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第八十一話
𓅓𓇌𓇋𓎡𓄿𓇋〜冥界〜
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「メリモセが亡くなった後、俺は偽扉の前で彼の魂と話をした。その時には確かにそこにあったんだ。彼の人間としての魂が」
アヌビスは目を閉じ、当時の記憶を手繰り寄せる。肉体に個性があるように、魂にもそれは存在する。目には見えないがアヌビスはそれを気配、あるいは感覚として受け取っていた。人間だった頃の彼と例え姿が変わっていても、魂のその形だけは唯一不変のものだ。
「やるべき事は分かった。だがその前に、この状況を説明してくれ。俺をここに呼んだのはお前達か? ここがどこで、何故呼ばれたのか、俺はそれすら聞かされていない」
「それは——」
「俺から話そう」
先に口を開いたエゼルを制し、ラーホルアクティは一歩前に進み出る。
「お前をここに呼び出したのは俺だ」
その言葉にアヌビスは目を細める。
「肉体を取り戻したお前が今更こんな所に俺を呼びつける理由は何だ? それに何年も体を共有したホルスではなく、何故俺を?」
「全てを俯瞰するような、達観したお前の性格は生来のものではない。だがそれは腹違いだからでも、兄だからでもなく、ただこの世の深淵がお前を在るべき場所へと導いた」
「……何が言いたい?」
言葉の意図が読めず、アヌビスは兄の顔をじっと見つめる。
「深い地の底でお前は何を見た? 死というものを間近で感じ、この世の不条理と向き合ったお前はそこで何かを得た筈だ」
確かに得たものはある。覚醒とでも言うべきか死者の魂と対話ができるのもその一つだが、それがラーを打ち倒す為の切り札になるとは到底思えなかった。
「ミイラの作成は人間でも可能だが、死者と触れ合うのは容易ではない。彼らの魂を呼び出し、意思の疎通を図る力。そしてお前が使役する眷属にも同じく冥界の気配を感じた。お前はここにいる誰よりも冥界の神としての素質を持っている」
自分が冥界の神に?
いかなる場所であろうと、父と同じ場所に身を置く事は今の自分にとって不相応であるように思えた。そして冥界に下るという事は、この世での死を意味する。
「ほぼ初対面だっていうのに、随分知ったような口を利くんだな。少し買い被りすぎじゃないのか」
「曲がりなりにもお前の兄だ。知っていて当然だろう」
あるいはお前と同じ闇を見たからか。
弟を見つめたまま彼は続けた。
「別にお前を殺す訳じゃない。ここは異なる世界を隔てる境界線。さしずめ、冥界の入り口だ。本来ここを通る事ができるのは死者のみだが、抜け道がある。だがそこを通れるのは素質を持つ者。つまりお前と俺の二柱だけだ」
「何故冥界に行く必要がある? 彼らは天界にいるんじゃないのか?」
アヌビスの問いに彼は首を振る。
「父の、太陽神としての性質を忘れたのか? 父は毎日船に乗り、航海をする。夜になると命を終え、翌日日の出と共に再び復活を遂げる。太陽の動きと、命の循環を体現した父のその性質は魂に刻まれ、肉体を変えても変わる事はない。呪いから解放され、そのサイクルが再び動き出した今、父は必ず冥界を通る」
彼はエゼルを一瞥し、再度こちらに目を向けた。
「事情を把握していたこの男から俺は取引を持ち掛けられた。彼がここにいるのは、俺がその取引に応じたからに他ならない」
「取引?」
その言葉にアヌビスは一抹の不安を覚える。彼が策士である事、交渉術に長けている事も既知の事実だ。その彼に取引を持ちかけられてこちらが不利になる可能性も十分にある。
「今更足掻いた所で死ぬ運命に変わりありません。あの男の存在をこの世から抹消する。その目的の為、私はこのお方から冥界に行くまでの猶予を頂いたに過ぎません」
「そしてその見返りに俺は抜け道の存在と場所を知ったという訳だ」
