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第十話 甘い重み
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無人の食堂で、声が響かぬよう二人は自然に声を抑えた。赤いランプの火が揺れる中、密談のように不死と赤髪が向かい合う。
「そして幸いにして、僕はその辺りは詳しい方だ。学院で一通りは習ってる。まず前提として、泛溢っていうのがあるんだ」
「泛溢……魔物が湧くこと?」
「その通り。しかし厳密には、世のあまねく魔物は螺旋迷宮の内部から送られてくると考えられている」
「送られる? そんな、荷台で運ぶわけでもないでしょうに」
「このラセンカイの中心にある螺旋迷宮は、その根を世界中に広げている。螺旋迷宮の成長は世界の成長なんだよ。あの大樹のような塔が伸びるにつれ、果ての海に面した大地の端は少しずつ拡大しているのさ」
高く天へ伸び、そして地中でも根を世の果てにまで張り巡らせているという。
まるで神話に語られる世界樹のようだ。いきなりにスケールの大きな話を振られ、永一は面食らった。
「ま、『版図拡大』の話はどうでもいい。肝心なのは、その世界中に広がる螺旋迷宮の根を通して魔物が各地に送られてるってことだ」
「根っこを通って、ってことですか!? そんな無茶苦茶な」
「魔物は魔力生命体だ。死ぬと分解され、塵になるのは迷宮で見ただろう? あれの逆さ。塵の……魔力の状態で根を通り、各地で形を形成する。これが泛溢」
初めに永一がそれを見たのは迷宮ではなく、ホシミダイの周囲に広がる平野だった。
死んだ魔物は塵になって消え、魔石を落とす。魔物にとって元々の状態があの塵なのだ。
「魔物は螺旋迷宮で生まれ……螺旋迷宮の根を通って、世界へ送られる」
「まさしく。ただ螺旋迷宮の根はよほど地中深くにあるとされていて、今のところ地面を掘り返してもそれらしいものは出てきていない。でもこの考え方が一番筋が通る。『根送論』と言って、もう何十年も前の学者が提唱したものだ」
「スタンダードな考え、ってことですね」
「とはいえそんな学術的な部分も、やっぱりどうだっていいんだよ。本題は大泛溢だから、魔物が螺旋迷宮の根から湧き出るってことだけわかってくれればいい」
ようやく本題だ、とアテルはにこやかに歯を見せる。
そう、元々永一が質問したのはそこだ。姉妹自身も、魔石換金所の前で絡んできたラクトとかいう男も言っていた。セレイネスの里は、三年前の大泛溢で滅びたのだと。
行動をともにする以上知りたい気持ちはあった。それにラセンカイそのものについて、あまりに未知の部分が多すぎる。
しかしシンジュとコハクに直接問うのは、どうしてもというわけではないが憚られた。里が滅んだ時のことを話すことになる。
訊きさえすればあの姉妹は話すだろう。罪悪感でも覚えているのか、下僕を自称するくらいだ。それでも似た経験のある永一としては、まだ出会って一日だというのに、そこまで無遠慮に踏み込むのはどうしても抵抗があった。
「大泛溢——泛溢が魔物の発生なら、それは」
だからアテルに訊くことを選んだ。その機会をわざわざ作ってくれたのは向こうだ。
「ああ。魔物なんてものはいつだって現れるものだけど、十年に一度くらい、大勢の魔物が同じ場所に固まって湧くことがある。この大規模な魔物の発生が大泛溢だ」
「十年に一度……」
「頻度は正直あてにならないけどね。版図拡大が進んでいない太古の昔ならともかく、今のラセンカイは広い。観測できていない大泛溢はままあるだろう」
それは災害のようなものだ。予兆はなく、突如として降って湧く災い。
理不尽にして不条理。脈絡など存在せず、ただそこに居合わせていたというだけで蹂躙され、無慈悲に命を奪われる。
災害。そう、まさに——
(……怪獣災害と、同じだ)
