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海賊編:過去のストーリー
海賊編:放蕩息子カナメ、友のために海に散る。4
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夢のような一夜が明けた。
明け方、まだ太陽が昇る前に、カナメは伝書鳩から書簡を受け取った。父親からの返信だった。
私には息子などいない。
自分で選んだ生き方だろう。自分で責任を取れ。
たった二行の返事だったが、その文字はアマロ伯爵らしくなく、震えていた。
便箋のところどころが強張っているのは、伝書鳩の唾液か父親の涙か。
この二行を書くのに、親父はどれくらい時間をかけたのだろう。
一晩かもしれないし、10秒かもしれない。
いずれにせよ、同じだ。
カナメは歯を食いしばり、便箋を握りつぶした。
俺には何の力もない。
なんでも適当にできると思っていたけれど、
結局、自分の力で手に入れたものなんてなにひとつなかった。
大きく振りかぶって便箋を海に投げ捨てた時、マストの頂上からサルの甲高い声が響いた。
「2時の方向に、マリノ海軍っす!!」
相手は職業軍人だ。兵力も火力も天と地の差だ。
その言葉の意味を身を持って知った。
ヴィート海賊団の優美な白い帆船に、マリノ海軍の黒い軍艦はみるみる迫り。
揃いの制服を着た軍人達が退去して「ラトゥ・ブラン号」に飛び移り、統制された動きで海賊たちを容赦なく襲った。
カナメのカットラスの腕前は、必死の訓練でゼッティやセイラとも互角の勝負ができるほどのなっていた。何人目かの軍人と刃を交えながら、カナメは叫んだ。
「なんで、こんなことするんだ! 俺らの存在を認めて、俺らを利用していたのは、女王陛下だろうがっ!」
答えなんて期待していなかったのに、その軍人は律儀に答えた。
「事情はどうあれ、海の治安と平和を乱す海賊をこれ以上放逐していられるか! 海賊は、商船を襲い、人を殺し、財産を奪う。悪でしかない!」
迫る長剣をカットラスで受け止めて、カナメは相手を睨みつける。
カナメより随分若い、まだ十代後半にも見える軍人だった。
「人の受け売りで能書き垂れてんじゃねえよっ!」
「海賊風情がいい気になるな! 碧眼のシャークだか何だか知らないが、所詮は犯罪者だろうがっ!」
互いの剣越しに相手を睨みつける。
「それでも!」
ぶつかりあう刃が軋み、嫌な音がする。傷つけあう金属の気持ち悪い感触が腕に響く。
カナメは渾身の力で相手の刃をはじくと、その胸元を切り裂いた。
「それでも、俺には、ヴィートが正義だ!」
叫んだ口元に、軍人の胸元から噴き出した血液が飛び込んだ。
口腔に入った血液を吐き出すカナメの前に、どさりと人間の身体が落ちてきた。
サルだった。撃たれてマストの上から落下してきたのだろう。胸から血が噴き出ている。
抱きしめて安全な場所に動かしてやりたかったが、そんな余裕はなかった。
船内から、セイラの咆哮が聞こえたからだ。
厨房に押し入ってきた軍人と対峙しながら、シェフは溜め息をついた。こんな時でも、シェフの穏やかな表情は変わらない。
「せっかく、太公望がいいマグロを釣ってくれたとこだったのに」
料理に使う包丁を武器にするつもりはなかった。近接戦闘は元々苦手だ。シェフは、これまで料理にしか使ったことがない黒魔法を唱える。
小ぶりな火の玉に軍人の制服が燃え上がるが、肉体を燃やすまでには至らない。攻撃のために覚えた呪文ではないのだ。
「漬物だって、ちょうどいい浸かり具合になったとこだったのに」
シェフは呟きながら、呪文を唱え続ける。
「おい、こっちにもいるぞっ!!」
数人の軍人が新たに厨房に飛び込んできた。血でどす黒く光る何本もの剣が、シェフに向けられる。怖くはなかった。自分でも驚くほど冷静だった。
