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第三章 まだ見ぬあなたに、こんにちは

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「ヒカリ」

 後ろから聞こえてきた声に驚いて、ヒカリは靴音をキュッと慣らしながら動きを止めた。壁一面を覆いつくしている大きな鏡には、汗だくになって息を切らしている自分の姿と、ダンスレッスンフロアの入り口からこちらの様子を窺っている少女が映っている。

「あれ、カナエちゃん。まだ残ってたんだ?」
「それは、こっちの台詞。心配性のマネージャーが乗り込んでくる前に、練習を終わらせたほうがいい」

 モデルのように、すらりとした長身。ボーイッシュなショートヘア。あまり表情が変わならない中性的な容姿と淡々とした口調から、カナエはファンの間では『氷の王子』と呼ばれている。けれど決して心が冷たいわけではないことを、同じグループメンバーであるヒカリはよく知っていた。現に今も、こうして様子を見に来てくれている。

「そうだね、そうする。ありがとう、心配してくれて」
「……別に。ただ、無茶をして怪我でもされたら困るというだけ。クリスマスライブも近いのに、メンバーが欠けるようなことがあっては絶対に駄目だもの」

 カナエが眉をひそめて視線を伏せるときは、照れているときだ。うれしくなったヒカリが思わず微笑んでしまうと「どうして笑うの」と、静かに怒られた。

「ふふふ、ごめんごめん。うん、そうだよね。応援してくれるファンの皆さんに、たっくさん楽しんでもらって、たっくさん笑ってもらうためにも、体調管理は万全にしておかないと!」

 それもアイドルのお仕事のひとつだよね、とTシャツの袖をまくって力こぶをつくるヒカリに向けて、カナエの無言の視線が飛んでくる。

「必要以上に頑張ることはないと思う」
「え?」

 さっきまで自分を優しく気遣ってくれていたカナエの声の熱が、すっと一気に下がったことに驚いて、ヒカリは動きを止めた。

「仕事を誠実にこなすのは当たり前。でも、それ以上に一生懸命になる必要はない。アイドルなんて、所詮はたくさんある娯楽のひとつでしかないもの」

 それがカナエがアイドルを続けていくうえでの一貫した姿勢であるということは、ヒカリもよく知っている。追いつくだけで必死なヒカリとは違い、カナエのパフォーマンスは、いつだって完璧だった。徹底したプロ意識のもとで行われる大人顔負けの仕事ぶりは、一緒に働くスタッフからも高く評価されている。

「今は熱心に応援してくれているファンだって、いつかは熱が冷めて必ず離れていく。娯楽である私たちの存在なんて、簡単に忘れられてしまう。それなのに、毎日こんな時間まで必死に練習して、仕事以上のものを提供しようと頑張ることに意味はある?」
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