ってもらうとか? いや、それこそ夫婦か恋人のやることで、私はそんな立場ではないし……。

 ――僕は、貴女を幸せにしたい。

 とろけるような声が脳裏によみがえり、頬がじわりと熱を持つ。

 あれは――違うはずだ。優しさ。同情。ノブレス・オブリージュ高貴なる者の義務

 彼の元々の隣人愛に、二人きりの水族館という最高のムードが色をつけただけ。

 現に今はもう、あのぬくもりがすべて夢の中だったみたいに、彼と私は元の距離感に戻りつつある。

(『人を誤解させる天才』なんだ。気をつけなきゃ私が傷つくだけ)

 いやな妄想を振り切るように玄関の掃除をしていると、玄関ドアのすりガラスの向こうを人影がさっと横切った。少ししてからインターホンが鳴り、宅配便です、と声が聞こえる。

 ドアを開けようとした私を遮り、自ら外へ出た桂さん。やがて彼は大きな段ボールを両手で抱えて戻ってきた。

「やっと届きました」

「なにを注文されたんですか?」

 いつになく嬉しそうな様子に、私も軽い調子で訊ねる。

 彼はその場で段ボールを破り、中身の箱をさっと開くと、

「僕も一歩踏み出してみようと思って」

 と言って、真新しいカメラを取り出した。




 近所の公園の落ち葉の上を、スカイくんが元気に駆けている。

 そびえ立ついちょうの大木はすっかり葉っぱを失って丸裸。冬もずいぶん深まった今は、あの黄色い落ち葉の絨毯も、風に飛ばされ、土に還り、薄く寂しくなってしまった。

 最初にこの公園に来たのは、仕事を始めたばかりの頃だっけ。何年も昔のことに思えてしまうほど、最近はもう時が経つのが速い。

 住宅街の青空の下で遊ぶスカイくんを見つめながら、カメラを構えたり、下ろしたりを静かに繰り返す桂さん。どうしたのかと様子を伺っていると、彼はぽつりと独り言のように、

「なかなかうまく撮れないな……」

 なんて苦々しい顔で言う。

「どこかで立ち止まってもらいますか?」

「いや、それだとあまり面白味がないですし、できるだけ自然な姿を残したいので」

 僕の撮り方が悪いのかな、とか、スカイの顔がさっきからブレる、とか。桂さんはぶつぶつ言いながら難しい顔でファインダーを覗き込んでいる。

 カメラの持ち方を変えてみたり、設定を色々変更してみたり……試行錯誤を繰り返しながら少しでもいい写真を撮ろうとする、桂さんの真剣な横顔はいつになく凛々しく秀麗だ。

(かっこいいな……)

 貴重な光景を目に焼き付けるべく横顔をじっと眺めていると、カメラばかり見ていた彼の目線がふとこちらを向いた。

 目が合う途端に口元を緩め、ふわとはにかむ桂さん。私もつられてへらっと笑い、なんだか少し恥ずかしくなって、毛先なんかをいじりながら不器用な調子で目を逸らす。

「す、すみません。じろじろ見ちゃって」

「いえ。でも、見ていて面白いものでもないでしょう?」

「面白いというか、その……素敵だなと思ったんです」

 桂さんっていつも余裕があって、何事もあっさりこなしてしまう方だから、うんうん唸りながらひとつの事に熱心に打ち込む姿が少し新鮮で。

 いつもと違う一面を見せてもらえているというのは、いちファンとして嬉しいというか、冥利に尽きるというものだ。

 そんな私の曖昧な言葉を、彼はどのように解釈したのだろう。恥じ入るように頬を染めて、カメラを下ろした桂さんは、

「あまり僕を困らせないでください」

 と、拗ねたみたいにちいさく言った。
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