それでも僕らは夢を見る

雪静

文字の大きさ
上 下
14 / 46
第五章 なってはいけない

第十三話

しおりを挟む

 住み込みハウスキーパーとなってから、あっという間に数週間が経った。

 きちんとやっていけるかなとか、ご迷惑をおかけしたらどうしようとか。初めの頃こそ色々な不安が頭をよぎることもあったけど、なんだかんだ私はそれなりに、楽しいお仕事ライフを過ごしている。

 まずは軽めに朝食を用意。洗濯をして、掃除をして……鏡を綺麗に磨き上げながら、自分の姿をちらと眺めてみる。

 買ったばかりの爽やかなブラウスに、髪色に合わせて練習中のメイク。顔色がぱっと明るくなって、悪くないじゃん、なんて思ったり。

(やだやだ。浮かれすぎかな、私)

 自然と緩む頬を抑えきれないまま、私は次の部屋の掃除へ移行する。

 住み込みを始めて気が付いたことだけど、桂さんは他人との同居に慣れているようだ。もちろんルームシェア的な意味ではなく、お手伝いさん的な意味で。

 私という赤の他人が家の中をちょろちょろ動き回り、ゴミを集めたり洗濯物を片付けたりしていても、彼は特段驚くことなく「ありがとうございます」なんておおらかに微笑んでいる。

 決して偉そうというわけではない、でもこれといった遠慮も見られない、家事を担う労働者への絶妙な距離感を保った態度。

 さすが有名政治家の息子さん。きっと彼は幼い頃から、多くのお手伝いさんたちにかしずかれて育ってきたのだろう。

(……ん?)

 掃除を終えてリビングに戻ったとき、妙な物音に気がついた。がらがらとか、ごうごうとか、大きなモーターが動いているような、ちょっと不穏な機械音。

 ごく普通のお宅の中で聞くような音ではなさそうだ。私は不安になりながら音の出所を探し出す――と。

「きゃ、きゃあっ!!」

 それはもう、一目見れば明らかだった。

 キッチンに備え付けられた食洗機から鳴り響く異音。そして、隙間からじゅぷじゅぷ漏れ出す泡の混ざった水しぶき。

 私は大慌てで掃除機を放り出し、雑巾を持って隙間に押し当てる。急いで食洗機の電源を切って、びしょびしょに濡れた床を拭いて……そうする間にも食洗機からは次々水が滴り落ちて、私は半ばつんのめりそうになりながら追加の雑巾を取りに走る。

(ま、まさか壊れた? 私が何かして壊しちゃった!?)

 朝食のお皿を投入してスイッチを入れた段階では、あんなにひどい異音も水漏れも特に見られなかったはずだ。洗剤だっていつもどおり入れて、おかしなところはなかったのだけど……ああでも、今日食洗機に触ったのは当然私だけなのだから、これはもう言い逃れのしようもなく私の責任に違いない。

(どうしよう、こんな高価なものを)

 若干泣き出しそうになりながら、私は急いで周囲を掃除する。蘇る嫌な思い出。昔、家のドライヤーのコードを中で断線させてしまったときは、卓弥は目も当てられないほど怒ってしばらく代わりを買ってくれなかったんだ。

 桂さんは卓弥とは違う。でも、いくら優しい桂さんといえど、私が家電を壊したと知ったら、さすがに顔をしかめるに違いない。

 冷たい眼差しと深いため息が頭の中にリアルに浮かび、私の背中に言いようのない恐怖と悪寒が走っていく。……そのとき。

 ガチャ、と玄関から音がして、私はその場にへたりこんだ。スカイくんの爪がフローリングを叩くチャッチャッという軽快な足音と、少し遅れて桂さんの「ただいま」という声が聞こえる。