成程、とアヌビスは思った。
一度冥界を目にした彼の発言には一定の信憑性がある。抜け道があると言われればそれを疑う余地はない。兄とどのように接触したのか定かではないが、相変わらず策士である。
仮にそれが事実だとしても、途中で欺かれる可能性もゼロではない。思いあぐねるアヌビスを横目に彼はさっそく動き始めた。
「どうぞこちらへ。例の抜け道まで案内いたします」
疑うそぶりも見せず、彼の後に続く兄をアヌビスは怪訝な顔で見やる。
「信じていいのか?」
「信じるも何も、今はこれに縋るしかない。道を違えたとしてもその時はその時だ」
その言い草に弟の片鱗を見たアヌビスはため息をつき、疑念を残しつつ兄の後に続く。
エゼルに連れられ、兄弟は仄暗い道をひたすら進んだ。微かに聞こえる川の音が徐々に存在感を増し、アヌビスはその先に目を凝らす。するとエゼルは足を止め、こちらにゆっくりと振り返った。
「あの扉の先にあるのが冥界です。魂が生まれ変わる為の試練の道。そしてこのわずかに開いた裂け目こそがその抜け道」
「……ここを通れと?」
エゼルが指差したその裂け目は数センチ程しかなく、人が通るには幾分大きさが足りない。
「通れるでしょう? あなたなら」
エゼルはアヌビスの方を一瞥し、そう言い放った。
「俺達を鼠か何かだと——」
「確かに、通れない事はないな。その鼠がいればの話だが」
エゼルは見透かしていたとばかりにその手から鼠を一匹放った。すると裂け目に向かって駆け出し始める。アヌビスはすかさずその影に身を忍ばせ、鼠と共に裂け目へと侵入した。
「いえ、懐に忍ばせるのはさすがに気味悪がられると思いまして、投げたふりを」
誰に問い詰められた訳でもないが、エゼルは一応弁明した。
「で、俺は置いてきぼりを食らう訳か」
ラーホルアクティがこちらをねめつけるのも構わずエゼルは言った。
「ここに留まりますか?」
「いや、こうなった以上、俺はホルスの元に行く。ラーの復活も知らせなきゃならない」
「では、私もお供致します」
驚く彼の視線を悉く無視し、エゼルは先陣を切って歩き出した。
「行きましょう。知っての通り、私には時間がないのです」
アヌビスは目を閉じ、当時の記憶を手繰り寄せる。肉体に個性があるように、魂にもそれは存在する。目には見えないがアヌビスはそれを気配、あるいは感覚として受け取っていた。人間だった頃の彼と例え姿が変わっていても、魂のその形だけは唯一不変のものだ。
「やるべき事は分かった。だがその前に、この状況を説明してくれ。俺をここに呼んだのはお前達か? ここがどこで、何故呼ばれたのか、俺はそれすら聞かされていない」
「それは——」
「俺から話そう」
先に口を開いたエゼルを制し、ラーホルアクティは一歩前に進み出る。
「お前をここに呼び出したのは俺だ」
その言葉にアヌビスは目を細める。
「肉体を取り戻したお前が今更こんな所に俺を呼びつける理由は何だ? それに何年も体を共有したホルスではなく、何故俺を?」
「全てを俯瞰するような、達観したお前の性格は生来のものではない。だがそれは腹違いだからでも、兄だからでもなく、ただこの世の深淵がお前を在るべき場所へと導いた」
「……何が言いたい?」
言葉の意図が読めず、アヌビスは兄の顔をじっと見つめる。
「深い地の底でお前は何を見た? 死というものを間近で感じ、この世の不条理と向き合ったお前はそこで何かを得た筈だ」
確かに得たものはある。覚醒とでも言うべきか死者の魂と対話ができるのもその一つだが、それがラーを打ち倒す為の切り札になるとは到底思えなかった。
「ミイラの作成は人間でも可能だが、死者と触れ合うのは容易ではない。彼らの魂を呼び出し、意思の疎通を図る力。そしてお前が使役する眷属にも同じく冥界の気配を感じた。お前はここにいる誰よりも冥界の神としての素質を持っている」
自分が冥界の神に?
