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御礼はキスで。

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 ジーンはスクーターでザ・ベネチアンまで送ってくれた。
 スクーターはマカオの庶民の足だ。
 電飾で輝く夜の街を走り抜ける。生ぬるい風がびゅんびゅう後ろに飛んでいく。
 もっと乗っていたかったけれど、スクーターはあっという間にホテルに到着した。
 ホテルのバス乗り場の横でスクーターを止めると、ジーンは夏野のヘルメットを取ってくれた。

「ジーン、今日はありがとう。メシもすっげえ美味かった」
「どういたしまして。君が美味しそうに食べるから、アンジェラも喜んでたよ。僕も楽しかった」
 それからジーンは今日一番の厳しい顔になって続けた。
「夏野。マカオは素晴らしいところだけど、観光客を食い物にする悪い輩もいるから、それなりに危機感は持っておいて」
 全くその通りだ。
「うん、気を付ける」
 反省を込めて頷いた後、沈黙が落ちる。
 ホテルに入るべきなのに、なんとなく離れがたい。
 メシ食いながら喋ったのが楽しかった。
 スクーターの後席は、マカオの熱を吹き飛ばす疾走感だった。
 ここでさよならって言ったら、多分もう会うことはない。同い年だし、友達になれたらなんて虫が良すぎるだろうか。

「夏野?」
 もじもじする夏野をジーンは辛抱強く待っている。
「あの、俺。何か御礼をしたくて」
 思わず口走った。
 そうだ、御礼だ。夕飯を奢ることもできなかったから。
「御礼」
 復唱したジーンは妙に大人びていてどきりとする。
 と言っても、現金を渡すわけにもいかないし、プレゼントできるような物も持ち合わせていない。
 日本なら今度メシでも、となるところだが夏野は明後日には帰国するし、ジーンにも仕事があるだろう。
 悩んでいると、ジーンが訊いた。
「なんでもいいの?」
「なんでもは良くないけど、できることなら」
「じゃあ、キスにしようかな」
 ジーンは間髪入れずに言った。 
 夏野は瞬く。
 え。
 聞き間違い、だよな。
 ぽかんとしていると、ジーンが繰り返す。
「キスをしたい」
「は? 誰と?」
「ここで君以外の選択肢ってあるのかな」
 わざとらしく首をかしげている。
 ないだろうけど、いや、なくないだろう。
 何かの冗談かどっきりか? けど、こいつすげえ真面目な顔してる。
「えと、その、マジで?」
「うん。マジって日本語はあんまり好きじゃないんだけど、本気(マジ)で」
 夏野は混乱した。
 なんだ、これ。
 普通御礼でキスとかしないだろ。いや、漫画とかアニメではあんのかもしんねえけど、それだって相手は女子だ。
 確かに俺は同期の女子に可愛いってからかわれるくらい童顔だけど、ギリ170cmはあるし男だぞ。
 もしかして、こいつホモとかそういう奴なのか。
 もしくは観光客の日本人をからかって面白がってるだけとか。
 思考混乱支離滅裂。
 押し黙って百面相をする夏野に、ジーンは大袈裟に肩を落とした。
「そんなに嫌がられると傷つくんだけど」
「嫌なわけじゃなくて」
「じゃあするよ」
 一歩近づいてくる。近い。
 最初から思ったが、ジーンはいちいち距離が近い。
「いや、ちょい待て違うだろ。その、嫌じゃねえけど、したこと、ねえし」
 待て待て、何言ってんだ俺。
 そうじゃない、そうじゃねえだろ。
 ジーンは驚いたように夏野を見つめている。
 男前のガン見は威力絶大だ。
 美男美女は無闇に他人を見つめてはいけない法令を作ってほしい。心臓が持たない。
「したことないの?」
 いちいち確認すんな。
 嘘をついても見透かされる気がするから、仕方なく頷いた。
 ジーンは嬉しそうに目を輝かせ、軽くハグなんてしてくる。
「じゃあ、今日はこれで勘弁してあげよう」
 言いざまに、頬に柔らかいものが触れた。
 右頬の、唇のすれすれの場所。刹那の温かさはすぐに離れていく。
「おま、ちょっと、何す」
 触れた場所を手で押さえた。
「じゃあ、おやすみ。また明日」
 呆然とする夏野にウィンクを飛ばし、ジーンのスクーターは夜の街並みに消えていった。
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