 午前中の散歩を終えて、二人が帰ってきたんだ。小さくうずくまる私の元へ、桂さんの足音が近づいてくる。そして私は、

「……由希子さん?」

 桂さんが不思議そうにキッチンを覗くや否や、

「すみません!!」

 悲痛なまでにそう叫んで、両手をついて頭を下げた。

 びくっと足を止めた桂さんが、私の顔と水浸しのキッチンとを見比べる。私はもう、彼の顔なんて直視できないまま、ただ脂汗を流しながら謝罪の言葉を繰り返すだけ。

「本当に、ご、ごめんなさい。普通に使っていたつもりなんですけど、私が、こ、壊してしまったみたいで」

「…………」

「すぐ掃除します、全部きれいにして、新しいものは私のお給料から買っていただきたいと思ってます。……だから、あの、ご……ご迷惑をおかけして、すみませんっ……!」

 この人に嫌われるのが怖い。

 この人を失望させるのが怖い。

 彼がどんな目で私を見下ろしているか、想像するだけで全身が震えて歯の根が合わなくなってくる。

 ここで桂さんにまで見放されたら、もう、私は――……

「落ち着いて」

 ぽすん、と。

 背中に回された左腕が、あまりにも軽く私を抱き寄せる。

 それからトントンと背中を叩いて、なだめるように顔を覗き込んで。ぱちくりと瞬きをする私に、桂さんは困ったように微笑む。

「そんなに取り乱すようなことではないですよ。迷惑だなんて思っていませんから」

「……で、でも」

「すぐに修理の業者を呼びますね。前のときはゴムパッキンの交換だけで済みましたし、もし買い替えることになったとしても、新型を導入する良い機会になります」

 おずおずと見上げた私の頬に一筋の涙が流れる。桂さんは指先でそれをそっとぬぐい取ってから、私の背をそっとさすりつつゆっくりと立ち上がった。

「でも、水が止まらないみたいですね。片付けをやっておくので、雑巾を換えてもらってもいいですか」

「は……はいっ」

 スカイくんが心配そうな顔で私の方を眺めている。

 私は大急ぎで廊下の物置に駆け込み、先日自分で作ったばかりの雑巾を両手いっぱいに抱えて戻った。桂さんはふっと吹き出して「そんなにたくさんいらないですよ」と笑う。

 濡れた雑巾をシンクで絞り、棚から調理器具を退かして、濡れたクッションマットは裏返してお庭のウッドデッキまで運ぶ。何事にももたつく私と違い、桂さんはとても手際が良くて、ちょうど水が止まったこともありひとまず元の状態に戻ることができた。

「綺麗になりましたね。お疲れさまでした」

 腕まくりした袖を戻しつつ、桂さんが振り返る。いつもどおりの穏やかな笑顔が今日はあまりにも眩しくて、私はうつむいたままただ視線を泳がせる。

「あの……桂さん」

「はい」

「本当にごめ、んっ」

 言い終わる前に、桂さんの右手が私の唇をふさいだ。正確には彼の右手の、人差し指の指先が。

 触れるぎりぎりで静止した指から、彼の顔へと焦点が移る。彼は出来の悪い弟妹を眺める優しいお兄さんのように、少しだけ眉尻を下げて和やかに微笑んでいる。

「今度から、『ありがとう』と言う練習をしましょうか」

 優しい声音とは裏腹の有無を言わせない圧の強さは、不思議とちっとも怖くはなくて、むしろ胸が詰まるほど嬉しくて。

 別の意味で加速していく鼓動の音を感じながら、私はただおずおずとうなずいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

私は既にフラれましたので。

椎茸
恋愛
子爵令嬢ルフェルニア・シラーは、国一番の美貌を持つ幼馴染の公爵令息ユリウス・ミネルウァへの想いを断ち切るため、告白をする。ルフェルニアは、予想どおりフラれると、元来の深く悩まない性格ゆえか、気持ちを切り替えて、仕事と婚活に邁進しようとする。一方、仕事一筋で自身の感情にも恋愛事情にも疎かったユリウスは、ずっと一緒に居てくれたルフェルニアに距離を置かれたことで、感情の蓋が外れてルフェルニアの言動に一喜一憂するように…? ※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

どうやら婚約者が私と婚約したくなかったようなので婚約解消させて頂きます。後、うちを金蔓にしようとした事はゆるしません

しげむろ ゆうき
恋愛
 ある日、婚約者アルバン様が私の事を悪く言ってる場面に遭遇してしまい、ショックで落ち込んでしまう。  しかもアルバン様が悪口を言っている時に側にいたのは、美しき銀狼、又は冷酷な牙とあだ名が付けられ恐れられている、この国の第三王子ランドール・ウルフイット様だったのだ。  だから、問い詰めようにもきっと関わってくるであろう第三王子が怖くて、私は誰にも相談できずにいたのだがなぜか第三王子が……。 ○○sideあり 全20話

【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。

文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。 父王に一番愛される姫。 ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。 優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。 しかし、彼は居なくなった。 聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。 そして、二年後。 レティシアナは、大国の王の妻となっていた。 ※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。 小説家になろうにも投稿しています。 エールありがとうございます!

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

処理中です...