それでも僕らは夢を見る

雪静

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第六章 似たもの同士

第十八話

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 瞬間、背筋を刃物で撫でられたみたいに私はその場で硬直した。気づかれていない。今はまだ。でも、この人の記憶の蓋はすでに開きかかっている。

 顔を隠すのは不自然だ。背を向けるなんてもっとおかしい。私は半ば混乱しながら、ただうつむき縮こまる――と。

「もう話は終わったはずだ」

 震える私を遮り隠す、イメージよりも大きな背中。

 直接触れたわけでもないのに、ほのかな熱が身体を包む。胸の奥を揺さぶるような、どこか甘やかな匂いとともに。

「おー怖。僕の所有物に手を出すなって?」

「来月子どもが産まれる男が、恥ずかしげもなく女性を口説くなよ」

「ははっ、嫁さんには内緒にしてくれよ。妊娠中だから気が立ってるんだ」

 悪びれもせず笑いながら、清水さんが玄関を出ていく。

 桂さんは音もたてずに玄関のドアの鍵を閉め、それから靴を突っかけたまま、しばらく無言でドアの前にじっと立ちすくんでいた。私が玄関へ顔を出すと、彼はその場でようやく振り返り、

「すみません、由希子さん。気まずい思いをさせてしまいましたね」

 と、力なく笑みを浮かべる。

「いえ……でも、桂さんが」

「僕は、別に。なにもかも事実ですから」

 淡々と話す彼の顔は、やっぱり穏やかに凪いでいる。

「政治家として働きながら、私生活では一児の父。公私共に充実した毎日を過ごす正義にしたら、仕事も結婚もしていない僕はつまらないように見えるのでしょう」

「そんな……」

「実際僕はつまらない男です。これといった趣味もなく、特段の夢もなく……父がお金を残してくれたのをいいことに、ただ寝食を繰り返しながら今日も日が落ちるのを待っている」

 そこで一旦言葉を切り、桂さんはふっと微笑んだ。

「僕だけ時間が止まっているみたいだ」

 海原へ落ちる夕陽みたいな、遠く儚い自嘲だった。

 二人ぼっちの寒い玄関。扉ひとつ隔てた先では、下校中の子どもたちが楽しく笑いあう声が聞こえる。

 靴箱の上の写真立てには、彼の横顔が映っている。作り物のように美しい、誰もが理想に思う横顔。でも、柔らかく潤んだその瞳には光のひとつぶも浮かんではいない。

 あるのは、闇だけだ。

 使われなくなった井戸の底に重く沈んだ汚泥のような……何もかもを諦めてしまった人間の、暗い闇。

「『事実なら何を言われてもいいというわけではない』」

 呟くように言ったつもりが、思ったより声が響いてしまった。

 桂さんの焦点が合うのを待ち、私は淡々と続ける。

「桂さん、前に私にそう言ってくださいましたよね。事実かどうかは関係ない。事実なら何を言ってもいいわけじゃないって。あの時の私は自分の中に深く閉じこもったままで、桂さんの言葉ではじめて目の覚める思いがしたんです」

「…………」

「だから今、桂さんが『事実』を盾に我慢されるのなら……私はあの時頂いた言葉をそっくりそのままお返しします」

 彼の瞳をまっすぐ見つめ、私は力強く言う。

「事実なら、何を言われてもいいというわけではないんです」

 桂さんは薄い唇をわずかに開きつつ、何かに魅入られてしまったみたいに瞬きもせず私を見つめた。真正面から見つめられると、さすがに少し落ち着かなくなって、私はともすると視線が泳ぎそうになるのをぐっと堪える。

