18 / 57
2章 黒服男
18話
しおりを挟むそこへきて芽生え始めていたある種の反抗心が私をそうさせたのだ。この十数年勉強しながら、ずっと感じていた違和感が私を突き動かした。親とは喧嘩になったが、「これは僕の人生だ!」と一っ端にものを言った。このまま勉強をしてもどうにもならない気がしたのだ。たとえば教授になれたとして、尊敬する偉人たちのような生えある業績を残せるだろうか。そうはいかないだろう、その偉大な道しるべをなぞることしかできない。勉強に自分が生きる意味をすっかり見出せなくなっていた。
就活はそこまで苦労しなかった。東京大学と言っておけば、あとは適当に考えた体のいい志望理由だけで面接の時さえ格好を取り繕っておけば通った。数社受けて、受かった中から一番業績のいい商社に入った。それが今の会社だ。
晴れて念願の社会人になってすぐ、私はたいそう苦労した。会社という組織の一員になった以上は、周囲の人間とのコミュニケーションは必須だったからだ。最初は、「東大だから」と多めに見てくれていたが、それはほどなく「これだから勉強しか頭のない人間は」になった。私はそう言われるごと、心の中で「なんで低学歴に」と相手を罵った。
そんな時、先輩について行った取引先の相手として、あの冨山くんに出会った。向こうはこちらのことを完全に忘れていたが、当時憎い憎いと思っていた私は覚えていた。鼻のへこんだ輪郭がそのままだった。
彼は随分と立派になっていた。ただはしゃいでいるだけだった昔とは違って、目上の人間にも臆することなく意見をし、物事をハキハキと喋る。先輩もその姿に好印象を持ったらしく、私にお前もあんな風になれよ、と言った。
私はまた心の内で嘲ろうとして、ようやく気付いた。
自分がずっとあの頃のままだということに。私はいまだに誰かの上に立っているということで安寧を得ようとしていた。それは、あの頃から少しその表現の形を変えただけで根は同じだった。私はずっと留まっていたのだ。
改めて顔を上げて、「社会」を見渡してみると、これまで下だと思い込んできた人間が急に自分よりも大きく立派な存在に見えた。自分はあまりに小さかった。
味わったことのない劣等感にまみれた私は、そこから仕事に手がつかなくなった。それもこれまでとは違う。この壁を乗り越えるには、勉強ではいけなかった。そんな私に課長はついにしびれを切らして、東京本社から地方支社への異動が決まった。それが今年の春である。
初めてこの町を訪れた時は、町の寂れ具合に唖然とした。この町のどこに会社があるのだろうと思いながら、住所が示すところまで向かうと閑古鳥が鳴くような雑居ビルの上階にオフィスがあった。
支部長に挨拶を済ませると、私を一目見て、「友達いないだろう」と言った。私がなんのためらいもなしに「はい」と答えると、苦そうに笑ったあと「まずは友達作ったら? ほら、肩の力抜いて」と私の肩を叩いた。
それが頭に残っていたから春、私は、柄にもなく笹川さんに友達になりませんかと尋ねた。もちろんそんなことは人生で初めてだった。相手が迷惑することも分かっていた。それに最初からいきなり女の人に声をかけるというのもどうかと思ったが、そんなことでなりふり構っていられるようなほどの身ではなかった。断られたら、それはそれだと珍しく割り切って考えていた。
そして彼女に叱られて、私に初めての友達が出来た。
それから毎日のように、一日数通メールのやり取りをするようになった。休日や仕事終わりには会うことだってある。最初に誘った時には、緊張やら嬉しいやらでいっぱいになってしまい、どもってしまったが今ではそれもすっかりだ。ちょうど今日も、会う約束をしている。
『おはようございます。暑いので、格好には気をつけてください(^ ^)』
メールを送る。
いつもこんな調子だ。大した会話をするわけではない。それがまた私には楽だった。
メールを送り終えて、私は布団から起き上がる。とは言っても、もう夏だ。朝起きたら、薄い掛け毛布一枚被っていなかった。