シェフは微笑む。
「まあでも、いいか」
昨夜は、生涯で一番楽しい船上パーティだった。
自分が作った料理を、信頼できる仲間にあんなに美味しそうに食べてもらえるなんて、僕は世界一幸せな海賊で、シェフだ。
圧倒的に不利だった。
さっきまで甲板で笑っていた仲間たちの。
首が跳ねられ、腕が飛び、脚が折れ、内臓が飛び散る。
甲板は、血と脂と、何がなんだかよく分からない体液や内臓や肉片でひどい有様だった。
胸をえぐるような悪臭と潮の匂いが混じる。
顔のどこかが切れたのだろう。
血が滲んで赤く染まる視界で、カナメは必死にヴィートとセイラを探した。50メートルほどの長さしかない帆船なのに、距離感がおかしい。
ようやく見つけたセイラは、船内の自室のベッドにいた。
まだ寝ていたところを襲われたのだろう。
寝間着が無残に引き裂かれ、華奢なセイラの上に、海軍兵が覆いかぶさっていた。細い両手両足を別の軍人が押さえこんでいる。
「セイラ!!」
カナメは、セイラに圧し掛かる軍人の頭を後ろから殴りつけた。
両手を押さえていた軍人が長剣を抜き、カナメに向かって振り上げる。
セイラの手が、その刃を掴んだ。
薄い掌から、血が噴き出し、ぼたぼたと音を立てて床に血だまりを作った。
「セイラっ!」
「私はいい。ヴィートを助けろ」
顔色ひとつ変えないセイラを、カナメは信じられない思いで見る。
なんて度胸と勇気だ。
「でも、こんな、こんなっ!!」
引き裂かれた衣服から覗く脚は、女性のものでしかない。
「言っただろう。私は女の心などとうに捨てている。だから、こんなことくらいはなんでもないんだ」
「でも、でもっ。それでもおまえは女の子だ!!」
そう叫ぶと、セイラはびっくりしたような顔をして、それから微笑んだ。
「おまえ、いいやつだな」
そのセイラの顔を、容赦のない力で軍人が殴りつけた。
頬と鼻から血が飛び散り、白い歯が何本も飛んで行く。宝石のように透き通っていたピンク色の瞳は、出血で真っ赤に染まっている。
「セイラっ!!!」
「来るな!」
ぐちゃぐちゃになって叫ぶセイラは、それでも誰より美しかった。
血で真っ赤に染まった口が動く。
「だったら、その女の子の最後の望みを叶えてくれ。私は、私よりもヴィートに生きていてほしい! 行けええええっっ!!」
カナメはめちゃくちゃに叫んだ。自分の叫び声は聞こえなかったから、本当に叫べていたのか分からない。
何かを絞り出すように喉を震わせながら、セイラを置いて船首へ向けて駆け出した。
視界の端で、セイラが、枕元から取り出した簡易爆弾の導火線を引っこ抜くのが見えた。
爆発音を背後に、階段を駆け上がり、ヴィートを探す。
血と泥に塗れた甲板で、ヴィートのグレーの髪はそれでも明るく輝いていた。
どこを切られたのか分からないくらい、ヴィートの身体は血でどろどろだったが、それでも背筋を伸ばして、力強くカットラスを振っていた。
刃が空気を切り裂き、敵の刃にぶち当たり、人の肉を切る音がする。
カナメは必死に戦いながら、敵の間を進み、ヴィートへと向かっていく。
腕や足のあちこちが燃えるように熱いのは、切られたからなのだろう。痛みは感じなかった。
ただ、どうしようもない熱だけが身体を支配していた。
朝の太陽が、場違いに眩しい。
「カナメ! 海に飛び込め! この船はもうダメだ!」
物凄い勢いでカットラスをふるいながら、ヴィートが叫ぶ。
いつの間にか、ヴィートとカナメは船縁を背にして海軍の連中にぐるりと囲まれていた。
相当な数を殺したはずなのに、一体どこから沸いてくるのか。軍人の数は全く減っていないように思えた。周りを見回しても、もう仲間の姿は見つけられなかった。
「カナメ! 早く海に!」
俺らの、海賊王。
ヴィートはこの船と最期を共にする気だ。
カナメは唇を噛みしめた。
そんなこと、誰がさせるかよ!
