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3章 はまひるがお
35話
しおりを挟む「それでどうかしたんですか。元気ないように見えますけど?」
私がまだ驚いて呆気にとられたままで答えられないでいると、
「……あのー、本当にどうかした?」
私の傘に潜り込み、下から覗き込んでくる。また居酒屋の時と同じような甘い匂いが香った。今回は、雨の匂いと混じっている。
丸く美しい瞳と目が合ったら、心臓を掴まれたかのよう。
「い、いえ。あの……離れてください」
「あ、すいません。近かったですね。近眼進行中だから距離感が……。それで? 悩みごとでもあったんですかー?」
「ないですよ。あっても言いませんし」
あるにしても、仕事のことだ。顔見知りとはいえ、部外者に簡単に喋っていいものではない。ほんの少し、そのつもりが回り回って、なにか不利益が起こることもある。
「察するにー、舞ちゃんのこと?」
「……いいえ」
「「違います、僕たちはただの友達ですから」ですよね」
「はい、分かってるなら聞かないでくださいよ。私が下を向いて歩くのはいつものことです」
石に足を引っ掛けたり、なにもないところでも急に転ぶ。
昔から足元がおぼつかない私にとっては、意識せずとも下を向いて歩くのは癖になっていた。これが余計に私の印象を暗くさせる。ノルマがあって一刻も早く配り終えたいはずの、ビラ配りにまで避けられるほどだ。
「なにそれ、落ちてるお金でも探してるんですかー」
「探してません」
「ならー、猫? 犬? 兎?」
「いいえ、動物は探していません」
「じゃあー、いつも落ち込んでるんですね。ずっと下向いてたら、本当に気分も下がってくるんですよ」
「そうかもしれませんね」
虚をつかれて核心を射られた気がした。ちょっと間の沈黙に、傘に当たってはじけた雨粒の音が私の心を揺らす。
「私の家、今日肉じゃがなんです」
「へぇ、いいですね。僕は、あり合わせです。えー……それがどうかしましたか」
「寄って行きませんか?」
「なにを言ってるんですか。そういうのは──」
「勘違いしないでください。実家ですから、両親も弟もいます」
私からしたら余計にアウェーだ。他人の家族に囲まれて、食事をできるほどのメンタルは持ち合わせていない。喋らない、動かない。ただの高さを食うだけの置物になってしまう。
「行きません、私がいてもご家族の邪魔になるだけですよ」
「ちなみに拒否権があるとは言ってませんよー」
「……帰ります」
「私の家もこっちなんです。一緒に帰りましょうか」
前を向いて歩き出した拍子に、水たまりを踏んだ。
靴のかかと部分から冷たい水が染み入る。やっぱり私は、下を向いて歩いている方が向いていると思った。
有川さんの家は、本当にすぐ近所だった。私の家から一本小さな道を挟んで、はす向かい。自分の家に帰ろうとしていたら、有川さんの家の前まで引っ張って行かれた。行きたくないと、行きましょうの応酬で一悶着あったが断り切れなかった。
私は本当押しに弱い。家の前が騒がしいのを聞きつけて出てきた有川さんのお母様にも「どうぞどうぞ」と勧められて、勝負あり。
もう断れるような雰囲気ではなかった。たとえご家族が出てきていなくても私は折れていたと思う。
笹川さんの時とは違って、有川さんは絶対に折れてくれないだろうなと思った。その辺はちょっと青山さんに似ている。
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