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4章 イルミネーション
54話
しおりを挟む新田さんの家を出ると、外は一段と寒さを増していた。風が肌を冷たくつき刺し、耳が切れるように痛い。これが寒くないとは、来るときは魔法にでもかかっていたらしい。
冷える身体とは反対に、頭の中だけが熱を持ってショート回路を回り続けていた。私は、どこか見知らぬ場所を彷徨っているかのような気持ち悪さを感じながら家へと歩く。どれだけ早く、と思っても空気が私を地面に押し付けるようにのしかかり、足は思うように上がらない。身体がふらふらして、膝がかくつく。行きはなんてことなくやってきた距離が、嘘のように遠かった。挙句、視界まで楕円形に歪みだす。
もう駄目だった。
ついに歩くことができなくなって、私はその場で地面に足から崩れ込む。溶け残った雪が氷となって張り付いた冬の地面は、スーツとレギンス越しでも驚くほど冷たかった。凍傷になってしまいそう。
けれどもう、なにもかもがどうでもよくなっていた。
なるようになれ。
そんな気になったら、腰にまで力が入らなくなって私はついに仰向けで倒れる。見上げた空は真っ暗で、今日は月も星もほとんど見えない。空にはぽつんとひとつ弱々しい光を放つ星が浮かぶだけだった。私は腕を上げ手のひらを空に向けてみる。あの弱々しい星には、到底届きそうにはなかった。当たり前のことだ。だけど、なぜかそれがとても悲しいことのように思えた。
いいわけがないけれど、もうここで眠ってしまいたいと思った。
私は虚ろな目で届かない空を眺める。ひとしきり眺めていると、曇り空のどこか高いところからひらひらとなにかが落ちてきて私の手の上に乗った。もちろん星じゃない。
雪だった。
望まないホワイトクリスマスになった。それが幻想的なのは恋人たちの世界だけで、私の前ではひとひらずつがこんなにも重く厳しく、苦しい。
私はその重さに負けて手を下ろそうとする。しかしその前に、誰かが私の手を掴んだ。私はびっくりして、目を見開く。
「あの、大丈夫ですか……って舞ちゃん!?」
また、くるみさんだった。覗き込んでくる顔は、私同様大きく見開かれている。
まずいところを見られた。
「舞ちゃん、どうしたの!? しかもこんなとこで! あー、こういう時はまず……なんだっけ。んー、立てる?」
「……無理、です」
「えっと。あーどうすればいいんだっけ。き、救急車!? 118だっけ」
「待ってください。いらないです。そういう緊急とかじゃないんで」
ちなみに救急車は、119が正解だ。118は、なんだったっけ。
「あー、そうなんだ……。いやでもじゃあなんでこんなところで!? 舞ちゃん、ねぇ本当にどうしたの」
くるみさんが私の身体を、介護でもするように起こしながら聞いてくる。
「……なんでもないんです」
「そんなわけないでしょ。それくらい誰が見てもわかるよ。馬鹿にしないでよね!」
そりゃあ失礼か。でもくるみさんにだけは、どうしても答えたくなかった。今よりもっと惨めになりそうだ。そうなったら、今度こそ立てない。
「いいから行ってください」
「放って行けるわけないでしょ! なにがあったの? 家まで送るよ」
「くるみさん、用事あるんじゃないんですか」
「なに言ってるの? もうこんな時間だよ、あとは家に帰るだけ!」
嘘だ。だって、今日はクリスマスだから。
恋人たちにとって、唯一無二の特別な日。くるみさんの家も同じ方向だから、その答えはなにもおかしくないのに「新田さんの家に行くんだろうな」と、自然に思った。
「とにかく私のことはいいですから」
腕で地面を押し、勢いをつけてから意地で立ち上がる。このままくるみさんに、ひいては新田さんに迷惑をかけるわけにはいかない一心。
「本当?」
「はい。たぶん疲れてるだけなので」
「残業するからだよ。早く帰ったら、いいことあるって言ったのに」
言われてみれば、早く帰っておけばこんなことにはならなかったかもしれない。
新田さんに家で会うことが出来ただろうし、今みたく倒れるにしても家の中だった。星座占いも案外バカにならない。
「店が忙しくしていて、抜けられなかったんです」
「ん……もうそれはいいよ。ちゃんと家まで帰れるの?」
「はい」
貼り付けたように笑ってみる。まだ真剣な顔で私を見るくるみさんの大きな目には、全てを見透かされている気がした。
「なにかあったら、すぐに電話するんだよ? 私でもいいし、118……みたいなとこでも。分かった!?」
「はい」
「じゃあね。おやすみなさい」
くるみさんが行くのを見送って、よろめく足を堪えつつ家に向かって歩き始める。雪の冷たい粒が全身を冷やした。さっきよりさらに寒い。息をひとつ吐いたら、見事に真っ白くけぶった。
あんまり寒いので、ためらいながらももらったマフラーを巻いて、手袋をはめてみる。
そのあったかさを感じたら、涙がこぼれ出た。一度泣いたらせき止めていた分、次から次へとぼろぼろ流れ出す。挙句は声まで漏らして泣いた。
どうしてこんなに涙が出るのだろう。
ただフラれただけのことが、どうして辛くてどうしてこんなに悲しいのだろう。
そう思えば昔は随分楽だった。身体さえ許しておけば、最低限の満足は得られた。なされるがままのセックスに身を委ねているだけで「私は一人じゃない」そんなふうに思えた。
でも新田さんはそんなことをしなくたって、隣にいてくれた。ただ一緒にいるだけで、私は一人じゃなかった。そのうち私は、それだけじゃ足りなくなった。二人でずっといられたら、と何度も思った。昔を知られるのは怖かったけど、本当はもっと分かってほしくて、分かりたかった。
欲張りになったものだ。
欲なんかなければいいのに。
もしそうなら、私はまだ例の彼との関係を保ったまま高校に通っていたかもしれない。新田さんにだって会わないで済んで、こんな気持ちにならなくたって済んだかもしれない。
なんて、そんなのは全部言い訳なのだけど。
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