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#1 DKとインキュバス

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 平凡こそ人生。
 当たり障りなく、波風立てず、誰かを傷付けない代わりに誰にも傷付けられない、そんな人生。周りから放っておかれるのは寂しいと感じても、不必要に絡まれるよりは孤独の方がずっとましだ。

 昼休み──
 俺は廊下を全力で走りながら、そんなことを考えていた。

「待てよ、比良坂炎樽ひらさかほたる! 逃げんなっつの、コラ!」
 背後から追いかけてくるのは一つ年上の、名前も知らない三年生たちが三、四人。うっかり購買部へ行こうと三年の校舎へ足を踏み入れてしまったのが間違いだった。どうにか始業のチャイムが鳴るまでこいつらから逃げ続けないと、何をされるか分からない──いや、今日こそ悲惨な目に遭わされるはずだ。日頃から俺に目を付けていた連中だから、万が一捕まってしまったら、今日までの溜まりに溜まった鬱憤をかなりえげつない方法でぶつけられる。

「も、もう勘弁してくれって……!」

 理由も意味も分からないが、俺はこの学校──とばりが丘学園高等部──の一部の生徒達から異常なまでに執着されていた。それは生意気だからシメようとか、いじめてやろうとか、そういった類のものではなく、
「ヤらせろ、コラァ!」
 はっきり、男の性欲が絡んだ執着だった。

 一年の頃はそんなことなかったのに、二年に上がってから急にそれは始まった。廊下ですれ違った上級生から唐突に尻を揉まれ、「あ、悪い。何となく」とその場は濁されたが、あれが始まりだったと思う。それから日々違う上級生から痴漢行為を受け、徐々にエスカレートし……今に至る。

 別に女っぽい訳でも、整った女顔でもない。どちらかといえば目付きは悪いし喧嘩だってそこそこできる方だ。それなのにどうしてこんな目に遭うのか、自分で自分が分からない。


「はぁ……」
 最近新しく発見した「避難場所」の体育館倉庫に逃げ込んだ俺は、しっかりと扉を閉めて跳び箱の陰に身を隠した。例え見つかったとしても、ここならまず体育館にいる生徒達に大声で助けを求めることができる。

 じっと息を潜め、始業のチャイムが鳴ってから遅刻覚悟で教室に戻るしかない。昼休み明けの五時限目、どうして俺がいつも教室にいないのか。きっと教師もクラスメイトも皆不思議に思っているだろう。


「まだ飯食ってないのに……」
 呟いたその時、……

「ほーたる」
 低い声で名前を呼ばれたと思った瞬間、既に俺の体はマットの上へと押し倒されていた。
「なっ、何……、ちょっ……!」

 視界に映ったのは三年E組の鬼堂天和きどうたかとも──俺が最も苦手としている男だった。

「偶然寝てたらお前の方から飛び込んでくるとは、ツイてたぜ。今日は朝の占いで山羊座が一位だったからな」
 やる気のない、ローテンションな低い声。鋭い眼付き。無駄にデカい体と気崩した学ラン、牙にも見える犬歯、そしてこの馬鹿力。喧嘩無敗の暴れん坊・天和。その確率の低さゆえに出したら死ぬ役満と言われている麻雀の「天和てんほー」に絡ませ、この男の「運の良さ」は底無しと言われている。

 俺は鬼堂天和の下敷きになり身を捩らせながら、今度こそ終わったと歯を食いしばった。こいつこそが全ての始まり……今から二か月、すれ違いざまに俺の尻を揉んだ男なのだ。


「炎樽。観念しな」
「い、嫌だっ。放せよ!」
「まあ、ある程度は抵抗してもらった方が燃えるけどな」

 舌なめずりをする獣の顔で、天和が俺を見下ろしている。何をされるのか聞かずとも分かるのがまた恐ろしく、俺はぶるぶると体を震わせながら埃っぽいマットの上で神に祈った。

「……う」

 ──俺に、一瞬の勇気を。

「っ……!」

 そして渾身の力を込めて上体を起こし、天和の額に頭突きを食らわせる。
「ってえぇ……! マジいってぇッ!」
「ご、ごめん天和……!」
 天和が額を押さえて怯んだ隙をつき、俺は体育倉庫から逃げ出すことに成功したのだった。


 *


 ……もう毎日が散々だ。どうして俺だけがこんな目に遭うのだろう。デカい男子校だしもっと可愛くて女っぽい奴だって大勢いるのに、どうして皆、大して目立ったこともしていない俺に執着するんだろう。

 もちろん、全員がそうという訳ではない。上級生の中には他校の女子と付き合っている奴もいるし、追い回される俺を見て哀れに思ってくれている人もいる。気さくに話しかけてくれる人も多く、実際に襲われかけていた俺を助けてくれた人達もいた。
 さっきの鬼堂天和を含め、一部の頭のおかしい連中が騒いでいるだけなのだが、こうも毎日追い回されると精神的にもかなり参る。名前もよく知らない奴らに貞操を狙われるなんて、こんなの親にも教師にも相談できない。

 だけど例え毎日追われようと何人来ようと、絶対に俺は俺を守ると決めている。
 何故かといえば──
「大丈夫? 汗だくだよ、これどうぞ」
「あ、……」
 綺麗な指、綺麗な手。綺麗なハンカチ。二年の校舎へ戻るため中庭を歩いていた俺は、頬を赤くさせて正面に立つ彼を見上げた。

「い、いえ。大丈夫です。すみません、気を遣わせてしまって」
「人気者は大変だね。何か困ったことがあったらいつでも相談してね」
「あ、あ、ありがとうございます……」

 柔らかい髪、柔らかい声。柔らかい笑顔を向けてくれているのは去年の生徒会長だった、彰良あきら先輩だ。俺の憧れ。成績優秀で誰にでも優しい彼は、不良の多いこの学校では最後の良心とさえ言われていた。

 彰良先輩は遠慮する俺を見てくすくすと笑い、「授業、遅れたら駄目だよ」と残して三年校舎の方へ歩いて行った。

「………」
 男の魅力は強さでなく、優しさ。それを教えてくれたのは彰良先輩だった。
 強さとは腕力のことではなく、心のこと。臆することなく不良連中にも話しかけていける彰良先輩は本当に生徒会長に相応しい人間だったなと思う。人を平等に見て誰の悩みでも聞いてあげていたし、学校への要望や意見はどんなに些細なことでもきちんと教師に持っていってくれていた。

 背が高く眉目秀麗で、頭も良くて優しくて、おまけに超有名企業の社長息子。ただ生真面目という訳ではなく、ちゃんと友人達と放課後のゲームセンターやラーメン屋などの寄り道なんかもしている。

 この学校でただ一人、俺が尊敬している人。それが彰良先輩だった。
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