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第二章 予想外の再会
第四話
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あれは夢だ。
自分の願望がこれでもかというほどぎゅうぎゅうに詰め込まれた、ピンクでキラキラで甘々に甘いとろけるような夢の世界。
飛行機に乗って現実世界に戻ってきた今でも、ときどきふっと思い出してはじわりと顔が熱くなる。触れる唇の柔らかさ。痛みに混ざるほのかな快感。あんなに「可愛い」と言われたのはたぶん七五三以来じゃないか。
(でも、あんまり思い出さないようにしよう)
夢の世界に心が惹かれて、現実に目を向けられなくなる。
二度と会わないと彼は言った。実際、そのとおりだと思う。
私たちは最後の最後まで、お互い連絡先を聞かなかった。
「ありがとう、凛! すっごい可愛いじゃん、なんかアジアっぽくて」
お土産のポーチを受け取った愛菜は、仕事があるからと言って足早にデスクへ戻っていった。シンガポールのお土産話、特に聞きたくなかったのかな。私としても玲一さんのことを話すつもりはないのだけど。
ついこの間まで独身同盟とか言って寂しさを慰め合っていた仲だ。片方に彼氏ができたからといって、大慌てで処女を捨てた女だと思われるのはさすがに嫌。(あながち間違いでもないのが悔しいけど)
オフィスでみんなにお土産を配っていると、ふいにどこかからくすくすと笑う声が聞こえた。はじめは気のせいかと思ったけれど、笑い声は少しずつ大きくなり、やがて背後に人影が迫ってくる。
「ありがとう、高階さん。これ、女一人旅のお土産でしょ?」
山田先輩だ。愛菜の彼氏の。
引っかかる物言いに思うことはあったけど、私はいつもの仮面で微笑む。
「はい、シンガポールに行ってきました。よかったら食べてください」
「彼氏がいない子は大変だね、海外まで一人で行かなきゃならないなんて。どう? 楽しかった?」
オフィスの真ん中で大声で言うなよ。
こめかみがわずかに引きつった瞬間、デスクの愛菜と目が合った。――笑ってる。
(そういうことか)
わざわざ声をかけてきて、周りに聞こえるよう小馬鹿にして。おかしいとは思ったんだ。山田先輩にこんなプライベートな話をした覚えはなかったから。
私が一人で旅行に行ったことも、彼氏がいないということも、愛菜が全部教えたのだろう。今の笑顔は嘲笑だ。一人で旅行へ行った私を、高みからあざ笑う勝者の顔。
でも、彼女は知らない。
「楽しかったですよ、とても」
――素敵な人と、素敵な思い出を作れましたから。
私が堂々としているのが気に入らなかったのか、山田先輩は少しつまらなそうな顔をすると、特に会話を続けることもなく自分の席へと戻っていった。隣の愛菜と何やらひそひそ、聞こえよがしの声がする。強がっちゃって笑えるんだけど。皮肉が通じてないんじゃない?
(……私は友達だと思ってたんだけどな)
先に彼氏ができた愛菜にしてみれば、私はもう見下す対象でしかないということなのだろうか。
私は別に、彼氏がいる女の方が偉いとか、独り身の女は恥ずかしいとか、そういうふうに思ったことはないのだけど。……愛菜と楽しく飲んだ日のことを思い出し、少し胸が重くなる。
「すみません皆さん。お揃いですか」
バタバタと係長が部屋へ入ってきて、部署の社員が私を含め一斉に顔を上げた。
係長はメモをめくりながら、落ち着かない様子で口を開く。
「ええ、大変重要なお知らせが三点あります。まず一つ目は、椎名一華社長が長期の休業に入られることになりました」
周囲がざわめく。椎名一華社長はその名のとおり我が社のトップで、非常に辣腕な女社長だ。(本人はこの『女社長』という呼び名が大嫌いらしい)我々末端とはまるで接点がないとはいえ、営業としては一華社長のネームバリューに救われてきた面もある。
それが、何の前触れもなく長期の休業なんて……何があったか知らないけれど、楽しい話ではなさそうだ。
「そして二点目。社長の休業に伴い、弊社の取締役員であった社長の弟さんが、一時的に社長代理を務める運びになりました」
「……弊社の役員に弟さんなんていたんですか?」
「いたそうです。私も知りませんでした」
……弊社、本当に大丈夫?
