ヤンキーDKの献身

ナムラケイ

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番外編

Chocolate Rhapsody

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 デパ地下や菓子屋は元から生活圏外。テレビはチャンネルを変えればいい。ファッション誌は読まない。
 キラキラ・ファイナンスにはイベントごとで浮かれる従業員はいない。そんな暇があったら取り立てに向かう。
 けれど。
 こればっかりは避けようがないな。
 藤森誠二は、東京メトロ南北線の車両で吊り広告を眺めて溜め息をついた。
 社内をジャックしている老舗製菓企業の広告だ。真っ赤なパッケージに金色で商品名が刷られた板チョコレートを、若い女性が悩ましげに囓っている。
 綺麗な女だが、女優なのかモデルなのか歌手なのかも藤森は知らない。
 最近は若い芸能人の判別がつかなくなった。32歳。立派なおっさんだ。
 バレンタインはもはや異世界の出来事だ。
 電車は永田町駅に滑り込み、乗客を吐き出し、飲み込む。
 つり革を掴まえて自虐に走っていると、つとスーツの裾を引かれた。
「藤森?」
 聞き慣れた声にぎくりとする。
 見返ると、眼鏡越しの涼しげな瞳が藤森を捉えた。
 さらりとした黒髪。スーツを着ても線が細い体躯。なめらかな肌。
 かつては、そのすべてを知っていた身体。
「チカ」
 不覚にも声が掠れてしまった。
 近間行人とは薄く微笑んで、藤森の隣に立った。発車メロディの後、電車がゆっくりと動き出す。
 死んだ兄貴の元恋人で、藤森自身の元セフレで、今はどっかのいけすかねえガキとよろしくやってる男。
 恋愛感情も性的な欲望も捨てたけれど、それでもいまだに行人はその存在だけで藤森の琴線に触れてくる。
「外回りか?」
 行人は東京国税局の職員だ。藤森の問いに頷いた。
「議員会館で用を済ませて、役所に戻るとこ。藤森は?」
「取り立ての外回り中」
 正直に答えると、行人は声を潜めた。
「車内で取り立てとか言うなよ」
 昼間の南北線は比較的空いているが、乗客はいる。
 確かに、藤森の見た目で取り立てなどと話していると、みかじめ料の回収に走っているヤクザと勘違いされても文句は言えない。
「悪いな。滅多に電車なんか乗らないから」
「車は?」
「車検」
 端的に答えると、行人は笑った。
「たまにはいいだろ、庶民の生活も」
「俺は庶民だぞ」
「言ってろ」
 藤森は庶民だ。実家は小さな古書店で、貧乏ではなかったが、決して裕福ではなかった。
 今、藤森は違法すれすれの金貸しと複数の飲食店を経営していて、まあ、それなりに儲かっている。
 従業員に十分な給料を支払い、高級マンションに住んで、メルセデスに乗るくらいには。
 行人はひとしきり笑ってから、話題を変えた。
「さっき、なんかぼーっと上見てなかったか?」
「ああ、広告見てた。今日、バレンタインだなって」
「バレンタインだな」
 オウム返しにする行人の表情はちっとも嬉しそうではなく、むしろ暗い。
 彼氏と初バレンタインを迎える奴の顔じゃない。
 もはや元セフレではなく親のような心境で藤森は口火を切った。
「チョコレート、やるんだろ。あのガキに」
「ガキって言うなよ」
 行人はいつも通りそう抗議してから、続けた。
「空乃そらの、学校で結構モテるみたいなんだ」
「だろうな」
 行人の目下の交際相手、三沢空乃は18歳のピカピカの高校3年生だ。
 金髪にピアスのクソいまいましいヤンキーだが、成績は良いしケンカが強いってことはスポーツも得意なんだろうし背は高いし顔は整っているし何より人を惹きつける性格をしている、と説明するだけで癪に障る野郎だ。
 憎らしいのでクソガキ呼ばわりしているが、男としては認めざるを得ない。そうじゃなかったら、行人を手放したりしない。
 苦虫を噛みつぶす藤森に、行人が言った。
「去年は20個以上貰ったらしい」
「漫画かよ」
「だろ? 俺、高校の時チョコレートなんか貰ったことないよ」
 まあでも、今年は1個も受け取らないんだろうな、あいつ。
 藤森はそう確信するが、行人に言ってやるほどお人好しではない。
「で、おまえは、あのガキにやんねえの」
 話を蒸し返すと、行人は困ったように眉を下げた。
「…おかしくないか?」
「何がだよ」
「男同士だぞ」
 行人は内緒話するように顔を寄せた。
 シャンプーの匂いが鼻腔をくすぐり、色々思い出しそうになったので、藤森は顔を背けた。
「別に構わねえだろ。渡したけりゃ渡せばいい」
 それに、三沢はきっとチョコレートを用意しているだろう。料理が上手いあのガキのことだから、手の込んだ手作りのやつ。
 行人は煮え切らずにぶつぶつ言い出した。
「喜ぶと思うか? いくら彼氏でも、30過ぎた男がチョコレートとか、買うのも恥ずかしいし渡すのはもっとイタくないか」
 元々こじらせ体質の男だ。
 一度負のループに填まると、延々螺旋下降を続けるフシがある。
「あのガキは、おまえがやることなすこと何でも馬鹿みたいに喜ぶだろ」
「言い方に悪意を感じる」
「ノロケには悪意で返すことにしている」
 それから藤森は付け加えた。
「その、だな。昔、もしおまえからチョコレートを貰えてたら、俺は、嬉しかったぞ」
 行人が隣の藤森を見上げた。
 まじまじと見つめてくる。日本人らしい涼やかな目元で。そして、謝った。
「ごめん、何もあげられなくて」
「謝るなよ。余計空しいだろうが」
「ごめん」
 行人はもう一度謝った。
 車窓に映る行人の虚像は実際よりも幼く見えて、不意に10年前のバレンタインを思い出した。
 藤森兄弟と行人はかつて3人で同居していた。
 藤森の兄、一哉と行人は付き合っていて、藤森もなんとなくそこに混じって遊んでいた。
 ある年のバレンタインの日、藤森家でチョコレート・フォンデュをした。
 朝の情報番組を見た行人が食べてみたいと言ったので、一哉が張り切って大量のフルーツをカットしたりチョコレートを湯煎したりしていた。
 男3人だ。最初は美味かったチョコレート・フォンデュだが、途中で甘ったるくなってしまい、最後はフルーツだけそのまま食べた。
 夜中になって腹が空き、3人で近所のラーメン屋にチャーシュー麺を食いに行った。
 あの日は楽しくて馬鹿みたいにずっと笑っていた。