 やがて、彼は張り詰めた糸が解けたみたくふっと気の抜けた吐息を漏らすと、

「そうだね」

 とだけ呟き、くしゅっと表情をほぐして笑った。

 ようやく玄関マットへ上り、彼は私の隣に立った。背の高い彼と目を合わせるには、私は自然見上げる形になる。

 でも、この日はうんと見上げなくても不思議と目線が間近で合って……軽く背をかがめ、覗き込むように顔を近づけた彼は、

「僕たち、似たもの同士ですね」

 綺麗な瞳に私だけを映して、ふわり、柔らかに微笑んだ。







 さて。

 私が勤めるハウスキーパーシーナには、二種類の派遣形態がある。ひとつは通いの家事代行。週数回、時間を決めて家事を行う基本の契約だ。

 もうひとつが住み込みハウスキーパー。その名の通りクライアントの家に直接住みながら、掃除洗濯料理etcエトセトラ、そこの家事の一切を請け負う。拘束時間が長くなる分、通いの時より給与は高額。そして当然求められるスキルも、より複雑に、高度なものになる。

 だからここでは特定の資格を取得した職員のみが、住み込みハウスキーパーとして契約できるよう定められている。……そして、桂さんがコネ椎名さんを使ってルールを捻じ曲げ、無資格の私が住み込みハウスキーパーとして働き出したのは以前のとおり。

 椎名さんも言っていたけど、今回の私の契約変更は資格の取得が前提のもの。だから私も結構必死に、毎晩勉強を頑張ってきたのだけど。

「桂さん」

 スマホを持つ手が震える。

 薄目でぼやけた視界に映る、ろくに読めない四桁の数字。ずらりと並んだその番号を、直視する勇気が未だ出てこない。

「僕が代わりに見ましょうか?」

「い、いえ! 自分で見ます!」

 肩を開いて大きく深呼吸。それから私は覚悟を決めて、スマホの文字を視線でなぞった。1052、1053、1056……。

「……あった」

 無意識のうちに漏れた言葉。

 ぱっと私は顔を上げて、隣の桂さんを見上げる。

「あった! 桂さん、ありましたよ!」

「おめでとうございます」

 祝・合格! 小さい画面に燦然と輝く自分の受験番号を前に、私は子どもみたいに歓喜する。

 大した難易度の資格ではないけど、それでもやっぱり合格は嬉しい。努力がきちんと認められたみたいで、ああ、ちょっとだけ涙が出てきそう。

 子どものようにはしゃぐ私に、桂さんはいつものようにおっとり微笑むと、

「お祝い、何がいいですか?」

 と言って、綺麗な瞳を軽く細めた。



 水族館に行きたい、と。

 言ったのは正直思い付きだった。いきなりお祝いと言われてもまるっきり何も思いつかずに、期待に溢れた眼差しに圧されてとっさに浮かんだのが朝のニュースで見た水族館の姿だったのだ。

 口に出してすぐ(これじゃあデートをねだってるみたいだ)と気づき、全身の血の気が一気にひくほど後悔したのは言うまでもない。嫌がられたらどうしよう。呆れた顔をされたかも。ガタガタ震えながら顔を上げると、案の定桂さんはきょとんと目を丸くしていて。

 でも、冗談ですと私が言う前に、彼はふっと表情を崩すと、

『いいですね、行きましょうか』

 と、当たり前みたいに微笑んだのだ。

 話はトントン拍子に進んで、あっという間に日取りが決まった。『午後六時からでいいですか』と指定されたのが気になったけど、桂さんが私のために時間を割いてくれるなら文句なんて言うはずもない。

 そして迎えたお出かけ当日。いつもの格好に肩掛け鞄と、ラフな格好で水族館に到着した私は、記憶と違うあまりにもがらんとしたその光景に困惑した。

 お客さんが全然いない。

 まばらではなく、まったくのゼロだ。姿も、話し声も聞こえない。スタッフさんは一応いるけど、やっぱり人数が少なく見える。他に人がいないからか、私たちの方ばかりを見つめてにこにこ微笑まれるのが、なんだか少し居心地悪い。

「もしかして、もう閉館ぎりぎりだったんでしょうか」

 そわそわしながら訊ねる私に、

「いえ、すでに閉館していますよ」

 桂さんはしれっと答える。

 ……ん? すでに閉館?

 ぎょっとして顔を見上げた私に、桂さんは落ち着いた声で、

「ここからは貸切の時間です」

 と、何食わぬ顔で付け足した。
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