みんなの顔に不安が次々に滲んでいく。
「そして三点目。社長代理の就任に伴い、弊社で臨時の大規模な人事異動が行われることになりました。営業課は転出一名、転入一名です。転出は」
そこで言葉を切り、係長は私へ目を向けて眼鏡越しに微笑んだ。
「高階凛さん。秘書課への異動です」
…………。
「……え? わ、私?」
想像もしていなかった言葉に頭が真っ白になる。
ずっと秘書課に行きたかった。それは確かに間違いない。
私はそもそも一華社長の辣腕に憧れて入社したんだ。憧れの人の一番近くで、その姿を見ながら働きたい。そう思いながらずっとずっと営業を頑張ってきたのだけど。
「どういうことですか!? こんな時期に人事異動なんて、前例がないじゃないですか!」
「そうだねえ。でも、社長代理の鶴の一声らしくて」
「おかしいですよ! しかも、り、……高階さんだけ秘書課だなんて!」
ああ、わかるよ愛菜。愛菜だってずっと秘書になりたいって私と一緒に言ってたもんね。二人で一緒に営業を頑張って、人事を認めさせてやろうって、一緒に励ましあってたもんね。
「今回の異動はかなり大規模なんですよ。別に高階さん一人が異動になったわけじゃなくて」
「でも……でも、納得いきません!」
「そう言われてもねえ……」
血相を変えた愛菜の勢いに係長はすっかり気圧されている。そして私は呆然と棒立ち。全然頭が追い付いていない。
デスクの片づけとお引越しは夕方でいいと言われたので、とりあえずこの身ひとつで秘書課の部屋へ足を運ぶ。震える手で軽くノックし、私がそっと扉を開けると、歴戦の秘書の先輩方がパッと顔を上げてこちらを見た。
「高階さん?」
「はい。よろしくお願いします」
「私は秘書課の鮫島です。よろしくね。私たちも……ちょっと戸惑っているところだから」
目の覚めるような美人の鮫島先輩は、ヒールの音をコツコツ鳴らしながら社長室の扉をノックした。
「椎名社長代理。秘書課に転入した高階さんが挨拶に来ております」
「どうぞ」
……ん? この声。
違和感が言葉になるよりも早く、鮫島先輩が社長室の扉を開ける。視線で促され、私はぎくしゃくしながら社長室に足を踏み入れる。
「本日から秘書課に異動になりました、高階凛で……す……」
語尾がどんどん小さくなる。
目に映る景色が歪んでいく。
「よろしく」
小さく微笑む口元から、シンガポール・スリングの甘い香りがふわりと漂った気がした。
自分の願望がこれでもかというほどぎゅうぎゅうに詰め込まれた、ピンクでキラキラで甘々に甘いとろけるような夢の世界。
飛行機に乗って現実世界に戻ってきた今でも、ときどきふっと思い出してはじわりと顔が熱くなる。触れる唇の柔らかさ。痛みに混ざるほのかな快感。あんなに「可愛い」と言われたのはたぶん七五三以来じゃないか。
(でも、あんまり思い出さないようにしよう)
夢の世界に心が惹かれて、現実に目を向けられなくなる。
二度と会わないと彼は言った。実際、そのとおりだと思う。
私たちは最後の最後まで、お互い連絡先を聞かなかった。
「ありがとう、凛! すっごい可愛いじゃん、なんかアジアっぽくて」
お土産のポーチを受け取った愛菜は、仕事があるからと言って足早にデスクへ戻っていった。シンガポールのお土産話、特に聞きたくなかったのかな。私としても玲一さんのことを話すつもりはないのだけど。
ついこの間まで独身同盟とか言って寂しさを慰め合っていた仲だ。片方に彼氏ができたからといって、大慌てで処女を捨てた女だと思われるのはさすがに嫌。(あながち間違いでもないのが悔しいけど)
オフィスでみんなにお土産を配っていると、ふいにどこかからくすくすと笑う声が聞こえた。はじめは気のせいかと思ったけれど、笑い声は少しずつ大きくなり、やがて背後に人影が迫ってくる。
「ありがとう、高階さん。これ、女一人旅のお土産でしょ?」
山田先輩だ。愛菜の彼氏の。
引っかかる物言いに思うことはあったけど、私はいつもの仮面で微笑む。
「はい、シンガポールに行ってきました。よかったら食べてください」
「彼氏がいない子は大変だね、海外まで一人で行かなきゃならないなんて。どう? 楽しかった?」
オフィスの真ん中で大声で言うなよ。
こめかみがわずかに引きつった瞬間、デスクの愛菜と目が合った。――笑ってる。
(そういうことか)
わざわざ声をかけてきて、周りに聞こえるよう小馬鹿にして。おかしいとは思ったんだ。山田先輩にこんなプライベートな話をした覚えはなかったから。
私が一人で旅行に行ったことも、彼氏がいないということも、愛菜が全部教えたのだろう。今の笑顔は嘲笑だ。一人で旅行へ行った私を、高みからあざ笑う勝者の顔。
でも、彼女は知らない。
「楽しかったですよ、とても」
――素敵な人と、素敵な思い出を作れましたから。
私が堂々としているのが気に入らなかったのか、山田先輩は少しつまらなそうな顔をすると、特に会話を続けることもなく自分の席へと戻っていった。隣の愛菜と何やらひそひそ、聞こえよがしの声がする。強がっちゃって笑えるんだけど。皮肉が通じてないんじゃない?
