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第七十三話

𓃀𓇌𓈖𓍢𓍢~不死鳥~

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「大変ですサヌラ様!」
 自室で事務仕事に没頭していたサヌラはノックもせず駆け込んで来た侍従の姿に眉を寄せる。

「そんなに慌てて一体何があったの?」
 あれから十数年の時が経ち、すっかり大人の女性となったサヌラは落ち着き払った様子でその顔を仰ぎ見る。

「とにかく来てください!」
 何か問題でも発生したのだろうか。侍従に促され、サヌラは外へ飛び出した。

「見て! ベヌウよ!」
 向かいの畑で鍬を持った女性が空を指差して叫んでいる。その声につられて空を見上げた村人達は一斉に感嘆の声を漏らした。同じく空を仰ぎ見たサヌラはその目に飛び込んできた光景に息を呑む。

 大空に浮かぶ巨大な不死鳥ベヌウ。突如として現れたその雲は彼女が空を見上げてからわずか数秒で姿を消した。

「ホルス――」
 その雲を見た瞬間、サヌラは何故か彼の事を思い出す。もう何年も前の事だが、今でも鮮明に覚えている。決して忘れる事のできない大切な思い出。

「貴方は神様だったのね」
 その雲を見てサヌラはようやくその事に気づく。いつかこの村を、村人達を救ってくれた英雄。もう二度と会う事のない彼にサヌラはしばし思いを馳せる。

「ベヌウって何?」
 感傷に浸る母親を不思議そうに眺め、駆け寄る息子。
 
「神の都ヘリオポリスに住む不死の鳥。吉兆よ。この村の神様もきっと目を覚ますわ」
 いつの間にか頬を伝っていた涙を拭いサヌラは息子の方に向き直る。

「来なさいイムセティ。祭壇にお供え物をしましょう」
「それ、食べていい?」
「お祈りが済んだらね」

 地平線アケトに沈む夕日が親子を優しく照らしている。限りある人生の中で彼女はやっと見つけたのだ。自分の生きる道、そしてかけがえのない日常を。それを見送るかのようにそよ風が二人の間をそっと吹き抜けていった。

***

 街の中央に仰々しく設置された死刑台はまるで祭壇のようだ。グロテスクな様相を呈したそれをアヌビスはまるで他人事のように見つめる。

 見物か苦情か。周囲には人がごった返し、口々に何かを言っている。しかしいずれもアヌビスの耳には届かなかった。外部からのあらゆる衝撃を弾くそれは人神問わず一切の介入を許さない。これでは反撃はおろか、ここから逃げ出す事すら不可能だ。下手に動けば死期が早まるだけ。仮に時間が稼げたとして、今の自分を一体誰が救ってくれるだろう。

 そしてアヌビスは無意識に母の姿を探していた。目の前で殺すと豪語していたがいくら探しても見当たらない。

 死刑台へと促されたアヌビスはいよいよ死期が迫っている事を悟る。

 こんな時、あいつがいたら――。
 なす術もなくふとそんな思いが頭をよぎり、アヌビスは苦笑する。いつか窮地を救われ、セクメトと対峙した時もこんな気持ちだった。共にいるだけで、何もかもがうまくいくような、そんな心地がした。浅はかだが裏表のない愚直な性格、屈託のない笑顔。その全てに俺は救われていたのだ。

 最後によぎったその笑顔。太陽を失って尚、アヌビスはその魂が闇に呑まれていない事に安堵し、そっと目を閉じる。

 青銅の擦れる音。背後で剣が抜かれたのに気づきアヌビスは固く拳を握った。

 ピイイイイ——。
 突如街に響き渡る鳥声。目の覚めるようなその声にアヌビスは顔を上げる。

 ふわり、と目の前で何かが舞った。
 前にも見たその景色をアヌビスは茫然と眺める。その先に揺らめく人影を見た時、その記憶は確信へと変わった。騒ぎ立てていた大衆が一気に静まり返る。人々の視線を一身に浴びながら淡々と進む彼の前にはいつの間にか一本の道ができていた。

 まさか、そんな事が――。
 以前より精悍な顔つきをした彼は目の前で微かに笑みを浮かべる。

 よかった、と彼は言う。確かにあと数秒来るのが遅れたら命はなかった。が、アヌビスはすでにここが冥界《ドゥアト》なのではないかと疑う。あるいは死の恐怖に苛まれ幻想でも見ているのかもしれない。

「お前……何で……」
 乾いた声がホルスにそう問いかける。
 
「何でって、お前が助けを呼んだから」
 単純な理由だ。しかしその言葉に嘘はない。そうでなければ指輪が彼をここへ連れてくる事はなかったのだ。

「これは驚きだ。まさか生きていたとは」
 その言葉とは裏腹に一切動揺を見せないセトは刃を捨て、躊躇うことなく結界の外に出る。その行動に大衆はぎょっとして後ずさった。

「お前一人で何ができる? また俺に殺されたいのか?」
 その挑発に乗ったのは上空を旋回していたハヤブサだった。彼はホルスの肩にとまり、敵を威嚇するように鋭い声を上げる。

「俺は一人じゃねえ。ここに来たのは―― 」
 セトが振り上げたその腕を誰がが掴む。それに続き複数の手がセトの体を取り押さえた。

「皆でお前を助ける為だ」

「一体何のつもりだ」
 セトは鬱陶しいとばかりにホルスを睨みつける。

「それはこちらの台詞だセト。お前は暴れすぎた。例え王であろうとも法の裁きから逃れることはできぬ」
 セトを取り押さえながらマアトは淡々と告げる。

「法の神が動くなら僕もそれに加担するべきだよね」
 ホルスの無事を確認し安堵する一方、トトはその怒りを掴んだ腕に込める。

「お前を孤独にさせたのは俺だ。お前の事知ったようなふりをして、一人で背負わせて。だけどお前は一人じゃない。皆お前の境遇を知って、助けようとしてる。キオネだってお前の事を最後まで思ってた」
「会ったのか? あいつに」
「ああ。最後の伝言だってお前の危機を知らせに来た」
「――そうか」
 眷属として最後の役目を果たした彼女はもうこの世にいない。彼女が生きた証はこの心臓に永遠に残り続ける。

「話は終わりか?」
 捕えていた筈のセトの体はすでに砂と化し、新たな実体が姿を現す。

「驚きはしないよ。昔からそれが君のやり口だって分かってるんだ」

 それから瞬きをするほんの一瞬の間に目の前の景色が一変した。あの人だかりも、トトもマアトもいない。仄暗い閉鎖的な空間はどこかへ続く通路のようだった。
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