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第十一話
𓎡𓍢𓂋𓍯𓅓𓄿𓎡𓍢〜黒幕〜
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アヌビスは幼い頃の記憶を頼りにある場所へと向かっていた。神殿から数メートルの距離にあるそれは神官が寝泊まりする為の宿舎だ。
通常、居住者以外の立ち入りは禁止だが、過去に一度だけ母の目を盗んで忍び込んだ事がある。だがそれは好奇心の赴くまま侵入したホルスを連れ戻す為で、アヌビスは自分が規則を破ったとは思っていなかった。
「誰かいるか!」
薄暗い宿舎にアヌビスの声がこだまする。だが既に夜も深く、皆眠ってしまったのか返事はない。アヌビスは構わずさらに奥へと進んだ。
この際規則などどうでもいい。こちらには彼らを叩き起こしてでも問い詰めたい事情があるのだ。
しばらく進むと、父オシリスの石像が目に入る。幼少期の記憶が正しければこの大部屋が神官達の寝床。上位神官を除いた大勢の神官達がここで寝泊まりしている筈だ。しかし中を覗いたアヌビスは唖然とした。
中はまさにもぬけの殻。数百人分のベッドが並ぶその部屋にはもはや人の気配すら感じられなかった。
「殺人の次は失踪か……」
相次ぐ事件にアヌビスは頭を抱える。まさかこれもあいつの仕業なのか?
「アヌビス様……!」
低く掠れた声にアヌビスが振り返ると、困惑した表情で立ち尽くすメリモセの姿があった。
「就寝前の見回りに来たのですが、どの部屋も人の気配すらありません。一体、何が起こっているのでしょう……?」
神官達が自らの意思で出て行ったのか、はたまた連れ去られたのか。だが部屋の様子から見ても抵抗した形跡はない。となると前者の説が濃厚だが、意識のない状態であればその限りではない。
「神官達と最後に会ったのはいつだ?」
「一時間程前だったと」
メリモセの答えにアヌビスは顔をしかめる。意識の有無に関わらず、数百人の神官をたった一時間で連れ去る事が可能なのだろうか?
それに深夜とはいえ数百人はいる神官達が一斉に移動するとなるとやはり目につく。それは意識がない場合でも同じだ。運び出すのにも相当な労力と時間を要する。
そもそも、とアヌビスは思った。数十年もの間神殿の秩序を守り、長として神官の不正にも目を光らせてきたメリモセの目を掻い潜り、これ程大胆な犯行が可能なのだろうか。
ここに忍び込んだあの日、それがどれ程困難であるかをアヌビスは身をもって経験していた。ホルスと共に完璧に身を隠したつもりだったが、ものの数分であっさりと見つかってしまったのである。その後母に突き出され、自らの行いについて懇々と諭されたのを覚えている。神ですら誤魔化せない彼の目をアヌビスはじっと見つめた。
「メリモセ」
アヌビスが名前を呼ぶと彼は未だ動揺した様子でこちらを見返した。
「神官達をどこへやった?」
「——な、何を言っているのです?」
アヌビスの問いに答える彼の声は酷く震えている。元から蒼白だった顔はさらに白くなり、先程よりも明らかに動揺していた。確証が持てず、半分は鎌掛けのつもりだったが、その様子を見ても彼がこの事件に関与している事は明白だった。
「さっき俺を見た時、お前は酷く動揺していた。この状況を考えればごく自然の反応だが、実際お前が驚いたのは、俺がここに現れた事だ。お前は既に全ての部屋を確認したような口ぶりだったが、巨大な宿舎を駆け回った割に疲弊した様子も着衣の乱れも見られない。人であり、かつ老体のお前にそこまでの体力があるとは思えない」
アヌビスはメリモセの蒼白な顔をねめつけ、畳み掛けるように続けた。
「それにここにいる神官達を一度に動かせるのはお前だけだ。宿舎の構造を知り尽くしているお前なら、神官達を誰の目にも触れさせず、効率的に動かす事も可能だろう。どうやって誘導したかは知らないが、信頼しているお前から命を受ければ神官達は何の疑いもなく動く筈だ」
そしてアヌビスは端から目星を付けていたもう一人の容疑者について再度考察を始める。
幼い頃から母には神官の顔と名前を覚える様に言われていた。恐らく侵略者の為の予防線だ。また周知する事によってそれらを牽制する狙いもあったのだろう。