「飛び込むなら一緒だ」
決意を告げるカナメに、ヴィートは首を振った。
「船長が船を捨てられるか」
「反則だろうがずるかろうが、生き残った者が強いんだろ」
カナメは呟く。その呟きは、ヴィートに届かなかったようだ。
「何て言った?」
聞き返すヴィートの前に立ちふさがると、カナメはその身体を海に向かって突き飛ばした。
ヴィートの腰の高さにある船縁を軸にして、上半身を渾身の力で突き落とす。宙に浮いた脚を肩にかつぐように掬いあげると、ヴィートの身体は海へ落ちていった。
驚きで見開かれたミントグリーンの瞳が、カナメを捕らえる。
朝の光がきらめく海から顔だけをのぞかせるヴィートに、カナメは精一杯の笑顔で笑いかけた。
そして、願った。
「ヴィート! 生きろ!」
そう叫んだ瞬間、背中に燃える鉄を押し付けられたような熱が走った。
自分の身体から、全部が流れ出ていくのが分かった。
海の国マリノの海賊掃討作戦により、光の大陸の東の海は血に染まり、多くの海賊船が沈没し、漂流した。それから数か月間、マリノの海岸と、光の大陸の沖合にある「東の国」の島々には、海賊たちの亡骸と船の残骸が絶えず流れ着いたという。
そのあまりの残虐さを見かね、アクアイル王国は「漂流海賊人道支援救助作戦」の遂行を決定。アクアイル王国軍により救助された漂流海賊たちは、同国で勾留され、国際司法裁判所の判断を待つことになった。
けれど、これはあくまでも表向きの話。
光の帝国で砂漠の国デザイアと並ぶ大国であるアクアイルが、純粋な人道支援目的のみで財源と人手を割くわけがない。
勾留された海賊のうち、一部は、国際司法裁判所には引き渡されず、アクアイル王国民としての身分を与えられることになった。いつか、彼らがアクアイルの役に立つ時が来るのを見越して。
アクアイル王国海軍に救助されたヴィートは、所定の行政手続きを終えた後、同国国防省の斡旋で王宮都市アクアイルの郊外にある古びた教会に身を寄せていた。他の海賊たちも、職が見つかるまでは各地の宗教施設に保護されていると聞いている。
教会では、祈りを捧げる日々だった。幸い、神父もシスターも冒険者の記録や蘇生で忙しく、厄介な居候のことは放置してくれている。
その日の夜も、ヴィートは人気がなくなった祭壇の前で、一人祈りを捧げていた。
逞しかった彼の身体は、ここ数か月で筋肉を失い、やせ細っていた。
「いつまで廃人やってるのかしら」
扉が開き、薄暗い聖堂に外光が帯のように差し込んだ。
国防省の制服に身を包んだ、若い女が外気を見に纏って入ってきた。
ヴィートはぼんやりと女を見つめた。
「ナツリ・マルークラ。何の用だ」
「ご挨拶ね」
ヴィートの不機嫌を軽く流して、ナツリは懐から何かを取り出した。
「あるご遺体が大事に抱えていたそうよ。証拠品調査は終わったから、あなたに返すわ」
手渡されたのは、一冊のスケッチブック。
水濡れと汚れで紙はごわごわになっているが、その特徴的なオレンジ色の表紙には見覚えがある。
ヴィートの胸がぎゅっと痛んだ。
「ほーら、笑って笑って」
ヴィンチの快活な声が耳元に蘇る。
高い空。光る海。熱い甲板。背中を押す海風。
ヴィートは震える指先で表紙を捲る。
その中には、あの幸せな時間が閉じ込められていた。
ケーキを前に微笑み合う自分とセイラとカナメ。
勝てるはずのない戦いを前に、海賊としての信念と矜持を貫こうと必死だった。湧き上がる不安と恐怖を力づくで抑え込み、誰もが、今この瞬間の幸せを丸ごと享受しようと、騒いで、笑っていた。
思い出が、多すぎる。
ポーティアックの港でいきなりガーターベルトを見せてきたセイラ。よく一緒に食べたサバサンド。
恋よりも甘くて楽しくて誇らしかったセイラとの7年間。
いきなり船に飛び移ってきたカナメ。そのくそつまんねーって顔と、くそ生意気な顔。今日がヴィートの誕生日だと笑った顔。
誰が船を降りるかと、口を揃えて自分についてきてくれた仲間たち。
生きろ!
