それでも僕らは夢を見る

雪静

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第三章 目覚め

第七話

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『稼いだ金を自分のために使いたい? 何言ってんだお前』

 はっ、と露骨な嘲笑。はじめからわかっていたことだから、怒りも驚きも感じなかった。

『全部自分で使いたいわけじゃないの。少しだけでもいいから』

『それでお前、何買うつもりなんだよ』

『服とか、お化粧品とか……美容院に行くとか』

 服! 化粧品! 美容院! 卓弥は大袈裟に声を上げ、肩を揺らして大笑いする。悪意の渦みたいな笑い声の中で、私はただ静かに立ちすくむ。

 やがて卓弥は笑い疲れたみたいにはーっと息を吐くと、

『お前、何のために働いてるか忘れたの?』

 と、私のお腹を小突いてみせた。







「榎本さん」

「わっ」

 突然背中から声がかかり、菜箸を取り落としそうになる。

 すみません、と柔らかく笑い、諏訪邉さんは私の肩越しにフライパンを覗き込んだ。

「今日は煮込みハンバーグですか?」

「あ、……はい。こちらは今夜食べていただいて、明日の分はこれから作ります」

 諏訪邉さんはちいさな鼻でお肉の焼けるにおいを楽しみながら、

「美味しそうですね」

 と、少年のように無邪気に微笑む。

 ……胸に巣食っていた嫌な記憶が一瞬で吹き飛ぶ可愛さ。この人、私よりちょっと年下のはずだけど、時折びっくりするほど無垢な表情を見せてくるんだ。

 そのたびに私は馬鹿みたいにドキドキして……いや、もちろん恋愛感情的な意味じゃなくて、テレビの中の俳優の笑顔にときめくようなアレなのだけど。

(心の中で何を思うのも、私の自由なはずだよね。思ったことを言葉に出したり、相手に伝えたりしなければ)

「そういえば、榎本さん。今日は早めに帰ってもらう方がいいかもしれません」

 テレビに映る天気予報を目線で促しながら、諏訪邉さんは言う。

「午後から雪が降るそうです。例年に無い大寒波で、かなり激しいようですよ」

「あ……そうなんですか」

 そういえば朝のニュースでもそんなことを言っていたっけ? 仕事を始めてから朝はバタバタで、天気予報もまともに見ないまま家を飛び出してきてしまったけど、まさかここまでひどくなりそうとは正直予想外だ。

「電車が止まって帰りが遅くなったら、ご主人が心配なさるでしょう?」

 あまりにも純な彼の言葉が、胸をちくりと傷つける。

 私の帰りが遅くなったら、夫はきっと荒れるだろう。でもそれは私を心配してじゃない。自分自身が心配だからだ。

 もし私が家にいなかったら、夫のご飯は誰が作る? スリッパを差し出すのは? お風呂を入れるのは? 裏返った靴下を元の形にきちんと整え、ズボンのポケットからくしゃくしゃのレシートや汚れたティッシュを取り出すのは誰の仕事?

 俺の金で食っているんだろと、低い声が脳を反響する。頭が重く、くらくらしてきて、考えることすら億劫になる。

(諏訪邉さんが私の夫だったら、きっと心配してくれるんだろうな)

 そんなの想像しても仕方のない、絶対にありえない夢だけど。

「ありがとうございます。では今日は、少し早めに上がらせていただきますね」

 私は作り笑顔で答えると、再びフライパンに向き直った。親切から出た諏訪邉さんの言葉を、わざわざ無意味に否定することはない。夫が私をどう思っていようと、彼にはまったく関係ないことだ。

 諏訪邉さんは小首を傾げ、何か言いたそうに私の横顔を見つめていたようだけど、結局何も言わないままリビングの方へと戻っていった。




 結論から言うと、天気予報はちょっとだけ外れた。

 窓の外を眺めてみれば、すさまじい寒波に合わせて濛々と巻き上がる雪煙。まるで日本海側の冬みたく横殴りに吹きつける吹雪の中、人々はコートの前をかき合わせて苦しそうに歩いている。

 雪が降るという予報自体は、確かに正解と言えるだろう。

 ただ、時刻は未だに午前十一時。午後と呼ぶにはちょっとだけ早いと思うのだけど。

「榎本さん、電車が」

 諏訪邉さんのスマホを見せてもらうと、そこには案の定真っ赤な文字で運休、運休、運休……。

 こんな吹雪じゃ、まあ止まるよね。いつもより少し早めに帰ればきっと大丈夫だろうなんて、私の見通しが甘かったようだ。

 ニュースの合間に差し込まれた臨時の天気予報では『今日はできるだけ外出自粛を』なんて、今更な呼びかけが繰り返されている。どうやら動きが止まっているのは電車だけではないらしく、一般道路もあっちこっちで通行止めだと言っていた。

 タクシーを呼ぼうと連絡先を調べてくれていた諏訪邉さんが、苦々しい面持ちで渋滞の映像を見つめている。それから彼はソファに寄りかかると、

「今日はおやすみにすればよかったですね」

 と、ため息混じりに呟いた。

「すみません、気が利かなくて」

「いえ、そんな、とんでもない。私がもうちょっと手際よく仕事していればよかったんですけど」

「榎本さんの仕事は十分早かったですよ。ただ吹雪が予想より早く、しかもずっとひどかっただけで」

 びゅうびゅうと風の哭く声がひっきりなしに聞こえてくる。

 私はしばし黙って外を眺めていたけど、やがて意を決して立ち上がると、少ない荷物をお腹に抱えてむりやりコートのボタンを閉めた。「では」と頭を下げかけた私を見て、諏訪邉さんがぎょっと目を見張る。

「どちらへ行かれるんですか」

「えっ? あの、駅で電車を待とうかと」

「寒いですよ。それに、駅はきっと大混乱です。電車もすぐには動かないでしょうから、しばらくここで待っていた方がいい」

「でも、そんなご迷惑をおかけするのは」

「迷惑なんて思いませんから。どうせ用事もないですし、外に出て風邪でもひかれるほうがずっと困ります」

 思ったよりも語気強く言われ、私は若干たじろいでしまう。本気で心配されているのだと、気づくと同時に乾いた頬がじわりと熱を持ってしまって、私は慌ててコートを脱ぐと改めて諏訪邉さんにお礼を述べた。
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