だが一人だけ、その目を掻い潜っている人物がいた。彼が犯人だと断定する証拠を得る為、アヌビスはこの宿舎を訪れたのだ。
「お前の他にもう一人共犯者がいるな?」
「おや、バレてしまいましたか」
その問いに答えたのはメリモセではなかった。しかし声を聞いた瞬間、アヌビスの推測は確信へと変わる。
その顔を確認出来ていれば彼の声が記憶に残ることも無かっただろう。人は誰かと対面する時、その特徴を無意識に探しているものだ。特にそれが初対面であった場合には。
アヌビスはゆっくりと振り返り、その姿を確認する。その身なりは間違いなく自分達をこの神殿に呼び寄せた伝令神官のものだった。
あの時深く頭を垂れ、ひた隠しにしていたその顔を男は種明かしと言わんばかりに堂々と晒し、口元を歪ませた。
「しかしアヌビス様までいらっしゃるとは予想外でした」
彼らはここで落ち合うつもりだったのだろうか。犯人に辿りついたとはいえ、その二人に挟まれているのは少々分が悪い。
「立て続けに起きている事件は全てお前達の仕業か? 教えてくれメリモセ。何故母を裏切る様な真似をする? 母がお前達の事をどれ程大切に思っているか分からないのか?」
アヌビスが訴えかけると、メリモセは懺悔するかの如くその場に膝をつき泣き崩れた。
「ええ。その気持ちは私共が一番よく分かっています。まるで一つの家族のように愛情を注いで下さったこの数十年、そのご恩を忘れる事はございません。しかし忠義か家族か、この二択を迫られた時、結局私も一人の親である事を実感しました。愛する娘を見殺しになど出来る筈がなかったのです」
メリモセの言葉にアヌビスは愕然として言葉を失う。もし彼の娘が実際に人質に取られていたなら、誰が彼の行為を咎められるだろうか。究極の選択を迫られた彼は十分に悩み、苦しんだに違いない。
「しかし如何なる理由があろうと裏切ったのは事実。神に仕える身として、首を差し出す覚悟は出来ております。……ですがその前にもう一つ、懺悔したい事がございます」
「待て、お前達は一体誰に脅されてる? 懺悔したい事とは一体何だ?」
「脅しているのは私さ」
アヌビスの耳に入ってきたのは聞き覚えのない女の声。だがその声は確かに伝令神官の口から漏れていた。
「お前は一体——」
身構えるアヌビスと歩み寄る神官との距離が徐々に縮まり、張り詰めた空気が辺りを満たしていく。
「アヌビス様、私は——」
その言葉を遮るように目の前に眩い閃光が走る。瞬きをしたアヌビスが次に見たのは首から血を滴らせ、その場に蹲るメリモセの姿だった。
通常、居住者以外の立ち入りは禁止だが、過去に一度だけ母の目を盗んで忍び込んだ事がある。だがそれは好奇心の赴くまま侵入したホルスを連れ戻す為で、アヌビスは自分が規則を破ったとは思っていなかった。
「誰かいるか!」
薄暗い宿舎にアヌビスの声がこだまする。だが既に夜も深く、皆眠ってしまったのか返事はない。アヌビスは構わずさらに奥へと進んだ。
この際規則などどうでもいい。こちらには彼らを叩き起こしてでも問い詰めたい事情があるのだ。
しばらく進むと、父オシリスの石像が目に入る。幼少期の記憶が正しければこの大部屋が神官達の寝床。上位神官を除いた大勢の神官達がここで寝泊まりしている筈だ。しかし中を覗いたアヌビスは唖然とした。
中はまさにもぬけの殻。数百人分のベッドが並ぶその部屋にはもはや人の気配すら感じられなかった。
「殺人の次は失踪か……」
相次ぐ事件にアヌビスは頭を抱える。まさかこれもあいつの仕業なのか?
「アヌビス様……!」
低く掠れた声にアヌビスが振り返ると、困惑した表情で立ち尽くすメリモセの姿があった。
「就寝前の見回りに来たのですが、どの部屋も人の気配すらありません。一体、何が起こっているのでしょう……?」
神官達が自らの意思で出て行ったのか、はたまた連れ去られたのか。だが部屋の様子から見ても抵抗した形跡はない。となると前者の説が濃厚だが、意識のない状態であればその限りではない。
「神官達と最後に会ったのはいつだ?」
「一時間程前だったと」
メリモセの答えにアヌビスは顔をしかめる。意識の有無に関わらず、数百人の神官をたった一時間で連れ去る事が可能なのだろうか?
