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第四十四話

𓂋𓇋𓍯𓍢𓂋𓇋〜two sides of the same coin〜

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 まさに一瞬だった。瞬く間に距離を詰められ、ホルスは首元の冷たい感触に戦慄する。背後から当てがわれた刃物。その切先が今まさに自分の首元を切り裂こうとしている。

「ここで俺を殺したらこの体は手に入らないぞ」
「殺しはしないさ。徐々に傷つけて衰弱するのを待つだけだ」
 
 わずかな痛みと共に、切っ先がなぞった首元から生暖かい紅血が染み出してくるのが分かる。

 前にもこんな事があった。ホルスはセベクから修行を受けた日の事を思い出す。あの日と同じ状況。だが唯一違うのは今のホルスが至極冷静であるという点だ。焦りも、恐怖すらなく、ホルスはこの状況に高揚感すら覚えていた。

 ホルスは背後から回されたその腕を両腕で抱え込み身を屈めると、そのまま身を翻し相手の体をくるりと投げ飛ばす。彼の手から零れ落ちた剣を蹴り飛ばし、倒れ込んだ彼の体に馬乗りなったホルスは両手で剣を握るとその刃先を首に突きつけた。

「劣っているかどうか、そんなのやってみねえと分かんねえだろ」

 だが彼もまたこの状況に微塵も動じる様子はなく、むしろこの状況を楽しんでいるようにも見えた。

「悪意は他人ひとに伝播する。その目を持つお前なら尚更、俺の気持ちが分かるだろうホルス」
「平気で人の命を奪うお前の気持ちなんて一生分からねえ」

 そう否定したものの、こちらを仰ぎ見る挑発的な瞳はホルスの複雑な心境を見事に見透かしていた。

「お前はその目を通して何度も感じた筈だ。肉を切り裂き、命を奪う事への渇望と興奮を」

 この状況下で気分が高揚するのは確かにその影響かもしれない。大蛇を目の前にしたあの時、ホルスは全く同じ感覚を抱いていた。とすればあの大蛇に手を下したのも彼なのだろう。

「ああ、感じたさ。けど何度感情を共有したってお前の行いを肯定なんて出来ない」

 そう言って改めて剣を強く握るホルスを彼は嘲笑った。

「その震えた手で何が出来る? 人を殺めた事もないお前が俺を消す事など出来はしない」

 ここでもう一度、彼を葬らなければ自分の命はない。その事実を理解していながらホルスは再び彼を闇の中に葬る事を拒む自分に気付く。無論悪は淘汰されるべきで、自身もその幻影に何度も苦しめられている。

「……ッ」
 両手で振りかぶり、ホルスは剣を突き立てた。だがそれは横たわった彼の首を外れ、地面に突き刺さる。

「甘い」
 そう言って彼は小さく息を吐く。

「だからお前は母も兄も、父親との約束すら守れずにこうして死んでいくんだ」

 彼はホルスの体を突き飛ばし、起き上がると同時に傍らに刺さったままの剣を抜いた。ホルスが身構えるよりも先に、彼の腕が空を切る。瞬間、目の前に火花が散った。彼の剣が右腕に深く突き刺さり、その衝撃に気が遠くなるのを感じる。ホルスはぐっと歯を食いしばり、もう片方の腕で彼の腕を掴んだ。霞む視界に動揺する相手の顔が見て取れる。

「離せ……!」
 滴る程に流血した腕を気にも留めずこちらをまっすぐと見つめ、掴まれた腕はびくともしない。その異様なホルスの姿に彼は恐怖を抱いた。
 
 腕に触れ、数多の感情がホルスの中に流れ込んでくる。彼の過去、その心が手に取るように分かった。

「お前は……本当は誰も殺したくない。けどそうしなければラーはお前を認めてはくれなかった。お前は自分の存在を認めて欲しかった。誰よりも、両親に」
「お前に俺の何が分かる? そんな陳腐な言葉で俺が絆されるとでも思っているのか?」

 侮蔑を込めた視線がホルスに突き刺さる。

「俺はただ、感じたままを言っているだけだ。いや待て。お前は——」

 その心を通じ真実を目の当たりにする中、目の前の視界が突如揺れる。全身から汗が吹き出し、思わずその場に膝をついた。

 血を流しすぎたか。
 焦りを滲ませるホルスに追い打ちをかけるように彼は言った。

「この刃には猛毒が仕込まれてる。いくら耐性があるお前でも、その出血に毒は——」
「生き物を無差別に殺すようになったのは父親がオシリスではないと気付いたからか?」

 自分の言葉を無視し、言葉を続けるホルスに彼は苛立った。

「父親が誰であろうと俺は俺だ。むしろ実質的に力を持っているのは国家神であるラーの方。余計な詮索をするなら今ここで息の根を止めてやってもいいんだぞ」

 そう言いつつ、彼にはそれを出来ない事をホルスは知っていた。彼が外の世界に出る為には絶対的にこの体が必要だ。

 それに。
 ホルスは自分の中に新たな力の息吹を感じていた。

「俺の体を奪って元の世界に戻っても、お前がお前でいる限りまた同じ悲劇を繰り返すだけだ」
「端から真っ当に生きようなどとは思っていないさ。二度も殺されてやる義理もない。善悪など俺にとって物事を判断する材料にはなり得ない。俺は俺の世界を追求する」

 利己的な理論だが、彼の境遇を思えばその極論に辿り着くのも無理はないように思えた。

「……俺はお前の存在すら知らなかった」
 ホルスは立ち上がり、再び目の前の男を見つめた。その顔色は悪くなるどころか生気に満ち、その目には輝きが戻る。

「何故……お前は一体……」
 相当の出血をし、毒を浴びた筈のホルスが何故平然と立っていられるのか。彼の顔に再び恐怖の色が宿る。

「けど時々姿を見せるお前が他人じゃない事はどこかで察してた。お前は俺と似てる気がするんだ」
「黙れ! 俺の存在も一切の苦しみも知らず、のうのうと生きてきたお前に俺が似ている? 笑わせるな」

 愛と憎しみ、光と影。それらは対立しながらも常に同じ場所にある。彼は敵であり、兄弟。もし彼が何のしがらみもなくこの世界を生きていたなら。そう考えた時、ホルスの中に例えようのない虚しさと、彼への愛しさが込み上げてくるのだ。

「悪かった」
 その言葉に一瞬、彼の動きが止まる。

「……それは俺への謝罪か? それとも命乞いか?」
 彼の言葉にホルスは首を振る。

「お前の囚われたバァを解放する」

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