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1章 吠えない犬
3話
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「準備しといてくれよー。今日は啓介くんいないから、いつもより大変だと思うし。ちゃんと構えておくように」
中谷さんがチェアを左右に揺らしながら言う。
「高崎さん、休みなんですか?」
「うん、親戚の結婚式みたいだよ。いいなぁ僕の親戚も誰か結婚しないかなぁ。……って、そろそろ僕が結婚しないとなぁ、ははは。名前が康成だから、川端さんとかに婿入りしたいな」
「はぁ、あはは」
ジョークのつもりだったのだろうが、私にはなにがなんのことやらさっぱりだ。適当に笑ってごまかし、自分のデスクにつく。事務所の角っこ、私が来るまでは廃棄資料の溜め場だったらしい奥まった場所が私の席だ。引き出しを開けて、デスクトップを立ち上げる。先に先日来店した客の資料に目を通しておかなければなるまい。
ポケットに忍ばせていたミントのガムを噛みつつ、画面を眺める。働き出してからというもの、これは必須アイテムだ。
デスクワークそのものがまだ不慣れで、机に座ってなにかを眺めるとすぐに眠気に襲われる。それを上手い具合にごまかすことができるのだ。仕事中の半分以上は噛んでいて、お腹がゆるくなることもままある。さすがに客の手前では噛まないが。
「いらっしゃいませ!」
中谷さんが挨拶をするのが聞こえて、客が来たことに気づく。
とっさにガムをリスみたく頬の裏に隠して、同じように挨拶をした。低い地声を出来るだけ張り上げて、高い声で。地声だと、恫喝しているみたい。そう言われたこともある。
「今日はどのようなご用件でしょうか」
「この辺りで下宿できる家を探していまして」
「ありがとうございます。それでは、こちらへどうぞ」
とりあえずは、中谷さんが対応をしてくれそうだ。そのうちに客に見えないよう裏でガムを吐く。繁盛する昼から夕にかけては四人いる店舗も、朝は中谷さんと私の二人だけが基本だ。もし今客が来たとしたら、私が対応することになる。
ガムを噛んだままでは、失礼にあたることぐらいはこの数ヶ月で学んだ。ゴミ箱に包み紙ごと捨てて顔を上げると、また新しい客が来ていた。
三月初旬。一日に来店する客の数は著しく増えてきている。新生活に備えて、家を借りようという人が多いからだ。今から四月初旬までがピークになるという。二月中頃は、一日に二桁くればいい方だった。それに比べて、今日は開始数分でもう二人。今日は荒れそうだ。
「いらっしゃいませ。今日のご用件は?」
「あ、えっと……その、家を、はい」
「そうですか。では、こちらにどうぞ」
あからさまに暗そうな雰囲気の客だった。
外見からして、陰が漂っていた。もう季節外れの真っ黒なコートに身を包んで、ズボンも黒色。髪の毛はじめりと目の下くらいまでかかって、眼鏡の奥の目元を隠している。身長こそ百八十センチ近くあるものの、痩せた体からは運動音痴なのは容易に想像がついた。
こういうタイプの人と話すのははっきり言って苦手だ。なにごともはっきりとしないから。中学生になって以降は関わったこともない。
だからと言って、仕事である以上対応しないわけにはいかない。中谷さんは他の客の相手をしているし、自分がやるしかなかった。
中谷さんがチェアを左右に揺らしながら言う。
「高崎さん、休みなんですか?」
「うん、親戚の結婚式みたいだよ。いいなぁ僕の親戚も誰か結婚しないかなぁ。……って、そろそろ僕が結婚しないとなぁ、ははは。名前が康成だから、川端さんとかに婿入りしたいな」
「はぁ、あはは」
ジョークのつもりだったのだろうが、私にはなにがなんのことやらさっぱりだ。適当に笑ってごまかし、自分のデスクにつく。事務所の角っこ、私が来るまでは廃棄資料の溜め場だったらしい奥まった場所が私の席だ。引き出しを開けて、デスクトップを立ち上げる。先に先日来店した客の資料に目を通しておかなければなるまい。
ポケットに忍ばせていたミントのガムを噛みつつ、画面を眺める。働き出してからというもの、これは必須アイテムだ。
デスクワークそのものがまだ不慣れで、机に座ってなにかを眺めるとすぐに眠気に襲われる。それを上手い具合にごまかすことができるのだ。仕事中の半分以上は噛んでいて、お腹がゆるくなることもままある。さすがに客の手前では噛まないが。
「いらっしゃいませ!」
中谷さんが挨拶をするのが聞こえて、客が来たことに気づく。
とっさにガムをリスみたく頬の裏に隠して、同じように挨拶をした。低い地声を出来るだけ張り上げて、高い声で。地声だと、恫喝しているみたい。そう言われたこともある。
「今日はどのようなご用件でしょうか」
「この辺りで下宿できる家を探していまして」
「ありがとうございます。それでは、こちらへどうぞ」
とりあえずは、中谷さんが対応をしてくれそうだ。そのうちに客に見えないよう裏でガムを吐く。繁盛する昼から夕にかけては四人いる店舗も、朝は中谷さんと私の二人だけが基本だ。もし今客が来たとしたら、私が対応することになる。
ガムを噛んだままでは、失礼にあたることぐらいはこの数ヶ月で学んだ。ゴミ箱に包み紙ごと捨てて顔を上げると、また新しい客が来ていた。
三月初旬。一日に来店する客の数は著しく増えてきている。新生活に備えて、家を借りようという人が多いからだ。今から四月初旬までがピークになるという。二月中頃は、一日に二桁くればいい方だった。それに比べて、今日は開始数分でもう二人。今日は荒れそうだ。
「いらっしゃいませ。今日のご用件は?」
「あ、えっと……その、家を、はい」
「そうですか。では、こちらにどうぞ」
あからさまに暗そうな雰囲気の客だった。
外見からして、陰が漂っていた。もう季節外れの真っ黒なコートに身を包んで、ズボンも黒色。髪の毛はじめりと目の下くらいまでかかって、眼鏡の奥の目元を隠している。身長こそ百八十センチ近くあるものの、痩せた体からは運動音痴なのは容易に想像がついた。
こういうタイプの人と話すのははっきり言って苦手だ。なにごともはっきりとしないから。中学生になって以降は関わったこともない。
だからと言って、仕事である以上対応しないわけにはいかない。中谷さんは他の客の相手をしているし、自分がやるしかなかった。
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