必死で叫んで、必死で笑おうとしていた、あいつの泣き顔。
ナツリは腰を折ると、ヴィートと視線を合わせ。
低く、厳しく、告げた。
「生きるしかないのよ」
その時、ぎっと乾いた音がして、教会の片隅の扉が開いた。
やせ細って血管が浮いた手が、小さな窓口から籐の籠を差し入れる。
続いて、「ふえっ、ふえっ」と赤子の泣き声。
ナツリが、窓口に走り寄り、籠を抱えて戻ってくる。教会に赤ん坊が捨てられることは珍しくない。
「神父様を呼ばないと」
言いながら、産着に包まれた赤ん坊の首元を確認したナツリが、息を呑んだ。
彼女の震える指が、首にかけられた名札をヴィートに見せる。
木製の名札に掘られた文字を読み、ヴィートはくしゃりと顔を歪ませた。
Kaname
「これはもう、運命ね」
ナツリが赤ん坊をそっとヴィートの腕の中に託した。
あたたかく、甘い匂いがする。
とくとくと、血が巡る音がする。
生きている。
生きているのだ。
胸が苦しくなって、涙があふれ出た。
ヴィートは喉を震わせ、声の限りに叫んだ。
「あああああああああああっ!!!!!」
溜めていた感情をすべて吐き出すように、涙を流し、叫んだ。
生涯で初めて流した涙は留まることを知らず。
ヴィートは体力がつきるまで、大声で泣き続けた。(了)
明け方、まだ太陽が昇る前に、カナメは伝書鳩から書簡を受け取った。父親からの返信だった。
私には息子などいない。
自分で選んだ生き方だろう。自分で責任を取れ。
たった二行の返事だったが、その文字はアマロ伯爵らしくなく、震えていた。
便箋のところどころが強張っているのは、伝書鳩の唾液か父親の涙か。
この二行を書くのに、親父はどれくらい時間をかけたのだろう。
一晩かもしれないし、10秒かもしれない。
いずれにせよ、同じだ。
カナメは歯を食いしばり、便箋を握りつぶした。
俺には何の力もない。
なんでも適当にできると思っていたけれど、
結局、自分の力で手に入れたものなんてなにひとつなかった。
大きく振りかぶって便箋を海に投げ捨てた時、マストの頂上からサルの甲高い声が響いた。
「2時の方向に、マリノ海軍っす!!」
相手は職業軍人だ。兵力も火力も天と地の差だ。
その言葉の意味を身を持って知った。
ヴィート海賊団の優美な白い帆船に、マリノ海軍の黒い軍艦はみるみる迫り。
揃いの制服を着た軍人達が退去して「ラトゥ・ブラン号」に飛び移り、統制された動きで海賊たちを容赦なく襲った。
カナメのカットラスの腕前は、必死の訓練でゼッティやセイラとも互角の勝負ができるほどのなっていた。何人目かの軍人と刃を交えながら、カナメは叫んだ。
「なんで、こんなことするんだ! 俺らの存在を認めて、俺らを利用していたのは、女王陛下だろうがっ!」
答えなんて期待していなかったのに、その軍人は律儀に答えた。
「事情はどうあれ、海の治安と平和を乱す海賊をこれ以上放逐していられるか! 海賊は、商船を襲い、人を殺し、財産を奪う。悪でしかない!」
迫る長剣をカットラスで受け止めて、カナメは相手を睨みつける。
カナメより随分若い、まだ十代後半にも見える軍人だった。
「人の受け売りで能書き垂れてんじゃねえよっ!」
「海賊風情がいい気になるな! 碧眼のシャークだか何だか知らないが、所詮は犯罪者だろうがっ!」
互いの剣越しに相手を睨みつける。
「それでも!」
ぶつかりあう刃が軋み、嫌な音がする。傷つけあう金属の気持ち悪い感触が腕に響く。
カナメは渾身の力で相手の刃をはじくと、その胸元を切り裂いた。
