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一章 山梨・ほうとう、群馬・おっきりこみ
一章 山梨・ほうとう、群馬・おっきりこみ(6)
しおりを挟む「郷土料理にお詳しいことは分かったが、そもそもそれ自体が遅れてんだよ」
男は、カバンの中から三つほど小袋を取り出す。西洋菓子のようだった。ごつい手には似つかわしくない、可愛らしいものばかりだ。どこかで見たことはあっても、名前までは分からない。
これには、おばさまたちが少し色めく。上野のレディはハイカラ好きが多いのだ。
「お前は、こんな菓子知らないだろ? これが時代の先端ってやつだ。今どき歴史だの言ってる時点で遅れてるな」
「待って。そんなのフェアじゃないでしょ」
私はつい口を挟む。伝統的な味を売りにしている店に来て、目新しさで勝負とはいただけない。たまたま菓子を所持していたがゆえの苦し紛れにしても、ずるい。
「知ったことじゃねぇ。どうだ、見た目の割に流行りに乗れてない若造に説明してやるよ。これはなぁ」
指を指しながら、オレイエット、ティグレ、ブルドネージュ、と。暗号のように男は唱える。
実に誇らしげだった。オレイエットは、オレンジ風味のシンプルな揚げ菓子、ティグレはフィナンシェの生地にチョコチップを混ぜて真ん中にガナッシュを詰めた焼き菓子、ブールドネージュはいわゆるスノーボールで、海外ではストロベリーなど味を変えたのが流行しているのだとか。
「全てこれから大ヒット間違いなしのお菓子だ」
男の高笑いが店舗が狭いからだろう、こだまする。私にはそれが虚しいものにしか聞こえなかった。
なぜなら、江本さんが不敵そうにくくっと笑い漏らしていたから。
「あなたは、これらの歴史を知っていらっしゃるのでしょうか」
「は? そんなもん知るわけないだろうが」
「オレイエットはフランス・ラングドック地方の伝統的なお菓子です。小さい耳に形が似ていることからその名がつけられ、中世から食べ続けられています。それこそ、これは郷土菓子でございます。ティグレは今やヨーロッパでは当たり前に食べられているもので――」
と。
私は呆気にとられて、途中からは右から左へ音を受け流すだけになってしまった。それは、男も。相手の苦手だろう分野でやり込めようと思ったのだろうが、倍どころか何倍返しされていると言ったらいいのやら。
そして、江本さんはその痛烈な反撃をこう締めくくる。
「あなたも一介のシェフなら、極める努力をしてみてはいかがです?」
「えっ、シェフ?」
これには、私も観客側に回って、ひょうきんな声を上げてしまった。要は同業者だったのか。
「はい。そうではありませんか? お客様」
江本さんは皮肉をこめてだろう、最後の三文字を強調した。
「ちっ、……そうだよ」
「表通りのフレンチ料理屋、私は悪くないと思いますが」
それも、すぐそばの。たしか、かなり派手だったので、この店が際立って古っぽく見えたんだ。
江本さんはどうしてそんなことが分かるのだろう、男はなぜこんなことを。
! と? マークが同時に踊り出した私の脳内。ぴったりの質問は、男が代わりに尋ねた。
「……どうして、そんなことが?」
苦虫を噛み潰したような渋い顔で。好対照なのは、江本さん。それこそフランス菓子のようにふわっと甘い顔が、橙色の明かりに映える。郷土料理屋の店主なのだけれど。
「紹介していただいたお菓子は、全てフランスのものでしたから。それもある程度の知識がなければ分からないものばかりとこれば、フレンチに詳しい方だと推測できましょう。郷土料理を貶めていた割には、丁寧に味を確かめていたのも料理人と判断した決め手の一つでした」
「……近くの店だっていうのはなんで分かったんだ」
「それにはもう一つ、推論が重なります。あなたなのでは? うちの店に、言われもない悪いレビューをいくつもつけたのは」
私は、はっと思い出す。