「あのラーメン屋、まだあんのかな」
 藤森の突然の呟きを行人は正確に拾い上げた。
「あるよ」
「行ったのか?」
「入ってはいないけど、時々前を通るから」
「そうか。まだ、あるのか」
「楽しかったよな、あの時」
 行人が目を細める。藤森は静かに頷いた。
「ああ」
 一哉の話をする時は、いつも涙が出そうになる。だって、兄なのだ。
 恋人は、新しくつくることができる。
 けれど兄は、たったひとりの兄は、代えがきかないのだ。
「チカ。チョコレート、一人で買いに行くのが恥ずかしいなら、付き合うぞ」
 藤森の申し出をしばし思案し、しかし行人は首を横に振った。
「ありがとう。でも一人で行くよ。藤森と一緒に買いに行ったこと知ったら、空乃、暴れそうだ」
「それもそうだな」
 まったく、損な役回りだ。



 事務所で一仕事も二仕事もしてからマンションに帰ると、帰宅の気配を聞きつけたのか、スマホが鳴った。
 ラインを開くと、予想通り隣人の坂井匠からだった。

 お疲れ様です。クライアントからラフロイグを頂いたので、良かったら一杯やりませんか?

 弁護士という藤森の天敵のごとき職業を生業とする坂井だが、縁会って時々宅飲みする仲だ。
 アイラ系ウィスキーは好物だ。藤森は、「一杯だけお邪魔します」とすぐに返信を打った。

 坂井は小学生の息子、冬馬と二人暮らしだ。
 父子家庭のマンションは生活のこまごました物が溢れている。藤森は生活臭のあるこの部屋が嫌いではない。
 シャワーを浴びてラフな格好に着替えた藤森が扉を開くと、部屋は夜の静けさだった。
「冬馬は?」
「さっき、寝ちゃいました。藤森さんのこと、待ってたんですけどね」
 坂井が酒の支度をしながら、密やかに答えた。
 クリスタルのグラスに金色の液体がとろとろと注がれる。
 癖のある薬草のような芳香に藤森は目を細めた。
「いただきます」
「どうぞ」
 美味い酒は当たり前だが最高だ。
 堪能していると、坂井が小さな包みを差し出した。
 水色の袋に焦げ茶色のリボンが巻かれている。
「これは?」
「今日、バレンタインでしょう。チョコレートです」
 坂井の返答に、口に含んでいたウィスキーをごくりと飲み下した。
 坂井はバイで、藤森はノンケだ。
 行人とのことは兄を挟んだ特別な事情があったからで、男は行人が最初で最後だと決めている。
 飲み友達になってすぐに、坂井と藤森はそのことを打ち明け合った。
 だから、ただの隣人兼飲み友達のはずだった。
 はずだったが、バレンタインにチョコレートってことは告白ってことなのか?
 しかも見たところ市販品ではない。手作りだ。
 義理の可能性…いや、義理で男が男に手作りのチョコレートを渡すだろうか? 否だ。 
 藤森の思考はウィスキーのアルコールとともに混乱を極める。
「藤森さん?」
 坂井は包みを差し出したまま、小首を傾げている。その目が不安そうに揺れている。 
 藤森はソファーの上で両膝に手を置くと、勢いよく頭を下げた。
「申し訳ない。気持ちは嬉しいが、これは受け取れない」
「藤森さん?」
「俺はノンケだが男の経験はあるし、正直、坂井さんの寝顔にくらっと来たこともある。だけど、悪い。俺はあなたとは良き隣人でありたいと思ってるんだ。だから、本当に申し訳ないが、これは受け取れない」
 思いつくままに気持ちを舌に乗せた。
 言い終わっても坂井の反応がない。
 藤森が恐る恐る顔を上げると、坂井は俯いて口元を覆っている。その肩がかすかに震えている。
 泣かせてしまったのだろうか。
「すみません、頼むから泣かないでくれ」
 慌てる藤森に、坂井はようやく顔を上げた。
「あはははははっ。泣いてませんよ。藤森さん、ふふっ、違いますよ。ああ、もうおかしいなあ」
 坂井は目尻に涙まで浮かべて爆笑している。
「え、坂井さん?」
 藤森は更に混乱する。なんで大笑いなんだ。
「違いますよ。これ、俺じゃなくて、冬馬からです」
「え?」
 冬馬から?
 坂井は指先で涙を拭って説明した。
「冬馬のクラスにお母さんが料理研究家の子がいるんです。昨日、その子の家に集まって、みんなでチョコレートを作ったんですよ。俺も、冬馬から同じのを貰いました」
 坂井は立ち上がると、キッチンの脇に置いていた包みを見せた。確かに、色違いだが同じデザインの袋だ。
 藤森は絶句する。
 マジか。アホか、俺は。
 顔から火が出そうだ。
 穴があったら入りたい。
 髪を掻き上げて、息を大きく吐いた。
「悪かった。自意識過剰も甚だしいよな。すまん、忘れてくれ」
「いえ、俺こそ、紛らわしいことしてすみませんでした。冬馬からだってきちんと言えば良かったですね」
「いや、坂井さんは悪くない」
 そういえば、冬馬は藤森のことを待っていたが寝てしまったと一番最初に言っていたではないか。
 坂井は取りなすように、ラフロイグの瓶を掲げてみせた。
「飲み直しますか。チョコはウィスキーに合いますしね」
「おう。明日の朝、冬馬にお礼言いに来ていいかな」
「勿論。登校は8時なので、その前にお願いします」
 冬馬お手製のトリュフチョコレートは、小学生作とは思えないほど見た目も良く、美味かった。流石、料理研究家プロの指導だ。
 マリアージュを堪能しながら、藤森は天井を仰いだ。思い出すだに赤面するやりとりだ。
「あー、もう。この手の勘違いってめちゃくちゃ恥ずかしいな」
「でしょうね」
 坂井はくすくすと笑っている。それから、誘うようにウィスキーで濡れた唇を舐めてみせた。
「そんなに色っぽかったですか? 俺の寝顔」
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