「それでも、俺には、ヴィートが正義だ!」
叫んだ口元に、軍人の胸元から噴き出した血液が飛び込んだ。
口腔に入った血液を吐き出すカナメの前に、どさりと人間の身体が落ちてきた。
サルだった。撃たれてマストの上から落下してきたのだろう。胸から血が噴き出ている。
抱きしめて安全な場所に動かしてやりたかったが、そんな余裕はなかった。
船内から、セイラの咆哮が聞こえたからだ。
厨房に押し入ってきた軍人と対峙しながら、シェフは溜め息をついた。こんな時でも、シェフの穏やかな表情は変わらない。
「せっかく、太公望がいいマグロを釣ってくれたとこだったのに」
料理に使う包丁を武器にするつもりはなかった。近接戦闘は元々苦手だ。シェフは、これまで料理にしか使ったことがない黒魔法を唱える。
小ぶりな火の玉に軍人の制服が燃え上がるが、肉体を燃やすまでには至らない。攻撃のために覚えた呪文ではないのだ。
「漬物だって、ちょうどいい浸かり具合になったとこだったのに」
シェフは呟きながら、呪文を唱え続ける。
「おい、こっちにもいるぞっ!!」
数人の軍人が新たに厨房に飛び込んできた。血でどす黒く光る何本もの剣が、シェフに向けられる。怖くはなかった。自分でも驚くほど冷静だった。
シェフは微笑む。
「まあでも、いいか」
昨夜は、生涯で一番楽しい船上パーティだった。
自分が作った料理を、信頼できる仲間にあんなに美味しそうに食べてもらえるなんて、僕は世界一幸せな海賊で、シェフだ。
圧倒的に不利だった。
さっきまで甲板で笑っていた仲間たちの。
首が跳ねられ、腕が飛び、脚が折れ、内臓が飛び散る。
甲板は、血と脂と、何がなんだかよく分からない体液や内臓や肉片でひどい有様だった。
胸をえぐるような悪臭と潮の匂いが混じる。
顔のどこかが切れたのだろう。
血が滲んで赤く染まる視界で、カナメは必死にヴィートとセイラを探した。50メートルほどの長さしかない帆船なのに、距離感がおかしい。
ようやく見つけたセイラは、船内の自室のベッドにいた。
まだ寝ていたところを襲われたのだろう。
寝間着が無残に引き裂かれ、華奢なセイラの上に、海軍兵が覆いかぶさっていた。細い両手両足を別の軍人が押さえこんでいる。
「セイラ!!」
カナメは、セイラに圧し掛かる軍人の頭を後ろから殴りつけた。
両手を押さえていた軍人が長剣を抜き、カナメに向かって振り上げる。
セイラの手が、その刃を掴んだ。
薄い掌から、血が噴き出し、ぼたぼたと音を立てて床に血だまりを作った。
「セイラっ!」
「私はいい。ヴィートを助けろ」
顔色ひとつ変えないセイラを、カナメは信じられない思いで見る。
なんて度胸と勇気だ。
「でも、こんな、こんなっ!!」
引き裂かれた衣服から覗く脚は、女性のものでしかない。
「言っただろう。私は女の心などとうに捨てている。だから、こんなことくらいはなんでもないんだ」
「でも、でもっ。それでもおまえは女の子だ!!」
そう叫ぶと、セイラはびっくりしたような顔をして、それから微笑んだ。
「おまえ、いいやつだな」
そのセイラの顔を、容赦のない力で軍人が殴りつけた。
頬と鼻から血が飛び散り、白い歯が何本も飛んで行く。宝石のように透き通っていたピンク色の瞳は、出血で真っ赤に染まっている。
「セイラっ!!!」
「来るな!」
ぐちゃぐちゃになって叫ぶセイラは、それでも誰より美しかった。
血で真っ赤に染まった口が動く。