それに深夜とはいえ数百人はいる神官達が一斉に移動するとなるとやはり目につく。それは意識がない場合でも同じだ。運び出すのにも相当な労力と時間を要する。
そもそも、とアヌビスは思った。数十年もの間神殿の秩序を守り、長として神官の不正にも目を光らせてきたメリモセの目を掻い潜り、これ程大胆な犯行が可能なのだろうか。
ここに忍び込んだあの日、それがどれ程困難であるかをアヌビスは身をもって経験していた。ホルスと共に完璧に身を隠したつもりだったが、ものの数分であっさりと見つかってしまったのである。その後母に突き出され、自らの行いについて懇々と諭されたのを覚えている。神ですら誤魔化せない彼の目をアヌビスはじっと見つめた。
「メリモセ」
アヌビスが名前を呼ぶと彼は未だ動揺した様子でこちらを見返した。
「神官達をどこへやった?」
「——な、何を言っているのです?」
アヌビスの問いに答える彼の声は酷く震えている。元から蒼白だった顔はさらに白くなり、先程よりも明らかに動揺していた。確証が持てず、半分は鎌掛けのつもりだったが、その様子を見ても彼がこの事件に関与している事は明白だった。
「さっき俺を見た時、お前は酷く動揺していた。この状況を考えればごく自然の反応だが、実際お前が驚いたのは、俺がここに現れた事だ。お前は既に全ての部屋を確認したような口ぶりだったが、巨大な宿舎を駆け回った割に疲弊した様子も着衣の乱れも見られない。人であり、かつ老体のお前にそこまでの体力があるとは思えない」
アヌビスはメリモセの蒼白な顔をねめつけ、畳み掛けるように続けた。
「それにここにいる神官達を一度に動かせるのはお前だけだ。宿舎の構造を知り尽くしているお前なら、神官達を誰の目にも触れさせず、効率的に動かす事も可能だろう。どうやって誘導したかは知らないが、信頼しているお前から命を受ければ神官達は何の疑いもなく動く筈だ」
そしてアヌビスは端から目星を付けていたもう一人の容疑者について再度考察を始める。
幼い頃から母には神官の顔と名前を覚える様に言われていた。恐らく侵略者の為の予防線だ。また周知する事によってそれらを牽制する狙いもあったのだろう。
だが一人だけ、その目を掻い潜っている人物がいた。彼が犯人だと断定する証拠を得る為、アヌビスはこの宿舎を訪れたのだ。
「お前の他にもう一人共犯者がいるな?」
「おや、バレてしまいましたか」
その問いに答えたのはメリモセではなかった。しかし声を聞いた瞬間、アヌビスの推測は確信へと変わる。
その顔を確認出来ていれば彼の声が記憶に残ることも無かっただろう。人は誰かと対面する時、その特徴を無意識に探しているものだ。特にそれが初対面であった場合には。
アヌビスはゆっくりと振り返り、その姿を確認する。その身なりは間違いなく自分達をこの神殿に呼び寄せた伝令神官のものだった。
あの時深く頭を垂れ、ひた隠しにしていたその顔を男は種明かしと言わんばかりに堂々と晒し、口元を歪ませた。
「しかしアヌビス様までいらっしゃるとは予想外でした」
彼らはここで落ち合うつもりだったのだろうか。犯人に辿りついたとはいえ、その二人に挟まれているのは少々分が悪い。
「立て続けに起きている事件は全てお前達の仕業か? 教えてくれメリモセ。何故母を裏切る様な真似をする? 母がお前達の事をどれ程大切に思っているか分からないのか?」
アヌビスが訴えかけると、メリモセは懺悔するかの如くその場に膝をつき泣き崩れた。
「ええ。その気持ちは私共が一番よく分かっています。まるで一つの家族のように愛情を注いで下さったこの数十年、そのご恩を忘れる事はございません。しかし忠義か家族か、この二択を迫られた時、結局私も一人の親である事を実感しました。愛する娘を見殺しになど出来る筈がなかったのです」
メリモセの言葉にアヌビスは愕然として言葉を失う。もし彼の娘が実際に人質に取られていたなら、誰が彼の行為を咎められるだろうか。究極の選択を迫られた彼は十分に悩み、苦しんだに違いない。
「しかし如何なる理由があろうと裏切ったのは事実。神に仕える身として、首を差し出す覚悟は出来ております。……ですがその前にもう一つ、懺悔したい事がございます」
「待て、お前達は一体誰に脅されてる? 懺悔したい事とは一体何だ?」
「脅しているのは私さ」
アヌビスの耳に入ってきたのは聞き覚えのない女の声。だがその声は確かに伝令神官の口から漏れていた。
「お前は一体——」
身構えるアヌビスと歩み寄る神官との距離が徐々に縮まり、張り詰めた空気が辺りを満たしていく。
「アヌビス様、私は——」
その言葉を遮るように目の前に眩い閃光が走る。瞬きをしたアヌビスが次に見たのは首から血を滴らせ、その場に蹲るメリモセの姿だった。
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