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第五章 なってはいけない
第十三話
しおりを挟む住み込みハウスキーパーとなってから、あっという間に数週間が経った。
きちんとやっていけるかなとか、ご迷惑をおかけしたらどうしようとか。初めの頃こそ色々な不安が頭をよぎることもあったけど、なんだかんだ私はそれなりに、楽しいお仕事ライフを過ごしている。
まずは軽めに朝食を用意。洗濯をして、掃除をして……鏡を綺麗に磨き上げながら、自分の姿をちらと眺めてみる。
買ったばかりの爽やかなブラウスに、髪色に合わせて練習中のメイク。顔色がぱっと明るくなって、悪くないじゃん、なんて思ったり。
(やだやだ。浮かれすぎかな、私)
自然と緩む頬を抑えきれないまま、私は次の部屋の掃除へ移行する。
住み込みを始めて気が付いたことだけど、桂さんは他人との同居に慣れているようだ。もちろんルームシェア的な意味ではなく、お手伝いさん的な意味で。
私という赤の他人が家の中をちょろちょろ動き回り、ゴミを集めたり洗濯物を片付けたりしていても、彼は特段驚くことなく「ありがとうございます」なんておおらかに微笑んでいる。
決して偉そうというわけではない、でもこれといった遠慮も見られない、家事を担う労働者への絶妙な距離感を保った態度。
さすが有名政治家の息子さん。きっと彼は幼い頃から、多くのお手伝いさんたちにかしずかれて育ってきたのだろう。
(……ん?)
掃除を終えてリビングに戻ったとき、妙な物音に気がついた。がらがらとか、ごうごうとか、大きなモーターが動いているような、ちょっと不穏な機械音。
ごく普通のお宅の中で聞くような音ではなさそうだ。私は不安になりながら音の出所を探し出す――と。
「きゃ、きゃあっ!!」
それはもう、一目見れば明らかだった。
キッチンに備え付けられた食洗機から鳴り響く異音。そして、隙間からじゅぷじゅぷ漏れ出す泡の混ざった水しぶき。
私は大慌てで掃除機を放り出し、雑巾を持って隙間に押し当てる。急いで食洗機の電源を切って、びしょびしょに濡れた床を拭いて……そうする間にも食洗機からは次々水が滴り落ちて、私は半ばつんのめりそうになりながら追加の雑巾を取りに走る。
(ま、まさか壊れた? 私が何かして壊しちゃった!?)
朝食のお皿を投入してスイッチを入れた段階では、あんなにひどい異音も水漏れも特に見られなかったはずだ。洗剤だっていつもどおり入れて、おかしなところはなかったのだけど……ああでも、今日食洗機に触ったのは当然私だけなのだから、これはもう言い逃れのしようもなく私の責任に違いない。
(どうしよう、こんな高価なものを)
若干泣き出しそうになりながら、私は急いで周囲を掃除する。蘇る嫌な思い出。昔、家のドライヤーのコードを中で断線させてしまったときは、卓弥は目も当てられないほど怒ってしばらく代わりを買ってくれなかったんだ。
桂さんは卓弥とは違う。でも、いくら優しい桂さんといえど、私が家電を壊したと知ったら、さすがに顔をしかめるに違いない。
冷たい眼差しと深いため息が頭の中にリアルに浮かび、私の背中に言いようのない恐怖と悪寒が走っていく。……そのとき。
ガチャ、と玄関から音がして、私はその場にへたりこんだ。スカイくんの爪がフローリングを叩くチャッチャッという軽快な足音と、少し遅れて桂さんの「ただいま」という声が聞こえる。
午前中の散歩を終えて、二人が帰ってきたんだ。小さくうずくまる私の元へ、桂さんの足音が近づいてくる。そして私は、
「……由希子さん?」
桂さんが不思議そうにキッチンを覗くや否や、
「すみません!!」
悲痛なまでにそう叫んで、両手をついて頭を下げた。
びくっと足を止めた桂さんが、私の顔と水浸しのキッチンとを見比べる。私はもう、彼の顔なんて直視できないまま、ただ脂汗を流しながら謝罪の言葉を繰り返すだけ。
「本当に、ご、ごめんなさい。普通に使っていたつもりなんですけど、私が、こ、壊してしまったみたいで」
「…………」
「すぐ掃除します、全部きれいにして、新しいものは私のお給料から買っていただきたいと思ってます。……だから、あの、ご……ご迷惑をおかけして、すみませんっ……!」
この人に嫌われるのが怖い。
この人を失望させるのが怖い。
彼がどんな目で私を見下ろしているか、想像するだけで全身が震えて歯の根が合わなくなってくる。
ここで桂さんにまで見放されたら、もう、私は――……
「落ち着いて」
ぽすん、と。
背中に回された左腕が、あまりにも軽く私を抱き寄せる。
それからトントンと背中を叩いて、なだめるように顔を覗き込んで。ぱちくりと瞬きをする私に、桂さんは困ったように微笑む。
「そんなに取り乱すようなことではないですよ。迷惑だなんて思っていませんから」
「……で、でも」
「すぐに修理の業者を呼びますね。前のときはゴムパッキンの交換だけで済みましたし、もし買い替えることになったとしても、新型を導入する良い機会になります」
おずおずと見上げた私の頬に一筋の涙が流れる。桂さんは指先でそれをそっとぬぐい取ってから、私の背をそっとさすりつつゆっくりと立ち上がった。
「でも、水が止まらないみたいですね。片付けをやっておくので、雑巾を換えてもらってもいいですか」
「は……はいっ」
スカイくんが心配そうな顔で私の方を眺めている。
私は大急ぎで廊下の物置に駆け込み、先日自分で作ったばかりの雑巾を両手いっぱいに抱えて戻った。桂さんはふっと吹き出して「そんなにたくさんいらないですよ」と笑う。
濡れた雑巾をシンクで絞り、棚から調理器具を退かして、濡れたクッションマットは裏返してお庭のウッドデッキまで運ぶ。何事にももたつく私と違い、桂さんはとても手際が良くて、ちょうど水が止まったこともありひとまず元の状態に戻ることができた。
「綺麗になりましたね。お疲れさまでした」
腕まくりした袖を戻しつつ、桂さんが振り返る。いつもどおりの穏やかな笑顔が今日はあまりにも眩しくて、私はうつむいたままただ視線を泳がせる。
「あの……桂さん」
「はい」
「本当にごめ、んっ」
言い終わる前に、桂さんの右手が私の唇をふさいだ。正確には彼の右手の、人差し指の指先が。
触れるぎりぎりで静止した指から、彼の顔へと焦点が移る。彼は出来の悪い弟妹を眺める優しいお兄さんのように、少しだけ眉尻を下げて和やかに微笑んでいる。
「今度から、『ありがとう』と言う練習をしましょうか」
優しい声音とは裏腹の有無を言わせない圧の強さは、不思議とちっとも怖くはなくて、むしろ胸が詰まるほど嬉しくて。
別の意味で加速していく鼓動の音を感じながら、私はただおずおずとうなずいた。
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