「だったら、その女の子の最後の望みを叶えてくれ。私は、私よりもヴィートに生きていてほしい! 行けええええっっ!!」
カナメはめちゃくちゃに叫んだ。自分の叫び声は聞こえなかったから、本当に叫べていたのか分からない。
何かを絞り出すように喉を震わせながら、セイラを置いて船首へ向けて駆け出した。
視界の端で、セイラが、枕元から取り出した簡易爆弾の導火線を引っこ抜くのが見えた。
爆発音を背後に、階段を駆け上がり、ヴィートを探す。
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どこを切られたのか分からないくらい、ヴィートの身体は血でどろどろだったが、それでも背筋を伸ばして、力強くカットラスを振っていた。
刃が空気を切り裂き、敵の刃にぶち当たり、人の肉を切る音がする。
カナメは必死に戦いながら、敵の間を進み、ヴィートへと向かっていく。
腕や足のあちこちが燃えるように熱いのは、切られたからなのだろう。痛みは感じなかった。
ただ、どうしようもない熱だけが身体を支配していた。
朝の太陽が、場違いに眩しい。
「カナメ! 海に飛び込め! この船はもうダメだ!」
物凄い勢いでカットラスをふるいながら、ヴィートが叫ぶ。
いつの間にか、ヴィートとカナメは船縁を背にして海軍の連中にぐるりと囲まれていた。
相当な数を殺したはずなのに、一体どこから沸いてくるのか。軍人の数は全く減っていないように思えた。周りを見回しても、もう仲間の姿は見つけられなかった。
「カナメ! 早く海に!」
俺らの、海賊王。
ヴィートはこの船と最期を共にする気だ。
カナメは唇を噛みしめた。
そんなこと、誰がさせるかよ!
「飛び込むなら一緒だ」
決意を告げるカナメに、ヴィートは首を振った。
「船長が船を捨てられるか」
「反則だろうがずるかろうが、生き残った者が強いんだろ」
カナメは呟く。その呟きは、ヴィートに届かなかったようだ。
「何て言った?」
聞き返すヴィートの前に立ちふさがると、カナメはその身体を海に向かって突き飛ばした。
ヴィートの腰の高さにある船縁を軸にして、上半身を渾身の力で突き落とす。宙に浮いた脚を肩にかつぐように掬いあげると、ヴィートの身体は海へ落ちていった。
驚きで見開かれたミントグリーンの瞳が、カナメを捕らえる。
朝の光がきらめく海から顔だけをのぞかせるヴィートに、カナメは精一杯の笑顔で笑いかけた。
そして、願った。
「ヴィート! 生きろ!」
そう叫んだ瞬間、背中に燃える鉄を押し付けられたような熱が走った。
自分の身体から、全部が流れ出ていくのが分かった。
海の国マリノの海賊掃討作戦により、光の大陸の東の海は血に染まり、多くの海賊船が沈没し、漂流した。それから数か月間、マリノの海岸と、光の大陸の沖合にある「東の国」の島々には、海賊たちの亡骸と船の残骸が絶えず流れ着いたという。
そのあまりの残虐さを見かね、アクアイル王国は「漂流海賊人道支援救助作戦」の遂行を決定。アクアイル王国軍により救助された漂流海賊たちは、同国で勾留され、国際司法裁判所の判断を待つことになった。
けれど、これはあくまでも表向きの話。
光の帝国で砂漠の国デザイアと並ぶ大国であるアクアイルが、純粋な人道支援目的のみで財源と人手を割くわけがない。
勾留された海賊のうち、一部は、国際司法裁判所には引き渡されず、アクアイル王国民としての身分を与えられることになった。いつか、彼らがアクアイルの役に立つ時が来るのを見越して。
