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3章 はまひるがお
33話
しおりを挟む次の日は、約束した通り青山さんと飲みに行った。青山さんは前回同様開幕から一人でお酒を煽って、愚痴を言い立てながら潰れていった。前回と違ったのは、酔って意識も朦朧としているだろうに、つらつらと子どもみたいに文句を言い続けたこと。はじめ仕事の愚痴だったそれは、いつしか恋愛の回顧録もとい後悔の小言に変わった。
本人は感じていないと言っていた失恋のショックがその言葉の端緒に表れていた。
私は聞いて、ただ頷いた。理解して、ではない。そうした方がいいと思ったのだ。生憎ながら、共感できるような経験が私にはなかった。
次の日からは、急に忙しくなった。
昨日まで愚痴をこぼし続けていた青山さんがそれであくが抜けたのか、真面目に仕事へ取り組み始めたからだ。最終商談までに出来ることはやろうという話になって、来る日も来る日も懸命に資料をまとめた。門前払い的に追い払われてしまわないよう、言い訳できないくらいに内容も詰めた。
やっとそれが落ち着いたのが、最終商談の二日前。
久しぶりに一日休みをもらえた。この頃にはもう私が、はまひるがおについて考えることはなくなっていた。そんな余裕がなかっただけ、ともいえるかもしれない。
その日は、昨晩から続いて荒れた天気だった。
ちょうど発達していた低気圧が秋雨前線に噛んで、台風並の暴風雨になるらしい。実際その通りで、昨晩は雨が窓を叩く音で布団に入ってからも中々寝つけなかった。その点、今日が休みでよかった。昨日寝つけなかった分は、今日少し早く寝れば済む話だ。
テレビをつけるとどこのチャンネルを回してみても、朝からその話題で持ちきりだった。東京のどこ線が運転見送りとか、空の便は全面運転見送りとか。都会にいた頃は、こういう情報をいちいち気にしなければならなかった。
ここで生活していたら、その全部が関係ないことにすら感じる。小さな町のことだからニュースにもならないが、あのさびれた電車のことだ。 止まっていない方が驚く。私が心配なのは、それより土砂崩れだ。両脇の山が崩れてきたら、アパートごとひと飲みにされる。
外の様子を見ようと、カーテンを開ける。
窓が雨粒で曇って、はっきりとは外が見えなかった。反射して、整然とした室内が映っている。しかしまだ雨が降り続いているのは音と匂いで分かった。
このまま窓の外を見ていても仕方がない。晴耕雨読と言う、本でも読むことにしよう。そう思って、小さなラックから一冊の本を抜き出した。
暇な時間は、本を読むことにした。
そう思うに至ったのは、九月の終わりくらいのことだ。今は漱石の『こころ』を読んでいる。有名な作品で、誰もが耳にしたことくらいはあると思う。『こころ』は、昔にも一度読んだことがあった。これも学校の教科書に乗っていて、その前後が気になって手を伸ばした。
だいたいの本は一度読んだら、もう読まなくなる。折角捨てずに「読むかもしれない」と、とっておいても忘れ去られて部屋の片隅で黄色く変色し、茶立虫に食われていく。この本もそうなる直前だった。こっちに引っ越して来る時に部屋を整理していたらぱっと見つけて、昔の宝物でも掘り出してきたような気分で綺麗にしてから持ってきた。
それで持ってきたまでは良かったが、これをまた忘れていた。
持ってきたことすら、「本を読もう」と思った時までは思い出せなかった。見つけた時はなぜこんなところにあるんだろう、くらいに思った。
そんな本を私が改めて開いたのは、なにも他に読むような本が無かったからの消去法ではない。今なら違った風に読めるかもしれない、そう思ったからだ。
この一年で私は多かれ少なかれ変わった。少なくとも私はそう思っている。または思いたいのだ。確証が欲しかった。まっすぐに敷かれた舗装済みのレールから少しでも違う道を進めていることの。今はまだ話の序盤で、読んでいるところまでの印象はさほど前と変わっていない。
そこから私は、しばらく読み進めた。小一時間以上経ったところで、携帯電話が鳴っているのに気づいた。少し遠くに置いていたものだから、取りに行くのがたるくて、しばらくは放っておいた。