永一のいた現代の地球において、およそ年に一度くらいのペースで発生する、ゲートから現れる超巨大の生物によって起こる甚大な被害。神の裁きだとも、他世界からの侵攻だとも、宇宙人の侵略行為だとも呼ばれる現象。
姉妹の境遇は、ほとほと永一と近しいものと言えた。
「それで里は——シンジュとコハクの家族や同じところに住んでいた人たちは、魔物の群れに襲われた」
「そういうことだ。人のいる地域から遠い場所でのみ起こればいいけれど、そう都合のいいときばかりじゃない。人里近くで大泛溢が発生すれば、あるのは掛け値なしの悲劇だよ。……なにせなんの前触れもないんだ、準備も対策もできはしない」
「その、現れた魔物たちは里を壊したあとどうなったんですか」
「泛溢の処理は冒険者ギルドの役割だ、それは規模が大きくとも変わらない。だけれどセレイネスの里はホシミダイから距離があり、加えて連中の怠惰は近年輪をかけている。遅れて半分でも討伐できていれば、上等なんじゃないかな」
アテルはやはり表情を変えはしなかったが、言葉の端々にどこか怒りをにじませていた。冒険者ギルドに対して思うところがあるようだ。
永一がそれを汲み取ったことに気付くと、アテルは「いや、すまない」と気まずそうに目をそらした。
「すべてが終わったあとに大泛溢のことを知った僕に、彼らを批判する資格はない。……僕はしがない宿の主人。世の不条理に背を向け、そうあることを自ら選んだ人間だ」
息を吐いて、立ち上がる。
アテルはかつてセレイネスの里に立ち寄ったと言っていた。ホシミダイにいる以上どうすることもできまいが、助けられなかったことを悔いているのだ。
大泛溢で湧くのは小型種がほとんどで、あとは中型種だけだ。螺旋迷宮のボス部屋にいるような大型種は特別で、通常、迷宮の外で見ることなどない。
ゆえに、『もしも自分がその場にいれば』——そうアテルが想ってしまうのも仕方のないことではあった。過去は変えられないと、わかっていてもだ。
「アテルさん」
「キミも今日は疲れただろう、もう休むべきだ。なに、話をする機会ならまたいつでもあるさ。明日になれば、妻と娘にも紹介させてほしい」
「それはもちろんです。改めてお世話になります」
「宿代はもらったんだ、かしこまらなくていいさ」
永一はまだ話を続けるつもりだったが、アテルの方がそれを打ち切った。無理を言うわけにもいかないので、永一もそれに従う。
言われて意識してみれば、ずんと頭の芯に疲れが溜まっている。
死んだおかげで体はまだまだ元気だが、頭の方はそうはいかない。目まぐるしい異世界の環境に翻弄され、比較的タフな永一でも精神的な疲れは無視できなかった。
「また今度はキミのことを聞かせてほしいな。シンジュ君とコハク君が、キミというタカイジンと出会ったのはまるで運命じゃないか」
——これだけ疲れていれば、とりあえず熟睡はできそうだ。
漠然とそんなことを考えていると、アテルはランプの赤い火を消しながら、同情めいた声色で小さく呟く。
「なにせ、キミたちの目はよく似ている。色の話じゃないよ? それは死を顧みない、復讐者の瞳だ」
食堂は暗闇に包まれ、永一が表情を失ったことは悟られずに済んだ。
*
ベッドに入ると、睡魔はほどなくして襲ってきた。
あてがわれた部屋はそれなりに広く、掃除も行き届いていた。床に就けばしんとした夜の静寂と冷えた空気が心地よく、意識がまどろみに落ちていく。
疲労が頭と意識を重くして、ふかふかのベッドに包まれて、泥のように眠る。
そうして朝まで目覚めない——はずだったのだが。
「……ぅ?」
どれくらい経ったのか。おそらく数十分程度だ。
眠りを妨げる重みがあった。自身の内にではなく、外側……ベッドに仰向けになる自分の体の上に、なにかが乗っているような。
「エーイチ様」
「エーイチ……様」
「——。お前ら」
優艶な声が耳朶を打つ。泥の眠気を一瞬にして忘却させる、甘い響きを伴った二人の声が。
