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1章 吠えない犬

10話

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次の日、朝九時ほんの少し前。
店まで行くと、男は予想通りすでに店の前まで来ていた。

今日も黒いコートに、黒地のズボン。一言で言うと、ダサかった。これからその横を歩かなければならない、と思うとまたひとつ嫌な理由が増えた。

今度もばれないように下を向き、長く幅のある髪で顔を隠す。このダメージヘアの意外な用途を見つけた。素知らぬふりでその前を通り過ぎて、店に入る。ぎりぎりでタイムカードを切った。

「おはよう、もう来てるよ」
「……はい、来るときに見ました。すぐに行きます」
「頑張ってきて」

中谷さんの激励に、よし、とひとつ自分に気合を入れる。もし横を通り過ぎたのをばれてしまっていたら困る。さっきとは別人を気取らなければならないと思って、髪を耳にかけバレッタで後ろ髪をまとめた。

今度は店の前扉から出て、まるで今し方気づいたかのように男の前へ。しかし男は眼鏡が落ちるんじゃないかと思うほどのめり込んで携帯電話を見ていて、こちらに気がつかない。何度か「おはようございます」と呼びかけても反応しないから、最後はほとんど叫ぶような声で呼びかけるとようやく反応した。私の声を百とするなら十にも満たない小さな声で、お決まりに「はい」と。

「おはようございます。お早いですね」
「おはようございます」
「新田様ですね。今日はよろしくお願いします。では行きましょうか」
「はい。あの、車はどちらに」
「すいません、電車と徒歩になります。運転免許はその、持っておりませんので」

今日の内見先は隣駅の周辺で二件と、最寄り駅の近くで一件の予定だ。先に遠いところから行けば、帰ってくるのが楽だという理由で遠いところから順に行くのが慣例になっている。

駅に向かって歩きだす。もちろん喋ることなんか一つも考えていない。内見に行くのは好きな方だ。口うるさく誰かに間違いを指摘されることがない(主に中谷さん)。それに事務所を飛び出して歩き回っている方が私の性にあっている。

ただ今回ばかりは、いますぐ事務所の机に戻りたいと強く思った。ガムを噛んで眠気と戦っている方が、無言の気まずさと向かい合うよりはよっぽどましだ。

部屋がある場所までは電車に乗って、たった一駅。だがそれがまた長かった。まず中々電車が来ない。かなりのローカル列車だから平日ですら一時間に一本のペース、休日ともなると二時間に一本だ。一本乗り遅れたら、さびれたホームで待ちぼうけを食らう。ホームには、数台置かれた年季の入ったベンチの他は自販機すら設置されていない。代わりにいたるところから野草がひょいと顔を覗かせ、野草の無法地帯。生え放題になっている。線路内を少し先に行ったところには住宅街に繋がる抜け道があるらしく、男子高校生だけでなく老人までもが平気で線路内に降りていっていた。

そんなホームだ。することもなければ、喋ることもない。ただベンチに座り続ける。交わした会話は少しでも間を持たせようとして言った「まだ少し冷え込みますね」と返ってきた「そうですね」だけ。腕時計の針は、壊れているのかと思うくらい何度見ても同じ位置を指している。電車も遅延を疑うほど現れない。男を見れば、背もたれにもたれかかることもなく背筋をぴんと伸ばしたまま座っている。相変わらずきのこ頭に目元を隠していて、何を考えているのか計り知れなかった。また唇が少し震えていた。

そんな二人組は、異様な雰囲気を放っていたのだと思う。同じくホームで待っている人からは、奇妙なものを見る視線を感じた。

やっときた電車に乗って、ほんの十分。隣駅で降りる。歩いて向かった方が早かったかもしれない。内見先まではここからおよそ三分だ。駅から離れれば、すぐにぶどう畑までひらける道を歩いて一件目の部屋にたどり着いた。

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