けれど私に連絡してくるのは、会社か笹川さんくらいだ。もしくは親。とくに会社の話だったら見ていないことで困ることも出てくるやもしれない。結局本に栞を挟んで、携帯電話を取りにいく。
電話をかけてきていたのは青山さんだった。留守番電話のショートメッセージに残されていたのは、
「あー、明くん。休日なのに電話してまじでごめんね。あのねー俺、今会社で」まで。肝心の言いたいことが一つも残されていない、電子音がツーと繰り返される。
仕事のことでなにかあったのだろうかと思い、すぐに折り返す。しかし何コールたっても、繋がらない。そのうちに電話が勝手に切れてしまった。少し間を開けて、こちらから何度か掛け直してみるのだがそれもダメ。
なんだったのだろう。心配し始めるとだんだん気味が悪くなってきた私は、仕方なく会社に行くことにした。
これで「暇だったから電話したんだよ。まさか来るなんて!」とでも言われようものなら、珍しく怒ってしまうかもしれない。
部屋着から普段着に着替える。以前は黒ばかりだったが、今は色のレパートリーも少し増えた。笹川さんが選んでくれた、緑のセーターに身を包んで家を出た。雨はだいぶ弱まってこそいたが、まだ降り続いていた。いつか薬局で買った安いビニール傘を持って家を出る。
家の前に広がる田んぼのかかしが斜めに傾いていた。収穫目前であったろう稲は、その稲穂に近いところまで水に浸かりきってしまっている。米は無事収穫できるのだろうか。一年の努力が一日で水の泡になってしまうから、雨は怖い。
会社について、小さなオフィスに入ると同僚に一様に驚かれた。一番奥の机から長谷川さんが重たそうな腰をあげて、入り口まで来てくれた。
「新田くん今日、出勤日だったかな?」
「……いえ、今日は休みです」
「じゃあ、忘れ物かい」
「勝手に来たというか。あの、青山さんは?」
「あぁ、彼なら……ん、あれぇ。さっきまでそこにいたんだけどなぁ」
長谷川さんは、青山さんの席を見る。
その机の上には、汚く荷物が積んであるだけで本人はいなかった。やっぱり長谷川さんは、どこかぼけっとしている。こんなんで、会社の会計帳簿とかは大丈夫なのだろうか。
「あ、そうだった」
「どうしましたか」
「さっき体調を崩した、って言って帰ったんだったなぁ。彼になにか用だった?」
「それって何時くらいですか」
「一時間くらい前かなぁ」
となると、私に電話を掛けてきた少し後くらいだ。
なぜ私に掛けてきたかは置いておくとして、体調が優れなかったことで青山さんにはなにか問題が起きたのだろう。青山さんの家に行く以外、この推論の正解不正解を論じることはできない。
「そうですか、教えてもらってありがとうございます」
「うんうん。あぁそうだ、新田君。春に僕が言ったことは覚えているかい?」
「なんのことですか」
「友達を作ったら、って話だよ。どうなってる?」
「……とりあえず一人は」
「そうかい、それはよかったよ。じゃあまた明日」
会社を出て、うろ覚えの記憶を辿りながら青山さんの家に行った。
車に乗せられて行ったことしかなかったから少し迷った。
整備されていないでこぼこ道に水がたまる中をよけながら歩いたせいで、かなり疲れた。着いた頃にはそこまでして来る意味があったのだろうかと思い、チャイムを鳴らすのを躊躇していると、
「明くん? なにしてるのー、こんなところで」
「……こんにちは」
予想外に後ろから青山さんが現れた。その頬は明らかに熱を帯びていて、いつもより目の下が腫れ上がっていた。手にはくすりのようなものが提げられている。
「なに、お見舞い?」
「青山さんが電話してくるから気になって何度も電話したんですが出なかったので。それで、えっと……もうお見舞いということで大丈夫です」
「あー、ごめん。ちょうど携帯の電源切れたんだよねぇ。見舞いなら、なんか欲しかったなぁ、ポカリとか」
「……完全に忘れてました」本当は思いつきもしなかった。
「そういうの習わなかった? 友達の家に行く時は、お菓子持って行くじゃん。それと一緒──って、ごめんごめん。そんな深刻な顔しないで。冗談だよー」
「そんな深刻な顔してません」
「よく言うよ、本気で怒られてる人みたいな真顔だった。セルフィーでもして自分で見てみ? やばいから」
「見ないですよ」
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