枕元に置いていた眼鏡をかける。一気に視界がはっきりした。布団をしわのつかないよう綺麗に畳んでから、整然とものの置かれた部屋を見回す。ものがきちんと並んでいないと、少しでも気になってしまう。変に綺麗好きなのだ。
そのくせ、我が身の身だしなみに関してはほとんど無頓着だったりするから、自分でもその基準はよくわからない。
昔からいつも黒っぽい服ばかり着ていた。コンセプトはたった一つ、目立たないことだ。高い身長のせいでなにもせずとも目立ってしまうから、少しでもそれを緩和したかった。笹川さんに理由を聞かれて、そう答えたら「絶対服装かえたほうがいいですよ。逆に目立ちます」と言われてからは、どうにかしようという気になってはいるが、結局、黒い服のまま過ごしている。
この服は、夏は勝手が良くない。どんどん光を吸収して、暑いったら。黒色以外のシャツはないものかとタンスの中を丁寧に掘り起こしてみると、底のほうから何枚か白系色のシャツが出てきた。なにかの時に親が私に買ってくれたものだろうか。綺麗に袖が折られ、値札がついたままになっていた。これまでずっとタンスの肥やしになっていたのだろう。
普段ほとんど使わない姿見の前で、その白シャツを合わせてみる。しばらく見ていると面白いほど似合っていない気がして、一人で咬み殺すように笑った。今度は黒の服と比べてみる。いつも通り、なんの代わり映えもしない。
思い切って、今日は白シャツで行こうと決めて、タグを裁つ。かつん、と響きのいい音が鳴った。そこから顔を洗ったりなんなり、他の準備を済ませる。待ち合わせ時間は十二時だ。十分もすれば駅に着くのに、十一時二十分に家を出た。
三十分前行動が私の原則だ。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
今日はパンティー日和♡
ピュア
ライト文芸
いろんなシュチュエーションのパンチラやパンモロが楽しめる短編集✨
おまけではパンティー評論家となった世界線の崇道鳴志(*聖女戦士ピュアレディーに登場するキャラ)による、今日のパンティーのコーナーもあるよ💕
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ようこそ精神障害へ
まる1
ライト文芸
筆者が体験した精神障碍者自立支援施設での、あんなことやこんな事をフィクションを交えつつ、短編小説風に書いていきます。
※なお筆者は精神、身体障害、難病もちなので偏見や差別はなく書いていこうと思ってます。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
マキノのカフェ開業奮闘記 ~Café Le Repos~
Repos
ライト文芸
カフェ開業を夢見たマキノが、田舎の古民家を改装して開業する物語。
おいしいご飯がたくさん出てきます。
いろんな人に出会って、気づきがあったり、迷ったり、泣いたり。
助けられたり、恋をしたり。
愛とやさしさののあふれるお話です。
なろうにも投降中

来野∋31
gaction9969
ライト文芸
いまの僕は、ほんとの僕じゃあないんだッ!!(ほんとだった
何をやっても冴えない中学二年男子、来野アシタカは、双子の妹アスナとの離れる格差と近づく距離感に悩むお年頃。そんなある日、横断歩道にて車に突っ込まれた正にのその瞬間、自分の脳内のインナースペースに何故か引き込まれてしまうのでした。
そこは自分とそっくりの姿かたちをした人格たちが三十一もの頭数でいる不可思議な空間……日替わりで移行していくという摩訶不思議な多重人格たちに、有無を言わさず担ぎ上げられたその日の主人格こと「来野サーティーン」は、ひとまず友好的な八人を統合し、ひとりひとつずつ与えられた能力を発動させて現実での危機を乗り越えるものの、しかしてそれは自分の内での人格覇権を得るための闘いの幕開けに過ぎないのでした……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる