69 / 69
番外編
Ten years later...
しおりを挟む
まだ陽が落ちきらず暮れなずむ街。
平日の明るいうちに会社を出て街を歩くなんて、贅沢な気分だ。
それも今日からは日常になる。
恵比寿の外れを歩きながら、空乃は手に余る花束を抱えなおした。
放課後の時間帯。すれ違う制服姿の少女達は楽しそうにさざめいている。
コンビニの前では、学ラン姿の男子学生が座り込んで菓子パンだのカップラーメンだのを口に運んでいる。
「ばっかでー!」
「だろ? ヤマセン、まじやばいんだわ」
「あ、おまえ勝手に食うなよ」
「いーじゃん、ほら、代わりに俺様のアイスをやろう」
「食いかけ出すなよなー」
弾ける笑い声。
うるさくて馬鹿っぽくて、ガキで、けれど底無しに楽しそうだ。
俺もあんなんだったんかな。
制服を着て、髪を染めて、仲間達と遊び、ケンカをしていた。
かつての自分を思い出し、空乃は苦笑する。
「ユキちゃん、よく高校生のガキなんか相手にしてくれたよなー」
独り言は、夕暮れの風に流されていった。
コーポアマノに到着すると、住人のネリーが駐輪場から出てくるところだった。
ジーンズにTシャツ、スカーフ姿のネリーは、空乃に気づくと朗らかに手を振った。
「ソラノ、ハロー」
「ハイ、ネリー。学校終わったのか?」
「そう。これからアルバイト。キンロー学生は大変よ」
肩をすくめてみせ、ネリーは空乃の手元を見た。
「お花、綺麗ね!」
空乃は花束からガーベラを1本抜き取ると、ネリーに渡した。
「どうぞ。お裾分け」
「ソラノ。こういうの、女たらしって言うんでしょ」
あまりの言い草に、空乃は吹き出す。
「おかしな日本語覚えるなよな」
「あはは。じゃあねー」
ネリーは屈託なく笑って、104号室に消えて行った。
コーポアマノは築半世紀を超えても健在だ。
とはいえあちこちガタが来ているので手入れも大変だ。鉄製の外階段はペンキが剥げて、水色の塗装がぽろぽろと地面に散っている。
「そろそろ塗り直さないとな」
独りごちて、階段を昇る。
コーポアマノのオーナーは4年前に亡くなって、不動産も管理人業務も行人が相続した。
水回りを修繕して家賃を下げたので、空乃が越してきた頃は閑古鳥が鳴いていた古アパートは、今は外国人留学生の下宿のようになっている。
先ほどのネリーもそのひとりで、空乃の母校で物理学を専攻するスリランカ人留学生だ。
203号室の窓からはスパイスの効いた良い匂いが漂ってくる。
空乃は口元をゆるめ、扉を開いた。
「ただいま」
小さなアパートは、玄関を入るとすぐに台所だ。
エプロン姿の行人はコンロの火を止め、花束を受けとってくれる。
「お帰り」
「ユキ、鍵閉めろって言ってるだろ」
「こんなボロアパートに空き巣に入る物好きなんていないよ」
「それでもだよ」
流しで手を洗ってから、花束の香りを嗅ぐ行人を後ろから抱きしめた。
「ガーベラか、綺麗だな」
「課の連中から貰った。花言葉が希望とか前進とかなんとか」
「退職祝いにぴったりだな」
赤い花びらを撫でる指先を絡み取り、行人の首筋に口づけた。
女の子みたいに甘い果物とか花みたいな匂いがするわけじゃない。
それでもどうしようもなくそそられる。微かな石鹸の匂いと、行人自身の匂いだ。
指先で、唇と顎と喉仏を辿る。行人が静かに吐息を漏らす。
そのひそやかな甘さに、血液が泡立つ。
「空乃。なんか当たってるんだけど」
軽くふくらんだ股間を感じ取ったのか、行人が焦っている。
「不可抗力。ユキ、いい匂いすんだもん」
腕の力を込めて腰を押しつけると、行人はしゃがみ込んで空乃の腕から逃れた。
「そういうコトは後で。飯が先」
「後でなら、していいの」
揚げ足を取ると、行人は顔を赤らめた。
出会って十年。数え切れないほどセックスをしているのに、行人はいまだに妙なところで恥ずかしがってくれる。
「いいよ。明日、休みだし」
視線を逸らして、行人が呟く。可愛い。
このまま押し倒してしまいたいけれど、さすがに口をきいてくれなくなりそうだ。
「そういうこと言うと朝までするけど」
「君の体力、高校生の時から変わってないよな」
「お褒めにあずかり」
軽口を交わして、食卓の準備を整える。
大手食品会社でソツの無いエリートサラリーマンだった空乃だ。男相手に尻尾を振ってる姿を見たら、元同僚達は腰を抜かすだろうなと想像しながら。
「退職おめでとう」
「サンキュ」
シャンパンで乾杯して、いただきますをする。
「門出の日なのに、カレーなんかで良かったのか?」
「うん、カレーがいい。俺、ユキのカレーすげえ好き」
「おにぎりとカレーしか作れないからな」
むくれてみせるが、行人のカレーはお世辞抜きで相当美味い。店にも出せるレベルだ。
今日の茄子とパニールチーズのカレーも、香り高くて舌触りが心地いい。スパイスの配合もジャスミンライスの香りを殺さない良い塩梅だ。
有給休暇を取ってまで煮込んでくれたことも嬉しい。
「うん、美味い。新レシピ?」
「ネリーさんに教わったスリランカカレーのアレンジ」
「へえ。さっきそこで会ったよ。これからバイトだって」
「居酒屋と焼肉屋の掛け持ちだっけ。頑張るよな」
行人は店子達に優しい。東京国税局職員という本職があるので家賃は格安だし、修繕にはすぐに応じるし、果ては勉強や就職の相談にまで乗っている。
居心地がいいアパートということで口コミが口コミを呼び、今や、201号室の田中さん以外は全員留学生だ。
「居酒屋の方はあんまりシフト入れなくなったみたいでさ。店が軌道に乗ったら、うちで働かないか声かけてみようと思って」
「いいんじゃないか。ネリーさんなら、厨房でもフロアでも活躍しそうだ」
「だよな」
空乃は高校、大学と6年間アジアン・カフェでバイトをしていた。
そのオーナー兼店長が店を閉めて田舎に帰ることになったので、店を居抜きで買い取った。
4年間のリーマン生活の貯金はほぼゼロになったが、迷いはしなかった。
幼い頃から料理が好きで、大学に進学して会社員になって、自分の店を持ちたいという思いは日に日に強くなった。ダブルスクールで調理師専門学校にも通った。
店内は改装中で、開店は1ヶ月後。明日からは本腰を入れて開店準備だ。やることは山ほどあるけれど、わくわくしている。
「空乃、楽しそうだな」
「そりゃあね。不安もないわけではないけど」
「君なら大丈夫だよ」
力強い言葉をくれて、行人はグラスをすいっと飲み干した。
シャンパンのボトルはすでに空だ。
明日は土曜だし、もう一本空けるかな。
冷蔵庫を空けてワインボトルを物色していると、手元に影が落ちた。
行人がしゃがみ込んで、一緒に野菜室を覗き込んでいる。
「ユキ、次、どれ飲む? 泡か、きりっと辛めの白か」
迷っていると、つけたままだったネクタイをつと引っ張られた。
「空乃のスーツ姿も見納めだな」
「急にどうしたん。そんなにスーツ好きだっけ」
「好きだよ。学ランも良かったけど」
行人はすっきりした顔をしていて、目元も涼しげだ。眼鏡越しの瞳が、空乃を見る時だけは甘さと色気を孕む。
「誘ってんの」
行人はザルだが、飲むと唐突にエロモードに入る時がある。
ワイン選びを中断して、冷気を垂れ流す野菜室を閉めた。
行人の唇を指でなぞると、誘うように薄く開かれる。
「シャワー浴びる? それともこのままする?」
口づけながら問うと、行人は密やかにねだった。
「スーツのまま、してほしい」
「仰せのままに」
ピンポーン、ピンポーン。
寝室の畳の上に行人を押し倒し、服を脱がせたところで無粋に呼び鈴が鳴り響いた。
「っ、誰だよ」
あまりのタイミングに、思わず悪態を漏らす。ひとまず無視を決め込む。
「…空乃、お客さん。っ…あ、そこ、やっ」
「ん? ここ?」
そこを強くこすると、行人の腰が跳ねた。空乃を見つめる瞳に快楽の涙が滲む。
「ん、ああっ」
「ここ好きだよな、ユキ」
「やあっ。ちょ、出ろって」
「どうせなんかの勧誘だって。集中しろよ」
「…できないっ」
前戯の間も呼び鈴はしつこく鳴り響いている。確かに、これでは集中できない。
空乃は身を起こすと、乱れたスーツ姿のまま玄関に向かった。
相手も確認せずに乱暴にドアを開ける。
相手を確認して、ドアを再び閉めた。
その隙間に、磨かれた最高級の革靴が差し込まれる。
「おいおい、閉め出すなんてひどいな」
ふざけた口調で肩をすくめるのは、ワインレッドの開襟シャツにブラックスーツという裏社会丸出しファッションの男。長身でガタイが良く、意地悪そうに笑っている。
空乃の天敵、藤森誠二だ。
「よお、ガキ。随分待たされたぞ」
「ガキ言うな、おっさん。居留守って日本語知んねえのか」
空乃は思いっきり舌打ちをしてやる。
「はは。お楽しみ中に悪いな」
「悪いと思ってんなら帰れ」
「そう怒るなよ。セックスには早すぎるだろ」
わざとらしく腕時計で時間を確認している。
「あんたには言われたくない」
ぎゃあぎゃあ言い合っていると、奥から行人が出てきた。
「空乃、誰だった…あ、藤森」
行人はシャツの前が全開だ。白い胸元が乳首まで見えている。
空乃は慌てて行人の前に立った。
「ユキちゃん! そんなカッコで出てくんなって」
「焦るな少年。チカの裸くらい見慣れてる」
藤森は、行人を名字の「近間」から取ったチカと呼ぶ。
昔なじみを見せつけられているようで、空乃はその呼び方が嫌いだ。
行人のことを過去の全部をひっくるめて愛している。
だけど、最初に会った時、情事の名残をまとってこの部屋から出てきた藤森と行人の姿をいまだに不意に思い出す。殴られて口の中を切った時のような苦みとともに。
「何十年前の話してんだよ。で、何の用だ」
凄むと、藤森は真面目な顔つきになって、下げていた紙袋を差し出した。
「三沢。退職おめでとう。店、頑張れよ」
虚を突かれた。
本当に、いけすかない奴だ。いちいち大人で腹が立つ。
むかつくことに、藤森は金貸し業の他に複数の飲食店を経営する実業家だ。業界の先輩として、店を買い取る時には相談にも乗ってもらった恩はある。
「あざっす」
空乃は素直に頭を下げて、紙袋を受けとった。
覗くと日本酒の箱が入っている。
「新政ナンバー6」
箱を読み上げると、行人が飛びついてきた。
「ナンバー6? 本当に?」
この人は無類の酒好きで、特に日本酒にご執心だ。空乃には分からないが、稀少な酒なのだろう。
「ありがとう、藤森! なかなか買えないんだよ、これ」
「どういたしまして」
藤森が行人の頭を撫でている。
俺の祝いじゃないのかよと空乃は毒づくが、まあ行人が喜んでいるのなら良しとしよう。
「んじゃ、またな、藤森サン。俺とユキちゃんはこれからいーことすんだから」
さっさと帰るよう促す空乃の横で、行人は取り出した瓶に頬をすり寄せている。
「空乃、この酒、感動するほど美味しいんだ。すっきりして香りが良くて、まさに命の水」
かみ合わない会話に、藤森は爆笑している。
「じゃあな! 祝い、サンキュ!」
空乃は藤森の目前で音を立ててドアを締め、鍵とチェーンをかけた。
すっかり色っぽいムードではなくなってしまった。
ま、夜は長いし、仕方ないか。
空乃は諦めて、食器棚から日本酒のグラスを取り出した。
「空乃? 何してるんだ?」
「すぐ飲みたいんだろ、それ」
そう言うと、行人は膝を折り、ナンバー6の瓶を野菜室にしまった。
「これ、雪冷えにして飲むお酒なんだ」
「雪冷え?」
確か、日本酒の温度を表す言葉だ。雪冷えは一番冷たく冷やすことだったか。
「そう。しっかり冷えるまで、まだまだ時間がかかる」
膝をついたまま、空乃を見上げてくる。空乃はちょうど手の位置にある行人の髪に指を通した。さらさらの髪が心地いい。
行人は気持ちよさそうに目を細めると、空乃のバックルに手をかけた。カチャリと音が鳴り、ベルトが抜かれる。
「まだまだって、どれくらい?」
期待を込めて聞くと、行人は空乃の中心に唇を寄せ、囁いた。
「君次第」
そのあえかな声に、どくりと血が巡った。与えられる刺激に空乃はため息を漏らす。
この人には、きっと一生敵わない。
平日の明るいうちに会社を出て街を歩くなんて、贅沢な気分だ。
それも今日からは日常になる。
恵比寿の外れを歩きながら、空乃は手に余る花束を抱えなおした。
放課後の時間帯。すれ違う制服姿の少女達は楽しそうにさざめいている。
コンビニの前では、学ラン姿の男子学生が座り込んで菓子パンだのカップラーメンだのを口に運んでいる。
「ばっかでー!」
「だろ? ヤマセン、まじやばいんだわ」
「あ、おまえ勝手に食うなよ」
「いーじゃん、ほら、代わりに俺様のアイスをやろう」
「食いかけ出すなよなー」
弾ける笑い声。
うるさくて馬鹿っぽくて、ガキで、けれど底無しに楽しそうだ。
俺もあんなんだったんかな。
制服を着て、髪を染めて、仲間達と遊び、ケンカをしていた。
かつての自分を思い出し、空乃は苦笑する。
「ユキちゃん、よく高校生のガキなんか相手にしてくれたよなー」
独り言は、夕暮れの風に流されていった。
コーポアマノに到着すると、住人のネリーが駐輪場から出てくるところだった。
ジーンズにTシャツ、スカーフ姿のネリーは、空乃に気づくと朗らかに手を振った。
「ソラノ、ハロー」
「ハイ、ネリー。学校終わったのか?」
「そう。これからアルバイト。キンロー学生は大変よ」
肩をすくめてみせ、ネリーは空乃の手元を見た。
「お花、綺麗ね!」
空乃は花束からガーベラを1本抜き取ると、ネリーに渡した。
「どうぞ。お裾分け」
「ソラノ。こういうの、女たらしって言うんでしょ」
あまりの言い草に、空乃は吹き出す。
「おかしな日本語覚えるなよな」
「あはは。じゃあねー」
ネリーは屈託なく笑って、104号室に消えて行った。
コーポアマノは築半世紀を超えても健在だ。
とはいえあちこちガタが来ているので手入れも大変だ。鉄製の外階段はペンキが剥げて、水色の塗装がぽろぽろと地面に散っている。
「そろそろ塗り直さないとな」
独りごちて、階段を昇る。
コーポアマノのオーナーは4年前に亡くなって、不動産も管理人業務も行人が相続した。
水回りを修繕して家賃を下げたので、空乃が越してきた頃は閑古鳥が鳴いていた古アパートは、今は外国人留学生の下宿のようになっている。
先ほどのネリーもそのひとりで、空乃の母校で物理学を専攻するスリランカ人留学生だ。
203号室の窓からはスパイスの効いた良い匂いが漂ってくる。
空乃は口元をゆるめ、扉を開いた。
「ただいま」
小さなアパートは、玄関を入るとすぐに台所だ。
エプロン姿の行人はコンロの火を止め、花束を受けとってくれる。
「お帰り」
「ユキ、鍵閉めろって言ってるだろ」
「こんなボロアパートに空き巣に入る物好きなんていないよ」
「それでもだよ」
流しで手を洗ってから、花束の香りを嗅ぐ行人を後ろから抱きしめた。
「ガーベラか、綺麗だな」
「課の連中から貰った。花言葉が希望とか前進とかなんとか」
「退職祝いにぴったりだな」
赤い花びらを撫でる指先を絡み取り、行人の首筋に口づけた。
女の子みたいに甘い果物とか花みたいな匂いがするわけじゃない。
それでもどうしようもなくそそられる。微かな石鹸の匂いと、行人自身の匂いだ。
指先で、唇と顎と喉仏を辿る。行人が静かに吐息を漏らす。
そのひそやかな甘さに、血液が泡立つ。
「空乃。なんか当たってるんだけど」
軽くふくらんだ股間を感じ取ったのか、行人が焦っている。
「不可抗力。ユキ、いい匂いすんだもん」
腕の力を込めて腰を押しつけると、行人はしゃがみ込んで空乃の腕から逃れた。
「そういうコトは後で。飯が先」
「後でなら、していいの」
揚げ足を取ると、行人は顔を赤らめた。
出会って十年。数え切れないほどセックスをしているのに、行人はいまだに妙なところで恥ずかしがってくれる。
「いいよ。明日、休みだし」
視線を逸らして、行人が呟く。可愛い。
このまま押し倒してしまいたいけれど、さすがに口をきいてくれなくなりそうだ。
「そういうこと言うと朝までするけど」
「君の体力、高校生の時から変わってないよな」
「お褒めにあずかり」
軽口を交わして、食卓の準備を整える。
大手食品会社でソツの無いエリートサラリーマンだった空乃だ。男相手に尻尾を振ってる姿を見たら、元同僚達は腰を抜かすだろうなと想像しながら。
「退職おめでとう」
「サンキュ」
シャンパンで乾杯して、いただきますをする。
「門出の日なのに、カレーなんかで良かったのか?」
「うん、カレーがいい。俺、ユキのカレーすげえ好き」
「おにぎりとカレーしか作れないからな」
むくれてみせるが、行人のカレーはお世辞抜きで相当美味い。店にも出せるレベルだ。
今日の茄子とパニールチーズのカレーも、香り高くて舌触りが心地いい。スパイスの配合もジャスミンライスの香りを殺さない良い塩梅だ。
有給休暇を取ってまで煮込んでくれたことも嬉しい。
「うん、美味い。新レシピ?」
「ネリーさんに教わったスリランカカレーのアレンジ」
「へえ。さっきそこで会ったよ。これからバイトだって」
「居酒屋と焼肉屋の掛け持ちだっけ。頑張るよな」
行人は店子達に優しい。東京国税局職員という本職があるので家賃は格安だし、修繕にはすぐに応じるし、果ては勉強や就職の相談にまで乗っている。
居心地がいいアパートということで口コミが口コミを呼び、今や、201号室の田中さん以外は全員留学生だ。
「居酒屋の方はあんまりシフト入れなくなったみたいでさ。店が軌道に乗ったら、うちで働かないか声かけてみようと思って」
「いいんじゃないか。ネリーさんなら、厨房でもフロアでも活躍しそうだ」
「だよな」
空乃は高校、大学と6年間アジアン・カフェでバイトをしていた。
そのオーナー兼店長が店を閉めて田舎に帰ることになったので、店を居抜きで買い取った。
4年間のリーマン生活の貯金はほぼゼロになったが、迷いはしなかった。
幼い頃から料理が好きで、大学に進学して会社員になって、自分の店を持ちたいという思いは日に日に強くなった。ダブルスクールで調理師専門学校にも通った。
店内は改装中で、開店は1ヶ月後。明日からは本腰を入れて開店準備だ。やることは山ほどあるけれど、わくわくしている。
「空乃、楽しそうだな」
「そりゃあね。不安もないわけではないけど」
「君なら大丈夫だよ」
力強い言葉をくれて、行人はグラスをすいっと飲み干した。
シャンパンのボトルはすでに空だ。
明日は土曜だし、もう一本空けるかな。
冷蔵庫を空けてワインボトルを物色していると、手元に影が落ちた。
行人がしゃがみ込んで、一緒に野菜室を覗き込んでいる。
「ユキ、次、どれ飲む? 泡か、きりっと辛めの白か」
迷っていると、つけたままだったネクタイをつと引っ張られた。
「空乃のスーツ姿も見納めだな」
「急にどうしたん。そんなにスーツ好きだっけ」
「好きだよ。学ランも良かったけど」
行人はすっきりした顔をしていて、目元も涼しげだ。眼鏡越しの瞳が、空乃を見る時だけは甘さと色気を孕む。
「誘ってんの」
行人はザルだが、飲むと唐突にエロモードに入る時がある。
ワイン選びを中断して、冷気を垂れ流す野菜室を閉めた。
行人の唇を指でなぞると、誘うように薄く開かれる。
「シャワー浴びる? それともこのままする?」
口づけながら問うと、行人は密やかにねだった。
「スーツのまま、してほしい」
「仰せのままに」
ピンポーン、ピンポーン。
寝室の畳の上に行人を押し倒し、服を脱がせたところで無粋に呼び鈴が鳴り響いた。
「っ、誰だよ」
あまりのタイミングに、思わず悪態を漏らす。ひとまず無視を決め込む。
「…空乃、お客さん。っ…あ、そこ、やっ」
「ん? ここ?」
そこを強くこすると、行人の腰が跳ねた。空乃を見つめる瞳に快楽の涙が滲む。
「ん、ああっ」
「ここ好きだよな、ユキ」
「やあっ。ちょ、出ろって」
「どうせなんかの勧誘だって。集中しろよ」
「…できないっ」
前戯の間も呼び鈴はしつこく鳴り響いている。確かに、これでは集中できない。
空乃は身を起こすと、乱れたスーツ姿のまま玄関に向かった。
相手も確認せずに乱暴にドアを開ける。
相手を確認して、ドアを再び閉めた。
その隙間に、磨かれた最高級の革靴が差し込まれる。
「おいおい、閉め出すなんてひどいな」
ふざけた口調で肩をすくめるのは、ワインレッドの開襟シャツにブラックスーツという裏社会丸出しファッションの男。長身でガタイが良く、意地悪そうに笑っている。
空乃の天敵、藤森誠二だ。
「よお、ガキ。随分待たされたぞ」
「ガキ言うな、おっさん。居留守って日本語知んねえのか」
空乃は思いっきり舌打ちをしてやる。
「はは。お楽しみ中に悪いな」
「悪いと思ってんなら帰れ」
「そう怒るなよ。セックスには早すぎるだろ」
わざとらしく腕時計で時間を確認している。
「あんたには言われたくない」
ぎゃあぎゃあ言い合っていると、奥から行人が出てきた。
「空乃、誰だった…あ、藤森」
行人はシャツの前が全開だ。白い胸元が乳首まで見えている。
空乃は慌てて行人の前に立った。
「ユキちゃん! そんなカッコで出てくんなって」
「焦るな少年。チカの裸くらい見慣れてる」
藤森は、行人を名字の「近間」から取ったチカと呼ぶ。
昔なじみを見せつけられているようで、空乃はその呼び方が嫌いだ。
行人のことを過去の全部をひっくるめて愛している。
だけど、最初に会った時、情事の名残をまとってこの部屋から出てきた藤森と行人の姿をいまだに不意に思い出す。殴られて口の中を切った時のような苦みとともに。
「何十年前の話してんだよ。で、何の用だ」
凄むと、藤森は真面目な顔つきになって、下げていた紙袋を差し出した。
「三沢。退職おめでとう。店、頑張れよ」
虚を突かれた。
本当に、いけすかない奴だ。いちいち大人で腹が立つ。
むかつくことに、藤森は金貸し業の他に複数の飲食店を経営する実業家だ。業界の先輩として、店を買い取る時には相談にも乗ってもらった恩はある。
「あざっす」
空乃は素直に頭を下げて、紙袋を受けとった。
覗くと日本酒の箱が入っている。
「新政ナンバー6」
箱を読み上げると、行人が飛びついてきた。
「ナンバー6? 本当に?」
この人は無類の酒好きで、特に日本酒にご執心だ。空乃には分からないが、稀少な酒なのだろう。
「ありがとう、藤森! なかなか買えないんだよ、これ」
「どういたしまして」
藤森が行人の頭を撫でている。
俺の祝いじゃないのかよと空乃は毒づくが、まあ行人が喜んでいるのなら良しとしよう。
「んじゃ、またな、藤森サン。俺とユキちゃんはこれからいーことすんだから」
さっさと帰るよう促す空乃の横で、行人は取り出した瓶に頬をすり寄せている。
「空乃、この酒、感動するほど美味しいんだ。すっきりして香りが良くて、まさに命の水」
かみ合わない会話に、藤森は爆笑している。
「じゃあな! 祝い、サンキュ!」
空乃は藤森の目前で音を立ててドアを締め、鍵とチェーンをかけた。
すっかり色っぽいムードではなくなってしまった。
ま、夜は長いし、仕方ないか。
空乃は諦めて、食器棚から日本酒のグラスを取り出した。
「空乃? 何してるんだ?」
「すぐ飲みたいんだろ、それ」
そう言うと、行人は膝を折り、ナンバー6の瓶を野菜室にしまった。
「これ、雪冷えにして飲むお酒なんだ」
「雪冷え?」
確か、日本酒の温度を表す言葉だ。雪冷えは一番冷たく冷やすことだったか。
「そう。しっかり冷えるまで、まだまだ時間がかかる」
膝をついたまま、空乃を見上げてくる。空乃はちょうど手の位置にある行人の髪に指を通した。さらさらの髪が心地いい。
行人は気持ちよさそうに目を細めると、空乃のバックルに手をかけた。カチャリと音が鳴り、ベルトが抜かれる。
「まだまだって、どれくらい?」
期待を込めて聞くと、行人は空乃の中心に唇を寄せ、囁いた。
「君次第」
そのあえかな声に、どくりと血が巡った。与えられる刺激に空乃はため息を漏らす。
この人には、きっと一生敵わない。
0
お気に入りに追加
147
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(5件)
あなたにおすすめの小説
【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ハッピーエンド
藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。
レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。
ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。
それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。
※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。
上司に連れられていったオカマバー。唯一の可愛い子がよりにもよって性欲が強い
papporopueeee
BL
契約社員として働いている川崎 翠(かわさき あきら)。
派遣先の上司からミドリと呼ばれている彼は、ある日オカマバーへと連れていかれる。
そこで出会ったのは可憐な容姿を持つ少年ツキ。
無垢な少女然としたツキに惹かれるミドリであったが、
女性との性経験の無いままにツキに入れ込んでいいものか苦悩する。
一方、ツキは性欲の赴くままにアキラへとアプローチをかけるのだった。
目が覚めたら、妹の彼氏とつきあうことになっていた件
水野七緒
BL
一見チャラそうだけど、根はマジメな男子高校生・星井夏樹。
そんな彼が、ある日、現代とよく似た「別の世界(パラレルワールド)」の夏樹と入れ替わることに。
この世界の夏樹は、浮気性な上に「妹の彼氏」とお付き合いしているようで…?
※終わり方が2種類あります。9話目から分岐します。※続編「目が覚めたら、カノジョの兄に迫られていた件」連載中です(2022.8.14)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
ついに読み終わってしまいました。毎日少しずつ読み、大切な思いを紡ぎ出して貰える深い文章に感動しています。自分にも素敵な出逢いがあります様に。
ハルさま
読了ありがとうございます。
大切に読んでいただき、そして感想まで頂戴し、感謝の言葉もありません。とても嬉しいです。
ハルさまにも素敵なご縁が訪れますように。
時節柄、どうぞご自愛くださいませ。
ナムラケイ拝
今日は久しぶりにヤンキーDKを一気読みしました。何度読んでも良い作品です。
心に傷をもつリーマン公務員のユキちゃんと頭は良いイケメンヤンキーの空乃の二人の愛の奇跡は、涙と笑いにまみれていて、重い部分があるのに清涼感のある作品で大好きです。近間家の人々シリーズはどれも大好きなので、次は戦闘機乗りの一気読みしようかな。
BijouTheCatさま
素敵な感想をありがとうございます。
結構な長編なのに読み返していただいて、嬉しい限りですです。
感想を拝見していて、この物語を書いていた時の楽しい気持ちを思い出しました!
更新ありがとうございます!!ラブラブ2人また拝読できて幸せです!
miel様
お読みいただきありがとうございます!
二人の後日談はまた書きたいと思います。