そういえば全て、古いと貶めるような内容だった。そして、それはこの男の言い分とも近しい。同一人物と言われれば、ふに落ちなくもない。
男は黙りこくっていた。それはもう、認めたに等しかった。
「あなたは、騒ぎになる前、料理の写真を撮っていらっしゃいましたね。それだけならなんて事のない行為ですが、あなたはこうして喧嘩を吹きかけてきた。
その二つの要素から、ネットに悪口として投稿するためなのではないか、と。あとは、うちの人気が下がって、一番いい思いをするのはどこかと考えれば分かる話」
バラバラだったカケラが繋がっていって、一つのパズルが完成へ向かっていくかのようだった。ラストのピースは、そんなことを仕掛けた理由だけ。
「レビューだけならまだしも、店で騒ぎを起こすなんて、どういうつもりでいらっしゃいます?」
もうさすがに年貢の納め時と見たらしい。男は、無言のままうなだれる。ややあってから、ぼそりと短く絞り出した。
はじめは出来心だったんだ、と。
「…………一年前、この店ができた時は、正直ぽっとでの店だとなめてたんだ。時代の流れにはあってないと思ったし、店員はチャラそうだし、立地も悪い。でも、最近のお客さんってのは聡いのな。少ししたら、ここが旨いとネットで評判になって、人気が出だした。コンセプトは珍しいし、店員は格好いい可愛いってな。この店の客が増えていくのは、俺の店の窓越しにずっと見てた。するとどうよ。かわりに、俺の店からはどんどん客が減っていった」
客が店の目の前まで来て、「郷土料理屋・いち」の方へ入るのを何度も何度も見かけたらしい。それも、スマホを片手に。
「それを見た時、悪魔が囁いたんだ。ネットの評価を落としてやればいいんだ、ってな。文字や写真みたいな情報だけで決めつけで比べられるのは、もううんざりだった」
事情を聞いても、同情できる話ではなかった。そんなものは逆恨みでしかない。
それだけで片付けてしまえばよいところだったのだろう。けれど、胸に走るのは疼くような痛みだった。
私は彼の境遇に、少しだけ自分を重ねてしまっていた。
誰かと比べられ、どちらがどうだとシールを貼られて。いつしかシールの方が、中身に優ってしまう。たとえば中身が違うものに変わっていても、シールはずっと同じ。なにかの拍子に剥がれたりしない限り、ずっと。
「ただ、それでもまだ裏道に人が入っていくのを見たんだ。だから最終手段として」
「店で事件を起こしてしまえ、と」
「……あぁ、そういうことだ」
男は顔を伏せたまま、上げない。店内全体から、彼に批判的な目が注がれているからかもしれない。
「レッテルというのはどうしても貼られるものです。あなたは自分が同じことをしていることに気づいていらっしゃいますでしょうか」
「なんのことだ?」
「郷土料理に、古いとレッテルを貼った。一緒だと決めつけた。そうでしょう?」
「……そうだな」
「でもそれは、ある意味当たり前のことなのです。人はそうして物事を整理する生き物ですから。そういう意味では、印象というのもそれなりに価値があるものです。これにお金や時間をかけることは無意味ではありません。
ただ、なにが一番大切かを忘れてはいけない。とくに、料理人たるあなたの中で、その順番が入れ替わるのはいただけない」
諭すような優しさと、叱るような厳しさの混じった一言一言だった。
「…………言う通りだな」
しばらくの沈黙のあと、男はすまなかった、と机に頭を叩きつけるようにして詫びる。
「なんとでも処理してくれ。悪かった」
それは許しを乞うようなものではなく、潔いものだった。江本さんは、切れ長の形いい目をため息とともにそっと閉じた。
どうするのだろう。「郷土料理屋・いち」は、少なからず実害を被ったはずだ。利益が落ちたことを証明すれば、威力業務妨害の罪に問えるかもしれない。ちなみに、おばさま方の井戸端会議では、意見が二つに割れていた。
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