いかなる場所であろうと、父と同じ場所に身を置く事は今の自分にとって不相応であるように思えた。そして冥界に下るという事は、この世での死を意味する。
「ほぼ初対面だっていうのに、随分知ったような口を利くんだな。少し買い被りすぎじゃないのか」
「曲がりなりにもお前の兄だ。知っていて当然だろう」
あるいはお前と同じ闇を見たからか。
弟を見つめたまま彼は続けた。
「別にお前を殺す訳じゃない。ここは異なる世界を隔てる境界線。さしずめ、冥界の入り口だ。本来ここを通る事ができるのは死者のみだが、抜け道がある。だがそこを通れるのは素質を持つ者。つまりお前と俺の二柱だけだ」
「何故冥界に行く必要がある? 彼らは天界にいるんじゃないのか?」
アヌビスの問いに彼は首を振る。
「父の、太陽神としての性質を忘れたのか? 父は毎日船に乗り、航海をする。夜になると命を終え、翌日日の出と共に再び復活を遂げる。太陽の動きと、命の循環を体現した父のその性質は魂に刻まれ、肉体を変えても変わる事はない。呪いから解放され、そのサイクルが再び動き出した今、父は必ず冥界を通る」
彼はエゼルを一瞥し、再度こちらに目を向けた。
「事情を把握していたこの男から俺は取引を持ち掛けられた。彼がここにいるのは、俺がその取引に応じたからに他ならない」
「取引?」
その言葉にアヌビスは一抹の不安を覚える。彼が策士である事、交渉術に長けている事も既知の事実だ。その彼に取引を持ちかけられてこちらが不利になる可能性も十分にある。
「今更足掻いた所で死ぬ運命に変わりありません。あの男の存在をこの世から抹消する。その目的の為、私はこのお方から冥界に行くまでの猶予を頂いたに過ぎません」
「そしてその見返りに俺は抜け道の存在と場所を知ったという訳だ」
成程、とアヌビスは思った。
一度冥界を目にした彼の発言には一定の信憑性がある。抜け道があると言われればそれを疑う余地はない。兄とどのように接触したのか定かではないが、相変わらず策士である。
仮にそれが事実だとしても、途中で欺かれる可能性もゼロではない。思いあぐねるアヌビスを横目に彼はさっそく動き始めた。
「どうぞこちらへ。例の抜け道まで案内いたします」
疑うそぶりも見せず、彼の後に続く兄をアヌビスは怪訝な顔で見やる。
「信じていいのか?」
「信じるも何も、今はこれに縋るしかない。道を違えたとしてもその時はその時だ」
その言い草に弟の片鱗を見たアヌビスはため息をつき、疑念を残しつつ兄の後に続く。
エゼルに連れられ、兄弟は仄暗い道をひたすら進んだ。微かに聞こえる川の音が徐々に存在感を増し、アヌビスはその先に目を凝らす。するとエゼルは足を止め、こちらにゆっくりと振り返った。
「あの扉の先にあるのが冥界です。魂が生まれ変わる為の試練の道。そしてこのわずかに開いた裂け目こそがその抜け道」
「……ここを通れと?」
エゼルが指差したその裂け目は数センチ程しかなく、人が通るには幾分大きさが足りない。
「通れるでしょう? あなたなら」
エゼルはアヌビスの方を一瞥し、そう言い放った。
「俺達を鼠か何かだと——」
「確かに、通れない事はないな。その鼠がいればの話だが」
エゼルは見透かしていたとばかりにその手から鼠を一匹放った。すると裂け目に向かって駆け出し始める。アヌビスはすかさずその影に身を忍ばせ、鼠と共に裂け目へと侵入した。
「いえ、懐に忍ばせるのはさすがに気味悪がられると思いまして、投げたふりを」
誰に問い詰められた訳でもないが、エゼルは一応弁明した。
「で、俺は置いてきぼりを食らう訳か」
ラーホルアクティがこちらをねめつけるのも構わずエゼルは言った。
「ここに留まりますか?」
「いや、こうなった以上、俺はホルスの元に行く。ラーの復活も知らせなきゃならない」
「では、私もお供致します」
驚く彼の視線を悉く無視し、エゼルは先陣を切って歩き出した。
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