ぎし、とベッドが音を立てる。頑丈な質のいい寝具ではあったが、三人分の体重が乗ればきしむくらいはする。
目を開けると、そこにあるのは薄い肌着一枚のみをまとう、シンジュとコハクの姿だった。
「そして幸いにして、僕はその辺りは詳しい方だ。学院で一通りは習ってる。まず前提として、泛溢っていうのがあるんだ」
「泛溢……魔物が湧くこと?」
「その通り。しかし厳密には、世のあまねく魔物は螺旋迷宮の内部から送られてくると考えられている」
「送られる? そんな、荷台で運ぶわけでもないでしょうに」
「このラセンカイの中心にある螺旋迷宮は、その根を世界中に広げている。螺旋迷宮の成長は世界の成長なんだよ。あの大樹のような塔が伸びるにつれ、果ての海に面した大地の端は少しずつ拡大しているのさ」
高く天へ伸び、そして地中でも根を世の果てにまで張り巡らせているという。
まるで神話に語られる世界樹のようだ。いきなりにスケールの大きな話を振られ、永一は面食らった。
「ま、『版図拡大』の話はどうでもいい。肝心なのは、その世界中に広がる螺旋迷宮の根を通して魔物が各地に送られてるってことだ」
「根っこを通って、ってことですか!? そんな無茶苦茶な」
「魔物は魔力生命体だ。死ぬと分解され、塵になるのは迷宮で見ただろう? あれの逆さ。塵の……魔力の状態で根を通り、各地で形を形成する。これが泛溢」
初めに永一がそれを見たのは迷宮ではなく、ホシミダイの周囲に広がる平野だった。
死んだ魔物は塵になって消え、魔石を落とす。魔物にとって元々の状態があの塵なのだ。
「魔物は螺旋迷宮で生まれ……螺旋迷宮の根を通って、世界へ送られる」
「まさしく。ただ螺旋迷宮の根はよほど地中深くにあるとされていて、今のところ地面を掘り返してもそれらしいものは出てきていない。でもこの考え方が一番筋が通る。『根送論』と言って、もう何十年も前の学者が提唱したものだ」
「スタンダードな考え、ってことですね」
「とはいえそんな学術的な部分も、やっぱりどうだっていいんだよ。本題は大泛溢だから、魔物が螺旋迷宮の根から湧き出るってことだけわかってくれればいい」
ようやく本題だ、とアテルはにこやかに歯を見せる。
そう、元々永一が質問したのはそこだ。姉妹自身も、魔石換金所の前で絡んできたラクトとかいう男も言っていた。セレイネスの里は、三年前の大泛溢で滅びたのだと。
行動をともにする以上知りたい気持ちはあった。それにラセンカイそのものについて、あまりに未知の部分が多すぎる。
しかしシンジュとコハクに直接問うのは、どうしてもというわけではないが憚られた。里が滅んだ時のことを話すことになる。
訊きさえすればあの姉妹は話すだろう。罪悪感でも覚えているのか、下僕を自称するくらいだ。それでも似た経験のある永一としては、まだ出会って一日だというのに、そこまで無遠慮に踏み込むのはどうしても抵抗があった。
「大泛溢——泛溢が魔物の発生なら、それは」
だからアテルに訊くことを選んだ。その機会をわざわざ作ってくれたのは向こうだ。
「ああ。魔物なんてものはいつだって現れるものだけど、十年に一度くらい、大勢の魔物が同じ場所に固まって湧くことがある。この大規模な魔物の発生が大泛溢だ」
「十年に一度……」
「頻度は正直あてにならないけどね。版図拡大が進んでいない太古の昔ならともかく、今のラセンカイは広い。観測できていない大泛溢はままあるだろう」
それは災害のようなものだ。予兆はなく、突如として降って湧く災い。
理不尽にして不条理。脈絡など存在せず、ただそこに居合わせていたというだけで蹂躙され、無慈悲に命を奪われる。
災害。そう、まさに——
(……怪獣災害と、同じだ)
永一のいた現代の地球において、およそ年に一度くらいのペースで発生する、ゲートから現れる超巨大の生物によって起こる甚大な被害。神の裁きだとも、他世界からの侵攻だとも、宇宙人の侵略行為だとも呼ばれる現象。