(……私は友達だと思ってたんだけどな)
先に彼氏ができた愛菜にしてみれば、私はもう見下す対象でしかないということなのだろうか。
私は別に、彼氏がいる女の方が偉いとか、独り身の女は恥ずかしいとか、そういうふうに思ったことはないのだけど。……愛菜と楽しく飲んだ日のことを思い出し、少し胸が重くなる。
「すみません皆さん。お揃いですか」
バタバタと係長が部屋へ入ってきて、部署の社員が私を含め一斉に顔を上げた。
係長はメモをめくりながら、落ち着かない様子で口を開く。
「ええ、大変重要なお知らせが三点あります。まず一つ目は、椎名一華社長が長期の休業に入られることになりました」
周囲がざわめく。椎名一華社長はその名のとおり我が社のトップで、非常に辣腕な女社長だ。(本人はこの『女社長』という呼び名が大嫌いらしい)我々末端とはまるで接点がないとはいえ、営業としては一華社長のネームバリューに救われてきた面もある。
それが、何の前触れもなく長期の休業なんて……何があったか知らないけれど、楽しい話ではなさそうだ。
「そして二点目。社長の休業に伴い、弊社の取締役員であった社長の弟さんが、一時的に社長代理を務める運びになりました」
「……弊社の役員に弟さんなんていたんですか?」
「いたそうです。私も知りませんでした」
……弊社、本当に大丈夫?
みんなの顔に不安が次々に滲んでいく。
「そして三点目。社長代理の就任に伴い、弊社で臨時の大規模な人事異動が行われることになりました。営業課は転出一名、転入一名です。転出は」
そこで言葉を切り、係長は私へ目を向けて眼鏡越しに微笑んだ。
「高階凛さん。秘書課への異動です」
…………。
「……え? わ、私?」
想像もしていなかった言葉に頭が真っ白になる。
ずっと秘書課に行きたかった。それは確かに間違いない。
私はそもそも一華社長の辣腕に憧れて入社したんだ。憧れの人の一番近くで、その姿を見ながら働きたい。そう思いながらずっとずっと営業を頑張ってきたのだけど。
「どういうことですか!? こんな時期に人事異動なんて、前例がないじゃないですか!」
「そうだねえ。でも、社長代理の鶴の一声らしくて」
「おかしいですよ! しかも、り、……高階さんだけ秘書課だなんて!」
ああ、わかるよ愛菜。愛菜だってずっと秘書になりたいって私と一緒に言ってたもんね。二人で一緒に営業を頑張って、人事を認めさせてやろうって、一緒に励ましあってたもんね。
「今回の異動はかなり大規模なんですよ。別に高階さん一人が異動になったわけじゃなくて」
「でも……でも、納得いきません!」
「そう言われてもねえ……」
血相を変えた愛菜の勢いに係長はすっかり気圧されている。そして私は呆然と棒立ち。全然頭が追い付いていない。
デスクの片づけとお引越しは夕方でいいと言われたので、とりあえずこの身ひとつで秘書課の部屋へ足を運ぶ。震える手で軽くノックし、私がそっと扉を開けると、歴戦の秘書の先輩方がパッと顔を上げてこちらを見た。
「高階さん?」
「はい。よろしくお願いします」
「私は秘書課の鮫島です。よろしくね。私たちも……ちょっと戸惑っているところだから」
目の覚めるような美人の鮫島先輩は、ヒールの音をコツコツ鳴らしながら社長室の扉をノックした。
「椎名社長代理。秘書課に転入した高階さんが挨拶に来ております」
「どうぞ」
……ん? この声。
違和感が言葉になるよりも早く、鮫島先輩が社長室の扉を開ける。視線で促され、私はぎくしゃくしながら社長室に足を踏み入れる。
「本日から秘書課に異動になりました、高階凛で……す……」
語尾がどんどん小さくなる。
目に映る景色が歪んでいく。
「よろしく」
小さく微笑む口元から、シンガポール・スリングの甘い香りがふわりと漂った気がした。
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