アクアイル王国海軍に救助されたヴィートは、所定の行政手続きを終えた後、同国国防省の斡旋で王宮都市アクアイルの郊外にある古びた教会に身を寄せていた。他の海賊たちも、職が見つかるまでは各地の宗教施設に保護されていると聞いている。
教会では、祈りを捧げる日々だった。幸い、神父もシスターも冒険者の記録や蘇生で忙しく、厄介な居候のことは放置してくれている。
その日の夜も、ヴィートは人気がなくなった祭壇の前で、一人祈りを捧げていた。
逞しかった彼の身体は、ここ数か月で筋肉を失い、やせ細っていた。
「いつまで廃人やってるのかしら」
扉が開き、薄暗い聖堂に外光が帯のように差し込んだ。
国防省の制服に身を包んだ、若い女が外気を見に纏って入ってきた。
ヴィートはぼんやりと女を見つめた。
「ナツリ・マルークラ。何の用だ」
「ご挨拶ね」
ヴィートの不機嫌を軽く流して、ナツリは懐から何かを取り出した。
「あるご遺体が大事に抱えていたそうよ。証拠品調査は終わったから、あなたに返すわ」
手渡されたのは、一冊のスケッチブック。
水濡れと汚れで紙はごわごわになっているが、その特徴的なオレンジ色の表紙には見覚えがある。
ヴィートの胸がぎゅっと痛んだ。
「ほーら、笑って笑って」
ヴィンチの快活な声が耳元に蘇る。
高い空。光る海。熱い甲板。背中を押す海風。
ヴィートは震える指先で表紙を捲る。
その中には、あの幸せな時間が閉じ込められていた。
ケーキを前に微笑み合う自分とセイラとカナメ。
勝てるはずのない戦いを前に、海賊としての信念と矜持を貫こうと必死だった。湧き上がる不安と恐怖を力づくで抑え込み、誰もが、今この瞬間の幸せを丸ごと享受しようと、騒いで、笑っていた。
思い出が、多すぎる。
ポーティアックの港でいきなりガーターベルトを見せてきたセイラ。よく一緒に食べたサバサンド。
恋よりも甘くて楽しくて誇らしかったセイラとの7年間。
いきなり船に飛び移ってきたカナメ。そのくそつまんねーって顔と、くそ生意気な顔。今日がヴィートの誕生日だと笑った顔。
誰が船を降りるかと、口を揃えて自分についてきてくれた仲間たち。
生きろ!
必死で叫んで、必死で笑おうとしていた、あいつの泣き顔。
ナツリは腰を折ると、ヴィートと視線を合わせ。
低く、厳しく、告げた。
「生きるしかないのよ」
その時、ぎっと乾いた音がして、教会の片隅の扉が開いた。
やせ細って血管が浮いた手が、小さな窓口から籐の籠を差し入れる。
続いて、「ふえっ、ふえっ」と赤子の泣き声。
ナツリが、窓口に走り寄り、籠を抱えて戻ってくる。教会に赤ん坊が捨てられることは珍しくない。
「神父様を呼ばないと」
言いながら、産着に包まれた赤ん坊の首元を確認したナツリが、息を呑んだ。
彼女の震える指が、首にかけられた名札をヴィートに見せる。
木製の名札に掘られた文字を読み、ヴィートはくしゃりと顔を歪ませた。
Kaname
「これはもう、運命ね」
ナツリが赤ん坊をそっとヴィートの腕の中に託した。
あたたかく、甘い匂いがする。
とくとくと、血が巡る音がする。
生きている。
生きているのだ。
胸が苦しくなって、涙があふれ出た。
ヴィートは喉を震わせ、声の限りに叫んだ。
「あああああああああああっ!!!!!」
溜めていた感情をすべて吐き出すように、涙を流し、叫んだ。
生涯で初めて流した涙は留まることを知らず。
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