姉妹の境遇は、ほとほと永一と近しいものと言えた。
「それで里は——シンジュとコハクの家族や同じところに住んでいた人たちは、魔物の群れに襲われた」
「そういうことだ。人のいる地域から遠い場所でのみ起こればいいけれど、そう都合のいいときばかりじゃない。人里近くで大泛溢が発生すれば、あるのは掛け値なしの悲劇だよ。……なにせなんの前触れもないんだ、準備も対策もできはしない」
「その、現れた魔物たちは里を壊したあとどうなったんですか」
「泛溢の処理は冒険者ギルドの役割だ、それは規模が大きくとも変わらない。だけれどセレイネスの里はホシミダイから距離があり、加えて連中の怠惰は近年輪をかけている。遅れて半分でも討伐できていれば、上等なんじゃないかな」
アテルはやはり表情を変えはしなかったが、言葉の端々にどこか怒りをにじませていた。冒険者ギルドに対して思うところがあるようだ。
永一がそれを汲み取ったことに気付くと、アテルは「いや、すまない」と気まずそうに目をそらした。
「すべてが終わったあとに大泛溢のことを知った僕に、彼らを批判する資格はない。……僕はしがない宿の主人。世の不条理に背を向け、そうあることを自ら選んだ人間だ」
息を吐いて、立ち上がる。
アテルはかつてセレイネスの里に立ち寄ったと言っていた。ホシミダイにいる以上どうすることもできまいが、助けられなかったことを悔いているのだ。
大泛溢で湧くのは小型種がほとんどで、あとは中型種だけだ。螺旋迷宮のボス部屋にいるような大型種は特別で、通常、迷宮の外で見ることなどない。
ゆえに、『もしも自分がその場にいれば』——そうアテルが想ってしまうのも仕方のないことではあった。過去は変えられないと、わかっていてもだ。
「アテルさん」
「キミも今日は疲れただろう、もう休むべきだ。なに、話をする機会ならまたいつでもあるさ。明日になれば、妻と娘にも紹介させてほしい」
「それはもちろんです。改めてお世話になります」
「宿代はもらったんだ、かしこまらなくていいさ」
永一はまだ話を続けるつもりだったが、アテルの方がそれを打ち切った。無理を言うわけにもいかないので、永一もそれに従う。
言われて意識してみれば、ずんと頭の芯に疲れが溜まっている。
死んだおかげで体はまだまだ元気だが、頭の方はそうはいかない。目まぐるしい異世界の環境に翻弄され、比較的タフな永一でも精神的な疲れは無視できなかった。
「また今度はキミのことを聞かせてほしいな。シンジュ君とコハク君が、キミというタカイジンと出会ったのはまるで運命じゃないか」
——これだけ疲れていれば、とりあえず熟睡はできそうだ。
漠然とそんなことを考えていると、アテルはランプの赤い火を消しながら、同情めいた声色で小さく呟く。
「なにせ、キミたちの目はよく似ている。色の話じゃないよ? それは死を顧みない、復讐者の瞳だ」
食堂は暗闇に包まれ、永一が表情を失ったことは悟られずに済んだ。
*
ベッドに入ると、睡魔はほどなくして襲ってきた。
あてがわれた部屋はそれなりに広く、掃除も行き届いていた。床に就けばしんとした夜の静寂と冷えた空気が心地よく、意識がまどろみに落ちていく。
疲労が頭と意識を重くして、ふかふかのベッドに包まれて、泥のように眠る。
そうして朝まで目覚めない——はずだったのだが。
「……ぅ?」
どれくらい経ったのか。おそらく数十分程度だ。
眠りを妨げる重みがあった。自身の内にではなく、外側……ベッドに仰向けになる自分の体の上に、なにかが乗っているような。
「エーイチ様」
「エーイチ……様」
「——。お前ら」
優艶な声が耳朶を打つ。泥の眠気を一瞬にして忘却させる、甘い響きを伴った二人の声が。
ぎし、とベッドが音を立てる。頑丈な質のいい寝具ではあったが、三人分の体重が乗ればきしむくらいはする。
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